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忌み嫌われし赤髪の令嬢は、悪魔伯爵に溺愛されて美しく花開く

作者: 黒木咲良

初投稿です。よろしくお願いします。


 静かな夜風に、咲き初めの薔薇が(かぐわ)しく匂い立つ。


 それは、月の美しい夜だった。

 冴え冴えと地上に降り注ぐ月光が、ユーイング家の広々とした庭園を(ほの)白く照らし出している

 その、月明かりの下。


「――……っ」


 グラナダは、暗闇を求めて無我夢中で走っていた。

 喉が熱い。痛くて、苦しくて、呼吸すらままならなかった。


 どこへ向かったらいいのかもわからないまま、走って、走って、走り続けて。

 ……庭池の(ほとり)、薔薇園の中に(たたず)む東屋。その柱に勢いよく頭からぶつかったのは、それからまもなくのことだった。


 ぐらぐらとした目眩(めまい)に耐え切れずに、その場に膝から座り込む。

 グラナダの手から滑り落ち、地面に転がったのは、無惨(むざん)に歪んで真っ二つに割れた、母の形見のロケットペンダント。


 ペンダントの鎖が月明かりを弾いて光るのを目にした瞬間、グラナダはもう、我慢することができなくなった。


「……あ、あぁ……う、ああぁっ……!」


 ペンダントは、亡き両親とグラナダをつなぐ、たった一つしかないよすがだった。だから、ずっとずっと、大切にしてきたのだ。

 それなのに、従妹に見つけられてしまった。

 何度も靴底で踏みにじられ、もう修繕のしようがないほどに壊されてしまった……。


(もう、どうしたらいいか……わからない)


 他のことだったら、どんな仕打ちでも耐えられた。

 どれほど嘲笑され罵倒され、虐げられたとしても、形見のペンダントを握りしめて眠れば、グラナダは愛情深い両親を頭に思い浮かべ、ほんの一時でも自分を慰めることができたのに。


 けれど……そんなささやかな慰めを得ることすらも、もう二度と許されなくなってしまった。


 暗がりに身をひそめ、声を押し殺して泣き崩れる。


 屋敷のある方角からは、楽団の奏でる優雅な音楽が流れてきていた。そこには、今宵の舞踏会に招かれた紳士淑女達の笑い声も混じっている。


 誰も、こんな暗い庭の隅まで、足を向けるはずはない。

 だから、グラナダは誰にも気づかれることなく、しばらくの間、泣き続けることができたはずだったのだ。


 ……それなのに。


「こんばんは。名も知らぬ麗しき姫君」

「…………!」


 突然耳に飛び込んできた声に、グラナダは弾かれたように振り返った。


「これほどに美しい夜に、お前はなぜ、そんなにも悲しげに涙に暮れているのかな?」


 絹地を思わせるような深く(つや)やかな声が、あたりの宵闇を震わせて響く。


「――……」


 思わず、言葉を失ってしまう。


 月を背にしてそこに立っていたのは、あまりにも美しい青年だった。呆気にとられたせいで、(つか)の間、それまで泣いていたことすら忘れ去ってしまうくらいに。


 満月の下、ほのかな銀光をまとっているように見えるのは、艶のある漆黒をした長い髪。透き通った琥珀(こはく)色の瞳は、かすかに赤みを帯びているように見える。


 その中性的で妖艶な美貌に加え、どこか浮世離れした雰囲気をまとっているせいもあって、もし誰かに、彼は人間ではなく宵闇が人の姿を取って現れた姿なのだと(そそのか)されても、簡単に信じてしまいそうなほどだった。


(この方は……)


 仕立てのよい夜会服は、彼もまた、今宵の舞踏会に招かれた客であることを意味していた。

 問いに答えることもできずに座り込んだままでいると、彼はグラナダの前に屈み込み、ロケットペンダントを拾い上げて差し出してくる。


「これはお前の落とし物なのかな。どうやら壊れているようだが」

「……すみ、ません」


 かすれた声をどうにか絞り出し、ペンダントを受け取る。手のひらになじんだ、ひんやりとしつつも温かな金属の感触に、また目頭が熱くなってくる。


(そうよ。……完全になくなってしまったのではないわ)


 形はひずんで(ふた)もしめられなくなってしまったけれど、それでも、ペンダントは確かにここにある。知らないうちに捨てられたり、中に収められた姿絵を燃やされたりしなかったことは、不幸中の幸いだと考えるべきだ。


 もう二度と、奪われてはいけない。

 ぎゅっとペンダントを胸元で握り込んでいると、再び青年の声が聞こえてくる。


「……そのペンダントは、お前にとって、とても大切なものなのだね」


 口を開けば嗚咽(おえつ)をこらえきれなくなりそうで、声を出すことができない。

 その代わりに、(うつむ)いたままうなずいて返事をした。

 すると、彼は続けて尋ねてくる。


「お前が泣いているのは、そのペンダントが壊れていることと関係があるのかな?」

「…………」


 グラナダの沈黙を、青年は肯定(こうてい)と解してくれたようだった。少し考え込むような間があった後に、彼は切り出した。


「そうか。ならば、もし、そのペンダントがもとのように直ったならば、お前はもう、悲しまなくてよくなる。泣き止んでくれる……ということになるのだろうか」

「…………!」


 思わずはっとして顔を上げてしまった。


 ほろりと涙がこぼれる。

 視線が、ぴったりと重なる。


 けれど、赤い炎を宿したように妖しげに揺らめく琥珀色の瞳からは、彼の真意を読み取ることはできなかった。

 彼は形のよい唇に笑みを浮かべると、まるで歌うような、抑揚(よくよう)に富んだ声音で名乗りを上げた。


「私の名はイブリース・カーレン。通りすがりの、しがない絵描きだよ」

「カーレン(きょう)……?」


 グラナダは耳を疑った。

 しがない絵描き、なんてものじゃない。


 イブリース・カーレン。通称カーレン卿。


 ネイピア領を治める伯爵としても知られる彼は、さして芸術に造詣(ぞうけい)が深いわけではないグラナダでさえ知っているほどの、高名な画家でもあった。

 まだ二十代後半の若さであるというのに、王家には宮廷画家として重用され、イブリースの描く繊細で優美な絵画は、展覧会が開かれるたびに高位の賞を総なめにしていると聞く。


 そもそもカーレン家は、古くから王家に仕え、著名な宮廷画家を数多く輩出してきた歴史ある家系だ。グラナダの生家――それなりに由緒ある名家でありつつも、代を重ねるごとに徐々に没落の一途を辿っているユーイング家とは、格が違いすぎる。


 呆気に取られて何も答えられずにいれば、イブリースはさらに、グラナダが予想だにしなかった言葉を告げてくるのだった。


「私はお前に、取引を持ちかけたいのだ。お前が私の願いを叶えてくれるというのなら、私はお前の大事なペンダントを直してあげよう」

「願い……ですか?」

「そうだ。お前にしか叶えられないことなのだよ」


 わけもわからず問い返せば、彼はかさついて冷え切ったグラナダの手をそっと取った。それから、長い睫毛(まつげ)に縁取られた目を細め、笑みを深めて、


「妖精の女王もかくやあらん、麗しき赤髪の姫君。お前には、私の妻になってもらいたいのだ」


 それは聞き間違えようもない――グラナダに対する、求婚の言葉だった。


          *


「お従姉(ねえ)さまみたいな薄汚い悪魔が、よりにもよってカーレン卿の妻だなんて。不釣り合いもいいところよね」


 その日の昼下がり――グラナダは、肌に馴染まないよそ行き用のドレスをまとっていた。


 イブリース・カーレンのもとへ向かうべく、いよいよユーイング家の屋敷を後にしようとしたグラナダを見かけて、追ってきたのだろうか。屋敷の中から現れた美しい従妹――マルティナは、柳眉(りゅうび)をくもらせ、肩をそびやかしながら言った。


「いいこと? お従姉さま。あの方がお従姉さまなんかを(めと)りたいと(おっしゃ)ったのは、お従姉さまの化け物じみた姿を物珍しく思われたから。ただそれだけよ。もちろんわかっているんでしょう?」


 グラナダは伏し目がちにうなずいた。


「……わかっております」


 わざわざ確認されなくとも、すでに承知のことだ。


 悪魔。


 それは、グラナダの姿を一目見て気味悪がった人々が、眉をひそめながら言い放つ言葉だ。

 自分でも、鏡を見るたびにそう思う。


 ろくな手入れもできず、ぼうぼうに伸ばしたままの赤髪。

 落ち(くぼ)んだ眼窩(がんか)に収まる、ぎょろりと大きい、血のように赤い瞳。

 肌は土気色で、すり切れた衣服をまとった身体は、痩せすぎて骸骨のようだ。


 常人の誰もがグラナダの姿に、山奥にひそみ人を食らうという悪魔や魔女を思い起こさずにはいられないのも、無理はない話だった。


 しかし、あの夜――イブリース・カーレンは、グラナダを一目見て気に入り、妻にすると決めたのだという。


 彼のグラナダへの求婚の申し出は、当然ながら、ユーイング家を大きく揺るがす事態となった。

 グラナダにとっては叔父にあたる、ユーイング家当主のダリルはたいそう困惑していたものだ。


『カーレン殿。ぶしつけではございますが――なぜ、あの娘なのです? あの通りたいそう不器量ですし、しつけもろくになっておりません』


 その問いはもっともなことだった。


 イブリース・カーレンをはじめ、大勢の名家の令息達を招いたあの舞踏会は、そもそも、ダリルの娘であるマルティナの誕生日を祝うための(もよお)しだった。


 とはいえ、祝いの会というのは、あくまでも体裁(ていさい)にすぎない。実際には、高貴な令息の誰かにマルティナを見初めてもらえればという狙いのもと、開かれたものだった。


 にもかかわらず、求婚を受けたのはマルティナではなく、よりにもよってグラナダだったのだから、ダリルやマルティナの戸惑いや(いら)立ちは推して知るべしだろう。


 ダリルは再三、グラナダではなくマルティナをと勧めたものの、


『不器量? 失礼ながら、ユーイング卿。あなたの目には、グラナダ嬢がそのように映っておられると? だとするならば、我々は悲しいまでに気が合わない者どうしのようだ。非常に残念なことながらね』


 イブリースは大仰(おおぎょう)に肩をすくめながら、はっきりと言い放った。

 結局、彼は最後まで意思を曲げることはなく、やがて両家の間で縁談がまとめられることに相成ったのだ。


 ……そうしてついに、グラナダは生まれた時から過ごしてきたユーイング家の屋敷を出立する日を迎えた。今日からは、イブリース・カーレンの婚約者として、彼のもとで過ごすことになる。


 マルティナはくすりと(わら)いをこぼし、あでやかな赤い唇を笑み曲げて言った。


「可哀想なお従姉さま。飽きられて捨てられるのがわかり切っているのに、わざわざ結婚しなければならないだなんて。――まあでも、そうなったら私がお従姉さまを拾って使ってあげないこともないわ。醜いお従姉さまはお従姉さまらしく、私の前でみっともなく許しを()うというのならね」


 それは、嘲笑と毒気をたっぷりと含んだ言葉だった。


 けれど、(にら)みつけたり沈黙したりして、マルティナの機嫌を損ねるようなことはしない。まして、理不尽だと言い返すことなど。


(だって……マルティナが言っているのは、本当のことなのだから)


 思えば、グラナダがイブリースに見初められたのは、夜の闇の下でのことだった。月の明るい晩だったとは言え、グラナダの姿がはっきりと彼の目に映っていたかは怪しいところだ。


 だから、改めて日の光のもとでグラナダの姿を見れば、彼はあっさりと求婚の申し出を取り消すかもしれない。それは充分にあり得る話だった。もしかすると、今日のうちに追い返されることだって、考えられなくもない。


「今まで、お世話になりました」


 目を伏せ、ドレスの裾を持ってお辞儀をする。


 ……イブリースに追い返されたとて、構わない。

 (みにく)いグラナダは、ただそこにいるだけで、まわりにいる人々を不愉快な気分にさせてしまうのだ。


 だから、グラナダには今までのように、家族になじられ、使用人達にすら(あざけ)られ、泥と汗の匂いをさせながら牛馬のように鞭打たれて働いている方がふさわしい。


 他の令嬢達のように結婚し、その先で平穏に幸福に暮らすなど、グラナダには到底不可能なことなのだから。


          *


 ユーイング家前当主、ジェラルド・ユーイング。

 彼は情に厚く、寛容で、誰からも慕われた人物だったと聞く。


 その妻、アリシア・ユーイングもまた思いやり深く楚々(そそ)として、常に隣にあって夫を支え続けるよき伴侶であったらしい。


 互いの家どうしで決められた政略結婚でありながら、深い愛で結ばれた夫婦は、まもなく一人の娘を授かった。それが、かつてのグラナダだった。


 しかし、アリシアの出産に立ち会った産婆は、生まれてきた赤子の姿を一目見るなり、絶句したという。


 それもそのはず。

 その赤子は、到底人間とは思われぬ、悪魔のような容貌をしていたのだから。


 うっすらと生えているのは、悪魔を思わせる、鮮血のような色をした赤髪。

 髪のみならず、眉や睫毛までもが赤かった。


 それだけにとどまらない。ふっくりとした(まぶた)の下に収まった瞳もまた、血の雫を湛えたような、混じりけのない赤色をしていた――


 不吉を呼ぶ子だと、産婆は当然、間引(まび)きを勧めた。けれどジェラルドもアリシアも、容貌(ようぼう)など気にすることなく、赤子の誕生を心から喜んだのだという。


 そのまま、夫婦が生きていたならば、きっとグラナダは二人から愛され、特異な容貌ながらも、子爵家の令嬢らしく育つことができていたのかもしれない。


 だが、赤髪の赤子を、不吉をもたらす子どもだと恐れた産婆の言葉は正しかった。

 それから三日も経たないうちに、ジェラルドとアリシアは不慮の事故に巻き込まれ、命を落とすことになる。まだ、赤子には名さえついていなかった。


 次の当主にはジェラルドの弟で、グラナダにとっては叔父にあたるダリルが選ばれた。ダリルは兄夫婦の遺した赤子をしぶしぶ引き受け、面倒を見ることにしたが、まさか自分達の子として育てようなどとは考えにも及ばない。


 ――この赤子は、死んだも同然。令嬢としての生など認めない。

 したがって、生きている者と同じように丁重に扱うことはしない。


 そうした意味を込め、冥界に実を結び死者が()むという赤い果実――柘榴(グラナダ)から名を取って、赤子はグラナダと呼ばれることになった。

 ――それが、グラナダの知る、己の生い立ちのすべてだった。


 以来、物心ついた頃にはもう、グラナダは叔父夫婦、その娘であるマルティナ、そして使用人達からも罵倒され、なじられながら働かされていた。


 仕方のないことだ。

 グラナダは明らかに、この壮麗な屋敷の中にあって、視界に入れるのすら不快な異物でしかない。異物を見れば、排除したり、侮蔑(ぶべつ)したりしたくなるのは、人間としては無理からぬこと。


 だから、いつしかグラナダは、何をされても理不尽だとは思わなくなっていた。


 ……仕方がない。

 そう。仕方がないことだと、思わなければいけない。

 悪いのは、奇怪な姿をして生まれてきてしまった、グラナダの方なのだから。


          *


 これまでずっと使用人以下の扱いを受けてきたグラナダには、カーレン家まで向かうための馬車など用意されるはずもない。


 そのため、市井(しせい)の人々も利用する乗合馬車を使って、カーレン家の屋敷までの道のりを半ばまで来た頃のことだった。


 両脇にライラックの木が植えられた小路を歩いていると、ふいに、前方に小さな馬車が停まっているのが目に入った。


 馬車の近く、紫のライラックの傍らに膝をついていた人物に、グラナダは目が吸い寄せられる。


 黒鳶(くろとび)色の外套(がいとう)

 背に流した、つややかな漆黒の髪。


 あざやかに花開くライラックの傍らにあるその姿は、まるで一幅(いっぷく)の絵画を見ているかのように美しく――束の間、息をするのすら忘れてしまうほどだった。


(……イブリースさま)


 あれほどの麗人を、見まごうはずがない。

 彼はまぎれもなく、今日からグラナダの婚約者となる、イブリース・カーレンその人に違いなかった。


 イブリースがグラナダの存在に気づく様子はなかった。それどころか、やがて彼は馬車の扉を静かに開けると、スケッチブックを持ってきて、再びライラックの隣に座り込んでしまう。


 それからイブリースは脇目も振らず、一心不乱に鉛筆を動かして、帳面に何かを描き続けていた。その姿は、何人たりとも彼の(さまた)げになってはならないと思わせるような、(おごそ)かな信念と気迫に満ち満ちていて……


 声をかけることは、ためらわれた。

 今、声をかければ、どう考えてもイブリースの邪魔になる。

 だが、それだけではない。


(……綺麗)


 ただ、目が離せなかったのだ。

 ライラックの花を見つめる、あまりにも真っ直ぐなその眼差しに。

 よどみなくさらさらと帳面に絵を描いていく、流れるような手の動きに――


 ふいに、街路樹の緑をそよがせながら、風が吹いた。


「あっ」


 思わず、小さく声を上げてしまう。

 風を受けて、白い花びらのような何かが、イブリースのそばで咲いていたライラックの花から、ふわりと舞い上がったからだ。


 花びらのように見えたのは、よくよく見れば、白くて小さな蝶だった。

 蝶はライラックの上をくるりと回るように飛ぶと、グラナダの方へと飛んでくる。

 その蝶を、目で追っているうちに、


「お前は……」


 聞き知った、深くなめらかな声が響いた。

 白い蝶はグラナダの前を通り過ぎ、どこかへと飛び去っていく。


 イブリースはすでに手を止め、顔を上げていた。視線が重なり合う。彼は束の間、少し驚いたように琥珀色の瞳を(みは)っていたけれど、まもなくゆったりと微笑んで言った。


「なんだ、もうここまで来ていたのかい。それならば、早く私に声をかけてくれればよかったものを。なぜお前は、そんなところに立ち尽くしていたのかな?」

「……!」


 頬に朱が昇る。言葉が、詰まる。

 まさか、グラナダがじっと立っていたのは、イブリースが絵を描く姿に見惚(みほ)れてしまっていたからだとは、言えるはずもない。


 幸い、イブリースは特にそれ以上追及してくることはなく、グラナダに近づいてきて言った。


「お前が来るのを待ち切れなくてね。こうして途中まで来てしまった。……とはいえ、いささか待ちくたびれて、暇つぶしをしてしまっていたのだが」

「そ、そうだったのですか……? 申し訳ありません。その……お待たせしてしまって」


 こんなところで、イブリースを待たせてしまっていた。

 非難されているのだと思ってとっさに謝罪したけれど、彼は不思議そうに目を瞬いて尋ねてくる。


「お前はなぜ今、謝ったのかな。……ああ、もしや、私が待ちくたびれていたと言ったせいかい?」

「…………」


 おもむろにうなずけば、イブリースは声を立てて笑った。

 予想もしなかった反応に、グラナダは思わずたじろいでしまう。


「いや、失礼。おかしな娘だね。ここでお前を待っていたのは、私の一存。お前は何も悪くないだろうに。……それに、ここでお前を待っていたおかげで、収穫もあった。ほら、これをご覧」


 そう言って、イブリースがグラナダに見せてきたのは、彼がつい先ほどまで鉛筆を走らせていた帳面だった。


 白いページに描かれているのは、ライラックの花と、花びらにとまって(はね)を休めている蝶の姿。


 言葉も忘れて、見入ってしまう。

 使われているのは、確かに黒鉛筆一本だけだ。なのに、そこに描かれているライラックも、蝶も、瑞々(みずみず)しく色づいているように錯覚させられる。


「私は今日、こんなにも心惹かれる風景に出会うことができたんだ。お前のおかげでね。――さて、ではそろそろ行こうか。屋敷の者達が、お前が来るのを今か今かと待っているからね」


 スケッチブックを閉じると、イブリースはグラナダに手を差し出してきた。

 それは、透き通るように白くて、すらりとした、美しい手だった。


 ――ここで、彼の手を取らなければ、失礼にあたる。意を決して自分の手を重ねたけれど、その瞬間、込み上げてきたのは羞恥心だった。


 血色の悪い、赤黒くて傷だらけの手。

 ……グラナダの手は、イブリースの手と比べてあまりにも(みにく)くて、不釣り合いすぎる。 


(イブリースさまは……わたしを、どう思っていらっしゃるんだろう)


 手、だけではない。この真昼の光の下で、イブリースは今度こそ、グラナダの悪魔のように醜い容貌を、はっきりとその目に映したはずだった。


 この結婚の話はなかったことにしよう、と。

 彼がそう言い出しても、何ら不思議はなかったはずなのに。

 にもかかわらず、イブリースは未だ、グラナダを己の婚約者として迎えようとしている。


 ……イブリースがいったい何を考えているのか、微塵(みじん)もわからない。

 それでも、もはや帰るところのなくなったグラナダには、彼についていくしか選べる道がない。

 ただ一つ、グラナダにできることは――


(どうなってもいいようにだけ、しておけばいいのよ。マルティナが言っていたように……わたしは、いつ捨てられたっておかしくないのだから)


 イブリースが本当に歓迎してくれているのだとは、考えない方がいい。


 誰かに何かを期待したところで裏切られるだけだと、グラナダは経験からよく知っている。

 ならばはじめから、何も欲しがらない方がいい。その方が、たとえ手ひどく裏切られたとしても、痛みが少なくてすむから。


 グラナダの骸骨のような手を、イブリースの手がそっと握ってくる。思わず見上げれば、彼は穏やかに微笑んでいた。あでやかに咲く花のような、それは麗しく優しい笑みだった。

 その微笑みを見た瞬間、罪深い思いが胸の底をじわじわと侵食していく。


(この方はきっと、すぐにわたしに幻滅することになる)


 グラナダは美しくも賢くもなければ、他に何の取り柄もない、イブリースにはあまりにもふさわしくない娘だ。


 本来であれば、彼の相手になるべきは、大輪の花のような美貌に、会う人皆をとりこにする愛嬌や賢さをも持ち合わせている、マルティナのような娘であったはずなのに。


(ごめんなさい……、イブリースさま。わたしは、あなたの期待に応えることが、できないのです)


 心の中で謝りながら、グラナダは彼の背を追い、車へと乗り込んだ。


        *


 ……傷つきたくなければ、最初から何も望まなければいい。


 身の程をわきまえて、周囲の邪魔にならないように、じっと息をひそめて生きる。

 それが、今までも、そしてこれからも、グラナダにとっての最善なのだ、と。


 その考えがやはり正しかったことを思い知らされたのは、屋敷についてまもなくのことだった。


「着いたよ。ここが私の家だ」


 そう告げられて、窓の外に目を向ける。


 庭木に鳥のさえずりが響き渡る、手入れの行き届いた庭園の向こう。

 昼下がりの柔らかな光を浴びて建っていたのは、まるで小さな城が建っているかのような美しい屋敷だった。天を突き刺すかのような灰青の三角屋根に、染み一つない石造りの壁。


 長く大事にされてきたのがわかる、落ち着いた(たたず)まいの建物だ。


 先に馬車を降りたイブリースが、外から扉を開け、再びグラナダに手を差し出してくる。

 けれど、どこからか聞こえてきた声に、イブリースもグラナダも動きを止めた。


「お兄さま! もう、遅いですわ。わたくし、首を長くしてずっと待っていましたのよ。わたくしのお義姉(ねえ)さまになられる方、を――」


 それは鈴の音のような、軽やかで愛らしい声だった。


 声のした方に視線を向ければ、屋敷から飛び出してきた誰かが、こちらへと駆け寄ってくる。

 花を飾り、三つ編みにしてまとめた金色の髪。くりっとした青い瞳。薄桃色のドレス。

 声から想像した通りの、愛らしく可憐な少女の姿が、グラナダの目に映った。


 けれど少女は、車から降りようとしていたグラナダを見るなり、急にその場に立ち止まった。

 まもなく、少女の瞳に広がったのは――純然たる、恐怖。


「あ……」


 震える声が、少女の口から零れ出る。

 その次の瞬間、


「い、嫌あああぁぁぁっ!」


 庭園に響き渡った甲高い悲鳴に、庭木にとまっていた鳥までもが、恐れをなして一斉に飛び立っていった。


          *


 青々と香り立つ宵闇から、夏の虫の音が聞こえてくる。


 ……その日の、夜。

 部屋の椅子に腰掛けたグラナダは、何をするでもなく、窓辺の風景を(うつ)ろに眺めていた。

 天高く煌々と輝く月が、夜の庭先を仄白く照らし出している。


 ――カーレン家の屋敷内に与えられたグラナダの部屋は、どう考えても分不相応すぎるものだった。

 花瓶に飾られた薔薇が香る部屋は広々として、奥にあるバルコニーに出ると、そこからは季節の花の咲く美しい庭が見渡せる。


 家具もまた、見たことがないほど上質なものばかりだった。レース飾りのついた純白のカーテンが揺れる、天蓋付きのベッド。緻密(ちみつ)に織られたベルベッドのソファやクッション。

 こんな扱いをされる価値が、グラナダにはあるはずもないというのに。


 こうしていると、何度となく思い出すのは、今日の昼間、グラナダが屋敷に到着してまもなく起こった出来事のことだった。

 ――グラナダを目にするなり、悲鳴を上げながら気を失った少女の姿。


『ナディア……? お前、いったいどうした!?』


 イブリースもまた、予想だにしなかったことだったらしい。彼は(あわ)てて少女に駆け寄り、名を呼びながら抱き起こしていたが、それでも少女は気絶したまま微動だにしなかった。


 悲鳴を聞きつけたか、すぐに駆けつけてきた使用人達が少女を休ませるべく、部屋へと連れていったと聞いているものの……その後、彼女が目を覚ましたのかどうかは、グラナダにはまだ知らされていなかった。


 ……ただ一つ、はっきりとしているのは。


(わたしの姿が、あの子を気絶させてしまうくらい……恐ろしいものだったということだけ)


 今日だけ華やかなドレスを着せられ、申し訳程度に化粧をしたところで、グラナダの醜さをごまかせるはずがなかったのだ。きっと、あの少女の目には、醜い悪魔がドレスをまとっているようにしか見えなかったことだろう。それはどれほど滑稽(こっけい)で、おぞましい姿だったことか。


 ……やはり、グラナダはここにいるべきではない、と。そう思った。


 ここにいれば、またあの少女を恐がらせてしまう。それに、少女だけではなかったのだ。ここに来てから、グラナダのそばについて世話をしてくれた使用人達も、化け物を見るような(おび)えた目でグラナダを見ていた。


 これ以上、グラナダのせいでこの屋敷の秩序を乱し、迷惑をかけないためにも。

 明日の朝を迎えたら、グラナダがすべきことは決まっていた。


(イブリースさまには、婚約破棄を申し出よう。あんなことがあったのだから、イブリースさまもきっと、それを望んでいるはず。わたしは……ここにいてはいけない存在だから)


 ……けれど。

 朝を待たずに、その機会はまもなく訪れた。


「グラナダ。入ってもいいかな」


 呼びかけの後に、扉が開かれた。

 はっとして背後を振り返れば、部屋に入ってきたのはイブリースだった。


 イブリースは急いで立ち上がろうとしたグラナダを制して、近くまで歩を進めてきた。それから、グラナダの隣に座って、話し始める。


「昼間は、ナディアがあんな振る舞いをしてしまってすまなかったね。あの後すぐに目を覚ましたんだが、お前にとても申し訳ないことをしてしまったと謝っていたよ。……ああ、まだあの子のことは説明していなかったね。ナディアは、私の妹なのだよ。確かお前は、今年で二十なのだと言っていただろう。であれば、あの子はお前の三つ下だ」

「いいえ……。わたしがこのような醜い姿をしているのが、いけなかったのです。ナディアさまにご不快な思いをさせてしまったこと、本当に申し訳ありませんでした」

「グラナダ……?」


 椅子から立ち上がり、その場に膝をつく。

 胸の前で手を組み合わせて瞑目し、最大限の謝罪の意を示した。


「初日から貴方さまに、それからこの屋敷の方々に不愉快な思いをさせてしまい、大変申し訳ないことをいたしました。つきましては、どうぞ、この婚約を破談にしていただけますよう。ひらにお願い申し上げます」

「…………」


 長い、長い、沈黙が横たわる。

 令嬢としての教育を受けてこなかったものだから、言葉遣いや礼儀作法がこれで合っているのか、自信はなかった。けれど、間違ったことはしていないはず。だってイブリースもきっと、婚約破棄を望んでいるはずなのだから。


 ――そう、思っていたのに。


「お前は、それを本気で言っているのかい」

「……!」


 その途端、グラナダはばしゃりと背に冷や水をかけられたような心地に陥った。

 グラナダの頭上に落ちてきたのは、真冬の根雪のように冷え切った、イブリースの声だったのだから。


「その様子であれば、どうやらお前は、お前に求婚した時の私の言葉を、少しも聞いていなかったようだね」


 それは静かな声だった。

 けれど、その抑揚のなさから、イブリースがこの上もなく怒っていることだけは如実(にょじつ)に伝わってくる。


 指先が震えて、手のひらに嫌な汗が滲む。心臓が早鐘を打って、止まらない。

 やがて彼は、底冷えのする凍えた声で、はっきりと言い切った。


「残念だ。……姫君、お前が本当に醜いのは、姿のことではなく、その暗く卑屈な心根だ。心の底から失望したよ」


 ……ぱたん、と。

 扉が閉まる、乾いた音がした。


 グラナダはまた、一人になった。

 もう、ここには誰もいない。いつまでも膝をついている必要はない。

 それなのに。


「…………」


 立ち上がるどころか、その場に崩れ落ち、床にうずくまったまま、グラナダは動くことができなかった。


 ……これで、よかったはずだ。

 これで、イブリースは婚約破棄に踏み切るはずだ。

 もうグラナダは、この屋敷の人達に迷惑をかけずにすむ。怯えさせずにすむ。


 それなのに。


 ぱたり、ぱたりと、水滴の滴る音がする。

 目頭が熱くなるのを、抑えられない。拭っても拭っても、指の間から涙が零れ出てきてしまう。


 ……わたしはいったい、何をやっているんだろう、と思った。


 イブリースから優しく声をかけられて。微笑みかけられて。

 まさか、心のどこかで期待していたとでもいうのか。ここでなら、グラナダの存在を受け入れてもらえると。認めてもらえると。


 そんな泡沫(うたかた)の夢のような話など、どこにもあるはずがない。そんなことは、今日の昼間だけでも、この上もないほどに思い知らされたばかりだというのに。


「グラナダ」


 声が、聞こえた。

 はじめは、幻聴かと思った。


 けれどこちらに近づいてくる足音がして、こわごわと顔を上げれば、確かにイブリースはそこにいて、グラナダははっと息を呑む。


 目尻にたまっていた雫が、ほろりと頬をたどって落ちていった。慌てて顔を背ける。

 泣いていたことに、気づかれていなければいい。


 そう願いながら立ち上がり、まだ解いていない荷物のところへ向かおうとした。


「……っ、申し訳、ありません。今すぐに、ここを出て行く支度をいたしますから」

「出て行く? お前は何を言っているのかな。まさか、先ほどの婚約破棄がどうとかいう話のことを言っているのかい? であれば、私はお前に生家に戻ることを許した覚えはないのだが」

「え……?」

「顔を上げなさい。それから、これを着ること。もう夜も遅いが、お前に見せたいものがある。道中で身体を冷やしてはいけないからね」


 ふわりと、肩の上に暖かなものが着せかけられる。

 手触りのよい、上質なシルクで仕立てられた外套だった。裾には、美しい薔薇や百合の刺繍が施されている。


「あの……」

「ついてきなさい」


 イブリースはそれ以上は何も言わずに、扉の方へと足を向けた。

 行き先は告げられていないが、イブリースについていくほかない。

 玄関を出て、庭を歩き、前を行く彼が立ち止まったのは、煉瓦(れんが)の敷かれた小路の先、東屋(ガゼボ)のある一角だった。


 けれど彼は東屋には向かわず、そばに植えられている低木へと足を向ける。

 それから、その木に咲いていた花に触れながら言った。


「……グラナダ。お前の名は、柘榴(ざくろ)の実からつけられたのだそうだね。冥界の木の実の言い伝えをもとにして――お前を死人と見なす、悪意の込められた名前だと」

「それは……」

「ひどい名だ」


 吐き捨てるようにして、イブリースが言った。

 低い、低い声だった。その声音には、底知れないほどの怒りと憎悪がこもっていて、グラナダははっとして顔を上げる。

 暗鬱(あんうつ)に沈んだ瞳で柘榴の花を見つめながら、イブリースは言葉を続けた。


「私は、見た目だの、生まれだのを理由に他人を見下し、(あざけ)って嗤うような(やから)が、反吐(へど)が出るほどに嫌いでね。そう……今まで、お前の周囲にいた人間達のような連中だよ。――だが」


 おいで、と誘われ、手を取られる。

 あえて距離を取って立っていたのに、イブリースのすぐ隣――肩が触れるほどの距離まで近づくような格好になって、どきりと心臓が大きく跳ねる。


 何か、衣に香を()きしめているのだろうか。

 イブリースからは、どこか甘く妖しい、花のような香りがした。

 彼はそのまま、グラナダの手をそっと柘榴の花に添わせて言った。


「見えるかい。これが柘榴の花だ。柘榴は果実ばかりが知られているが、こんなにも優美な花を咲かせる木でもある。――だからお前の名は、不吉を意味する呪われた名では決してない。この凜とした赤い花を意味する、美しい名なのだよ」

「…………」


 月明かりに照らされた、その赤い花を見つめる。


(これが……柘榴の花。わたしの、名前)


 イブリースの言った通りだった。

 初めて見る柘榴の花は、月明かりを受けて、赤く美しく咲いている。

 誰かが勝手に作り上げた不吉な言い伝えなど関係ない。そんなのは知ったことかと、あでやかに誇り高く、咲いている。


 グラナダ。


 イブリースがくれた言葉は、叔父達が悪意を込めてつけたその名を、美しく咲き誇る花の名へと、意味を塗り替えていくようだった。


 イブリースはグラナダに向き直ると、琥珀色の瞳で真っ直ぐに見つめてきて言った。


「どうか、醜いなどと言って、自分で自分を(おとし)めるな、柘榴の花の姫君。お前は少しも醜くないし、悪魔などではない。何が醜く、何が美しいなど、いったい誰が決めた? 誰が何と言おうと、お前は美しい。お前はもっと、己を誇り、自信を持って、堂々と生きていいんだよ」

「…………」


 呆気に取られていた。

 ずっと、グラナダは醜い娘だと言われてきた。

 なのにイブリースは、グラナダを美しいと言う。

 己を卑下(ひげ)せず、堂々と生きていいのだと、あまりにも揺るぎない声で伝えてくる。


 だけどそんなことを言われたのは初めてで、どうしても、戸惑ってしまうのだ。

 彼の視線の強さに負けて、先に顔をそらしたのはグラナダだった。


「……わかりません」

「…………」

「誇りとは、何ですか。自信とは……何ですか? わたしには、わかりません」

「わからないのなら、私が教えてあげるよ」


 手を差し出され、グラナダは目を瞠る。

 戸惑っていると、イブリースは妖しげに微笑んで言葉を足した。


「ちなみに私の名前は、異国の言葉で悪魔を意味するのだそうだ。どうにも両親が酔狂(すいきょう)でつけた名らしくてね。――まあ、そんなところだ。姫君、ここは一つ、思い切って、悪魔に身を任せてみる気はないかい?」


 それは、もしかすると、奈落へと誘う悪魔のささやきなのか。

 ――それでも。


(この方を……信じてみても、いいのかしら)


 イブリース・カーレン。

 とても、不思議な人だと思った。

 少なくとも、これまでに生きてきた閉ざされた世界で、グラナダは彼のような人とは会ったことがない。


 けれど、その妖しい揺らめきを宿す琥珀色の瞳に、グラナダはなぜか、引きつけられずにはいられない――


 おずおずと、手を伸ばす。

 枯れ枝のように痩せこけ、あかぎれと(あざ)だらけのグラナダの手が、イブリースの手に触れる。

 その、途端。


 イブリースは、少し目を見開いて、それから表情を綻ばせた。

 それは、彼が幾度となく見せてきた、どこか真意の読み取れない笑みではなく。

 安堵(あんど)のこもったような、優しく柔らかな笑みだった。


「よかった。……ありがとう、グラナダ」


 そう言って、イブリースは(ふところ)から何かを取り出した。

 彼がグラナダの前に立って腕を上げたかと思うと、首元でしゃらりと音がした。

 グラナダは息を呑んだ。


「……これ、は」

「約束の品だよ。お前が大切にしていたものだ」


 首にかけられた、それは。

 そのペンダントは。


 震える手で、ペンダントに触れる。

 従妹によって踏み潰されたはずのペンダントは、今や少し前まで壊れていたことなど信じられないくらいに、傷一つなく綺麗に直っていて。


 蓋を開く。

 そこに収められた姿絵の中で、愛する父と母は前と変わらない、穏やかな笑みを湛えていた――


「…………っ」


 目の前が歪んだ。

 喉が熱くて、苦しい。涙を我慢することができなかった。

 お礼を、言いたいのに。

 声は嗚咽に変わってしまって、言葉を発することができない。


 甘やかな花の香りが、ふわりとグラナダを包んだ。

 イブリースはグラナダを抱き寄せると、そっと背をさすってくれる。

 かすかに苦笑しつつも、彼は優しく呟いた。


「我が姫君は、ずいぶんと涙もろいようだね。いつかは微笑んだ顔も見てみたいものだが……。泣きなさい、グラナダ。泣きたいのなら、泣きたいだけ、泣いてしまえばいい」


 胸が詰まる。息が苦しい。

 そんなことを言われてしまったら、もう(こら)えることなんて、できなくなってしまうのに。


 イブリース・カーレン。

 皆から忌み嫌われていた醜いグラナダを、唯一、美しいと言ってくれた人。


 これは、彼に導かれ、つぼみが開くように美しく生まれ変わり、やがて社交界の高嶺の花と呼ばれるようになる令嬢の、始まりの物語――


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