理解のある人間は話さないよ(マイノリティ等についての私見)
世の中の理解者面した人達に捧げる
マイノリティの友達がいる、と話す(書く)人間がいる。私はそんな奴らが大嫌いだ。奴らはさも自分が理解のある人間であるかのようにアピールしてくる。本当に理解のある人間は話さないのではないかと思う。マイノリティでない人間同士でも完全に相手を理解なんてできやしないのに、立場が違う人間が何を知った口を利けるというのか。
当人がカミングアウトをしてて、私は理解しようと努力してるんだ、などと宣う奴もいる。そんなに無理をしないとそいつとは付き合えないのか、と思う。結局そいつをフィルターにかけてしまっているのではないか。人には人格、キャラクターがあるので、何かしらのフィルター越しに見てしまうのは仕方がないのかもしれない。だが、マイノリティであることはそんなにその人間にバイアスをかけてしまうことか。ハゲやデブ、短足の奴らにもいちいちそんなことを考えて付き合っているのか。
私がマイノリティだと言われてしまう彼(彼女)らにできることは、沈黙することだと思う。少なくとも彼(彼女)たちは偶然知ったのではない限り、自分のことを少なからず信頼して話してくれたのだと思う。その信頼に返せるのはその信頼を振りかざすのではなく、事実を心の奥に留めておくことなのだ。人の口に戸は立てられないという。軽々しく話した内容がどこへ拡散されるかなんてわからない。巡り巡って彼(彼女)らの周囲にもたどり着くかもしれない。そのときどんな顔を向けるというのか。彼(彼女)らの情報は玩具ではない。
私はおじさん同士が手を繋いでたら目を背けるし、女性同士がキスをしていたらその場を立ち去るだろう。そういう程度には差別的な人間だ。しかし、別に当人たちが悪いとは思わない。私には合わないかっただけ、それだけのことだ。彼(彼女)らに対して何ら反応することもないだろう。街中でバカップルを見たようなものだ。この反応が正しいか、そうするべきなのかはわからないが。
実際、現代の日本でマイノリティの人たちが生きていくには結婚や戸籍等いくつも壁があるのだろう。そういう人たちに優しくしろというのもわからなくもない。ただ、それは本当に求められているのか、理解してほしいと思われているのか考えて欲しい。理解した気になって求められてもいないことをしても喜ばれるのか。私は自分のエゴのために他人の繊細な部分を利用することだけはしたくない。それこそ「うっせえわ」、ではないけれど。