出来る事なら、渦巻く雲を捕まえたい。
私の母は、4年前に他界した。
元々喘息持ちの病弱な体質だったから、物心ついた頃から母が寝込んでいる様子をよく見かけていた。
ある日、熱風邪をこじらせ肺炎との診断で入院すると、そのまま退院することは出来なかった。
私が22歳の秋だった。
母を愛していた父は、塞ぎ込む日々が続き、殆ど食事が出来なくなった。
仕事も休みがちになり身体は痩せていくばかりで、精神科に入退院を繰り返し、現在もまだ入院中だ。
今現在、この家には、私一人が生活をしている。
バスタオルに包まって私は、リビングにある母の遺影の前で突っ伏して泣いた。
今、ただ寂しかった。
母を一番愛していたのは、私だから。
柱時計のカチカチという音だけが響く真っ暗なリビング。
泣き疲れた私は、喉が乾いて立ち上がった。
キッチンに行って、ヤカンに入っていた白湯をマグカップに注いだ。
冷蔵庫を開けたら、まぶしくて目が眩んだ。
いつ買ったかわからない調味料と、牛乳、唯一残っていたホワイトチョコレートの一枚を掴み、ふらふらした足取りで階段を上がった。
今夜中に仕事を終わらせてしまおうとPCを開いた。
音楽を聴いていない両耳の奥から伝わってくる、張り詰めた無音をうるさく感じ、頭が痛くなった。
この辛い気持ちはいつでも、結局また私に襲いかかり心を引き裂く。
嘘つきにならない限り、やっぱり笑えない。
机の引出しを開けて、クリニックで処方された薬が入った紙袋を取り出した。
残り少なくなった錠剤を勿体ない面持ちで飲み込んだ。
気分は少し落ち着いたようだが、身体は震えている。
寒気を感じるから、熱があるのかもしれない。
今夜も、一人残された部屋で独りぼっちで眠らなければならない。
暗く寂しい気持ちは止まない、終わらない。
電気を消して真っ暗になった部屋で、布団に潜る。
下唇を強く噛んで目を閉じた。
緑が濃い草むらを歩いていた。
足に触る草がチクチクしてくすぐったい。
見ると、裸足だった。
あっちから気持ちの良い空っ風が吹いてくる。
見上げた空の雲は、勢いよく動き回っている。
『怪獣みたいだな』
そう思って口をポカンと開けて見ていたら、それは大きな一つの渦巻きになった。
巨大な雲の塊が、遠い向こうに引っ張られていくのを間近に観て、嬉しくなって叫んだ。
「あーーーっ!!」
私は空の方へ、思いっきり両手を伸ばした。
雲を掴まえたい。
『さあ、雲の上に、私を乗せて。』
一緒に何処かへ連れて行って欲しかった。
余りにも空を見上げ仰いだので、私は背中から後ろに真っ直ぐ倒れた。
時間は、この時とばかりに極端にゆっくり流れる。
草むらに沈み込んでから暫くして起き上がると、あの川沿いの夕焼け色に染まった公園にいた。
身体がとても重く感じて、座ったまま立ち上がることが出来ない。
右肩の向こうを見ると、ブランコに揺られて楽しそうに笑っているゆきが居た。
私は何か話しかけようとして口を開けたが、声が出ていないことに気づいた。
唇に手をもっていくが、何にも触れない。
私の顔から口が消えていた。
ギィーっと濁音がしてそちらを見ると、あの女性カウンセラーもまた、ブランコに乗っていた。
紅に染まったブランコは、ゆっくりと揺れる。
カウンセラーは、色目使いで此方を向いて微笑んでいた。
風で白衣がはだけている。
肌を露出し過ぎだから、私は目を逸らした。
今度は、後ろから私の名前を呼ぶ声が聞こえた。
懐かしい、あの声…
振り返ると、そこに母が立っていた。
私だけに見せる、あの優しい笑顔で言った。
「栄、おかえりなさい。」
暖かい気持ちで、心は一杯に満たされていく。
涙が溢れて流れ続けて、嗚咽が耳に響いて目が覚めた。
カーテンを開けっぱなしだったから、空に浮かぶ月がいつもよりも眩しく部屋を照らしていた。
「会いたいよ。」
枕を濡らしながら、一人仰向けで呟いた。