支配
アルダはあまり神さまを信じていなかった。正確に言えば、頼りにしていなかった。あまり助けてもらった記憶がないからだ。
そのせいだろうか、彼の人は今回も留守にしていて、アルダを見守ってくれてはいなかったようだ。
たった数分しか歩いていないというのに、いきなり川辺にゴブリンの小集団が現れて、鼻をひくひくさせている。
非常に拙いことに、アルダがいる方が風上だった。
「ゴブリンだったことが不幸中の幸いだけど、僕は更に弱いからなぁ」
聞いている人がいたら、がっくりと肩を落としそうなくらい情けない科白を呟きながら、アルダは、草むらで息を潜めて、短剣を握る手に力を込めた。
ゴブリン達は川縁をうろうろしながら、こちらに向かって近づいてくる。どうやら回避は難しいようだ。
「よしポコ、向こうの草むらまで静かに移動して、合図をしたら草むらを揺らしてくれる?」
熟練の従魔師でも、スライムにそんな難しいことを頼むなんて馬鹿げていると思うだろう。
だが、頭の上から飛び降りたポコは、分かったという風に触手を上げて、指示した草むらへと音もなく移動していった。
以前から賢いスライムだったが、色が変わってから、それがさらに違う次元になったような気がした。
ゴブリンたちはさらに近づいてきた。
今では、濡れた緑色の皮膚に付いた土の汚れや、口元からたれているよだれの跡までが、はっきりと確認できた。
ポコに作ってもらった不意を突けば、2匹くらいは倒せるだろう。
そうすれば残りは3匹、1匹を力任せに蹴り飛ばして川にでも突き落としておけば、残りの2匹を倒すための時間が稼げるはずだ。
何もかもがうまくいけば、なんとか生き残る目もありそうだった。
一番手前を歩いているゴブリンの、臭い息づかいまでが感じ取れるような距離で、アルダはポコに合図を送ろうとした。
そう考えた瞬間、ポコが向かった草むらが揺れて、5匹のゴブリンは一斉にそちらを振り返った。
あまりのタイミングに、念話でも通ってるのかと驚いたアルダだったが、すぐに短剣を握りしめると、一番近いゴブリンの首に向けて、それを振りかざした。
ガツっという手応えと共に、ゴブリンの叫び声が上がる。
(よし! すぐに次の……って、おい! なんで抜けないんだよ!)
アルダが振るった短剣は、最初のゴブリンの首に深く突き刺さっていて、片手では抜けなかった。
叫びを聞いた4匹のゴブリンが一斉にこちらを振り返る。
アルダは短剣の刺さったゴブリンを蹴り飛ばし、なんとかそれを抜くことには成功したが、それは次の1匹が右腕に飛びかかってきたのと同時だった。
あっという間に大乱戦だ。
「く、くそっ!」
短剣は、噛みつかれた瞬間、何処かに飛んでいったようだ。
力を振り絞って何度かゴブリンを振り払ったが、そのたびに別の個体が飛びかかってきて、手当たり次第に噛みついてくる。防具の有無などお構いなしだ。
胸に飛びついてきた個体に押され、ふらついたところで木の根か何かに足をとられたアルダは、仰向けに倒れ込んだ。
これ幸いと、一匹のゴブリンが跳びかかって来て、胸の上で馬乗りになり、勝ち誇ったように牙を剥いて威嚇してくる。
(なんてこった、こんなところでゴブリンに殺されるなんて、あんまりだ)
アルダはそう嘆いたが、4匹のゴブリンは、彼の手足を押さえつけ、獲物をなぶるように声を上げた。
(僕は従魔師なんだから、戦わずに、こいつらを従えることができてたらなぁ……)
アルダは、昔好きだったおとぎ話の主人公の冒険を思い出して、そう考えた。
胸の上のゴブリンは、体の下の獲物の首筋に歯を立てようと、ゆっくり顔を近づけてきた。
(あれは確か――)
「†NDUR†(*1)――だっけ」
その物語の中で、主人公が使っていたセリフを呟いた瞬間、顔を近づけてきていた胸の上のゴブリンが、その動きをぴたりと止めた。
「へ?」
腕を囓っていたやつも、足にまとわりついていたやつも、4匹全てが同時にその動きを止めていた。
「な、なんだ?」
そう疑問を口にした瞬間、全ての個体が光に包まれ、全身が深紅に染まっていった。そうして、体が二回りほど大きくなり、醜いだけだった顔が精悍な顔つきに変わる。
光が収まり、全てが終わった後に見開かれた目には、知性の光のようなものすら宿っていた。
「ゲゲッ」
そう声を上げると、ゴブリン達はアルダのまわりで跪いた。
呆然とそれを見ているアルダの頭の上にポコが戻ってくる。定位置に付いたポコから魔力の広がりを感じると、全身が淡く輝いた。
「ポ、ポコ?!」
輝きが収まったとき、アルダは痛みを感じていない自分に気が付いた。
驚いて自分の手足を確認すると、ゴブリンに噛まれた傷は、跡形もなく、なくなっていた。そうして、ポコから誇らしげな気持ちが流れてきた。
「凄いな、お前。こんなことまでできるようになったんだな。ありがとな」
そう言って、頭の上のポコをなでる。ポコは気持ちよさそうにふるるんと体をふるわせた。
「しかし……」
アルダは、未だに跪いたままの深紅色のゴブリンだったものを眺めた。
「これって従魔にしたってことなのか? だけど、ポコとの契約も解除せずに? 契約の儀式もなしで?」
普通はあり得ない。
だが、アルダには、ひとつだけ心当たりがあった。まさか、あの呪文が効いたなんてことは……
†NDUR†。
それは、アルダが好きだったおとぎ話の中で主人公が使うスキル〈支配〉を発動させるパワーワードだ。
まだアラノール王国(*2)も存在しなかった時代の、とても古い言葉で、「従え」とか「奉仕せよ」とか言った意味らしい。おとぎ話の中で、そう説明されていた。
彼は従魔にしたい魔物に触れて、そう念じるだけで相手を従魔にしていたものだ。
「ンドゥアのせい……なのかな」
だが、そのスキルは、彼が超越者になったときに取得したスキルだった。
つまり、現実にそのスキルが存在していたとしても、それは、職業レベル100で発現するスキルのはずなのだ。
「まさかね……」
アルダは何かを振り払うように首を振ると、自分の従魔たちをもう一度よく見た。
それは、たしかにゴブリンのようだったが、ずっと大きいし、こんな色のものは見たことがなかった。
ゴブリンの上位種にレッドキャップと呼ばれる、赤い頭のゴブリンがいると聞いたことがあるが、これらは全身が深く暗い紅だ。
「そうだ。従魔はカードにできるはずだから、カードに表示される情報を見れば、詳しいことがわかるかも」
さっそくアルダは一番手前の従魔に触れて、それをカードにした。
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名称 クリムゾーナ
分類 従魔 lv.43
状態 98/100
存在値 2 (8)
解説 ゴブリン種の第3位階。
燃えさかる地獄の悪鬼、希代の暗殺者。
どんなに固い城壁の奧にいようとも、血まみれの悪魔が音もなく現れ、あなたの首を刈り取るだろう。
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そこには聞いたこともない魔物の名前が書かれていた。しかも怪しいフレーバーテキストと共に。
「燃えさかる地獄の悪鬼って……てか、レベル43?!」
そして分類は確かに従魔になっていた。もしかして、本当に〈支配〉なのだろうか。
アルダはカードを実体化させると、彼らに命令を下してみた。
「僕の周囲を警戒」
「ギッ」
小さくそう声を上げた4体のクリムゾーナは、音もなく周囲の影と一体化して消えた。
「凄いな、まるで影の中に潜ったみたいに消えちゃった」
完全に彼らの気配が消えてなくなったことに驚いた後、アルダは一度川に出て、泥だらけの手足や顔を洗うと、ポコを頭の上に載せて川沿いに歩き始めた。
*1) NDUR は、「ンドゥア」と発音する。
*2) アラノール王国
アラノール大陸の名前の元になった、昔この地にあった国の名前。
現在、この地は、300年弱前にできたエルニル連邦に支配されている。