決心
アルダが宿に帰り着いたのは、まだ夕方と言うには早い時間だった。
「おや、お帰り。今日は早いんだね」
「朝、早かったですからね」
「そういえばそうだね」
アルダはその場であらかじめ用意しておいた、ウリボアの肉をライザに渡した。
「え、これ、ウリボアじゃないか! どうしたんだい?」
ウリボアはいわゆる高級肉だ。
柔らかさと言い、旨味と言い、繊細なジビエの香りといい、すべてが素晴らしかった。焼いてよし煮てよし、の完璧素材だ。
しかも、彼が差し出したのは、その中でも背中の一部にしか存在しない、きめが細かくうまみの強い、ウリボアの中でも最上の部位だった。
あまりにも美しい白色をした、その部位の脂肪は、融点が低く、下の上でまるでとろけるように消えてなくなることから、『淡雪』だとか『天使の衣』などと呼ばれていた。
「たまたま手に入れたので、料理して貰おうかなと思いまして」
「それは構わないけれどさ、6頭分も食べきれるのかい?」
「今日、ニールさんがご飯を食べに来ますので、それで何か作って差し上げて下さい。余ったらライザさんのお家でどうぞ」
「ギルドの受付嬢じゃないか。やるねぇ、デートの仕込みだったとは」
「ち、ちがいますよ!」
「それじゃ、ご相伴にあずかろうかね。あんたー!」
そう言って、厨房の旦那さんのほうに小走りで駆けていった。
本当に人の言うことを聞かない人だなぁと、精神的に疲れながら、彼は部屋へ続く階段を上っていった。
ニールが来るまでにはまだしばらく時間がありそうだったので、ポコと一緒に入浴した後、くつろいでいると、部屋の扉がノックされた。
「はい?」
「私だ、入っても良いか?」
「クレア様?! 今、開けます」
ドアを開けると、そこには少し焦燥した感じのクレアが立っていた。
「どうしたんです?」
「いや、ちょっと、湯船を借りたくて、な」
「わかりました。どうぞ」
「ありがとう」
クレアはそう言うと、脱衣場へと入っていった。
(クレア様、どうしたんだ?)
(ティリス:手紙来た)
(サンド:そしてギルド来た)
(ふーん、さすがに隠れたままじゃ、内容まではわからないか)
((orz...))
どこかから手紙が来て、そしてギルドから誰かが来て、その結果、非常に疲れた様子になっている。
わかったことはそれだけだったが、アルダはなんとか元気づけて差し上げようと、そう思った。
∽━…‥・‥…━∽
「はー、楽になった」
クレアは上気した顔で、新しい服を着て脱衣場から出てきた。さすがは癒しのポコパワーだ。
「それでクレア様、一体何があったのですか?」
そう聞くとクレアは言いにくそうにしていたが、意を決したように語り始めた。
「アルダのエスクワイアの任は解いた方がよいかもしれない」
「え? 何です突然?」
「このままだと、私と一緒に死地に向かわなくてはならなくなるぞ」
アルダは何のことだか分からなかったので、ちゃんと説明して下さいとお願いした。
領主の事情やギルドの事情を無視して、クレアの話を要約すると――
「要するに、領軍とは名ばかりで、クレア様だけでハティを討伐しに行かなければならなくなった、と、そういうことですか?」
そうだ、とクレアは頷いた。
事情がわかるとアルダは、なんだそんなことかと安心した。
「父上は領民がどうなってもよいと考えておられるのだろうか……まさか母上の入れ知恵だったりは」
キリークを送り込んでくるような母親だから、キリークが失敗した今、クレアも失敗させてバランスをとるくらいのことは考えそうだったが、いかんせん、その思惑には領民の都合の「り」の字も含まれてはいなかった。
そんなことでクレアが苦悩しているのをみて、アルダはとうとう我慢ができなくなった。
「あの、クレア様」
「ん?」
「なんとかしましょうか?」
クレアはそれを聞いて、自分の耳を疑った。
「なんとか、だと?」
「はい。クレア様さえ我慢して協力して下さるなら」
アルダにはその従魔を初めとして、得体の知れないところがある。だが、決して悪いものではないとクレアは直感していた。
その彼が、すべての事情を聞いた後、何とかしようかと言い出したのだ。協力が何だかわからなかったが、クレアは覚悟を決めて言った。
「それで領民が救えるなら安いものだ。どんなことでも我慢しよう」
「いや、クレア様。そこで、そんなこと言っちゃダメですからね。悪い人につけ込まれてイロイロされちゃいますよ。ホント」
「な、何を……」
クレアの頬が風呂上がり以上に上気する。アルダは、全くこの人は無防備なんだからなぁ、と呆れていた。
「ご、ごほん。実は……」
微妙な雰囲気を吹き飛ばすように咳払いをすると、アルダは今までのことを正直に話した。
「ハティは、すでに――討伐した?!」
「はい」
とんでもない話ではあるが、もしもそれが本当なら、領民の誰もがその影におびえることもない。
「それならそうと、そう発表すれば――」
「それではだめです」
「どうしてだ?」
「ハティは、領民を護るために困難に立ち向かったクレア様が討伐しなければなりません。そうして、領民の守護者としてのイメージを印象づけるのです」
アルダはクレアを領主にするつもりはなかったが、キリークや策を弄したその母親に対しては怒っていた。そう、怒っていたのだ。
押しつけられた無謀な計画を成功させることで、単に意趣返しがしたかっただけなのかも知れないが。
さすがに貴族の血筋だけあって、クレアはアルダの意図を理解していた。
なんでも我慢して協力するとは確かに言ったが――
「しかし、わ、私は嘘がヘタなのだが……」
「大丈夫。嘘ではありませんから」
「え?」
「討伐したのは、クレア様が、置き去りにされた僕を助けに行こうとしてくれた、あの夜です」
「……あの稲妻か」
最後に落ちた、この世のものとも思われないような強力な一撃を思い出しながら、そう呟いた。
「はい。あの日僕たちはパーティでした」
「そうだな」
「だから、ハティを倒したのは僕たちパーティなんです。クレア様もその一員でしたよ」
ほとんど詭弁ともいえる内容だったが、そこに嘘はない。
クレアは、苦笑を浮かべながら、アルダの手を取った。
「そうか。そうだな。今は領主になるとかならないとか、そんなことよりも、事態をどう納めるのかを考えるべきだな」
「はい」
「アルダ」
「はい?」
「私のエスクワイアになってくれてありがとう」
アルダは改めてそう言われて、非常に面映ゆい思いをしていた。誰かに必要とされることが、こんなに幸せなことだったなんて――
「あら、お邪魔だったかな?」
その声にアルダたちが振り返ると、部屋の入り口から、ニールが悪びれずにのぞき込んでいた。
「え? あ、ニールさん?!」
「こんばんは。アルくん。そして、クレア様」
「あ、ああ。あなたはギルドの」
ニールは部屋へと入ってくると、腰に手を当ててポーズを取り、恭しく右手を胸に当てて膝を折った。
「そう。ある時はギルドの花、受付嬢。ある時は頼れる姉。そしてまたある時は、アルくんにご飯を奢って貰うために宿まで押しかけた女、ニールでございます」
それを聞いてアルダは吹き出した。
そうして、食事のことを思い出すと、クレアを食事に誘った。
「クレア様も一緒に食べませんか。今日はあの夜に狩った、ウリボアを用意して貰ったんです」
「え? ウリボアなの?! ホントに?」
それを聞いた瞬間、よだれを垂らさんばかりの勢いでニールが詰めよってきた。
「え、ええ。本当ですよ」
「やったー。アルくん、サイコー!」
バースの作るウリボア料理は絶品だった。
時間がそれほどなかったため、複雑な煮込み料理こそなかったが、軽くソテーしただけで口の中でとろけるようなその肉は、蒸しても上げても素晴らしく、バースがいろいろと楽しんでいるさまが目に見えるような出来栄えだった。
「んー、凄いね、アルくん!」
ニールは、ワインを片手に、次々と出てくるウリボアの料理を平らげていた。
あんな凄い量がどこに入るんだろうと、アルダは感心しながらその様子を見ていた。
クレアは、心配事がなくなった反動で、こちらもちびちびとワインを飲みながら、少し上気した顔で、蒸した売りボアに酸味のあるソースをかけた料理をほおばっていた。
その後のことを、アルダはよく覚えていない。
なぜなら、生まれて初めてワインを飲まされて、たった一杯で撃沈してしまったからだ。
どこかからニールの高い笑い声と、クレアの優しい笑い声が聞こえる。
何て楽しい夜なんだと思いながら、彼は、押し寄せてくる睡魔に身を委ねた。