エスクワイア
翌朝、アルダはふかふかの布団の中で目を覚ました。
今まで使っていた、硬い寝台と違って、なんだか疲れも余計にとれているような気がした。
「寝具って大事なんだねぇ、ポコ」
アルダが、頭の上に話しかけると、ポコが震えて、『ポコはどこでも寝られるよ?』と言った気がした。
その返事に苦笑しながら起き上がると、早速朝露の恵みをもらいに風呂場の扉を開けた。
ポコはそこがとても気に入ったようで、扉を開けるとすぐに、湯船の中へぽちゃんと移動して、ぷかぷかと浮かんでいた。
『ふい~』という声までもが聞こえる気がした。
「湯船がこんなに気持ち良いものだったなんて。なんだかもうやみつきになっちゃいそうだねー」と、アルダも湯船に浸かりながらポコに話しかけた。
朝露の恵み亭の2Fの角部屋は、狭めの4人部屋と同じくらいの広さがある部屋だ。
この辺りの相場だと、銀貨1枚といったところだが、風呂の維持費が銀貨1枚はかかるため、1泊に銀貨2枚と小銀貨5枚を支払う必要があった。
その分、少しでも居心地を良くしようとしたのだろう。部屋には、大きな気持ちの良いベッドが2つ置かれていた。
「金貨1枚で4日しか泊まれないっていうのは、僕たちにとっちゃ、凄い贅沢だけれど、しばらく大変だったから少しくらいならいいよね」
それに他に空いている部屋がないし、と自分に言い訳をしながら、アルダはざぶんと湯船に潜った。
外部の音が遮断されて、なんだか自分の内側をのぞき込むような、何かから解放されるようなそんな気分だ。
どこか遠くから呼ばれるような声が聞こえた気もしたけれど、今は、湯船の底で浮かんでいるような沈んでいるような、そんな不思議な感覚を楽しんでいた。
そんな風にゆらゆらしていると、いきなり脇に手が差し込まれ、お湯の中から引き上げられようとした。
驚いたアルダは、一気に湯船から顔を上げた。
「ぶはっ!」
「大丈夫か!? アルダ殿!」
「……え?」
そこには、平民風で地味目だが、高価そうな生地がもろわかりな服を着たクレアが、上半身を濡らして心配そうに立っていた。
「え? え? ええ?!」
なにも身につけていないことを思い出したアルダは、急いで湯船に戻って体を隠す。
「な、なんでクレア様がここに?!」
「いや、部屋に鍵もかかっていないのに誰もいないし、音が聞こえたから、呼んでみたのだが返事がない。何かあったのかと扉を開けてみたら――」
「――僕が沈んでいたんですね」
クレアは頷いて、溺れているかと思って焦ったと笑った。
「あー、いや、事情は分かりましたけど……その、すぐ上がりますから、外でお待ちいただければ」
アルダは顔に血が上るのを感じながら、男女の立場が逆じゃない? などと考えていた。
「これは失礼した。では後ほど」
そう言って、クレアは浴室から出て行った。
∽━…‥・‥…━∽
風呂から上がり、小さな脱衣場で昨日と同じ服を身につけたアルダは、服も買わなきゃなぁとため息をついた。ゼロから始める生活は、いろいろとお金がかかるものだ。
この部屋の脱衣場には、タオル地の布まで置かれていた。ただの布とはいえ、編み方が複雑で、なかなか高価なものなのだ。バースの気合いが感じられる。
「お待たせしました」
なにかで軽く拭いたのだろう。濡れた髪と服はびしょ濡れではなかったが、湿ったままのようだった。このままだと風邪を引きそうだ。
「えーっと、クレア様。もしよろしければお湯をお使いになりますか? その間にお召し物を乾かしておきますが」
「え?」
それを聞いたとたんクレアの顔が一気に赤く染まる。
それを見てアルダは失言に気がついた。冷静に考えて、嫁入り前の貴族の娘が、成人していないとはいえ男とふたりきりの部屋で、裸になって風呂にはいるなどハレンチにも程がある。
これが冒険者なら、相手に見張らせて体を拭くくらいは普通だったのだが。
「わ、わかった。よろしく頼む」
そういうとクレアは意を決したように頷いて、椅子から立ち上がった。
「あ、いえ、無理にとは……」
伝染するように顔を赤くしながら、アルダが言うと、クレアはにっこりと微笑むと、「いや、丁度ゆっくりと浸かれる湯船が欲しかったところだ」と言って、脱衣場に消えていった。
「濡れた服は分かるようにしておいて下さい!」とドアの前から声をかけると、中から「わかった」とだけ返事があった。
∽━…‥・‥…━∽
クレアの濡れた服を籠に入れて階下に降りると、ライザを見つけて乾燥の魔法を使って貰った。1回小銀貨1枚だ。
こういった、いわゆる生活魔法と呼ばれる魔法群は多岐にわたるが、その名称の気軽さとは裏腹に修得が難しい技だった。
魔法の威力や効果そのものは極小規模なので、だれにでも修得できる可能性はあったが、適切な効果を得るためには複数属性をコントロールする繊細さが必要なため、修得にはそれなりの努力を要した。
低い魔力ほど精密なコントロールの修得が容易であることから、この魔法を高いレベルで使用するのは、それが直接の収入に結びつくサービス業従事者に多く、相対的に魔力の多い冒険者には少なかった。
「突然角の部屋を借りに来たと思ったら、翌日には凄い美人さんが尋ねてくるし、すでに服まで脱がしてるとは、実にやるもんだねぇ」
ゴシップ好きのライザは、ニコニコして魔法を使いながらそんなことを言った。
「いや、違います。違いますから。勘弁して下さい」
領主の娘に変な噂を立てたりしたら、物理的に首が胴から離れかねない。冗談ではすまないのだ。
アルダは必至で否定したが、ライザはまったく取り合ってもくれなかった。
「あら、訳ありかい? いいからいいから」
全然良くないよ! とアルダは憤ったが、否定すればするだけ深みにはまりそうだったので、早々にあきらめた。
∽━…‥・‥…━∽
「この宿の風呂は凄いな!」
しばらくして風呂から出てきたクレアが、興奮するようにそう言った。
「クレア様のご実家なら、もっと凄いお風呂があるでしょう?」
アルダは不思議に思った。
「豪華さだけならその通りだが、なんというか、まるでお湯に回復の魔法がかかっているようだったぞ? ほら、昨日ついた擦り傷が、きれいになくなった」
そう言いながら、クレアは腕をまくって、すべすべの腕を嬉しそうにアルダに見せた。
突然見せられた湯上がりの白い腕にどぎまぎしながらも、回復と聞いて、アルダはポコがいないことにいまさら気がついた。まさかあのまま湯船に浮いていたのでは……
「クレア様、もしかして湯船にポコが……」
「ああ、気持ちよさそうに浮かんでいたな。初めはちょっと驚いたが、あれはあれで、可愛いものだな」
うんうんと頷くクレアを見ながら、彼は、回復がポコのせいだと知られたら、聖なるお風呂専用のパーツにされそうだなと少し焦った。
「それで、クレア様。今日はどうしてここへ? 御用があるなら呼び出していただければ」
「今日は、詫びに来たのだ。呼びだして詫びるというのも変な話だろう?」
話を聞いてみると、それは、キリークがアルダを置いて逃げ出した事への謝罪のようだった。
あの件の責任があるのは、砂の牙のような気がしないでもないが、クレアは、それを否定した。
「しかし、依頼したのはキリークだ」
クレアから、何か欲しいものはないかと聞かれたが、アルダは、クレアから詫びとして金品を受けるのは何か違うような気がして躊躇した。
(欲しいもの、欲しいものねぇ。なにか適当なものでごまかせないかな。……クレア様が欲しいとか言ってみたらどうなるかな?)
「今何か、不埒なことを考えなかったか?」
「ええ?! い、いえ、な、ナニモカンガエテイマセンヨ?」
(くっ、さすが聖騎士。侮れないぞ。いや、聖騎士関係ないけど……)
「いや、欲しいものを考えて欲しいのだが。しかたがない、金銭で――」
「そうだ!」
クレアが金銭で補償しようとしたとき、急に声を上げたアルダがクレアに向かって、欲しいものを告げた。
「マジックポーチを下さい!」
クレアの使っていたマジックポーチは小容量とはいえ、中々稀少なアイテムだ。大体、魔紋が未登録のポーチが、そんなにごろごろ転がっているはずがない。
「ポーチか。しかしあれは、すでに私の魔紋が登録されていて――」
「あ、いえ、違うんです。僕が欲しいのは、クレア様にマジックポーチを頂いたという事実なのです」
「――どういう意味だ?」
アルダはカード内のアイテムをどうにかして人前で使えるようにしたかった。門の外から、毎回大袋を担いでギルドにいくのも目立ちすぎる。
クレアが使ったマジックポーチのようなアイテムがあれば、うまくホルダーをごまかせそうだが、何しろ稀少なアイテムなので、アルダごときでは100年間冒険しても手に入りそうになかった。
そこで、クレアに貰ったことにすれば、アルダがそれを持っていてもおかしくないだろうし、普通は魔紋登録してあるから、誰かに襲われて奪われることもないだろうと考えたのだ。
「理由はよくわからないが、マジックポーチだと偽って、普通のポーチを渡して欲しいと?」
「そうです」
クレアは腕を組んで考え込んだ。
レッドリーフ家が、民への詫びとしてマジックポーチを与えるのは、それが民の命に関わる問題であったとしても過大に過ぎると言われるだろう。
以降に同じような事柄が起こったとき、それと同等のものを与える必要にせまられるからだ。それに、もしもそれが偽物だと発覚したりすれば、当然家の信頼にも傷が付く。少しリスクが大きすぎた。
「ううむ……」
「やはり無理ですか」
目を閉じて眉間にしわを寄せて考えていたクレアが、カッと目を見開いた。
「アルダ殿」
「はい」
「私のエスクワイアにならないか?」
「……は?」
エスクワイアというのは、主人の騎士の身の回りの世話をする、いわゆる盾持ちだ。
騎士になるための修行として、それを何年か続けた後、叙任されて騎士になるのが通例で、見習い騎士と言ってもいいだろう。
「いや、騎士になれとか、世話をしろとか言うわけではない。ただ、主従関係をむすんでおくと、ポーチを与える言い訳が立つのだ」
エスクワイアは、ご主人様の鎧だの盾だのを持ち歩く関係上、そう言う道具を持っていてもおかしくはなかった。
平民のアルダからすれば、主人が持っていれば良いだけのようにも思えるが、鎧の種類によっては、一人で着脱できないものもあるし、そこは貴族の矜恃みたいなものがあるのだろう。
「私の部下として雇えるならなんでもいいのだが、今の立場では、自分のエスクワイアをひとり選ぶのがせいぜいなのだ」
「しかし、クレア様にはすでにエスクワイアがいらっしゃるのでは?」
「いや、いない」
レッドリーフ辺境伯家は、ソーナスのあるファーインレット領を治めている領主の家だ。暗黒の森に隣接する領地を治めているだけあって、武門よりの家と言えるだろう。
しかし、レッドリーフ家の騎士団が一騎当千だったのは昔の話。境界のおかげで、強力な魔物が暗黒の森に閉じ込められている現状、今では、門閥貴族の3男以下が集い合う、一種のサロンと化していた。
そんな中から、クレアが自分のエスクワイアを選ぶはずもなく、来年には成人を控えているというのに、その地位は宙に浮いたままだった。
「し、しかし、僕では」
どこの誰とも知れない平民を、1日一緒にいただけでエスクワイアに取り立てるなど、おかしいにも程がある。アルダにだってそのくらいの常識はあるのだ。
「気にすることはない。これは詫びの一環だ。私に付いてくる必要もないし、今まで通り、過ごしてくれればよい」
どうせエスクワイアを選ぶことはないしな、とクレアが淋しそうに呟いた。
アルダは、クレアのことが嫌いではなかった。一緒にいた時間は短かったが、信頼できるまっすぐな人だとも思えた。
貴族としては生きにくそうだし、領主など目指さずに、冒険者にでもなればいいのになんて、不敬なことも考えた。
「クレア様は領主になりたいのですか?」
いきなりそう聞かれてクレアは驚いた。
「いきなりだな。そんなことはアルダ殿には関係が……いや、エスクワイアになるのだとしたら、あるか」
そう言うと、クレアはアルダの目を見つめた。
「なりたいかと言われれば、私はどうしても領主になりたいわけではない。よく知られているように弟の母の実家の問題もあるしな」
「だが、それを決めるのは私ではない。私は、領主になればそれに全力を尽くすし、なれなくても、領民のために働けさえすれば良いのだ」
そうして、「皆の税で養って貰っているのだからな」と、お茶目に笑った。
それを聞いたアルダは、クレアが嫁に行くまで、エスクワイアをやるのも面白いかも知れないなと考えていた。
クレアはアルダを尊重してくれた。
ただそれだけで、仕えてもいいかなと、少しは思っていたのである。いろいろと揶揄され続けて来ただけに、アルダは結構ちょろかったのだ。
そうして、大して難しいことを考えもせず、その提案を受け入れた。
「わかりました。エスクワイアを拝命いたします」
「そ、そうか」
それを聞いたクレアは、心なしか、少し嬉しそうだった。
そこには、騎士らしいやりとりも、特別な儀式もなく、こうしてあっけなく、アルダは辺境伯家長女のエスクワイアになったのである。