ハティ討伐?!
「なんだ?!」
焚火を前に湯の状態をのんびりと見ていたクレアは、アルダが行った森の中から、異様な雰囲気が立ち上がるのを感じて、顔上げた。
それは、今までに感じたことがないほどの強大さで、まるで空気の塊を投げつけられたかのような圧力を感じたが、すぐに霧散して消えた。
クレアは、何かあるかもしれないと、愛用の剣を身に着け、なにかあったらいつでも飛び出せるようにと、岩の上で身構えた。
∽━…‥・‥…━∽
アルダが野営地に戻ってくると、クレアは剣を腰に下げ、仁王立ちで警戒していた。
なにかあったんだろうかと、アルダは訝しんだが、彼の従魔たちは何も異常を感じ取ってはいないようで、静かなものだった。
「クレアさん? どうしたんですか?」
「おお、アルダ殿。無事だったか」
「ええまあ。ってことは、何か魔物でも?」
「いや、先ほど、アルダ殿が向かった先から、非常に強力な魔物の気配を感じたような気が、な」
アルダはその気配に心当たりがあった。
(それって、もしかしなくても、メインたちなんじゃ……)
アルダは嫌な汗をかきながら、どうやってごまかそうかと必死になって考えていた。
この場でクレアvsクリムゾーナなんてことになったら、どうしていいかわからない。おそらくハティよりも凶悪な魔物が、この物語に登場する幕開けになることだろう。
「え、えーっと。僕には何も感じられませんでしたけど、今でもまだ、その気配が?」
おそるおそるそう尋ねると、クレアは頭を横に振った。
「いや、急に気配が膨れ上がったかと思ったら、すぐに消えてなくなった。今は静かなものだが……」
あれは災害級にも匹敵するような気配だったのだが、とクレアが独り言のように呟いて頭をひねっていた。
クリムゾーナたちの気配遮断は、従魔師のアルダですら全く感じ取れないレベルだ。以前なら自分の能力を信じていなかったアルダも、さすがにレベルが400を超えている現状では、そんなことはなかった。
もしかしたら、実体化するときに油断しているとそういった気配が漏れるのかもしれない。その後はそれぞれの魔物が気配を隠蔽するのだろうけれど、これは思わぬ盲点だ。
「ハティ騒動もありましたし、少し過敏になっていらっしゃるのかも知れませんね」
アルダは、何事もないような態度で岩の上に上がると、湧いているお湯を確認するようなふりをして言った。
「今は僕の従魔がまわりを警戒していますから、そんなに強い魔物が近づけばすぐにわかりますよ」
アルダはなるべく穏便にこの話を終わろうとしたが、それを聞いたクレアは、目を見開いてアルダを見た。
「なんと、従魔をそんな風に使われるとは。随分と優秀な従魔師だっただな!」
クレアはアルダのことを調べるまもなく依頼してすぐにここまできた。だからアルダのギルド内での評判など欠片も知らなかった。だから素直に驚いた。
従魔は主に戦闘に使われる、それが常識だ。
それなりの知性をもった従魔と、それなりの実力を持った従魔師でなければ、単純戦闘以外のことをさせるのはとても難易度が高いのだ。
それを簡単にこなしているように言うアルダを見て、非常に優秀な従魔師だとクレアが思い込んだとしても仕方のない事だった。
アルダはしまったと思ったが、ここで、スライム1匹が従魔の能無しなんですとは言い出せず、曖昧に笑ってごまかすしかなかった。
「じゃあ、食事にしましょう」
そう言った途端、クレアが難しい顔をした。
それを見たアルダは、何か粗相をしただろうかと不安になったが、彼女は思いがけないことを言い出した。
「あー……すまん。私は、率直に言って料理というものが苦手でな……」
それを聞いたアルダは、思わず耳を疑った。つまりは自分で作るつもりだったということだ。
つい最近、キリークを見たばかりだったアルダは、彼女のセリフがとても信じられなかったのだ。
そうして、少しほほを赤らめながらそう言ったクレアを見て、アルダはなんだか可愛い人だな、などと失礼極まりない感想を抱いていた。
もっとずっと年上だと思っていたけれど、こうしてみると、アルダとそれほど変わりはないようにも思えた。
「任せてください。僕は得意な方ですよ」
そう言ったアルダに、クレアは顔を上げて、尊敬のまなざしを向けていた。
∽━…‥・‥…━∽
「アルダ殿はすごいな」
クレアがたき火に小枝を投げ入れながらそう言った。
そんな風に、手放しで賞賛されたのは4歳の時以来だったアルダは、少し気恥ずかしかった。
「なにがです?」
たき火にかけたお湯で、食後のお茶を入れながら、アルダが尋ねた。
「優秀な従魔師でありながら、料理まで美味い。私など剣を振ることしか能がないからなぁ……」
剣を振ることしかなんて言っているが、一閃しただけでグレイウルフを両断していく剣は、「しか」などと呼んで良いレベルではなかった。
「僕なんかからすれば、剣の腕前が凄いほうが、うらやましいですけれど」
そういって、お茶のカップをクレアに渡す。
クレアは礼を言ってそれを受け取ると、静かに口を付けた。
「ん……茶も旨いな」
「それはどうも」
パチンという音を立てて、薪がはぜる。岩の舞台の下からは、小さく、伴侶を求めて鳴く、夏の虫の音が聞こえていた。
静かで心地よい時間がゆっくりと流れて――
(エドウェン:グレイウルフ 2 殲滅)
(メイン:オーク 4 殲滅)
――いるように見えるだけで、日が暮れてからはひっきりなしに討伐報告が届いていた。
さすがは端とはいえ、暗黒の森に連なる遺跡山。夜ともなると、なんとも凄い数の魔物たちが徘徊しているようだった。
(野営地には近づけないでね。あと、気配を殺して、静かに始末して)
(((((((了解))))))))
「――――」
「え?」
クレアが何か言ったが、念話が忙しくて聞き逃してしまったようだ。
「いや、暗黒の森の側とはいえ、遺跡山のあたりは静かなものなのだな、とな」
アルダは少し引きつったような笑顔を作りながら、あははと笑った。
「これなら、まだ生きているかも――」
クレアのつぶやきを耳にしたアルダは、なんとなく気になっていたことを尋ねた。
「クレアさんは、どうしてこんなに急いでるんです?」
それを聞いたクレアはアルダを見つめた後、ついと、たき火の方に目をそらして事情を話し始めた。
「これは我が家の恥になることなのだが――」
クレアには、同じ年の弟がいた。
その弟が、先日、魔物の噂を聞いて遺跡山の調査に出向いたが、そこで強力な魔物と出会って、案内人を置いて逃げ出したそうだ。
案内人は死んだと報告されたが、弟を問い詰めると、死んだところは見ていないということだった。
貴族が護るべき民を置いて逃げるなど許されることではないと、その話を聞いてすぐにクレアは馬を駆り、供も連れずにソーナスへと駆けつけたらしかった。
「うちの弟も、嫡子になるべく、母にたきつけられたのだろうが……」
嫡子と言う言葉を聞いたアルダは、何処かで聞いたような話に、内心冷や汗をかいていた。
もしもその想像が正しいとしたら、クレアはアルダを助けに領都から駆けつけてきたことになる。
「えーっと……その案内人の名前は、ご存じなのですか?」
「いや、弟もはっきりとは覚えていなかった。なんでもスライムを連れたポーターだったらしいが……そういえば、アルダ殿と同じだな」
(おうふ……)
アルダ殿がそれだけ優秀なのだから、もしかしたらその従魔師もうまく隠れて生き延びているかも、などとクレアが話していたが、すでにアルダの耳には入ってこなかった。
「あー、クレアさんって、もしかして……」
「なんだ?」
「レッドリーフ家のお嬢様、ですか?」
「なんだ、知っていたのか」
「いえ、今気がつきました」
人違いへの最後の希望は、淡く儚く夢となって消えた。アルダはなんと言って切り出したものかと、心の中で頭を抱えていた。
「もし仮に亡くなっていたとしても、形見くらいは残されていよう、残された者達がいるなら援助も必要だ。遺跡の何処かに隠れて魔物をやり過ごしているとしたら、手遅れにならないうちに助けに行ってやらなければ」
真剣な目をしてそういうクレアを見ながら、アルダは、バカみたいに正しい人だなぁと思った。
貴族と言うのは、もっと領民を数で捉える人たちだと思っていた。だから、そんなことを考える貴族なんて想像したこともなかったのだ。もっともアルダは貴族自体をほとんど知らなかったのだが。
「あの……クレアさ、様?」
流石に領主の娘だと確定した後、『さん』ではまずい。アルダにもそれくらいの常識はあったのだ。
「ん?」
「実は、その……こ、告白しなければならないことが……」
アルダは居住まいを正して、何かを伺うように上目遣いでクレアに話しかけた。
「こ、告白?!」
「え、ええ、大変申し上げにくいのですが……」
その様子を見てクレアは、非常に焦った。
そういうシーンを夢見たことがないと言えばうそになるが、優秀過ぎて、男性にまともに告白されたことがなかったからだ。
「ま、まさか私に好意を?! いや、確かにその気持ちは嬉しい! 嬉しいのだが――」
「ええ?! いえいえ、あのその、違いますから!」
「ちがっ?!……そうか、やはり私に好意を抱くような男はいなかったか……」
女だてらに剣を振り回したりしているから、未だに婚約者が……なんてぶつぶつ言う声がとぎれとぎれに聞こえてくる。
反動で、ずーんと落ち込むクレアに、ポコが近づいて、ぽんぽんと足を叩いた。
「ん? 慰めてくれるのか?」
貴族の令嬢だというのに、従魔に対しても、さほど思うところもなさそうなクレアは、そっとポコ抱き上げると、膝の上に置いた。
アルダはそれを見て内心驚いていた。ポコがアルダから離れて、他の人の膝の上でじっとしているなどということは、非常に珍しいかったからだ。
「あまりはっきりとは見ていなかったが、とても綺麗な色をしたスライムだな。それに凄く賢そうだ。なんという種類なのだ?」
「小さい頃から一緒にいて友達みたいな存在でしたから、ちゃんと調べたことは無いんです。その頃は半透明の水色だったんですけど」
クレアが楽しそうにポコをつついている。どうやら、ポコに気を散らされて、立ち直ったようだ。
妙な展開で話がそれてしまったが、この話をうやむやにするわけには行かなかった。なにしろ探されている本人は、ここにいるのだ。
「それで、あのー」
「ん?」
「ここまで来ると、ホント、言いにくいんですけど……それ、たぶん僕です」
「ん? なにが?」
「いや、だから、キリーク様に置き去りにされたのは、僕なんです」
膝の上からポコがこぼれる。クレアは大きく目を見開いて立ち上がった。
そうして、アルダに近づくと、いきなり彼を抱きしめて言った。
「そうか! そうか! 生きていてくれたのか!」
アルダは突然のことに、何の反応もできず、棒立ちで「ええ????!!!!」と叫んでいた。もちろん、心の中で。
ハーフトップのブレストプレートを付けたままなので、体の柔らかさを感じることはできなかったが、アルダの顔の位置にクレアの首筋があって、なにか良い匂い――嗅いでいたら何かがダメになりそうな、そんな香りが漂ってきた。
頭から湯気を出しそうな様子で、アルダは硬直していたが、そのとき問題の報告が届いた。
(メイン:ハティ 発見)
(エドウェン:グレイウルフ 多数)
「クレア様!」
はっと涙で潤んだ顔を上げたクレアと、ほとんどキスをするかのような距離で向き合ったアルダは、もう一度顔から火を噴きながら、身を引いた。
「あっちに何かが――」
アルダがそう言った瞬間、少し距離のあるところから、巨大な狼の遠吠えのような声が響いた。
「あれは?!」
その瞬間に騎士の顔に戻ったクレアが、アルダに尋ねた。
「例のハティのようです。そのまわりにはグレイウルフが多数います!」
遠吠えが上がった方を緊張した面持ちでじっと見つめるクレアをおいて、アルダはテントを素早く片付けた。ハティはどうやら、クリムゾーナのチームと相対しているようで、すぐにこちらまでやってくることはないだろう。
「クレア様。幸い僕は生きていましたから、これ以上ここにとどまる必要はありません。撤収しましょう」
少しおどけた感じでアルダが言うと、クレアは微かに笑って言った。
「そうだな。多数のグレイウルフとそれを従えたハティをふたりだけで討つのは現実的とはいえないだろう。それではまるで、神話の一節のようだ」
アルダは、そのまま倒しに行くぞと言われたらどうしようかと思っていたが、キリークと違って、クレアは現実をきちんと認識しているようで助かった。
「しかし、夜の森を撤収するのも難しいぞ。狼の魔物は移動速度が速い」
「大丈夫、任せて下さい。うまく避けてご案内します」
アルダが自信満々にそう言い切るのは、もちろんナイルやカンフィたちのチームが先導してくれるからなのだが、クレアは随分と頼りになる男だと感心した。
∽━…‥・‥…━∽
撤退中にも、時折聞こえる雷鳴や、夜のしじまを切り裂く唸りが、森を騒がしくさせていたが、不思議なことに彼らの前には、一匹のゴブリンも現れたりはしなかった。
クレアはそれを、アルダの斥候能力のたまものだと考え、さらに感心していた。
そうして、アルダたちが移動を開始してしばらくたった頃、一際大きな吠え声が夜空に響き、森を震わせた。
クレアは立ち止まって、声がした方向を振り返った。その直後、遠くで、雷鳴がいくつも轟き、何本もの雷が地に突き刺さった。
「うぉっ!」
クレアが左腕で、光を遮った、その瞬間、まるで一瞬だけ昼間のような明るさになるほどの、巨大な閃光が、爆発するような音と共に、夜の闇を切り裂いた。
「……いまのは」
森が再び闇に包まれ、二人の目がそれに慣れ始めた頃、クレアがそう呟いて音のした方を見た。だが、そこには夜が満ちているだけで、闇のほかにはなにもなかった。
そうして再び、夜の森に静けさが戻って来た。
(エドウェン:グレイウルフ 殲滅)
(メイン:ハティ 殲滅)
「げっ」
それを聞いたアルダは、思わず小さな声を上げた。
なにしろ明けて4日後には、ハティの討伐が行われるのだ。いったいどうするんだよ、と、アルダは再び頭を抱えていた。