【後編】
ポコン♪ と通知の音が鳴る。
『昨日はありがとうございました!』
『久我山さんが、よろしくお伝えください、と言ってました』
『今度はフツーに2人で遊びに行きましょう!』
紫輝の笑顔が目に浮かぶ。
心臓が押しつぶされそうになって、通知が表示されたままのスマホをスリープさせた。
もう、紫輝からの連絡に返事をするつもりはない。けれど、どうしても通知音を切ることができない。
あの音が鳴るたび、スマホの画面を確認する。受信したメッセを通知窓から読んで、そのまま画面が消えるのを待つ。その繰り返し。
最初の一週間は最低でも一日に一回、通知音が鳴った。
自分の近況報告や鹿乃江の体調を気遣う言葉、たまに雑談。
既読は付いていないはずなのに、紫輝はこれまでと変わらずメッセを送ってくれる。
しかし、誘いの言葉は送られてこない。
寂しくて、悲しくて、でも、どこかで安心している。
(逃げたくせに……)
自分の身勝手さに嫌気がさす。
二週間目にはそれが二日に一回、三週間目にはほとんど途切れがちになっていた。
なにも告げずに逃げ出したことを、紫輝は怒っているだろうか。悲しんでいるだろうか。
それとも、自分と同じように、自然と気持ちが消えるのを待っているのだろうか……。
(このまま、愛想付かしてくれたらそれでいいよね)
自問自答してみるが、答えは出ない。出すことができない。
きっと紫輝は気にしている。途絶え気味のメッセも、嫌気がさしたわけではなく紫輝なりの気遣いであろうことに、鹿乃江は気付いている。
待つほうと待たせるほう、どちらも辛くてもどかしい。いままで幾度となく虚無感を味わって来たから知っている。けれど、今更返信なんてできない。なんて返せばいいかわからない。
自分が辛いのは自分のせい。
きっともう、色々と遅い。
* * *
収録前、久我山が楽屋で待ち時間をつぶしているとドアがノックされた。
「はーい。開いてますよー」
久我山の返答に、ゆっくりとドアが開く。
「くがやまさん…おはようございます……」
ドアの隙間から顔を覗かせた紫輝は、いまにも泣き出しそうだ。
「おぉ、なんや、どーした」
「きょうよる、あいてますか」
「空いてるけど……なんやお前、魂抜けてるやんか。時間あんなら入ったら?」
読んでいた新聞を畳み手招きをして室内に呼び込むと、靴を脱ぎ、半ばなだれ込むようにして紫輝が机に突っ伏した。
「なんやの。なにがあったの」
いつもはうっとうしそうに茶化す久我山だが、紫輝のあまりの落ち込みようにそれすらできない。
「つぐみのさんの…めっせの…きどくがつかなくて……」
突っ伏しながら絞るような声でしゃべる。
「なんや…」そんなこと、と言いそうになって、やめる。“そんなこと”と思えていないから、紫輝にしては珍しく人前で弱音を吐いているのだ。
「どのくらいつかんの」
「ここ三週間……ずっとです……」
「三人でメシ行ったあとから?」
腕に顔をうずめたままで紫輝が頷く。
(おせっかい焼きすぎたかな……いや、でも、まんざらでもなかったはずやし……)
連絡先を交換しておけばよかった、と久我山は今更ながら後悔する。まさか鹿乃江がこちらの選択をするとは思っていなかったのだ。
「あれから二人でどっか行ったん?」
「行きましょうって誘ったメッセが、もう…読んでもらえてない……」
「あらら……」
(鶫野さん、案外重症やったかー……)
久我山には、その人の持つ性質を見抜く力がある。鹿乃江は、人を気遣いすぎて自分の意志や気持ちは二の次になるタイプ。
しかし恋愛感情には畏怖を抱き、相手が自分のことをどう想っていようとそれに気付かないように目を背け、自分が傷つかないように身を潜めてしまう。たとえ、それが結果的に人を傷つけることになったとしても。
きっと、紫輝にあまり深入りしないよう自分から身を引いてしまうだろうと思っていた。だから、そんな心配はしなくていいと後押しをした。つもりだった。
「余計なおせっかいやったかなぁ……」後頭部を掻きながら久我山が呟く。
「せんぱいは、なにも…。…むしろ…二人きりじゃ聞けなかったこと、聞けたんで……」
「んんー……」久我山も一緒に頭を抱える。「どんなメッセ送ったん? またグイグイ行ったん?」
「そんな…そこまで……いや…もぅ、わかんないっす……」
「お前これから収録やろ。大丈夫か」
「だいじょうぶじゃないですけど、だいじょうぶになるしかないんで……」
いまにも消えてなくなりそうな紫輝の声に、コンコンとノック音が被る。
「はーい」
久我山が返事をすると
「おはようございまーす。FourQuartersの後藤でーす」
ドアの外から挨拶が聞こえてくる。
「入れてもいい?」
立ち上がりながら問う久我山に、紫輝がそのままの体勢で頷いた。
「はいはい、どぉぞ。おはよう」
「おはようございます。うちのリーダー来てたりします?」と室内を覗き「あ、いたいた。失礼しまーす」靴を脱いで座敷に上がる。「なにしてんの、もうすぐ収録始まるってよ?」
「うん」
ゆっくりと起き上がる紫輝。
「うわ、朝よりさらに顔ひどいよ」
「うん」
「え、なに。マジでどーしたの。クガさんなんかしたんすか?」
「別になにも。話聞いてただけ」
「ちょっとそのままじゃヤバいから、メイク直してもらって楽屋もどろ?」
「うん」
「えー、もう。しっかりしてよ」紫輝の腕を掴みち上がらせる後藤に
「今日そっち終わり何時予定?」久我山が問いかけた。
「えーっと、確か21時くらいでしたね」
「あぁ、ちょうどいいかも。紫輝。終わったら連絡するから。もしそっち先に終わったらここで待ってて。メシ行こう」
「えー、いいなー。俺も行きたぁい」
「俺はええけど」
「でも俺、今日このあと予定あんすよ」
「なんやねん。じゃあ言うなよ」
「今度行きたい。誘ってください」
「わかった、時間合うとき行こ。紫輝のこと、頼むわ」
「はーい」ほら行くよ、と手を引かれ、紫輝は後藤と一緒に久我山の楽屋をあとにした。
「鶫野さん、そっちちゃうよ~……」
ドアを閉めて独り呟く。さすがに紫輝が気の毒になってきた。
収録後、久我山は移動車に紫輝を乗せ、行きつけのバーへ連れていく。
仕事中はさすがに復活していたようで、その名残か昼間に楽屋を訪ねて来た時よりは気力を取り戻していた。
「昼間はスミマセン」
「いや、ええよ。気持ちはわからんでないし」
「鶫野さんとのこと知ってるの、久我山さんしかいなくて……だから、つい……」
「ええて。乗り掛かった舟やし、俺でいいなら相談くらいのるよ」
「ありがとうございます……」
「にしてもなぁ……。連絡つかんことにはなぁ……」
「はい……」
「電話もつながらんの?」
「電話は…してないです……時間、あわないかなって……」
「そうか……」
職業柄、時間が不規則になってしまうのは久我山も重々承知している。言いはしないが、電話までスルーされたらきっと心が折れてしまうと思っているのだろう。
最初に“一目ぼれした”と聞いたときは、きっと一時の気の迷いだろうとあしらっていたが、それから度々相談に乗ったり実際に二人で会っているところを見て考えが変わった。できる限りのサポートをしたいと思っているから、不用意なことは言えない。
久我山はしばらく考えてから、静かに口を開いた。
「行ったら?」
「どこへですか?」
「店」
「だって、誘っても返事くれないですもん……」
「そっちちゃうくて」
久我山の否定に、紫輝が首をかしげる。
「店。職場。鶫野さんの」
その提案に、紫輝がギョッとした。
「いや、でもそれじゃストーカー」
「既読もつかんのにメッセ送り続けるのもあんま変わらん」
「いやっ…」
否定しようとするが、言葉が続かない。
「このままメッセ送ってるだけじゃラチあかんよ。たぶん、読むつもりない」
その言いように紫輝が傷ついた顔を見せたので、
「正確には、既読を付けるつもりはない、かな」
久我山はフォローを入れた。
「え……」
「たぶんやけどな。既読つけんと読む方法もあるんやし。それこそ、通知切ってなければアプリ開かんでも読めるやろ」
「そう…ですけど……」
「お前のことブロックできるような感じでもなかったしなぁ」
「一回会っただけじゃないですか」
「じゃあ何回も会ったことある前原くんは鶫野さんのこと、嫌になった人がおったら即ブロックで切る人やと思ってるんですか?」
「いや……思ってない、ですけど……」思っていないからこそ、メッセを送り続けていた。「でも、迷惑なんじゃないかって思い始めてきて……」
「それは向こうも思ってるじゃない? 紫輝に迷惑かけるかもって」
「それはちゃんと言いましたよ。迷惑だと思ってたら誘ったりしないって」
「誘わなくなったら迷惑やって?」
「そうじゃないっす」
紫輝は少し語気を荒げて反論する。
「お前の気持ちのことを言ってるんちゃうよ。相手がどう感じてるかってこと」
冷静な久我山の口調に、紫輝がなにかを考え込んで黙った。
「そら、俺は一回しか会ったことないけど、無意識にめっちゃ人に気遣いするとか、こっちから聞かな自分のこと話さんとか、なんて言うんやろ。うまい表現かわからんけど、多分、無自覚にすごく優しい人なんでしょ?」
自分と同じ人物像を持つ久我山に紫輝はなにも言い返せず、ただ静かに頷いた。
「紫輝がこうやって悩んでるっていうのも、わかってる思うけど」
「それは…はい…。オレも、そう思います」
だから困らせたくなくて、メッセの頻度を下げた。いっそ送信するのをやめようかと思ったが、繋がりが完全に消えてしまいそうで、連絡が途切れたことで諦めたと思われたくなくて、それすらできずにいた。
「お前があんだけガツガツ行っても、心のドア開けんくらいガード固いんやから、ちょっとやそっとじゃラチあかんよ」
「でも…迷惑がられて嫌われたら……」
「まぁ、ドアどころかシャッター閉まるかもしれんなぁ」
「そんなのイヤっす」
「でも叩かな開くもんも開かんやろ。……叩いたらもっとかたくなに閉じられるかもしれんけど」
「なんなんですか、励ましてるんですか落ち込ませたいんですかどっちなんですか」
「それはもちろんー……」と久我山が口ごもる。
「ちょっと久我山さん」
「じょーだんや、冗談。でもほんまに、こじ開けるくらいの気持ちで行かんと、前には進めへん思うよ」
「……嫌われちゃいませんかね」
「なんもできんままフェードアウトされるより良くない?」
「う……」
確かにいまのままでは、中途半端な気持ちを抱えたままズルズルと引きずるに違いない。身に覚えがありすぎて、二の句が出ない。
「どうせこないだのメシのあと、職場の場所調べてんにゃろ?」
「えっ。エスパーっすか?」
「もういい加減付き合い長いから行動パターンくらいわかるよ。前んときやって……」
「いやいや、その話はやめましょ! もう終わった話ですし!」
そんな風に前の恋の話ができる紫輝に久我山が少し驚いて、そして微笑んだ。
「紫輝が前に進めてるんやったら、無理やり引っ張ってでも鶫野さんと一緒に進んだらいいよ」
「……はい」
バツが悪そうに笑って、紫輝が首筋をさすった。
* * *
繁華街に建つビル内で今日も慌ただしく業務をこなし、終業の時間を迎えた。
ふぅっと息を吐いて、エレベーターを待つ。
(……元気かな……)
ふとした瞬間に思うのは、紫輝のこと。
突き放したのは自分なのに、連絡が途絶えたら寂しいだなんて都合が良すぎる。
それでもどこかで期待しているのか、他人のスマホから聞こえる同タイプの通知音にさえ敏感になっている。
素直に気持ちを通わせていたら、こんなことにはならなかっただろうか、なんて思ったりもする。
(不毛だ……)
ため息をつきながら乗り込んだエレベーターは7階から1階へ。開いた扉のすぐ横にある従業者通用口からビルの外へ出る。裏路地だから人影はまばらだ。
鉄扉が閉まるのを確認して駅に向かう鹿乃江の背後に、人影が近付いた。
「鶫野さん」
聞きなれた耳馴染みの良い声に、反射的に心臓が跳ねる。反応するか否か、可否が一瞬で戦って。でもどうしても無視することができなかった。
ゆっくり振り返るとそこに、会いたくて仕方がなかったその人が立っていた。
こみ上げる複雑な感情が涙になって零れ落ちそうで、思わず眉根を寄せる。
「鶫野さん」
緊張を含んだ声で、紫輝がもう一度呼びかけた。
「少し、時間を、ください」
疑問形ではないその言葉に、深めにかぶったキャップから覗き見える視線に、強い意志が込められている。
答えることはせず、しかしその場を離れない鹿乃江の葛藤が見えて、紫輝は意を決して一歩踏み出した。腕を掴むと反射的に手を引かれるが、紫輝はその手を離さない。
「ごめんなさい。本当に少しでいいんです」
少し傷ついたように弱々しい笑顔を見せ、紫輝が言った。
鹿乃江は腕に篭めた力を緩めて、ぎこちなく頷く。
「ありがとうございます」
紫輝は少し安心した顔を見せると、掴んだままの手を引き近くに停めてあった乗用車へ誘導した。
「家の近くまで送らせてください」
名残惜しそうに手を放して、
「ダメっすか?」
苦笑で問う紫輝に、鹿乃江はうつむいて首を振る。
紫輝は小さく安堵の息を吐いて、ドアを開けた。鹿乃江が助手席に座るのを確認してドアを閉めると、自分は運転席へ回って乗車する。シートベルトを締めながら
「最寄りの駅名教えてもらっていいですか」鹿乃江に問う。
「……はい」
紫輝は鹿乃江に聞いた駅名をカーナビに入力して
「出しますね」
鹿乃江もシートベルトを締めたのを目視して、ゆっくり発進させた。
大通りに出たところで、
「すみません。仕事先にまで押しかけて」
紫輝が口を開く。
「いえ…。私こそ……」
緊張でかすれる声。リュックを抱え、膝の上に組んだ手を強く握る。そうしないと、緊張のあまり全身が震えだしそうだった。
「ずっと、返信しなくて…すみません……」
「届いてはいたんですね」
ホッとしたように紫輝が言った。
「ブロックされてたらどうしようって思ってました」
「そんなこと……」
できるわけない、とは言えない。
「オレ、バカなんで。気付かないうちになんかしちゃったのかなーって」
紫輝の自嘲気味な言葉に、鹿乃江が申し訳なさそうにかぶりを振る。
「前原さんはなにも悪くないです。私が……」
(何も言わず、身を引いただけ……)
「私が、勝手に……決めたこと、なので……」
絞り出すような固い声。車内に沈黙が立ち込める。
胸が苦しくて張り裂けそうというのは、こういうときのことを言うのだろうか。
(どうして……)
どうしてこの人は、こんなにも自分の感情を揺さぶるのだろう。
偶然道端でぶつかりそうになって、落し物の受け渡しをした。ただそれだけの関係のはずだった。なのに。
『目的地まで、あと、5分です』
カーナビが、十数分間のドライブの終了時間を告げる。
目的地周辺でゆっくりと停車させて
「この辺りで大丈夫ですか?」
紫輝が鹿乃江に確認する。
「はい。ありがとうございました」
シートベルトを外して車を降りようとする鹿乃江に
「ひとつだけ教えてください」
足元に視線を落として紫輝が言う。
「オレのこと、どう思ってますか」
答えはひとつだ。でも、それを口に出すことはできない。口を開いても言葉が出てこない。
代わりに出てくるのは、涙だ。
返ってこない答えを求めようと鹿乃江の顔を見た紫輝が、驚いて固まった。
誤解されたくなくて謝ることもできずに、鹿乃江はおじぎをして車から降りると、足早にその場を立ち去った。
鹿乃江の背中が見えなくなってから、紫輝はハンドルに両手を置き、うつぶせになった。
(なんで……)
嫌だから泣いていたわけではきっとない。
(困ってた……いや…迷ってた……?)
涙の意味がわからず、紫輝は悩む。
(泣かせた……)
そのことが、紫輝の心を重くする。
(もう、会えないのかな…。嫌だな…)
にじみ出る涙を、指先で拭った。それでも抑えられずに水滴は指先を伝う。隠すように目元を掌で覆うが、嗚咽を止めることはできない。
自分と鹿乃江の涙の意味が一緒ならいいと思いながら、紫輝はしばらく、そのまま泣き続けた。
* * *
カチャリと音がして、事務所ビルの一角にある練習場のドアが開く。
「おっ、紫輝くん来た。おは…え」挨拶途中で後藤が言葉を止める。
「わぁ。どーしたのそのカオ。泣いたの」左々木が驚き半分、飽きれ半分で言った。
「…うん」
「今日、カメラ入ってない日で良かったね」右嶋が言う。
「…うん」
ワンテンポ遅れながら、言葉数少なく答える紫輝。
「冷やすー?」
クーラーボックスから冷えたペットボトルを取り出しながら右嶋が問うと、
「…うん」
頷いて受け取り、紫輝が床に横たわる。一緒に渡されたタオルでペットボトルをくるみ、目元に当てた。
ノックもなくドアが開いて「ごめん、レジ混んでた」コンビニのレジ袋を片手に、現場マネージャーの所沢が入室する。床に横たわった人物に気付き「あれ、なに? 紫輝?」ほかのメンバーに問う。
「うん。なんか泣きはらした顔で来た」
「えっ」後藤の答えに所沢が驚いて「今日の仕事これだけだし別にいいけど…」袋から物を出し机に並べながら「大丈夫?」紫輝に問う。
「明日には戻ると思うんで」鼻声で紫輝が返答した。
明日から本格的なライブリハが始まる。ツアーに向けてのリハーサルには大勢のスタッフが参加し、ドキュメント映像用のカメラが入る。
本格的に忙しくなる前の今日、どうしても会っておきたくて強硬手段に出たものの、肝心な答えも聞けず、しかも泣かせてしまうことになった。
紫輝は鹿乃江の泣き顔を思い出して、人知れずため息をついた――つもりだった。
「悩みなら聞くぜ、マイハニー」
すぐそばで右嶋の声がする。
「うお」
タオルを外したすぐ目の前に、紫輝と同じように横たわった右嶋の顔がある。
「なんでお前まで寝てんの」と左々木。
「きゅーけー」
「つかハニーってなに」今度は後藤。
「じゃあダーリン」
「そーゆーこと言ってんじゃないと思うよ?」
左々木が苦笑しながらツッコミを入れた。
メンバーの会話に、紫輝は口元だけで笑う。
所沢はテーブルの上を整理しながら、ニコニコとその光景を眺めている。
「んで? マジでなにがあったの」
左々木が椅子に座りながら聞いてくる。
「んー……」
どう答えていいか悩む紫輝が、再びタオルをペットボトルごと目元に当てた。
「あの写真のカノジョとなんかあったんじゃないのぉ~?」
冗談めかした右嶋の言葉に、紫輝がピクリと反応する。
図星を指してしまったことに気付いた右嶋が気まずそうに起き上がると、ほかの四人と目を合わせて苦笑した。
後藤は紫輝の様子を伺いつつ、言葉を探して首筋をさする。
「――なんか……」紫輝がためらいがちに口を開いた。「オンナノコって、難しい……」
メンバー三人が顔を見合わせて、一斉に所沢へ視線を移す。
(えっ? 俺?)
口パクで言う所沢に、三人がうんうん頷き、ジェスチャーで行け行けと促した。
(えぇー!)
絵にかいたような苦笑いを浮かべて、所沢が紫輝に近付いた。
「あー…紫輝」すぐ近くでしゃがんで言葉をかける。「本気で好きなら応援するから…ちゃんと言葉で意思確認しときなさい。納得できないまま諦めると、後引くから」
「…うす…」
三人はおぉーと小さく感嘆し、音のない拍手を所沢に贈った。
* * *
鹿乃江との連絡は途絶えたまま、時間が過ぎていく。
(そういえば、写真の一枚もないんだよね……)
正確には“週刊誌に載った写真”があるが、鹿乃江の顔は映っていない。紫輝の手元にある“記録”は、メッセの履歴だけ。
(このまま忘れちゃったらどうしよう)
声や表情、仕草と癖。行動と言動に伴う考え方。手に触れた肌の感触。そのすべてを、忘れたくない。
そんな考えから紫輝は毎日、鹿乃江との時間を思い出す。美しい思い出にしてしまわないように、事実だけを繰り返し、繰り返し――。
思い返していく内にたどり着く鹿乃江の泣き顔が胸を締め付ける。この先それを笑顔で更新して、いつか全てを覚えていられないくらい、二人で日々を重ねていけたらいいと思っている。
だからこそ、このまま終わりたくはない。
なんとかして時間を作りたいが、リハーサルでクタクタに疲れて帰宅する日々は続く。合間に通常の仕事もあるから、移動時間はほぼ睡眠に充てられるほどだ。
同じことを繰り返して習得し、帰宅してシャワーを浴び眠りに就く。夢の中で会えないかと期待するが、鹿乃江はなかなか現れてくれない。
(会いたいな……)
メッセアプリを起動させて個別ルームに入ると、既読のつかない送信履歴がズラリと表示されて、少し気分が沈む。これももう、いつの間にか“いつものこと”になってしまった。
最後に会ったとき、鹿乃江は“メッセを読んでいないこと”ではなく“返信していないこと”に対して詫びた。
だとしたら、既読をつけない方法で読んでくれていたことになる。返信が来なくなってから最後に会うまでの間、きっとそれは続いていたのだろう。
あれから、まだメッセは届いているのだろうか。
電話機能を使えば、ブロックされているかどうかわかると聞いたことがある。
けれど、それを確認してしまったら。
アカウントと一緒に、心が閉ざされてしまっていたら――そう思うと、通話ボタンを押す決心がつかない。
(ツアーが終わったら……)
忙しさを理由に連絡を先延ばしにする。
(今日は、もう、眠ろう……)
なにも打てずにスマホをスリープさせて、枕元に置く。まぶたを閉じるとすぐに眠気が襲ってくる。
(かのえさん…げんきかな……)
いつか一緒に行った夜景の見えるレストランでの時間を思い返す。
隣に並んで窓の外を眺めていた。肩と肩が触れ合う距離で、オフィスビル群の窓明かりを見つめる。
このまま時が止まればいいと、本気で思った。
目の前の美しい夜景。隣にたたずむ愛しい人。その目線の先には、同じ景色が見えていた。
この先も一緒に未来を見続けたい。そう思えた。
その記憶は、そのまま夢と混ざりあう。
「鹿乃江さん」
呼びかけると、鹿乃江が微笑みをたたえて紫輝を見やる。
「あの…オレ……」
鹿乃江は不思議そうに首を傾げ、紫輝の次の言葉を待っている。
心臓が破裂しそうなくらいに脈打っているのがわかる。
「オレ…鹿乃江さんのこと…好き、です」
鹿乃江は驚いたように紫輝を見つめて頬を赤らめ、それから、照れくさそうにうつむいた。
「鹿乃江さんは、オレのこと、どう、思って、ますか……?」
潤んだ瞳を紫輝に向けて、鹿乃江がシャツの裾を指先でつまんだ。紫輝がその手を取ると、指先に力がこもる。
「鹿乃江、さん……」
徐々に近付く顔の距離。鹿乃江がまぶたを伏せ、ゆっくり閉じる。もう少しで唇が触れそうになって、そこで、目が覚めた。
現実の目の前には、縦に丸められた掛け布団。
(マンガかよ……)
ご丁寧に足まで巻きつけて抱きしめている。
枕元で充電しているスマホを見る。時刻はまだ明け方だ。もう少し眠る時間が取れるからと、まぶたを閉じる。
続きが見れたらいいと願うが、夢を見ることもなく、起床時間を迎えた。
身支度と旅支度を整えて、所沢の迎えを待つ。
今日から北海道入りだ。
ライブ開催の数日前から滞在し、地元のテレビ局やラジオ局へ赴き出演をして回る。メンバーと一緒に観光地を巡るロケ企画も一緒に撮影する。
(鹿乃江さん好きそう……)
隣に鹿乃江がいたらどんな反応をするだろうか。そんなことを考えながら、綺麗な景色や変わった建物の外装、内装の写真を撮る。
なにか普段とは違うことがあるたび、鹿乃江へ送るメッセの文章を考えてしまう。もうきっと癖のようになってしまったその一連を、自分の中から消すつもりはない。
けれど、最後に会ったときのことを思い出してスマホを操作する手が止まる。その繰り返し。
鹿乃江に連絡できないまま、一か月半ほどの準備期間を経て初めてのドームライブツアーの初日を迎えた。
これまでの公演の四倍近いキャパシティが収容される会場は満席だ。
開演5分前。波打つようにざわめいていた客席の声が静まり、始まりを急かすようにコールを打つ。
メンバーやバックダンサーの後輩達、演奏部隊と円陣を組み、
「行くぞー!」「おー!」
気合を入れて、ステージ中央の扉裏に移動した。
開演時間になり、会場内の照明が消えると同時に沸き起こる大歓声の中、場内の大型モニタにオープニング映像が流れ始める。
期待と不安が一気に押し寄せ身の毛がよだつ。会場の規模に関わらず訪れるその感覚も、これまでより大きく感じる。
イヤモニを装着して深呼吸する。
映像の終了と共に目の前の扉が開いていく。
スモークの中に射す強い光と微かな冷気。
壁に阻まれていた声がドゥッと押し寄せ直接身体に当たる。
高揚していく気分に引きずられないよう、ゆっくりと歩を進め、ステージの中央に立つ。
イヤモニから聞こえてくるカウントを頼りに小さく息を吸い、唇からメロディを奏で始めた――。
* * *
2時間半後――初日公演は大盛況のうちに幕を閉じた。
会場からホテルまでは所沢の運転する車で移動する。
ライブ後の高揚感はホテルに戻っても消えない。このテンションのままでスマホを持つと、うっかり送らなくていいメッセを鹿乃江に送ってしまいそうだ。少しでも気持ちを落ち着かせるために風呂へ入ることにする。
ライブ会場でシャワーを浴びたが、お湯に浸かってリラックスしたい気分だ。
蛇口をバスタブに向けカランをひねる。温度を確認して、ある程度溜まるまで部屋で待つことにする。湯量が音でわかるようにドアを開けたまま部屋へ戻って、ソファに深く座り足を投げ出した。
大量の湯が流れ出てバスタブの底に当たる音が聞こえてくる。湯量が増えるとそれは、小さな滝のような音を出し始めた。
心地よい疲労感に瞼を閉じる。
――いつ、どこで、間違えたのだろう。
あれから、ふと時間が空いたとき、思考が止まるとき、そんなことを考える。
もう間違わないように、傷つけないように、慎重に……していたつもりだった。
それは本当にただの、つもりだったのだろう。そうでなければ、いまこうして思い悩むことはなかったのではないか。
鹿乃江と三人で食事に行った帰り、久我山に誘われて行きつけのバーへ二人で行ったときのことを思い出した。
客室から隔離されたカウンター席で二人並び、酒をたしなむ。
「ええ人やな」
久我山は鹿乃江のことをそう表現した。
「そうなんすよ、すごく優しいんです」
「ええ人すぎて心配にならん?」
「んー、まぁ。優しくされたやつが勘違いしそうですよね」
「え? お前のこと?」
「違う……とも言い切れないですけど……」
弱気な紫輝に笑って、
「真に受けんなよ」
肩を叩いた。
「お前は置いといて、秘かにライバル多そうよなぁ。みんな遠巻きに眺めてるだけやろうけど」
「……やっぱり、そう思います……?」
「薄めやけど壁あるし、無意識に色々かわしてる感はある」
「……恋人作る気ないのかな……」
「もしかしてもうおるんちゃう」
「えっ!」
久我山の言葉に紫輝が驚き声を上げた。
「じょーだんや、じょーだん。必死かお前~」
グラスに口をつけながら顔を歪める久我山に
「言っていい冗談と悪い冗談があるんです」
「彼氏おったら他の男とメシするようなタイプちゃうやろ~」
「そうなんですけど……心配なんですもん」
「本気やねんなぁ」さりげなく探るように言った言葉に
「本気っす」紫輝が迷いなく答え、続ける。「本気だから…今日、久我山さんに来てもらったんです……」
「ん?」紫輝の言葉の意味を考えて「え? あ? そういうことだったの? ゆえよ~」久我山が真意を察したように返答する。
「そういうことってなんすか」
「いや、お前がゆうたんや」一応ツッコミを入れてから「そういう関係になりたいから紹介した的なことやろ?」念のため確認してみる。
「そうっす。この先も関係が続くなら、紹介しておきたくて」
「それ、鶫野さんには言った?」
「言えないっすよ。まだ告白すらできてないのに」
「それ……」意味ある? と思ったが、口には出さない。「まぁ、正式にお付き合いとかその先の話になったらまた呼んでよ」
久我山が酒を飲み下す。
「はい、そうなるように頑張ります」
紫輝もグラスを傾けた。
「そういえば、二人きりのときなに話してたんすか?」
「えー?」と会話を思い出すような素振りを見せて「ないしょ」ニヤリと笑う。
「えっ、気になります」
「二人がうまいこと行ったら教えたげるわ。そろそろええ時間やし帰ろか」
久我山はうまいことかわして、よろしく伝えといて~、と言い残しタクシーで帰って行った。
あのとき、久我山は鹿乃江となにを話したのだろう。久我山のことだから、悪い印象を与えるようなことは言っていないと思うが――ザァッと水が流れる音で我に返る。
「やべっ」
膝に手を付き立ち上がってバスルームへ行くと、バスタブから湯が溢れ出していた。
靴下を脱いで足を踏み入れ、カランを回して水流を止める。湯気が立ちこめる浴室内で、床に溜まった数センチ分の湯が排水口へ流れていく。
「入るか……」
その場で服を脱ぎ、脱衣所に設置されたかごに投げ入れる。悩みも一緒に投げられたらどんなに楽だろう、とも思うが、そんなに簡単に手放してはいけないのだ。
以前そうして苦い思いをしたことのある紫輝は、しばらくの間恋愛感情から目を背けていた。機会がなかったわけではないが、次への一歩がなかなか踏み出せずにいた。やっとその呪縛から解放されたのに、紫輝はまた同じことを繰り返しそうになっている。
掛け湯をしてバスタブに入る。自分の体積と同じ分だけの湯が流れていく。
溢れ出るそれは自分の感情のよう。
溜め込むには量が多く持て余し、ただ捨てるには忍びない。受け入れてくれる相手がいなければ、自分でどうにかするしかないのだ。
鹿乃江も同じように、誰かに湧き出る感情を持て余したことがあるのだろうか。
連絡が来なくなったことになにか意図はあるのだろうか。
自分になにか落ち度があったのか。それとも単純に、誰かに先を越されたか――。
したくない想像を脳が勝手に再生しそうで、手のひらで湯をすくい顔に浴びせる。そのまま前髪を掻き上げて、視界を広げるように後方へ撫で付けた。考えて出た答えも想像に過ぎない。落ち込むくらいの想像ならしないほうがマシだ。
会って話したくても、もう待ち伏せはできない。鹿乃江に限ってしないだろうが、警察に通報でもされたらコトだ。
(ツアーが終わったら……)
結局その言い訳にたどり着いてしまう。実際、約束を取り付けたとしても、ツアーが終わるまでは会う時間を取ることができないのだが。
「……みまーもるよ~、たとーえとーおくにーいーても~、ここーろかぁら、ねがーえばー、ふたーりーきーぃと~…みーらーいに~続く橋を、渡ーれ~る~」
自分たちの曲、その中の担当パートを小さく口ずさむ。
鹿乃江と出会う前に作られた曲。先に発売されたアルバムにも収録され、ツアー内でも歌っている。
何故だかその歌詞が自分と鹿乃江の関係にリンクするような気がして。リハーサルで歌うたび、胸が苦しくて泣きそうになっていた。ライブ中はなるべく思い出さないようにしたからか、それとも高揚感に紛れたのか、そうなることはなかったが。
(見守ることすらできてないし……)
バスタブに背中を預け、天を仰ぐ。
「……かのえさん……」
風呂の中に小さく反響する声。
「……会いてぇ~……」
最後に会ったときに掴んだ腕の感触が一瞬よみがえった気がして。掴もうとするが、もちろんそこに鹿乃江はいなくて。
ただ指の間を、湯がすり抜けるだけだった。
* * *
ツアーの合間にテレビやラジオの収録をこなす。雑誌の取材や撮影、生放送の番組にも出演した。
忙しさに比例してプライベートが削られていく。
年末から年越しにかけて、本拠地である東京とツアー先の福岡、大阪を行き来していたため、新年を迎えた実感があまりない。仕事で年越しライブに参加してカウントダウンもしたのだが、体内時計が実際の時間の流れに着いていけていないようだ。
北海道に続き、ライブのために訪れた福岡、大阪、名古屋の観光地も四人で巡った。人がいない時間を狙うためかなり早朝からの撮影だが、メンバーと回る旅行気分の仕事は楽しかった。
しかし、紫輝は物足りなさを感じてしまう。理由は明白だ。
隣にいてほしいと願う人がいないから。
開催地に行くたびに繰り返されるそれらの仕事を完遂させて、ようやっと二か月に渡るドームツアーも最終公演を迎えた。
五大都市ツアーは東京で締めくくる。
ずっと憧れ、目指していたステージに、自分たちのために作られた舞台装置が建てられていく。その光景を紫輝は二階席から感慨深げに眺めていた。
デビュー前に先輩たちのバックダンサーとして立ったステージに、今度は自分たちがメインとして出演する。想定したより少し早く訪れたこの機会。
チケットは完売しているが、この先もこの会場で定期公演が開催できる保証はない。
(がんばらないと……)
決意も新たに席を立つ。ウォーミングアップも兼ね、軽く走って楽屋へ向かった。
* * *
三日間の東京公演は、本当にあっという間に終わってしまう。
これまでと同様のセットリストを歌い、踊る。
一曲終わるたび、達成感と寂しさとが入り混じった不思議な感覚が去来する。けれど、余韻に浸るのはまだ先の話。
いままで以上に全てを間違えないように、ケガをしないように、会場全体を楽しませるように。自分たちも最高に楽しみながらライブを進めていく。
中盤、左々木と紫輝、後藤と右嶋が二手に分かれ、左右のステージ脇からフロートに乗り込んだ。メドレーで持ち歌を歌いながら、アリーナ席の外周をぐるりと移動する演出だ。
アリーナやスタンド席に手を振りながら歌い続ける。フロートはゆっくりと前へ進んでいく。
近くの客席から自分宛のうちわを見つけ、要望に応える。目線の先で嬉しそうにするファンの姿は、自分へのご褒美でもある。
(わー、あの辺オレのうちわ全然ねぇ~)
道のりの四分の一ほどの地点。スタンド下段のあたりを眺める紫輝の視界に、自分の名前や写真の入ったうちわは見当たらない。あまりのエアポケットに思わず笑えてくる。
(明るいと遠くまでよく見える)
四方に目線を投げながら、手を振り続ける。ふと視線を感じ二階席を見上げて、「えっ……」驚きのあまり表情を失った。
(かのえさん…?!)
「えっ?」
小さく言って紫輝が固まる。周りの音が聞こえなくなって、視界が一点に集中しズームアップする。
鹿乃江は一瞬驚いた顔を見せて、着席したのか紫輝の視界から消えた。
(えっ!?)
どうにかして確認しようと手すりにつかまり身を乗り出すが、フロートは予定通り先へと移動していく。
たった数秒の出来事が、紫輝の脳裏に焼き付き離れない。
動揺する紫輝に気付いて、同じフロートに乗っていた左々木が紫輝の首に腕を回し、顔を隠そうとそのまま自分へ引き寄せた。
近くの客席から黄色い声があがる。
「シキくん顔やべぇって。どしたの!」笑顔のまま口を動かさず左々木が言う。
「わりぃ、ちょっと、緊急事態。もう大丈夫」くぐもった声で紫輝が詫びる。
腕を放して紫輝を解放した左々木が「ライブ中だよっ」笑顔のまま続けて、紫輝の脇腹を肘でつついた。
「ごめん」紫輝も笑顔に戻り、心の底から詫びる。
遠目のうえ一瞬だったから確信は持てないが、しかし間違えるはずがない。
なんで、どうしてと考えるが、答えが見つかるはずはない。
(……見てくれてるなら、120%でがんばろう)
紫輝は一人静かに決心した。
* * *
「じゃあ、先に席行ってるね」
「はーい」
別のグループとして来ている知人に会場内で会うという園部と別れ、鹿乃江は広い通路を移動する。
(あった)
通路番号を頼りに客席スペースへ入る。見晴らしの良い二階席のひとつが、チケットに書かれた座席だった。
(人気あるんだなー)
開演30分前。広い会場の八分目ほどが埋まった客席を眺めてぼんやり考える。紫輝の名前や顔写真の載ったうちわを持っている観客も見受けられた。
最後に会ったのは四か月半ほど前、紫輝の車で自宅最寄駅まで送ってもらったときだ。
あの日掴まれた腕の感覚と熱い体温を思い出して、そっと自分の腕に触れてみる。当時の記憶が呼び起こされ、悲しさが押し寄せてきてしまった。紛らわせるためにステージ上に組まれたセットへ視線を移す。
(まさかライブ見ることになるとはなぁ……)
ことの発端は、職場の後輩からの頼み事だった。
「初の大きいツアーなんです! だから空席作りたくないんです! お願いします!」頭を下げて手を合わせる園部。「変な人と一緒に入るのもヤなんです!」
一緒に行く予定だった友人が入院してしまい、急遽同行者を探しているとのことだった。公演まで一週間を切っていたため、ドタキャンされる恐れのあるSNSなどで探したくないらしい。
「曲とか全然知らないよ?」
「大丈夫です! 明日CD貸します!」
「え、予習」
「チケ代もいらないんで!」
「いや、それは払うよ」
「いいんですか?!」
鹿乃江の言葉を、承認と捉えたようだった。
「何日の何時からだっけ…?」
日時を聞いて、会社パソコンのメーラーに入っている予定表を開く。出勤日だが必須業務は少なく、多少の早上がりが可能だ。
(あんなでかい会場だったら、見つからないよね……)
「うん、じゃあ、譲ってもらう」
「やったー!」
「ほかに行きたい人見つかったら、そっち優先してね」
たぶん、探す気はもうないだろうことはわかっていたが、一応言ってみる。
「了解です! チケットがデジタル式で手元にないんで、一緒に入ることになるんですけど……」
「うん、待ち合わせ指定してくれたらそれに間に合うように上がるよ」
「ありがとうございます! 明日CD持ってきますね!」
園部が嬉しそうに言うので、鹿乃江も少し楽しみになってきた。
翌日。
「つぐみさーん」
「はーい」
「はいっ、これ」
園部が帆布のエコバッグをサブデスク上に置いた。
「ん?」
「昨日言ってたCDです」
「わぁ、ありがとう」と中を見て「…これ…」不思議そうに鹿乃江が呟く。
「はい?」
「同じタイトルのが何枚もあるけど…」
「あー、それ、DVDの内容が違ったり、こっちに入ってない曲がこっちに入ってたりするんですよ」
「おぅ……。それは…全部買わないとだね…」
「そーなんですよ~」
園部は何故か嬉しそうだ。
「これがこないだ出たばっかりのアルバムです。今度のコンサートでこれの曲やると思うんで、聴いてください」
「ありがとー。スマホに入れて聴いてもいい?」
「いいですよ~」
園部の承諾を得た鹿乃江は、帰宅後ノートパソコンを開いて専用ソフトにCDをインポートしていく。
(DVD……視てみようかな……)
MVの入ったディスクを選んで、デッキにセットする。
(ちゃんと視るの初めてだなー)
あまり識りすぎないように意識的に避けていたのだが、ライブを観に行くなら前もって視ておきたい。
再生されたタイトル画面で【ALL PLAY】を選択する。
イントロと共に流れ出した映像。そこには、鹿乃江が知っている“いつも”とは違う顔をした紫輝が歌い、踊る姿が収められている。
テレビで視るのともまた違う“アイドル・前原紫輝”は、少女漫画に出てくる王子様のようにキラキラと輝いていた。
(……かっこいい)
素直にそう思う。
(なんで私なんだろう)
ふとそんな考えが浮かぶ。
(なんで私だったんだろう)
画面の中で歌い踊る紫輝と、それを視ている自分。
(なんで私、キモチに応えられるようなヒトじゃないんだろう)
もっと若くて、もっと可愛くて、もっと素直で、もっと近い職業で……もっと、もっと、もっと――。
(同じ世界で生きていたら、嫌な思いさせずに済んだのかな……)
目から落ちた涙が頬を流れ、首筋に伝う。
(あぁ、もう、私……)
5分ほどのMVが終わり、メイキング映像が流れ始めた。レコーディング時の密着映像だ。
(あ…これ……)
レコーディングスタジオへ入る前、移動車から降りた紫輝が被っているのは、いまでもベッドサイドのミニラックに置いてある、紫輝から預かったキャップだった。
『リーダーそのキャップしか被らないよね』
映像の中で右嶋が言う。
『めっちゃ気に入ってんのよ、これ。最初のお給料で買った、自分へのご褒美なの』
『へー』と、感嘆するスタッフに
『そうなんすよ。ちょっと願掛け? みたいな、そういうのをしてて』紫輝がカメラの奥の人を見て答えた。
『えー、なになに?』右嶋が興味深げに問う。
『それ言っちゃったら意味なくなっちゃうじゃん』
『いーじゃん別に、気になるじゃん』
『んー…まぁいっか!』自分で叶えればいいんだもんね、と右嶋に同意を求めてから続ける。『これねぇ、ずっと幸せでいられますようにって。持ってる人も周りの人も、同じように一緒に幸せでいられますようにって、買った帰りに地元の神社でお願いしたんすよ』
『なにそれ、小学生みたい』
『だって買ったの中学生んときだもん』
『えっ、ちゃんと洗ってる?』
『失礼だな! たびたびクリーニング出してるよ』
『デビューできますようにとかじゃなかったんですね』カメラマンの質問に紫輝が口を開いた。
『そうっすね。仕事のことは願かけとかじゃなくて、目標っていうか…自分で達成するもんだと思ってるんで』
紫輝の答えに、いつの間にか近くに来ていた左々木と後藤が右嶋と一緒にヒューヒュー言ってはやし立てる。
『やめてよ、はずいはずい』照れ笑いを浮かべながら『それじゃ』と手を振ってスタジオに入る紫輝の背中で映像がフェードアウトし、左々木のインタビューシーンへ切り替わった。
その画面が、鹿乃江には歪んで見えている。
抱えた膝の上に乗せた手は、涙でびしょ濡れだ。
(そんなに大事なもの……ダメだよ……)
「まえはらさん……」
嗚咽しながら呟く。
(どうして……)
自責と後悔が押し寄せて胸をつぶす。
いつか触れた指の感触を思い出す。
キャップの上から優しく頭を覆う大きな手。
熱っぽい視線。言いかけてやめた言葉。笑って、拗ねて、照れる顔。端々に散りばめられるいくつかの癖。耳馴染みのいい声と口調。たまに出る率直で飾り気のない言葉。
すべてが愛おしくて、離れがたくて、独り占めしたくて――。
自分の想いの強さに耐えきれなくなって、けれど受け入れることも拒むこともできずに、ただ手放した。
ぽつんと置かれたその気持ちは、どこへ消えるでもなくただずっと、そこにあった。
触れたら壊れてしまいそうで手を出せず、遠巻きに眺めては戸惑っていた。
最後に会って以来、紫輝からの連絡は来ていない。返すあてのないキャップは、きっとずっと鹿乃江の手元にあるままだ。ずっと消えない、置き去りにされた気持ちように、たまに眺めては胸を締め付ける。
大きな手に掴まれた腕が、じくじくと熱を帯びる。
あのとき気持ちを伝えていたら、こんな風に泣かずに済んだだろうか。
後悔は波のように強弱をつけて去来する。
もう戻れない時間に思いを馳せても、現在は変わらない。本当にもう、すべて遅いのだ。
涙が枯れたころ、メイキング映像が終わりメニュー画面が映し出された。
BGMで流れる曲。その『見守るよ たとえ遠くにいても 心から願えば二人きっと 未来に続く橋を渡れる』というフレーズが、強く印象に残った。
「つぐみさーん、お待たせしました」
「んーん、全然?」客席の動きを見るのがなかなかに楽しく、時間はあっという間に過ぎていた。
「やっぱちょっと遠いですねー」
「でも見やすそうだよ? ファンの人は近いほうが嬉しいか」
「まぁ、前回までの会場よりだいぶおっきいですからねー。嬉しいような寂しいような……」
荷物を椅子の下に置きながら、園部がうちわを取り出した。
「とわくん、だっけ?」
「そうです、私の推しです!」
物販品のうちわに装飾がされている。これを掲げて本人に見つけてもらうのもライブの楽しみのひとつらしい。
「いいね、目立ちそう」
「見つけてもらえるといいんですけどねー」
「客席数少ないゾーンだから、案外見つけやすいかもよ?」
「そうだといいなー。わー、ドキドキしてきた」
客席のざわめきが徐々に大きくなっていく。目立っていた空席も埋まりつつある。
「そろそろ始まるかもですね」
浮き立つ会場の空気に、園部もソワソワし始める。
「あっ、そうだ。これ良かったら振ります? 前のライブのやつなんですけど」
と、椅子の下のカバンからペンライトを取り出し、鹿乃江に渡した。
「えっ、わざわざありがとう。借りるね」
「どうぞどうぞ」
このストラップに手を通すんですよー、と教えられ、その通りにしてみる。確かにこれがあれば手をすり抜けてしまっても落ちる心配はない。
「前の人こないなー」
鹿乃江たちの一列前、スタンド席の最前列に空席がある。ちょうど目の前の席で、実質二人の席が最前列になっている。そのせいか、かなり見通しがいい。
「始まったら来るかもね」
「そうですね」
明るい会場内にポツポツとペンライトの光が浮き上がる。園部もストラップに手を通し、ペンライトを左手に装着した。
鹿乃江は念のため通知音を切ってからスマホの電源を落とす。
ほどなくして場内の照明が落ち、大歓声と共に場内の大型モニタ全てにオープニング映像が流れ始めた。
ストーリー仕立てでメンバーを紹介していく演出で、個人名と写真が出るたび客席から黄色い声があがる。
最後に紹介された紫輝は、ちょっとギョッとするくらい美しい。
(うわっ……!)
息をのみ、モニタを見つめる。
映像の中で、バラバラの場所にいた四人が集まり正面に向かって歩いてくる。それに連動してモニタ下の中央扉が開き、光を浴びてFourQuartersがメインステージに登場した。
それまで以上に湧き上がる歓声が落ち着くころ、紫輝の透き通るような歌声が場内に響き渡った。
瞬間、身の毛がよだち、涙があふれる。
もうなにも考えられず、ただその歌声を聞き逃さないように、姿を見逃さないようにすることしかできなかった。
紫輝の歌声から始まるその曲は、歌い出し後にイントロが流れてアップテンポになる。それに同調して湧き上がる歓声と揺れるペンライトの光。
それを一身に受けたFourQuartersは、映像で視るよりももっとまぶしく見える。照明効果や演出効果の影響ではなく、声援を受け、歌い、踊る彼ら自身が光を放っているようだ。
園部に借りたペンライトを曲に合わせて振りながらステージ上の紫輝を目で追い続けると、様々な感情と情報が綯い交ぜになって、思考を飲み込んだ。
あの日ぶつかりそうになった“肌の綺麗な男の子”が、鹿乃江の目に映る景色を変えていく。
出会わなければ知らなかった人、場所、感情、経験――様々なものを軽やかに運んで分け与え、心の中の淀んだ空気を一気に吹き飛ばし光を浴びせる。
それは、足をすくませ立ち尽くす鹿乃江の手を引き、新しく遠い未来へと進む先駆者のよう。
ただ出会っただけで、こんなにも世界は変わる。それを教えてくれる、唯一無二の存在。
ただ出会えただけで、それだけで幸せだったと思えた。
ライブが進むなか、メンバーが二手に分かれ移動式のステージに乗る。スタッフ数名がそれを押して移動させ、客席の周囲を巡る演出があるのだと園部から聞いていたが、これがそうか、と興味深く観察してしまう。
前列の客は結局現れず、そこは空席のまま。さえぎるものがなにもないため、視界は極めて良好だ。
紫輝が左々木と一緒に載ったステージは一塁側から三塁側へ移動していく。
歌いながら笑顔で四方に手を振る。たまに指で撃つマネをしたり、ピースしたりする。きっと視線の先にあるうちわに、そうしてほしい旨の要望が書いてあるのだろう。
しばらくそうしたあと、紫輝はふわりと微笑みながら手を振り始めた。特定の相手がいない様子で、四方に笑顔と手振りを撒いていく。
最後に会ったときより少し大人びて見えて、月日が経っていることを実感する。自分がクヨクヨうじうじしている間に、紫輝はしっかり未来を見据えて仕事に取り組んでいたのだろう。
(やっぱり、遠くで眺めていられるだけでいい……)
強すぎる光が濃い影を生むように、鹿乃江の心に一瞬陰りが差したとき、ふと紫輝が二階席を見やる。一瞬目が合ったような気がして反射で心臓が跳ねた。が、それは気のせいではなかった。
(えっ)
手すりから乗り出さんばかりにこちらを見て驚いている紫輝の姿に、文字の通り息が止まる。あまりの衝撃に、思わず座って紫輝の視界から逃れてしまう。
(えっ、えっ!? みっ、見つ、見つかった!?)
いやまさか気のせいだ、思い上がるのもいい加減にしなさいよと自分をたしなめるが、そう思うほうが不自然なほどに紫輝の態度はあからさまだった。
歌のワンフレーズが終わる頃そっと立ち上がってみると、紫輝が乗った移動式のステージは数メートル先へ遠ざかっていた。紫輝ももう別のところに手を振ったり指をさしたりしている。
安心したような悲しいようななんともいえない感情。
鼓動はまだ速いままだ。
移動式ステージは中間地点で逆サイドから回ってきたもう一台とすれ違い、ぐるりとアリーナ席まわりを一周して正面のステージ脇に戻る。メインステージに降り立って一曲歌い終えると、そのままトークコーナーへ移行した。
『さっ、じゃあ、一度ご着席いただいて……』と、左々木が客席に呼びかける。
『どしたのシキくん。ごきげんじゃない?』右嶋が紫輝を見て言った。
『えっ? そう?』紫輝は自分の頬に手を当て、肌を上げたり下げたりしている。
『顔かおっ』後藤が眉間にしわを寄せ咎めた。
『うわっ、すっごいブサイク』右嶋の言葉に
『ちょっとやめてよ! アイドルアイドル!』自分を指さし紫輝が言う。
『ホントそのクセやめたほうがいいよ』右嶋が言って『ね』と左々木、後藤に同意を求める。
『うん』
『うん』
『えっ、うそ。オレこれクセ?』
『うん』
『うん』
『えー! 全然気づかなかった』と、頬に手を当て上下させる。
『うわっ。ワザとらしー』嫌そうに顔をしかめ、左々木が言った。
『ちがぁう。わざとじゃなーい』
『ちがぁう』
『ちがぁう』
右嶋と左々木が紫輝の口調を真似して反復し出した。
『えっ? ソッチのかた……?』後藤の言葉に
『ないないない! オレが好きなのオ…女性の人だから!』
『えっ?“お”って言いかけたのなに! オトコ?!』
『違うっ!“オンナノコ”って言いそうになっただけ! もーこの話やめよっ! やめやめっ!』紫輝が大きく手を振りながらステージを右往左往し『どうよ! 今日ツアー最終日だけど』無理やり話題を変えた。
『急だな! えー? でもやっぱ、感慨深いよね、初のドームツアーだし』紫輝の振りを受けて、後藤が話し始める。
『そうだねー。やっぱ単純にさー、お客さんがたくさんいてくれるから、声援がすごいよね』
『わかる』右嶋に同意して『なんかドーンってこない? カラダにドーンって』左々木が言いながら自分の身体をはたく。
『わかるわかる』同意する紫輝を
『ドーン!』言いながら右嶋がグーで叩く。
『えっ! なんで叩くの!』驚いて紫輝が右嶋を見ると
『ドーン!』今度は逆サイドから後藤が紫輝にグーパンチする。
『いたい! やめて!』ドーンドーンと、紫輝の肩や胸をパンチする後藤、左々木、右嶋を避けながらステージ上を小走りに逃げ回る。『ねー、もー、ほんとちょっとなに?!』勢いあまって裏返る声に
『マジでそっちの人じゃん!』左々木が笑いながらツッコむ。
『だから違うってぇ!』
ワァワァキャァキャァ言いながらトークは進み、落ち着きを見せたあたりで
『じゃあこの辺で曲いきましょうか。ねっ』と紫輝がメンバーに促す。メンバーはそれをきっかけに立ち位置を換え、準備した。
改まって『座ったままでお聴きください』客席に促し、曲名を告げる。
流れ始めたスローバラードのイントロ。ポツポツと点き始める客席のペンライト。紫輝の透き通るような歌声で始まるその曲は、少し前に視たメイキング映像のメニュー画面でBGMとして使われていた曲だった。
『見守るよ たとえ遠くにいても 心から願えば二人きっと 未来に続く橋を渡れる』
そのフレーズを紫輝が曲の中盤で歌い上げる。
締め付けつけられる胸の痛みは、まだそこに消えない気持ちがあることを実感させる。
夜空に瞬く星のように揺らめく色とりどりのペンライトの先で大型モニタに映る紫輝を眺めながら、鹿乃江は静かに涙を流した。
ライブの後半、一度目とは逆サイドから外周を回ってきた移動式ステージに、紫輝の姿が見える。
目が合った途端に、紫輝がパァッと満面の笑みを見せ、鹿乃江に向かって大きく手を振った。
(犬……)
思わず笑うと、紫輝が一瞬泣きそうに顔をゆがめて、しかしすぐに笑顔に戻り再度大きく手を振った。
(かわいい……)
それに応えて小さく手を振り返してみると、二人で会ったときに良く見せる、くしゃっとした笑顔になる。
きっといま、自分も泣きそうな笑顔になってるな、と思いながら、声援を浴びて光り輝く紫輝の姿を見つめ続けた。
* * *
ライブ終了後、関係者に挨拶をしながら紫輝はもどかしい気持ちに苛まれていた。
(もう帰っちゃったかな)
もしまだあの席に鹿乃江がいたとしても、自分がそこに行くわけにはいかない。最後に会ったときのように帰り道で待ち伏せもできない。
招待客の対応をし終えて帰り支度をするメンバーを尻目に、スマホを操作してメッセアプリを立ち上げた。
(絶対に人違いじゃないし、手も振り返してくれたし……けどなぁ~!)
最後に会ったときの泣き顔が脳裏をよぎる。
(なんて書いたらいいの~!)
スマホと対峙して頭を抱える紫輝に
「ちょっとシキくん、もう移動車行くよ?」
「えっ? もうそんな時間?!」
右嶋が言って、紫輝は楽屋の壁時計を見た。
「ヤベッ、ごめん」
「なぁにそんなにスマホ見つめちゃってぇ~」
後藤がニヤニヤしながら紫輝に近付く。
「なんでもないよっ」
バッグにスマホを入れて、紫輝がようやっと帰り支度を始めた。
「そうだ。ちょっとふたりとも聞いてよ! シキくんがさぁ~!」左々木が右嶋と後藤を呼び寄せて「ペアでフロート乗ったときさぁ~」話し始める。
「ちょっとササキ」ガタッと席を立ち、手刀で左々木を制して話を止めようとする紫輝を
「いーからシキくんは早く支度してっ!」
シッシッと手で払い、左々木が続ける。
「なんか急にすげー顔で一点見つめ始めて!」
「えっコワ」右島が口に手を当てて紫輝を見る。
「そんで固まったの!」
「えっ、なんで?」後藤がいぶかしがる。
紫輝は苦虫を噛み潰したような表情のまま片付けを続けている。
「なんでかなーって視線の先追ったらさぁ……」
ギョッとして紫輝が左々木を振り返る。
興味深げに左々木を見つめる後藤と右嶋に、たっぷりとした間合いを取ってから言った。
「二階席だった」
「なにソレッ」
「オチよわっ」
「だってぇ~」
右嶋と後藤にツッコまれしょんぼりする佐々木。紫輝がホッとして、カバンを持ち立ち上がろうとしたとき
「ガン見されてた女の子、シュッて座っちゃったんだも~ん」
「ちょっ!」
まさか見られていたとは思わず、紫輝が左々木に駆け寄る。
「あらっ」
「やだっ」
「ねぇ~?」
ニヨニヨし出す三人。
「しかも二回目のフロートで、その子にめっちゃ笑顔で手ぇ振っちゃってさぁ~!」
あれも見られてたのかと紫輝が益々苦い顔になって、観念したのか三人のやりとりを傍観し始めた。
「えー? あのコ? あのコ?」
「ヤダー、やっぱりカノジョだったんじゃーん」
「紹介してよ水臭い~」
「なんつーかっ! そうだけどそうじゃないっ」
「まぁまぁ、続きは車内で! ネッ!」
後藤が紫輝の肩に腕を回して、楽屋から連れ出した。
会場の地下駐車場で移動車に乗り込む。シートに座るや否や、紫輝がカバンからスマホを取り出し、凝視し始めた。
「シキくん、酔うからやめなよ」
「うん」
右嶋の忠告に返事するものの、行動には移さない。
個別ルームを立ち上げたままあれやこれやと考えるが、読んでもらえなければ意味がない。
まずは挨拶。
そして事実確認。
簡素な言葉で四回に分けてメッセを送信し終えて座席に体を預けると、フゥーと大きく息を吐いた。
「…キモチワルイ…」
「ほらぁ。だから言ったじゃん。水飲む? コーラ?」右嶋はなんだかんだ言って面倒見が良い。
「ありがと……だいじょぶ……」
(返事くるかな……読んでくれるだけでもいいか……)
両手でスマホを持ち腿で挟むと、ゆっくり大きく深呼吸した。
気付けばもう、最後に会ってから四か月近く経とうとしていた。
* * *
ライブ後、鹿乃江と園部は、会場から少し離れた駅にある居酒屋でご飯を食べることにした。園部が友人たちとライブ後に良く行く店だそうだ。
まずは乾杯。それからテーブルに並んだ一通りのオーダー品をシェアして食事を開始する。
「つぐみさんは四人の中だったら誰派でしたか」
「えっ、だれって……」
頭に浮かぶのはもちろん……。
「いや、この先ずっと一緒に行きましょーとかじゃなくてぇ。いや、一緒に行ってほしいですけど~」
「うん、まぁ……緊急時は声かけてもらえれば」
「やったー! で? 誰でした?」
「う…んと…。まえ、はら…くん…?」
「前ちゃんいいですよね! 今日はなんかうちらの席のほう、めっちゃファンサくれましたし!」
「そうね」
「前ちゃんはメンバーの中で最年長でリーダーなんですけど~」
園部が紫輝について知っていることを色々と教えてくれる。
皆が知っている情報を知るたび、自分が会っていた“前原さん”がどんどん遠くなっていく気がした。
(うん。いいんじゃないかな。このまま遠くなって、おばあちゃんになる頃には、夢だったんだと思えるようになれば、それで)
そんな考えを拒むかのように、テーブルの上に置いていたスマホが震えた。園部の話を聞きながら横目で画面を確認すると、【マエハラシキ】からの新着メッセ通知が表示されている。
(ヒエ)
思わずスマホを裏返した。
店内にいる数組の女性グループ客も、自分たちと同じライブ帰り組だ。
(IDなんて好きな名前にできるし、そもそも見えないだろうけど……!)
開演前に通知音を切ったことをすっかり忘れていたので、驚きはいつもの倍だ。
園部の話を笑顔で聞きながらも、メッセの内容が気になってしまう。きっと、ライブに来ていたかどうかの確認だとは思うが……。
更にスマホが震えて、新着通知が届いたことを知らせた。
「だいじょぶですか?」
園部がスマホを指さして問う。
「うん、急ぎじゃないから」
平静を装って言いつつも、鼓動が騒がしく気持ちを急かす。
とは言え、いますぐに見ることもできないので、刺身をつつきながら園部と話す。
借りたCDの楽曲はどれも良く、ライブ前の予習としても最適だったこと。ライブ自体も趣向が凝らされていて純粋に楽しめたこと。大きな会場での一体感が気持ち良かったこと。どれも紫輝が聞いたら泣いて喜びそうな内容だ。
ただ、あの大きな会場で見つけられたことに一番驚いたことは、当然だが言うことができなかった。
「ちょっと10番行ってきます」
職場での隠語をつかって、園部がトイレに立つ。鹿乃江はそれを見送って、少し悩んでからスマホを手に取った。
何度か震えたのは、全て【マエハラシキ】からの新着メッセ通知だった。
『お久しぶりです』
『違っていたらごめんなさい』
『今日、ライブ来てくれていましたか?』
『違っていなかったら嬉しいです』
数ヶ月ぶりのメッセに、園部たちが言うところの“ファンサ”姿を思い出して思わず微笑む。
また少し悩んで、でも無視できなくて。
(これで、さいご…)
そう誓いながら、アプリを起動した。
* * *
ポコン♪ ポコン♪ と音がする。シートにもたれかかっていた紫輝がその音に反応してガバッと前のめりになり、スマホを操作した。
「もっと酔うからやめなってぇ~」
右嶋の忠告をまたも無視し画面を凝視して、とろけるような笑顔を見せる。
「うわなに、キモイ」身体ごと引いた右嶋に
「カノジョからっしょ」左々木が言う。
「まだ違う」
「まだ」
「まだ」
メンバーが口々にマダマダ言うのを聞きながら紫輝はスマホを操作する。
パシャリ。
「スクショ!!」
後藤、左々木、右嶋と、運転する所沢の声が重なった。
「ストーカーか!」
「必死じゃん!」
「カノジョ逃げてー!」
後藤、右嶋、左々木のツッコミに、所沢は体を震わせ、声を殺して笑っている。
「なんでよ! いいじゃない! めっちゃ久しぶりの返信なのよ!」
「えっ?」
「仲直りしたんじゃないの?」
「まだできてない」
車酔いを覚ますために細く開けた窓から入る夜風に当たって、紫輝がふてくされたように言った。
「えっ? じゃあどーやって今日呼んだの?」
「呼んでない。呼べてない。けど、来てくれてたからびっくりしたの」
「じゃああんな反応になるか」フロート上での一部始終を知っている左々木が納得声で呟いた。
「あー、もう。めっちゃ色々聞きたいのにもうすぐ着いちゃう!」
車は右嶋の自宅近くまで来ていた。
「打ち上げの時に色々聞かせてよ!」
「話せることできたらね」
「できてなくても聞くから! じゃあね! おやすみ!」
皆に手を振り、右嶋が下車して自宅マンションへ入っていく。
「あいつなんでキレてたの」
「ライブあとでテンションおかしいんじゃね?」
後藤と左々木の会話を聞きながら、紫輝は喜びを噛みしめていた。
「良かったじゃん」
後部から後藤が声をかける。
「え?」
「良かったじゃん?」
「…うん。そうね。良かったね。……うん、良かった」
口に出すと、自分が思っている以上に嬉しく感じていたことに気付く。
「トワもあれで心配してるんだろうし、俺らもそうだから。なんかあったら相談してよ」そう言う後藤の横で左々木も頷き
「別にシキくんにカノジョができてファンの人が減っちゃっても、ぜーんぜん大丈夫だから!」満面の笑みで親指を立てる。
「うん。ん? うん。え? それ喜んでいいの? 応援してくれてんの?」
「うん」
「そう……。ありがとね。なんかあったら相談する」
「うん」
「待ってる」
最後部座席から紫輝の座る席の背面にもたれかかり、左々木と後藤が笑顔で頷いた。
ほどなくして紫輝の自宅マンション前に移動車が停まる。
「じゃあ、お疲れさまでした」
「お疲れさま~、がんばってね~」
車内から後藤と左々木が手を振る。紫輝はそれに応えてからエントランスに入った。
帰宅してリビングのソファに座る。車内でスクショしたメッセの画面を眺めていると、自然に頬が緩む。
『おつかれさまです。』
『まちがってないです。』
スマホのカメラロールに保存されたその二行のメッセは、ライブ後の疲れを吹き飛ばすのに充分な威力があった。
ライブのあとはいつもクールダウンがすぐにできずなかなか寝付くことができないが、今日はより一層目が冴えていた。
(メッセ…でんわ…いや~~~でもー!)
スマホを手に持ちリビングをうろうろする。
(なんか前にもこんなのやったな~~~!)
進歩のない自分の行動に苦笑する。そもそも、夜中とはいかないまでも、ライブが終わってから数時間は経っている。連絡するには時間が遅い。
ほかにも理由がひとつ。
今まで送っていた、ある意味独りよがりのメッセにも全部既読がついた。読み返しているかは別にして、それでも目に入っているであろう事実が気恥ずかしさを呼び起こす。
そんな感情と共に、控えめに手を振り返してくれた鹿乃江の笑顔を思い出した。
もっと近くで、たくさん笑っていてほしい。それがこの先、ずっと続いたら……。
嫌われたわけじゃないとわかったいま、これまでのように二の足を踏みたくない。
(さいご……本当に最後にしよう……)
その代わり、ちゃんと納得いくまで話がしたい。それには、まず会う約束をしないとならない。
(会って…くれるかな……)
気合が膨らんだり萎んだりと忙しい。
(いや、とにかく連絡! しよう! そこから!)
意を決して、日付が変わる前に送信できるよう、文面を考えてメッセを打ち始めた。
* * *
ポコン♪ ポコン♪
寝かけたところで通知音が聞こえて、思わず体をビクリと震わせる。
『夜分にごめんなさい』
『どうしても伝えたいことがあるんです』
【マエハラシキ】からの通知は続く。
『明日19時、コリドラスで待ってます』
通知はそこで途切れた。
もう会うつもりはなかった。遠くから見守るだけでいいのではないかと、実際にライブを目の当たりにして改めて思った。
未来に向かって邁進する紫輝の足手まといになりたくない。
しかし、自分が行かなかったら……。
いつまでも待ち続ける姿を想像すると胸がきしむ。思わず退勤してからの移動時間を計算してしまう。いつも通りに終われば充分間に合う時間だ。
だけど……。
(…既読つけなければ、前原さんも行かないよね…)
途切れた眠気がよみがえってくる。
うつらうつらと眠りに入りながら、頭の片隅で紫輝が自分になにかを問いかけている映像が浮かんでいた。
――なんですか? きこえないです。
まるで水中にいるような感覚。
ソフトフォーカスのかかった紫輝の輪郭。
何かを伝えるように唇が動いているが、見えない壁に挟まれたように、どんなに耳を凝らしても声が聞こえない。
目を凝らして、唇を読む。
オ…ノコト………モ………ス…。
紫輝の唇が同じ動きを繰り返す。
オ…ノコト…ウ…モ…テ…ス…。
もう一度同じ動きをしたところで、何を言っているのかがようやくわかった。
――オレノコト、ドウ、オモッテマスカ――
そんなの…決まってる……。
私は、前原さんのこと――
♪~…♪~~…♪♪~……♪~…
突如空から降ってきた音楽が、目覚めを誘導する。
待って。私まだ、前原さんにホントのこと伝えてない……!
私、ホントは前原さんのこと……!――
──伝えかけて、目が覚めた。
(夢オチって……)
カーテンの隙間から光が漏れている。
(思春期みたいな夢みたな……)
思い返すと、昨日観たライブの衣装を着ていた気がする。よほど印象に残っていたのだろう。
(起きなきゃ……仕事いかないと……)
重い身体を起こして身支度を始めた。
昨日のライブがあまりにも現実とかけ離れた世界で、なんだか記憶がおぼろげだ。しかし身体の疲れは現実で、仕事に行かなければならないのも残念ながら現実である。
なんとか出勤していつも通り業務にとりかかる。次第に体も目覚めてきて、ようやく現実に戻った気分だ。
普段通り、前日の終業以降に発生した事務作業の対応をする。締切に向けて計画し動いているので、特に慌てることもなく業務は進む。
大抵の勤務日は穏やかで、スケジュール管理さえできていれば定時に上がれる。しかし、何故だか忙しい日が月に4~5日ある。どんなに素早くこなしても、業務があとからあとから追加され終わらない。定時内に終わらせようと最速で動いているのに、否応なしに残業になってしまう。
今日がその日だった。
午前中は通常通りの緩やかさだったのに、午後からその状況が一転した。締め切りのある業務と割り込みの業務とが幾重にもなり、更に人事関係とは別に管理している倉庫搬入作業の物量も、着荷日が急遽前倒しになったため膨大で、予想外に大幅な残業となった。頭と身体、両方使う業務をこなしたため、かなりの疲労度だ。
(うわ。半過ぎてるじゃん)
タイムレコーダーの時計を見て、小さく息を吐く。事務所内に「お疲れさまでーす」と挨拶をして、職場を出た。辺りはすっかり暗くなっていた。
(ごはんなにしよかな…どこも混んでそう…まぁもう19時回ってるし……19時……!)
業務中には思い出しもしなかったのに、その時間がキーワードになり、寝しなに届いたメッセが脳内に浮かび上がる。
今から電車に乗っても目的地に着くには30分以上はかかる。待ち合わせに指定された19時も、もう30分以上過ぎてしまっている。いまから移動したとして、どんなに速く着いたところで1時間以上は待たせることになる。
(えっ、どうしよどうしよ)
唇に指を当て、実際に右往左往したいくらいの気持ちで信号を待つ。
(いやでも、待ってないよね。……いや、でも……)
実直な紫輝の性格を考えると、きっと本当にあの店で待っているだろう。
(だって会ってどうするの? 伝えたいことって、きっと……)
もうすぐ、信号が赤から青に変わる。
(応えられるの? またはぐらかすんじゃないの?)
答えの出ない疑問は鹿乃江の心にモヤをかける。予想している“伝えたいこと”だって、単なる勘違いで的外れな思い上がりかもしれないのに。
さっきまで忘れていたくせに、思い出したらいても立ってもいられなくなってしまった。
このまま家路に着けば、本当にすべてなかったことになるはずだ。
なにも伝えず、なにも聞かず、自分の気持ちにも紫輝の気持ちにも向き合わずに放置して、ただ後悔の念と一緒にたたずむ。
(そんなの……嫌だ……)
行かないという選択肢の先にある未来を想像して、眉根を寄せる。
信号が青に変わり、周囲の人々が動き出した。
(本当に、最後……!)
何度目かの決意をして、駅に向かう。しかし……
「マジか……」
ホームに入って思わず呟く。
帰宅ラッシュを少し過ぎたというのに、ホームから溢れかえりそうな人数が電車の到着を待っている。
人身事故の影響でダイヤが大幅に遅れていることを、構内放送が繰り返し伝え続けていた。この路線あるあるとはいえ、なにもこんなタイミングで起きないでいいじゃない、などと身勝手なことを考えながら、比較的短い列の最後尾に並ぶ。
十数分後、ドアと仕切り板の隙間にうまく身を滑り込ませてなんとか乗車するが、前の電車が詰まっているのか、長い区間で徐行運転のまま電車は進む。
ぎゅう詰めの車内。最小限の行動範囲内でスマホを操作する。【コリドラス 営業時間】と打ち込み、出てきた結果と画面上部の時計を見比べる。この電車の速度では、閉店時間に間に合うかどうか微妙なラインだ。
焦る気持ちと反比例した速度で電車は進む。ゆるゆると流れる景色がもどかしさを募らせる。
通常の倍近くかかり、ようやっと電車は目的駅に到着した。ターミナル駅なこともあり、乗客の大半が同じ駅で下車する。じりじりと流れる人波にもまれながらホームへ出たが、その波から抜け出せたのは改札を出る直前だった。
早足で改札を抜け、そのまま構内をひた進む。
広大さを感じさせないほど利用客は多く、帰宅ラッシュを過ぎても絶えず人が行き交う。その人波を巧みにすりぬけ、地上に繋がる階段をのぼる。息はとうに切れているが、それでもスピードは緩めない。
これ以上、紫輝を待たせたくない。その想いが鹿乃江の足を動かす。
冬だというのに背中に汗がにじむ。体中の血管が脈打って、喉の奥から鉄の匂いが微かに立ちのぼる。たすき掛けにしているバッグが、だんだんと重みを増していくように感じる、
(たいりょく……なさすぎ……)
息を弾ませ駅からしばらく進んだところで路地に入る。大通り沿いに比べて人通りの少ない道を5分ほど進むと、見覚えのある店構えの前に出た。電車内で調べた閉店時間まであと20分弱。
浅く呼吸を繰り返しながら大股で入口をくぐると、店員が申し訳なさそうに近付いてきた。
「申し訳ございません、ラストオーダーのお時間を過ぎておりまして」
「待ち合わせを…してるんです……」
「かしこまりました」
息を切らせて用途を伝える鹿乃江に笑顔を向け、店員は地下階へ誘導した。
一人階段を降りて店内を見渡す。フロアの入り口から見える席にはまばらな数の客が滞在している。その中に目的の人物がいないのを確認してから、いつも待ち合わせに使っていた半個室の席へ向かう。
速くなっていた鼓動が強さを増していく。
耳元で心臓が脈打つような感覚。
どんな顔をすればいいか。一言目に何を言うか。どんな言葉が返ってくるのか。
不安と期待がごちゃまぜになって思考を混乱させる。
その間わずか数十秒。
うつむいたまま懐かしい空間へ足を踏み入れ、顔を、あげる──
――しかし、その席に人はいなかった。
(……ですよね……)
自嘲と苦笑の入り混じった顔のまま、乱れた息を整えるために大きく呼吸をする。テーブルにティーカップが置かれているが、それを紫輝が使っていたかはわからない。
(…かえろ…)
痛みを感じ、たすき掛けにしていたバッグの肩ひもを左肩に移して持ち替え、ゆっくりと踵を返す。
人とぶつかりそうになって「スミマセン」謝罪した声は乾燥でかすれていた。うつむいたまま横を通り抜けようとすると
「ちょちょちょ」
腕を掴まれて反射的に顔をあげる。
そこには、大きく目を見開いた紫輝が立っていた。
鹿乃江も同じように目を大きくして、すぐに泣きそうな顔になる。
「ビックリした。帰っちゃうのかと思いました」紫輝が笑う。「スミマセン、ちょうど席外しちゃってて……あっ、ごめんなさい」掴んだままの手に気付き、放す。そのまま口元や額、首に手を当てて、紫輝がソワソワする。
鹿乃江の頭の中にはたくさんの言葉が浮かんでいるのに、何故か口から出てこない。選びきれない言葉の数々がひしめき合って、出口につかえているようだ。
「とりあえず、座りましょ!」
紫輝が鹿乃江を優しく誘導して座らせ、自分も向かいの席に座る。
「もうラストオーダー終わっちゃってて!」うんうん、と頷きながら、鹿乃江は紫輝の話を聞く。「もしかして、急いで来てくれました…?」
「……お待たせして、すみません…」
ようやっと整ってきた息。しかし鼓動は早いままだ。
「全然! それよりお水。お水飲みましょ! 口つけてないんで」
紫輝が目の前にあるコップを差し出す。
「ありがとうございます」
氷が溶けてぬるくなった水が、紫輝の滞在時間の長さを教えてくれる。
ゆっくりと水を飲む鹿乃江を、紫輝は膝に手を乗せた前のめりの姿勢でニコニコと眺めている。
(普段もかっこいい……)
するりとそんな言葉が浮かぶ。
紫輝に会うつもりがなかった鹿乃江は、黒のコートの中に白シャツ、ジーンズと簡素な服装。しかもノーメイクだ。きっと髪も乱れているだろう。
今更ながら、めかしもせず会いに来たことが恥ずかしくなってきた。
「すみません…なんか…こんなカッコで……」
髪を撫でつけ、申し訳なさげに鹿乃江が言う。
「え? いつもと違う感じで、それもカワイイですよ?」
(うぅ……)
臆面もなくそういうことを言う紫輝に、運動後のそれとは別の理由で頬が熱くなる。
「ありがとう…ございます……」
礼を言いながら水を飲んで様々な感情を誤魔化す。
鹿乃江が落ち着いたのを見計らって、紫輝が口を開いた。
「ありがとうございます」
「?」
「来てくれて」
鹿乃江はかしげた首をまっすぐに戻してから横に振って
「すみません……」謝った。
今度は紫輝が首をかしげる。
「その…メッセのこととか…いろいろ…」
「ぜーんぜん! きっと読んでくれてるだろうなーって思ってましたし、それに」優しく微笑んでから「いま、会えてるんで」嬉しそうに言った。
不意打ちにおなかの奥がキュンとする。
(うぅー、もうダメだぁー……)
もう隠しきれない感情。いつかと同じことの繰り返し。そのすべてが愛しくて。いつか戻った橋を、鹿乃江はまた渡ろうとしている。
予想以上に大きくなっていた感情が恥ずかしくてうつむいた鹿乃江に
「ご飯」
紫輝が唐突に言う。
「食べられましたか?」
「あ…いえ…でも……」
電車に乗る前にあった空腹感はどこかへ消えていた。
「大丈夫、みたいです」
(胸がいっぱいって、こういう状態かな……)
「前原さんは……?」
「ボクはさっき、ここで」
「良かったです」
ただ待たせていたわけではなかったことを知って、少し安心する。
「優しいっすね」
紫輝の言葉に鹿乃江が困ったように笑って、また首を横に振る。
「優しいのは、前原さんですよ?」
「えっ? オレ?」
「すごく、いつも、優しいです」
今度は紫輝が照れて、少し困ったように笑った。
なにを糸口にしようかと言葉を探る二人の間にある沈黙を消すかのように、穏やかに退店を促す音楽が流れ始める。閉店時間まであと10分ほどになっていた。
「…ゆっくり話がしたいので、場所、変えませんか」
「……はい」
鹿乃江の返答を聞いて、紫輝が上着を着て席を立つ。会計はすでに済ませているようで、キャップを被ってそのまま外へ向かった。少しためらって、数歩離れて後ろに着いていく。
「10分くらい歩くんですけど」
と、人通りの少ない小道を紫輝が慣れた足取りで進んでいく。
「今日はお仕事でしたか」
「はい、すみません。残業になってしまって、来るのが遅くなりました」
「あら。大変な日にすみません」
「あっ、そういう意味じゃなくて」
鹿乃江の言葉にフフッと笑って
「大丈夫です。わかってます」
後ろを歩く鹿乃江を振り返った。
裏路地をしばらく歩くと、急に目の前が開けた。一方通行の細い道の向かいに建っているオートロックのマンションに、紫輝が慣れた動作で入っていく。
(えっ)
鹿乃江の動揺を余所に、紫輝は小さく後ろを確認しながら無言で進んでいく。そのまま、1階に停まっていたエレベーターへ乗り込んだ。
開ボタンを押して鹿乃江が乗るのを待ってから、上階へ移動する。
(えっ、えっ)
ボディバッグから鍵を取り出し、そのままとある一室のドアを開けた。
(えっ、いいの? いや、良くなかったら連れてこないよね!?)
鹿乃江の脳内がせわしなくなっていく。
「どうぞ」
招かれて、玄関へ入る。紫輝がドアを閉めるが、鹿乃江はそのまま立ち尽くしてしまう。
「黙って連れてきてすみません。なにもしない、とは言えないので、ここで話するんでも大丈夫です」
紫輝の声が固くなっていく。
紫輝の言う“話”の内容を、鹿乃江は大体察している。むしろ察しているからこそ、ここまで着いてきた。
鹿乃江だって、もう子供じゃない。
「……おじゃま、します……」
ある意味答えのような行動を、意を決した鹿乃江がとった。靴を脱ぎ、フローリングの廊下にあがると
「防犯として、なんで」
紫輝が前置きをして、玄関ドアをロックしてから廊下へあがる。
家主に連れられて入ったリビングは、モノトーン調の簡素なインテリアでまとめられている。生活感はあまりない。
「昨日までツアーに出てて、なにもなくて…」
紫輝がキャップとバッグをテーブルの脇に置いてキッチンへ移動する。冷蔵庫からペットボトルを取り出し、お茶をコップに注いでからテーブルに置いた。
微かに水面が揺らめく。
「あっ、どうぞ」
思い出したかのように鹿乃江にソファを勧めて、自らも座った。
「ありがとうございます」
鹿乃江の声がかすかに震えている。紫輝から少し離れた隣に座り、バッグを足元に置いた。
マンションの上階にある紫輝の部屋は、外の音も聞こえない。静寂の中、隣り合ってただ座っていることが不思議だった。
緊張を紛らわせたくて、鹿乃江は自分の膝の上で指を組み握ったり放したりを繰り返す。
呼吸音が聞こえそうなほどの沈黙を破ったのは、紫輝だった。
「……鶫野さんは大人だから」
鹿乃江がギクリとする。
「年齢とか、オレの仕事とか、色々考えてくれてるのかなって」
言葉を選びながら、紫輝がゆっくり続けた。
予想とは違った話運びに、鹿乃江は内心安堵する。
「そう、ですね……」
鹿乃江の答えに「ありがとうございます」と紫輝が柔らかく笑った。
「でも、それは鶫野さんだけが抱え込むようなことじゃなくて…その…」
鹿乃江は紫輝の顔を見ることができず、膝の上で組んだ、微かに震える自分の手を見つめていた。
「オレも、一緒に考えて、乗り越えて行きたいというか……」
紫輝が少し腰を浮かせて鹿乃江に近寄る。同時に身体の向きを変えた。
「オレ、一度もちゃんと伝えてないですよね」
紫輝は言葉を切って、深呼吸をした。
「……好きです」
伝えていなかった肝心な言葉。怖くて言えなかった自分の気持ち。
「鹿乃江さんが、好きです」
まっすぐに鹿乃江を見つめながら紫輝が膝の上で拳を握り締め、
「オレと、お付き合いしてください」
言って、頭を下げた。
鹿乃江はうつむいたまま答えない。
「……ダメっすか……?」
頭を下げたままで覗き込んだ鹿乃江の顔が、耳まで赤く染まっていることに気付く。照れたような困ったような顔が、いまにも泣き出しそうだ。
「――!」
抱きしめたい衝動を抑えて、それでも触れずにはいられなくて、肩を持って鹿乃江の体を自分へ向けた。
視線を合わせようとしない鹿乃江にゆっくりと顔を近付ける。拒まれないのを確認してから、右手で鹿乃江の頬に触れ、撫でながら移動させて首筋を軽くおさえた。
間近に迫った端正な顔。
ものすごい速さで動く心臓が、体全体を鼓動させる。
額がくっつく。息がかかりそうで、無意識に呼吸が浅くなる。
「これで、本当に最後にするんで……嫌だったら、押しのけてください」
紫輝が鹿乃江の右手を取ってはだけた上着の隙間から入れ、自分の左胸に当てた。
鼓動が掌に伝わる。自分と同じように強く、速いそれに気付いて、鹿乃江は眉根を寄せた。
「…ずるい…」
思わず漏れた声。指が紫輝の服をつかむ。
その反応に紫輝が苦しそうに顔を歪めて、ゆっくり顔を近付けた。
触れるだけのキス。
離れた唇に、熱が残る。
受け入れられたことを確認するように、二度、三度と続けて軽いキスをした。
顔を離し、熱っぽく潤んだ瞳で見つめ合う。
桜色に染まった鹿乃江の頬を、紫輝が愛おしそうに親指で撫でて目を細めた。
「好き、です」
とろけそうな甘い声でささやき、鹿乃江の顔を両手で優しく包み込んで唇を重ねる。
強く打つ鼓動が指先にまで伝わり、甘くしびれる。我慢していた欲求が弾けたように、長く、深く、強さと角度を変え、会えなかった時間を埋めるように、それはしばらく続いた。
……ようやく離れた唇から小さく息を吐く鹿乃江を、紫輝が抱きしめた。
「鹿乃江さん」
「……はい」
「返事、聞きたいんすけど」
甘えるように鹿乃江の肩に顎を乗せる。鹿乃江は少し考えて
「よろしく、お願いします……」
答えた。
「それだけっすか?」
体を離して、鹿乃江の顔を覗き込む。ゆらゆらと揺れる瞳が、鹿乃江の言葉を待っている。
(うっ……犬……)
口を開いて言葉を探す鹿乃江。
「私も、好き…です…よ?」
目を細めてうんうんと頷き、あとを待つ。
「……不束者ですが…これからも、よろしくお願いします」
小さく頭を下げた。
「こちらこそ」
紫輝も同じように頭を下げて、照れたように二人で笑う。
紫輝の長い指が大事そうに鹿乃江の頭を撫でる。ふと思い立ったように、紫輝が鹿乃江のコートを脱がせた。自分も同じようにしてから身体を引き寄せ、愛おしそうに抱きしめた。
薄い布越しに触れ合った身体から体温が伝わる。
鹿乃江の胸に愛しさがこみあげて、それまでは遠慮がちに回していた腕に力を籠めた。
「……鹿乃江さん、さっきオレのことズルイって言いましたけど、鹿乃江さんも相当ズルイっすよね」
紫輝が鹿乃江の耳元に唇を押し当てながら言う。
「えっ。なにも…してない、ですよね……?」
「いやぁ、ズルイっすよ。めっちゃかわいいんすもん」
(うぅ……)
照れくささとくすぐったさとでモゾモゾと鹿乃江が動くと、
「ん?」
紫輝が気付き、腕の力を緩めた。
鹿乃江は少しだけ紫輝の身体を押し離し、照れたような拗ねたような顔で
「そういうの、嬉しいですけど…あまり、慣れてないので…」
ぽつりと呟く。
紫輝が目尻を下げて子供をなだめるように頭を撫で、鹿乃江の顔を覗き込んだ。
「じゃあ、慣れるようにたくさん言いますね」
「えっ、ちが」チュッと音を立てて紫輝が言葉の途中でキスをする。
耳まで赤くなる鹿乃江を見て満足そうにニコーと笑い、抱き寄せてから耳元で囁く。
「やっぱ、かわいいっす」
「……ありがとうございます……」
紫輝には敵わないことを悟って、鹿乃江は素直に受け入れることにした。
そっと、紫輝に身体を預けてみる。紫輝はそれを受け入れて、鹿乃江の横顔に優しく頬をすり寄せた。
「明日、お仕事ですか?」
「はい。前原さんは?」
「紫輝」
「ん?」
「紫輝でいいですよ」
「…紫輝…くん」
「はい」
顔を見ずとも嬉しそうなのがわかる。
「紫輝くんは、明日は?」
「オレは午後からっすね」
「じゃあ、朝はゆっくりできますね」待たせたうえに早起きさせるのは申し訳なさ過ぎて、思わず気遣う。
「そうっすね。だから……ホントはもっと一緒にいたいんですけど」
「はい……」
「…帰…っちゃいます…?」
体を離して鹿乃江の顔を覗き込む。
「…そう…ですね……」
正直、帰りたくない気持ちもある。やっと気持ちが通じたのだから、このままずっと一緒にいたい。しかし、正確な時間はわからないが、職場を出てからかなりの時間が経っている。
明日の出勤や終電の時間も考えて
「今日は、帰ります」
自分に言い聞かせるように口に出した。
「じゃあ、車、出しますね」
「まだ電車あると思うので」
「オレが送りたいんで、送りますね」
鹿乃江の言葉を遮るように紫輝が言う。その勢いに一瞬キョトンとして
「はい。お願いします」
鹿乃江が微笑んだ。
「ちょっと準備するんで、待っててください」
笑顔を見せてソファを離れ、背中側に落ちていた上着を取って別の部屋に入って行った。
自分の体温だけでは物足りなく感じて、そっと自分の腕を抱いてみる。自分のとは違う紫輝の体温が腕の形のまま背中に残っていることに気付き、それだけで胸がときめく。
(すき……)
ようやく対峙できた自分の気持ちをそっと拾い上げる。それは、宝石のようにキラキラと輝いていた。
「お待たせしました」
紫輝は片手に鍵を持ってリビングに戻って来た。
「いえ」
首を横に振り、コートを着て足元のバッグを持つ。
紫輝もテーブルの脇に置いてあったボディバッグを肩に掛けると
「はい」
言って、空いた方の手を鹿乃江に差し伸べた。
照れながらその手に指を添えて、鹿乃江が立ち上がる。
紫輝はその指を握って手を繋ぎ、鹿乃江を見つめた。不思議そうに見つめ返す鹿乃江に、少し腰を曲げてキスをする。
「…行きましょっか」
「……はい」
紫輝の不意打ちには、いつまで経っても慣れそうにない。
マンションの地下にある駐車場までエレベーターで下りて、見覚えのある車の前まで移動する。紫輝が空いた手をポケットに入れると、車内からガチャリと音がしてドアロックが解除された。
紫輝が助手席のドアを開け「どうぞ」と繋いでいた手を放し鹿乃江を誘導する。
「ありがとうございます」
久しぶりに乗った紫輝の車には、思い返すといまでも二人の胸を締め付ける苦い思い出がある。
すれ違い、一度は離れた二人がまた一緒に乗車する。それも、こんなに穏やかで晴れやかな気持ちで。
こんな日が来るとは思っていなかった。
数時間前までは会うつもりもなかったのに、本当に不思議だ――と鹿乃江は考える。
未来なんて、いつ何時でも、些細なきっかけと少しの行動で変わっていく。少しの勇気が未来を切り拓く。
それを教えてくれたのは、紫輝だった。
運転席に紫輝が乗り込んで、シリンダーに鍵を差し込んだ。
「次のお休みいつっすか?」
「えーっと……」と、職場から出る間際に確認したメーラーの予定表を思い出す。「しあさって…木曜ですね」
「じゃあ、その日か、その前の日の夜、会えたりします?」
「はい、どっちも大丈夫です」
「じゃあー……あさっての夜、会いましょう」
「はい」
笑顔で答えた鹿乃江に対し、紫輝がふと無言になった。
「どうしました?」
「オレ、ガツガツしてますかね?」
紫輝の質問に鹿乃江は少し考えて
「そのくらいのほうが、ありがたいです」
出した回答が予想だにしていない内容だったようで、紫輝が顔に疑問符を浮かべる。
「あー……きっと、紫輝くんがガツガツ? 来てくれてなかったら、紫輝くんのこと好きでいても、諦めてたと思うんです。たぶん私からは、行けないと思うので……」
「えっ、来てくださいよ」
「…慣れたら…がんばります」
その答えに、紫輝が嬉しそうに笑う。つられて微笑んで、鹿乃江が続ける。
「だから……ありがたいし、嬉しいです」
「……良かった」
ニヘッと紫輝が相好を崩した。その笑顔が可愛くて、鹿乃江もつられてヘヘッと笑う。
「ごめんなさい。キリないっすね。部屋に連れて帰りたくなる前に、出しますね」
嬉しそうな困ったような口調で紫輝が言う。
「はい、お願いします」
要望を受けて、紫輝がゆっくりと発車させた。前回とは打って変わった車内の雰囲気に、和やかな会話が弾む。
30分弱のドライブは、いつか聞いたカーナビの案内で終了を迎えた。
「このあたりですか?」
路肩にゆっくり停車させて、紫輝が車外を確認する。
「はい、ここで大丈夫です」
「オレ家の前まで送ります」
シートベルトを外そうとする紫輝をやんわり止めて、
「誰かに気付かれちゃったら大変なので」
鹿乃江が少し困ったように笑う。
「あー……そうっすね。スミマセン……」
「ううん? 送ってくれて、ありがとうございます」
「うん。じゃあ、また、あさって」
「はい」
微笑んで頷く鹿乃江を見つめ
「……会いたいときに会えるって幸せっすね」
紫輝が嬉しそうに表情を緩めて、しみじみと言った。
鹿乃江もつられて口元を緩める。
「うん。幸せですね」
はにかんだ鹿乃江に
「大事にしますね」
紫輝が唐突に言う。
「鹿乃江さんのこと、大事に、します」
泣きそうなくらい幸せで、愛しくて、笑みがこぼれだす。
「ありがとうございます」照れながら言って「紫輝くん」運転席へ呼びかける。
「はい」
「大好き」
不意打ちに紫輝が顔を赤く染める。
「帰したくなくなっちゃいます」
ハンドルに乗せた腕に頭を預け、熱っぽい瞳を鹿乃江に向けた。
鹿乃江は困ったようにはにかんで
「……今日は、だめです。家すぐそこですし」
自分の決心が揺らがないうちにシートベルトを外す。
「おやすみなさい」ドアを開けながら紫輝を振り返る。
「おやすみなさい。気を付けて」
「紫輝くんも、帰り道お気を付けて」車を下りて腰を屈め、車内に呼びかける。
「うん」
紫輝が手を振ると、鹿乃江も「またね」と手を振り返して、静かに助手席のドアを閉めた。家路に着く途中で振り返って、もう一度紫輝に手を振ってから曲がり角に入る。
「やべぇ~…かわいい~……」
振り返した手で頭を抱え、緩んだ笑顔で幸せの余韻に浸ってから、紫輝も家路に着いた。
鹿乃江もまた、幸せの余韻に浸りつつシャワーを浴びて眠り支度を済ませる。
しかし、ちょっと、すんなり眠れそうにない。
(明日、帰りに服、見に行こうかな……)
寝しなにスマホを操作しつつ、職場近くでアパレルショップを探す。ふと、新規ブラウザを開き【前原紫輝 好みのタイプ】と入力し、検索してみる。ズラリと出てきた結果は、雑誌のインタビュー記事の引用をまとめたものが多かった。
(見た目のこととか、あんまり書いてないなー……)
そう思いつつ、より近い日付の記事を見つけてリンクへ飛んだ。
(あ、服装載ってた)
これなら無理なくできそうだと思いつつ、引用元の掲載雑誌の発売時期に気を留めてみる。
(…これ…たぶん……)
夏頃に発売された記事から、徐々に具体的になっている。その例は、鹿乃江が紫輝に会うとき着ていた服のテイストとほぼ一緒だった。
(…………寝よう)
恥ずかしさから逃れるようにスマホをスリープしようとして、ふと思い立つ。
アプリを立ち上げて一言だけメッセを送り、眠りに就いた。
* * *
鹿乃江と晴れて恋人同士になり一夜明けた昼下がり。紫輝はテレビ局に用意された楽屋で待機していた。
画面に表示された『おやすみなさい。』という鹿乃江からのメッセを眺めて、英気が養われたところでスマホをバッグに仕舞う。
(今日も頑張ろう)
衣装に着替えながら、紫輝はニヤニヤしている。時々思い出したように、フフッと笑ったりもする。
「ねぇなに? キモイんだけど」
右嶋がかたわらにいる左々木に助けを求める。
「えっ? オレだってキモイと思ってるけど」
「奇遇だね。俺も思ってた」
「ねぇ」振り返る紫輝。「キモイキモイい言うのやめてもらえます? 傷つくんですけど」
「だってさっきからずっとニヤニヤしてんじゃん。なに?」
「えっウソ。ニヤニヤなんてしてないでしょ」自分の頬をさする紫輝。
「してたよ。思い出し笑いもしてたよ」
「えっ、ウソウソ。マジで?」
聞かれたメンバーが三人とも頷く。
「マジかー。気を付けるわ」
「きっとあれでしょ? カノジョのことでしょ?」
後藤の言葉に紫輝が一瞬固まって、真顔に戻り着替えを続けた。
「えっ?」
後藤が思わず紫輝をガン見する。いつかのようにマダマダからかおうとしていた左々木と右嶋も驚きを隠せない。
「えっ、だってやっと連絡来たって言ってたのっておとといとかだよね。そんな短期間でなにがあったの」
「……ちょっと、急展開……?」気まずそうに首を傾げた紫輝に
「え、ちょっとなに! 話せることできたら聞かせてって言ったじゃん!」右嶋が突っかかる。
「いや、まだ、もうちょっと落ち着いてからと思って」
「落ち着くってなに」右嶋は“面倒くさい恋人”みたいなことを言う。
「いーじゃん、トワ。延々オチのないノロケ聞かされるほうがキツイって」
「あー、犬も食わないやつだ」
「それケンカじゃね?」
「あれ? そうか」
「えっバカなの?」
「バカじゃないし!」
左々木と右嶋が仲良くケンカをしている横で、
「紫輝くん良かったじゃん。一時期ヒドかったもんね、魂抜けてたっていうか」
後藤が、いつか久我山の楽屋で抜け殻になっていた紫輝を思い出して言った。
「うん……。その節は…ご迷惑を……」バツが悪そうな紫輝に
「じゃあお詫びに紹介してよ、カノジョ」後藤が提案する。
「えぇ?!」
「あー、いいね」
「次いつ会うの?」
尻馬に乗る左々木と右嶋。
「…あさって、だけど……」
「じゃああさって会ったらスケジュール押さえといてね」
「えぇ? なんで? 別に良くない? 紹介とかしなくても」
「キョーミあるの! 無理ならいいけど」
と言いつつも、右嶋はすでに会う気満々だ。
「えぇー……」
困る紫輝を余所に、三人がスマホで店を探して盛り上がり始めた。その内に収録開始時間になりスタジオへ移動したので、結局その申し出を断ることができなかった。
翌日。「お店、良さそうなトコ見つけたからあとでグループに送っとくね」と右嶋に言われ、紫輝がキョトンとした。
「えっ? 忘れたの? おじいちゃん」
「……あぁ! えっ? 気ぃ早くない? 鹿乃江さんの都合もわかんないのに」
「カノエさんって言うの?」
「えっ……うん」
「写真ないの写真」
「ないよ」
「この写真じゃカオわかんないしなー」と左々木がスマホを操作して、いつかの雑誌記事を表示させた。
「ちょっとやめてヨ」
完全にイジられている。
「会えるのたのしみだなー」
「オレらだって最近スケジュール合わないのに、すぐにはムリでしょ」
「そこをなんとかするのがリーダーの仕事でしょ?」
「いや、所沢さんの仕事でしょ」
名前を呼ばれ、かたわらでスケジュール確認をしていた所沢が顔をあげる。
「なに?」
「所沢さーん」
「なに」猫なで声の右嶋をあからさまに警戒する所沢。
「おやすみちょーだい♪」
「えっ? いつ?」
開いていたスケジュール帳を確認して右嶋に問いかけるが
「えっ、わかんない。いつ?」右嶋は答えず紫輝に問う。
「えっ、オレもわかんない」問われた紫輝も、右嶋に負けじとキョトン顔だ。
「空けたい日あるなら善処するから、決まったら教えて」所沢の提案に
「はーい」と右嶋、
「はーい」左々木、
「はーい」後藤が返事し、
「はーい」と紫輝の手を挙げて右嶋が代返した。
「えっ? 全員? いーけど別に」
「所沢さんも一緒に行こうよ~」
「いいよ別に。紫輝のカノジョとか、俺が会ってどーすんの」
「えっ、聞いてないフリして聞いてるのズルくないっすか?」
「別に聞いてないフリはしてないよ。仕事してただけだよ」
「そうっすけどー」
「応援するけど羽目は外さないように。あと、なにかあったらすぐ報連相ね」
「はいっ」所沢の急な業務口調に、紫輝は背筋を伸ばして返事する。
「後藤、左々木、右嶋は会ったあと、どんなコだったか俺に報告すること」
「らじゃー」敬礼して返事する三人に
「いや、要らないでしょ報告」紫輝がツッコミを入れる。
「これも仕事の一環だから」うそぶく所沢に
「いやいやいや。別にいーですけど」
苦笑しながら紫輝が頭を掻く。
さて、鹿乃江になんと説明したものか、と考えつつ、待ち合わせ時間を決めるためにメッセを送信した。
* * *
指定時間通りにインターホンが鳴る。いそいそと室内機の通話ボタンを押し「いま開けます」応答して、開錠ボタンを押した。
『ありがとうございます』
スピーカーから礼が聞こえて、モニタから鹿乃江の姿が消える。
ほどなくして、もう一度違う音色でインターホンが来客を知らせた。と同時に紫輝がドアを開ける。
「わぁ」
そんなにすぐ開くとは思っていなかったようで、コートを抱えた鹿乃江が小さく声をあげて驚いた。その反応に紫輝が小さく笑って、
「どうぞ」招き入れる。
「おじゃまします」
二度目の来訪に、まだ慣れていない鹿乃江が少しソワソワした面持ちで紫輝のあとに続く。
「すみません、遅い時間になっちゃって」
「全然。お仕事お疲れさまです」
「鹿乃江さんも……」
リビングに着き振り返ったと同時に、なにか言いたげに紫輝が鹿乃江の全体を眺める。
すぐに服装を見ているとわかった鹿乃江が
「…変、ですか……?」服を撫でながらおずおずと尋ねる。
「いえっ! 似合ってます! その……」照れた顔で首筋を撫でながら「かわいい、です」あらたまった口調で言う。
「ありがとうございます……」
照れて笑って、少しの沈黙。
「あっ。飲み物持ってきますね」
「手伝います」
一緒にキッチンへ移動して、冷蔵庫を覗き見る。
「なににします?」
「んー。オレンジジュースにします」
「はい」
紫輝から紙パックを受け取り「ありがとうございます」開封する。
「オレも同じのにします」
「はい」
二つ並んだグラスにオレンジジュースを注いだ。
「持っていくので、仕舞ってもらっていいですか?」
「はーい」
グラスを持って移動する紫輝の背中に返事をして、鹿乃江は元の場所に紙パックを入れて冷蔵庫を閉じた。
リビングへ移動すると、ソファに座った紫輝が自分の横の座面をポンポンと叩く。ここに座ってという意味だろう。
トコトコと歩み寄って、少し離れた隣に座る。座面に置いた手を紫輝が掬い取り、指を絡ませた。
まだまだ慣れなくて、内心ソワソワしてしまう。
「今日は忙しかったですか?」
「そこまでじゃなかったです。フロアも落ち着いてたみたいで」
「それは良かった」
「紫輝くんは?」
「オレも今日は余裕でしたね。メンバーと一緒に雑誌の取材受けて……」と、現場でのことを思い出し、あ、と小さく声を上げる。「あのー……」
「はい」
「実はですね……」
言いづらそうに空いたほうの手で首筋をさする紫輝。鹿乃江は黙って言葉の続きを待つ。
「うちのメンバーが、会わせろって言ってまして……その……鹿乃江さんに」
「えっ」
(なぜ)
鹿乃江の単純な驚きに紫輝が苦笑した。
「集まる店ももう大体決めてるとか言ってて……。あの、全然。断ってもらってかまわないんで」
「いや……断る理由もないですし…紫輝くんがいいならいいですけど……」
「えっ」
「えっ?」
お互いの反応を確認するような静寂のあと。
「ことわったほうが良かった……?」おずおずと鹿乃江が口を開いた。
「いえ! いえいえ! ありがたいっす!」
答えを間違えたかと思った鹿乃江が、「良かった」ホッと息を吐く。
「いつ頃なら大丈夫とかあります?」
「いつでも大丈夫です。いまの時期、そんなに忙しくないので」
「もしかしたら、ちょっと先のハナシになっちゃうかも……」
「はい。前もって言ってもらえれば、調整します」
「良かったー」今度は紫輝が安堵した。「先のハナシはわからないって言われたらどうしようかと思ってたんで、安心しました」
「繁忙期も大体決まってるので、そこまで先じゃなければ……」
「あ、いや、そうじゃなくて……」紫輝は少しためらってから「オレらのことです……」続ける。
「ん?」
「この先も付き合ってるかわからないし、的な」
「あー」
「えー!」
紫輝の反応に鹿乃江がフフッと笑う。
「ウソウソ。ごめんなさい。私からは言わないですよ」
「オレも言わないよ」
紫輝の回答に鹿乃江がデレッとした笑顔になって、
「うん」
嬉しそうに頷いた。
それを見た紫輝も同じような顔になると、繋いだ手を放し、鹿乃江に向かって両手を広げる。
意味はわかっているが動けない鹿乃江に
「鹿乃江さん」
紫輝が優しく呼びかけた。
おずおずと近付く鹿乃江を優しく見守り、遠慮しつつ腕の中に納まる彼女を抱き寄せて紫輝がまぶたを閉じた。呼吸をすると鹿乃江の使っているシャンプーが微かに香る。
会いたくても会えず、触れたくても触れられなかった愛しい人がいま、自分の腕の中にいる。その幸福を実感し
「あーやべぇ。まじ幸せっす」
噛み締めるように紫輝が言う。
「……うん、幸せ、ですね」
鹿乃江も嬉しそうに、肩に頬をすり寄せた。
「鹿乃江さん」
「はい」
「今日……泊まって、いけます…?」
紫輝が固い声で切り出す。
「……はい」
鹿乃江の答えを聞いて、紫輝が背中に回した腕に力を込めた。
二人の鼓動が速くなる。お互いにそれが伝わって、気恥ずかしさに頬を染める。
「変なことは、まだ、しないんで……」
「……まだ……?」
「……いずれは、します。近いうちに……」
「…うん…。待ってます……」
鹿乃江の答えを聞いて紫輝が少し身体を離し、ゆるく抱きながら鹿乃江の肩におでこをつけた。
「それ、待てなくなるんでダメです」
こういうとき、紫輝は歳相応の青年になる。
(かわいい……)
鹿乃江は紫輝の側頭部に顔を寄せ、身体の隙間から手を伸ばして紫輝の背中と頭に乗せた。
紫輝が鹿乃江の肩口におでこをすり寄せて体重をかける。そのまま足を座面に乗せて、身体を押し倒した。
覆いかぶさる体制で鹿乃江を見下ろす。
色気を湛えたまなざしを受け止めきれず、鹿乃江は少し困ったように視線をさまよわせて、小さく顔を背けた。
その仕草さえも愛しくて、おでこに、頬に、まぶたにキスを落とす。
困ったままの顔で潤んだ瞳を向ける鹿乃江の唇に、紫輝が優しく、すり寄せるようにキスをした。髪や頬を優しく撫でながらそれはしばらく続いて、名残惜しそうに離れた。
上気する鹿乃江の頬を親指で優しく撫でて、紫輝が微笑む。
「今日は、ガマンしますけど、抱きしめたまま寝るんで、覚悟してください」
「……いわなくて…いいですよ……」
恥ずかしさに耐えかねて、困ったようにぽつりと呟く。
「言っておかないと、まだちょっと不安なんです」
鹿乃江に拒まれた記憶が、前の恋の経験が、紫輝に逡巡をもたらす。
その感情に覚えがある鹿乃江は、一瞬のハッとした顔になり、泣き出しそうな、困ったような笑顔を見せた。
「いわなくて、いいですよ?」
言いながら、紫輝の身体を抱き寄せる。
同じ言葉で違う言い回しのその意味を紫輝が酌んで、
「うん」
顔を緩ませ、身体を預けた。
* * *
付き合って二か月ほどが経ち、ようやくFourQuartersと鹿乃江の都合が合うときが来た。
右嶋が予約した洒落た居酒屋の個室でテーブルを囲む。
左々木、右嶋に遅れ後藤と紫輝が、さらにその少しあとに鹿乃江が到着した。週刊誌に待ち伏せされても大丈夫なように示し合わせた時間通りだ。
「お疲れ様です、お邪魔します」
個室のドアを閉め、鹿乃江が挨拶をする。
「こんばんはー、初めましてー」
と、フォクのメンバーが口々に言う。それに答える鹿乃江に
「鹿乃江さん」
紫輝が呼びかけ、手招きをする。
「いまちょうどなににするか決めてたんです」
「あっ、そうなんですね」
壁面に取り付けられたハンガーにコートをかけ、隣に着席した鹿乃江に紫輝がメニューを広げて見せる。
全員分の希望を取りまとめて、左々木がオーダーした。
「ご挨拶遅れてすみません。鶫野と申します」
業務口調で鹿乃江が言って頭を下げると、それに続いて各々が簡単に自己紹介した。
「こないだのライブ、来てくださってたみたいで」
「はい、とても楽しかったです」
「チケット取るの大変じゃなかったですか?」
後藤の問いに
「……職場の後輩に、みなさんのことが好きな子がいて…その子に連れて行ってもらいました」
言っていいものかどうかと一瞬悩んで、簡潔に伝える。
「あ、そうだったんですね」
答えたのは紫輝だ。
「え、知らなかったの?」
「なんか色々あって聞き忘れてた」
ねっ、と紫輝が鹿乃江に同意を求めると、鹿乃江がうんと頷く。
「じゃあちょっと、そのあたりの話から聞かせてもらおっかなー」
組んだ指の上に顎を乗せたアイドルポーズで、右嶋が可愛らしく首をかしげる。
(わあぁー。プロすごいー)
園部から度々聞かされてはいたが、右嶋にはそこらの女性では敵わない“女子力”が備わっていた。
「そのあたりってどのあたりよ」
「ツアー終わってから付き合うまでの間、短すぎなんじゃね? ってことでしょ」
「そうそれ」左々木を指さして右嶋がウインクする。
「今日まで二か月もあったのになんで聞かなかったの」
「だってこうやって身内だけで話せるような機会なかったじゃん」
「まぁ確かにそうだけど……」
「で? なにがあって付き合うようになったの?」
「えー?……メッセで呼び出したら来てくれて…オレから付き合いましょうって言ったら、オッケーしてくれた」
「簡潔過ぎない?」
「だってあんまり細かく話すのも……ねぇ」
紫輝が気まずそうに鹿乃江に問いかける。
「んー……」
良いとも駄目とも言いづらくて、答えを言い淀む。
「あんだけ泣いたりわめいたりしてたから、もっとドラマチックなの期待してた」
「泣きはしたけどわめいてはいない」
(えっ、泣いたの?!)
考えが顔と動作に出たのか、紫輝がハッとして「いやっ! 違うんです! 泣いたのは一回だけで!」慌てて弁明した。
「あれでしょ? オレらだけのダンスリハの日」
「あったねぇ! あれなんで泣いてたの?」
「すーごい突っ込んでくんじゃん。恥ずかしいんだけど、そんなの言うの」
「だってボクらが聞かないとつぐみのさんだって聞けないじゃん」
「聞いたほうがいいこととそうじゃないことがあるでしょ」
「それはつぐみのさんが決めることでしょ」
紫輝の抵抗をものともせず、右嶋はガンガン攻め込んでくる。
「ねっ。つぐみのさんも聞きたいですよねっ」
相変わらずのアイドルスマイルで無邪気に笑いかける。
(三月が見たら卒倒しそう……)
「聞きたいですけど……前原さんが嫌だったら、無理に言わなくても大丈夫…ですよ?」
「えー、つぐみのさん優しすぎー」
右嶋が不満げに唇を尖らせた。
「初対面の人にあんまりわがまま言うんじゃないの」
左々木が保護者のように右嶋をなだめる。
「えー」
次はどの方向から攻めようかと企む右嶋を遮るように、個室のドアがノックされた。「失礼いたします」店員が飲み物と食事を配膳しに入室する。
若い男性が四人ともなると、食事の量もすごい。
六人掛けの大きなテーブルに所狭しと皿が並ぶ。
すべての飲み物と食事が揃ったところで、「紫輝くん音頭とってよ」後藤が促した。
「じゃあ……これからもよろしくお願いしますの意味を込めて…乾杯」
「かんぱーい」
口々に言ってグラスを合わせる。
「いただきまーす」
両手を合わせてフォクと鹿乃江が言う。
地鶏をメインにした居酒屋で、食事がかなり美味しい。
「んっ、美味しい」
鹿乃江が思わず言うと、フォクも口々に美味い美味いと喜んだ。
「トワこのお店よく見つけたね」
「前から気になってたんだけど、ひとりじゃあんまり種類食べられないなーって思ってたんだよね」
「うん、人数いたほうがいいね」
もっと緊張するかと思っていたが、普段のフォクは普通の青年となんら変わりない若者たちで、場はとても和やかな雰囲気だった。
職場の後輩たちとの食事会を思い出すが、それでもやはり、話す内容は同年代の身近な二十代よりも大人びていた。芸能界という特殊な世界で生きていくには、相当の努力や覚悟が必要なのだろう。
箸を動かす手が落ち着いてきたところで、
「なんか、紫輝くん距離近くね?」
隣に座る鹿乃江との距離を向かいの席から見比べ、後藤が唐突に言った。
「ホントだね。つぐみのさん食べづらくなかったの?」
「オレら別につぐみのさんとったりしないよ?」
素晴らしいチームワークで右嶋と左々木が続けざまに言うと
「いーでショ! 別に」
紫輝が口をとがらせる。
鹿乃江は何も言わず、ニコニコとそのやりとりを眺めていると、
「そのヒト、ストーカー気質あるんで気を付けてくださいね?」
後藤が神妙な顔つきで告げた。
「――――…はい」
「えぇ?!」
鹿乃江の答えが予想外だったようで、紫輝が思いのほか驚いた。
「自覚ないとかヤバいわー」左々木が顔を歪めて言う。
「胸に手ぇ当てて考えてみ?」
後藤に言われるがまま、掌を胸に当て天を仰いだ。国家を斉唱しそうなポーズの紫輝が、何かに気付いた顔をして口を開く。
「あっ、オレヤバいわ」
「今更だよー」右嶋が無邪気に笑う。
「だってね、つぐみのさん。こいつツアーのとき」
「待って」手で後藤を制す紫輝。「それはダメ」
「え? いいじゃん」
「だってあの時みんななんか引いてたじゃん」
ジャスミン茶を飲みながら、鹿乃江は皆の会話を眺めている。
「えー、じゃあ、つぐみのさんのハナシ聞いて判断しよ」
右嶋に急に話を振られてキョトンとした。
「シキくんにされて一番びっくりしたのってどんなことですか?」
「えー……っと」
言ってもいいものか、確認のために紫輝を見る。
「……どうぞ……」
どこか不安げな紫輝の承諾を得て、鹿乃江は少し考える。
「私の職場に、来てくれたこと、ですかね……」
「約束してたんですか?」
「いえ。えっと……」
どう説明していいものか悩んで、再度紫輝を見る。
「あー……なかなか連絡が取れなかったときがあって、どうしても会いたかったから、鹿乃江さんの職場で、帰るの待ってたことがあって……」
一瞬の静寂。
「ヤダ。ホントのストーカーじゃん」
「えっ、なに? さらおうとしてたの?」
「付き合う前でしょ? ヤバくない?」
「会いたかったんだから仕方ないじゃん」
「えー、でもじゃあ別にいいじゃん。メッセの画面スクショするくらい、聞いても引かないんじゃない?」
「ちょおぉい!」
「ん?」
「ゆってんじゃん! なんで言っちゃうの!」
「別に隠すことじゃないでしょ。つぐみのさんキョトンとしてるけど」
「や! 違うんすよ!」鹿乃江のほうに体を向け「めっちゃ久々に返信もらってうれしくて!」紫輝が必死に弁明する。
うんうん、と小刻みに頷く鹿乃江。受け入れる、というよりは、ちゃんと聞いていることへの意思表示だ。
「いつでも見れるようにしておきたくて」
うんうん。
「待ち受けにはしてないんで、安心してください」
ん? うんうん。少し疑問符を浮かべながらも、鹿乃江が相槌を打つ。そもそもその発想が若干アレだ。
「優しいカノジョさんで良かったネ」
「そうなの、優しいのよ。こないだも」
「いや、ノロケを誘導したわけじゃないだナ」
「えー、いいじゃん。そういうの聞いてくれる会なんじゃないの?」
「えっ」当事者になりえるであろう鹿乃江が驚く。
「え? ダメっすか?」
「私がいないところでなら……」
鹿乃江の耳が赤くなっていることに気付いて、
「そっすね。すみません」
謝りながらもデレデレする紫輝を、メンバーが薄ら笑いながら見ている。
それに気付いた紫輝は真顔に戻り、体の向きをメンバーのほうに変えた。それでも対面席の薄ら笑いは収まらない。
「はいはーい」と右嶋が挙手する。「二人の出会いはどんなだったんですかー?」エアマイクを持ち、自分の口元から紫輝たちのほうへ向ける。
「えぇ?」
二人で言って、顔を見合わせる。鹿乃江が紫輝に手で“どうぞ”と促したのを受けて
「……みんな覚えてるかわかんないけど、オレ、ロケ先でスマホ失くしたときあったじゃん?」
紫輝が話し始めた。
都心から少し外れた観光地の繁華街。ホビーショップの店内で撮影を終え次の現場へ行くべく、少し離れた場所に停車中の移動車へ戻る。その途中で紫輝が胸や腰あたりをパタパタと掌で探った。
「あれ?」楽屋にスマホを忘れたことに気付き「ごめん、ちょっと戻ってスマホ取ってくる」マネージャーとメンバーに声をかけると、
「俺も行こうか?」先を歩いていた所沢が振り返る。
「車の場所わかるんで大丈夫っすよ」
「そう? じゃあ先行くんで、気を付けてね」
「はい」
小走りにいま来た道を戻る。まだ残っていた撮影スタッフに軽く事情を説明して、バラしかけの簡易楽屋に入れてもらった。
座っていた椅子の上にぽつんと、紫輝のスマホが鎮座している。
「あったあった」
ジーパンのポケットに入れたとき、なんらかの拍子に滑り落ちたのだろう。
「すみません、ありました。ありがとうございます」
また落としたら嫌だな、と、ポケットには入れず手に持ったまま移動をする。
顔を合わせるスタッフに「お疲れ様です」と挨拶をしつつ小走りでビルを出ると、道向かいにいる数名の女性グループが紫輝に気付き沸き立った。
(やべっ)
少し離れたところにしか横断歩道はない。交通量も多くすぐに渡っては来れないが、声をかけられるのも時間の問題だ。
行きかう車体に隠れて、横目に見えた小道に入る。
後方を気にしつつ路地を抜けて大通りに出ると、目の前に突然、人影が現れた。
「ふぁっ」「うぉっ」
思わず両手を開き、顔の横に掲げる。
「「ごめんなさい!」」
自分の声に女性の声が重なった。
ホールドアップした紫輝の目の前に、驚き顔の女性が立っている。その姿を見た瞬間、紫輝に一種のひらめきが生まれた。
(えっ、いやっ、でもっ!)
一瞬の葛藤。しかし、ここで言わなければもうきっと、この先一生出会えない。
「あのっ! オレっ!」
意を決して呼びかけるが、いま来た道の向こうから「あれ前原くんだったよね」「えー、どっち行ったんだろ」先ほどのグループと思しき女性たちの声が聞こえた。
(タイミング~!)
ここで見つかると騒ぎになり、周りに迷惑をかけてしまう。
「ごめんなさい」
もう一度言って、数メートル先に停まっている移動車に向かう。
(いやいやいや! えっ?! オレ、なに言おうとした?! 言ってどうなる?!)
初対面の、道端でぶつかりそうになっただけの相手。しかし、紫輝はそれだけじゃない感情を抱いてしまった。この機会を逃したら、もう二度と会えないであろう相手に。
バンの後部座席を開けて車内に滑り込む。
(もし、万が一また会えたら、絶対チャンス掴もう)
恐らくとても低いであろう再会の機に、想いを託すことにした。
「おかえりー」
「あったの? スマホ」
「あったあった。あれ……?」と右手を見る。持っていたはずのスマホがない。「えっ? あれっ?」言いながら、胸や腰あたりをパタパタと掌で探る。
「えっ? うそでしょおじいちゃん」
紫輝の姿を見て、右嶋が引き気味に言う。
「いやいや、えっ? ウソウソ。落とした音しなかったじゃん」
「なにぃ?」騒ぎに気付き、後部座席で寝ていた左々木が起きる。
「おじいちゃんがさっき取ってきたスマホまた落としたんだって」
「おじいちゃんってやめて」右嶋の言葉を紫輝が否定する。
「えー? なにやってんの」と左々木。
「どこら辺まで持ってたの」と後藤。
「え? さっき、カワイイコとぶつかりそうになったときまで」
後部を振り返り、リアガラスから外を見る。
“カワイイコ”はあの場所にはもういない。
「どの辺?」黙って話を聞いていた所沢が、運転席から問いかける。
「あの、駅ビルと小さい店の間から出てきたあたり」
所沢は車内のメーターパネルで時間を確認して
「わかった。ちょっと待ってて」
車を降りて紫輝が言う場所まで小走りに向かう。
件の道のあたりをザッと見まわし、すぐ目の前の店先にいたスタッフと会話をしてから車内に戻る。
「落ちてなかったし、拾っても届けられてもないって」
「マジかー」
しかし、紫輝の希望が一つ残った。
(そうだといいな……)
一縷の望みを抱いたとき、
「ねーねー」
「カワイイコってどんなコー?」
右嶋と左々木が紫輝に問いかける。
「いや、どんなコって……」
「出しますよー」所沢がゆっくりと発車させる。
“カワイイコ”の顔を思い出そうとして、紫輝がハッとした。
「やべっ! 久我山さんっ! ちょっ、誰かスマホ貸して! オレ今日、夜、久我山さんとメシ行くのにスマホない!」
「えー? ジュース1本~」
「じゃあオレ2本~」
「オレ3本~」
「いや増えるのおかしいでしょ」
結局、隣に座っていた右嶋に借りて久我山に連絡を入れる。
その夜、紫輝は久我山の協力を得て、鹿乃江に再会する約束を取り付けた。
「へぇ~」
と、紫輝以外の四人が声をそろえる。
「あれ? オレ鹿乃江さんにも話してなかったでしたっけ?」
「はい。初めて聞きました」
「つぐみのさん、紫輝から連絡来たとき、どう思いました?」
「ビックリしました。最初、どこから通知音が鳴ってるのかわからなくて」
当時を思い返して話す鹿乃江の言葉に、四人が不思議そうな顔を見せた。
「あ、えっと……知らないうちにバッグの中に入ったみたいで、前原さんのスマホ。だから、どこから通知音がしてるのかわからなくて」
「えっ、拾ったんじゃないんですか?」驚いたのは紫輝だ。
「はい。多分、ぶつかりそうになったとき、開けてたバッグの中に偶然入っちゃったんですよね。それに気付かずに持って帰ってしまって……」
「だから落とした音しなかったんだ」
思い返して紫輝が納得した。
そういえば、と最初のメッセの“何故かバッグに入ってしまって”という一文を思い出す。ぶつかりそうになったとき、とっさにホールドアップしたから、そのとき手放してしまったのだろう。
メッセで読んだときはさほど気にしていなかったが、それはそれですごい確率ではないかと今更ながらに思う。
「えー、じゃあすぐ気付いてたら、ふたり付き合ってなかったかもってこと?」右嶋が問う。
「そうですね。すぐ気付いてたら、その場で渡すか警察に届けるかしてたので」
「えーでも、ケーサツ行けば誰が拾ってくれたかわかるんでしょ? 紫輝くんならそこから連絡先突き止めてたりしてたんじゃない?」
「もちろん」佐々木の予想に何故か自信満々に答える紫輝に、メンバーが若干引く。
「あー……届出人情報は開示しないようにしてたと思うので、多分…」
と鹿乃江が言ったところで、またメンバーの顔に疑問符が浮かぶ。
「あっ……」職業柄の知識だということに気付き「誰が届けたかを教えるかどうか、届けた人が選べるようになってるんです。なので」補足した。
「へー!」
「じゃあ偶然が重なって出会えたんだねー」
運命だ、運命だとメンバーが口々に言う。
なんだか少し気恥ずかしい。
「でもオレたぶん、その場で渡されてたとしても連絡先聞いてましたよ」
「さすがに初対面の人には教えないかな……」
「じゃあメッセのID聞いてた」
「覚えてない……そもそもID検索できる設定にしてない……」
「え、じゃあマジでヤバかったってこと?」
「ヤバかった……のかな?」
紫輝の言う“ヤバい”の意味が微妙に汲み取れなくて、疑問混じりの受け答えになってしまう。
「いやぁ! これはマジ運命っすね!」
最終的に紫輝がメンバーに同調して、嬉しそうにくしゃっと笑った。
(若さがまぶしい!)
いつか久我山と三人で食事に行ったときのことを思い出す。
これまでは素直に受け入れることが恥ずかしかったが、紫輝のストレートな感情表現に触れるたび、薄く張った被膜がはがされていった。
まだまだ戸惑いは隠せないが、嬉しいことに変わりはない。しかしやはり、突然のまぶしさに対処できるほどの経験値はまだないようだ。
「結婚は?」唐突な後藤の質問に、
「いずれするよ?」紫輝が当然という顔で肯定した。
「えっ?」鹿乃江の反応に
「えっ?」紫輝が同じ言葉を繰り返す。
「つぐみのさんイヤみたいよ?」
「ややや。嫌ではないですよ?!」
「おぉー」左々木と右嶋の反応に、何故か後藤がニヤリと笑う。
「えっ? あっ?」慌てて隣を見ると、紫輝が苦笑していた。
「すみません、いつもこんな感じなんです」
「あぁ」
意外に冷静な紫輝の態度に、笑みを湛えたままクールダウンする。
当事者の二人を余所に、右嶋と左々木が「いずれ」「いずれ」と盛り上がっている。
「うるさいですよね、ごめんなさい」
「全然? 楽しいです」
「良かった」紫輝が笑顔になって「あんまり困らせないでよ」三人からかばうように鹿乃江の前に腕を伸ばした。
「ごめんって。お似合いだからつい」後藤が言って「みんななんか追加する?」メニューを開き、皆に見せた。
わいわいとメニューを眺めるフォク。鹿乃江も同じように視線を移すが、心ここにあらずだ。
正直、予想外の戸惑いに自分で少し驚いた。
結婚願望が強いわけではないが、どうしたって意識はする。
落ち込んではいないが、普段気付かない自分の一面に触れたような気がして、少し動揺している。
しかし、この先ずっと一緒にいるなら、いずれは通る道だ。
(いつか、伝えないと……)
躊躇の大元にある不安が頭をもたげる。
いま感じるべきではない緊張をほぐすために、腿の上に乗せた手を握り合わせる。その、いつもの鹿乃江の癖に気付いた紫輝が、自分の手を被せて握って指を解きほぐし、そして絡めた。
そっと盗み見た紫輝の横顔は、穏やかな微笑みを湛えている。
その表情から紫輝の言いたいことがわかって、指先だけで紫輝の手を握り返すと、鹿乃江はこっそり安堵の笑みを浮かべた。
紫輝は繋いだ手をそのまま自分の腿の上に移動させる。そのぬくもりが抱きしめられているときに感じるそれと同じで、張り詰めた気持ちが緩やかにほどけていく。
パシャリ。
唐突な機械音と同時にテーブルの下が一瞬光った。
「ラブラブじゃ~ん」左々木が後藤、右嶋に撮ったばかりの写真を見せる。そこには、繋いだ二人の手が写っていた。
「ちょっと盗撮!」指をさしてツッコむ紫輝に、
「あとで送るね」紫輝に向かって左々木が言う。
「それは、うん」
「えっ」
「鹿乃江さんにはオレがあとで送りますよ?」
「んっ?…うん」
戸惑いの笑顔を浮かべる鹿乃江とは対照的に、紫輝は満面の笑みを浮かべる。
「甘やかすのも程々にしないと、そのヒトつけあがりますよ?」それを見ていた後藤が、鼻にシワを寄せて苦々しく忠告した。
「人聞き悪いなオイ」
(メンバーさんといるときってこんな感じなんだなー)
二人きりのときと違うだろうことは予想できていたけど、テレビやライブ映像とはまた違った雰囲気に新鮮さを感じる。いつもより少し幼くて、そこがまた可愛い。
「あんまり甘やかさないように気を付けます」
笑いながら言った鹿乃江に「えぇっ」と驚く紫輝と、頷く後藤、右嶋、左々木。
「あれっ、オレだけ仲間はずれ?」
「感性が違うんじゃない?」右嶋のフォローに
「個性的ってことだよ」後藤が付け足す。
「そう? そうかな?」
素直な紫輝はそれを受けて、ヘヘッと笑った。
(純粋でかわいー)
鹿乃江がデレッとした笑顔になったのを見て、
「良かったね、紫輝くん」
後藤が嬉しそうに言って、左々木と右嶋がうんうんと頷いた。
「うん、ありがとう」
「もうワンワン泣いたりしないでね」
「ワンワンは泣いてない」
右嶋に話を蒸し返されて、紫輝は不服そうに反論した。
会食も終わり、壁面にかけていた上着を各々が着ているとき
「つぐみのさん」後藤がソッと近付き、呼びかけた。
「はい」
「紫輝くん、マジでつぐみのさんのこと大事に想ってるんで、俺が言うのもおかしいかもですけど、あいつのこと、よろしくお願いします」
「はい。私も大事にします」
後藤は鹿乃江の答えを聞いて、ホッとしたように微笑む。
「前原さん、愛されてるんですね」
その反応を見た鹿乃江が思わず言って、後藤の表情に気付き口をつぐむ。
「そうなんですよ、愛されてるんです、紫輝くん」だから、と後藤はニヤリと笑い「男女関係なくライバル多いんで、取られないようにしてください」冗談めかして言った。
「はい。がんばります」
笑いながら答える鹿乃江と一緒に後藤も笑う。
「あー、ちょっとなになにー。仲良しじゃなーい? いいなー」
鹿乃江と後藤の間に、右嶋が割って入る。
「シキくん、カノジョとられちゃうかもよ?」
「えっ! だめだめ! オレのっ」
反対側の壁際にいた紫輝が、大股で近付いて鹿乃江を引き寄せた。唐突に位置を移動させられて、鹿乃江がキョトンとした顔になる。すぐ近くにヤキモチを妬いた紫輝の顔。思わず後藤を見ると、やはり後藤も同じようにキョトンとした顔をしている。
「信用なーい。ねっ」
左々木の言葉に、後藤と鹿乃江は顔を見合わせて、少し残念そうな顔を見せて肩をすくめた。
「えっ、違う違う! してる! 信用! 信用してます!」紫輝は後藤と鹿乃江を交互に見て、慌てて弁明する。表情がかなり必死だ。
「こういうとこっす」後藤が言った。
「わかります」
その言葉に真顔で即答した鹿乃江と、後藤が一緒に頷き合って、そして笑う。
「なんすか? えっ? なに?」突然の意気投合に紫輝が声を裏返らせて鹿乃江と後藤を見比べる。
「なんでもないよ。ねぇ」
「はい。なんでもないですよ?」
どう言えば適切なのかと言葉を探す紫輝の横で、右嶋が後藤と鹿乃江を交互に見て口を開いた。
「なんか、ごっちとつぐみのさんって、似てるよね」
「えっ」
「そうですか?」
後藤と鹿乃江が意外そうな顔を見せるが
「あー、雰囲気ね。わかる」
左々木が右嶋に同意して、後藤と鹿乃江を遠巻きに見る。
「一緒にいて落ち着く感じとか、ちょっと離れて優しく見守る感じとか」
「ね」
「うん」
「え、ちょっとやめてよ。二人とも俺のことそんな風に見てたの?」
引き気味に問う後藤に、
「うん」
左々木、右嶋に加え、紫輝まで同調した。
「わぁー、やだぁー、やめてぇー?」
後藤は自分で自分の体を抱いて、両の腕をさする。
「帰ろー。もう帰ろー」
そのままの体勢で小さく首を横に振りながら出口へ移動した。
後藤に続いてフォクの三人が出口へ向かう。その少しあとから鹿乃江。
人がいないのを確認して、ホールで一緒にエレベーターの到着を待つ。仕事の話はせず日常会話を楽しんでいるフォクは、普通の親友同士のようだ。
「あ、エレベーター来たよ」
カラのエレベーターにフォクが乗り込む。
「じゃあ、先に行ってますね」
「はい」紫輝の言葉に返事をしてから「ありがとうございました、楽しかったです」後藤、左々木、右嶋に声をかける。
「こちらこそ」
「ありがとーございましたー」
「またご飯行きましょうね~」
四人を見送り、鹿乃江は一人、ホールに残った。
(たのしかったな)
独り占めしたら罰が当たりそうな贅沢な時間を過ごせたことに感謝しつつ、下で鉢合わせしないように数回目に上がってきたエレベーターのかごに乗り込んだ。
紫輝とは少し離れた裏道で待ち合わせをしている。そこでタクシーに乗り込んで、二人家路に着く予定だ。
エントランスからビルを出る。紫輝から送られてきた地図を頼りに歩き進むと、一台のタクシーが停車していた。後部ドアが開きっぱなしだったので、遠慮がちに中を覗き込む。
「あ」
それに気付いた紫輝が小さく手を振り、中へ招き入れる。
「お待たせしました」鹿乃江がシートに座りながら運転手と紫輝に言う。
「じゃあ、お願いします」
「はい」
紫輝はあらかじめ行き先を伝えていたようで、運転手に声をかけるとドアが閉まり、ゆっくりと発車した。
タクシー内での会話はないが、紫輝が着ているオーバーサイズコートの袖に隠して軽く手を繋ぐ。アルコールを飲んで少し酔っている紫輝の指が、いつもより熱い。撫でるように動く親指がくすぐったくて、窓の外を見ながらも口元がゆるんでしまう。
数十分走ったところで「カーナビだとこのあたりなんですが~」と、運転手が確認した。
「はい、そこの信号の手前で大丈夫です」
紫輝の回答に「はい~」と答えて、運転手はゆっくりと路肩に停車させた。
「ありがとうございます」
支払いを済ませ、礼を言ってタクシーを降りる。先月までの身を縮めるほどの寒さはない。少し温もりを帯びた風の匂いが春を予感させる。
マンションから少し離れた裏通り。念のためキャップと眼鏡で変装している紫輝と二人、周囲を少し警戒しつつ手を繋いで並び歩く。自分のものとは違う肌の温度と感触が心地よい。
人通りはなく、道端に駐車できるような広さもないので週刊誌に狙われる心配もないだろう。
「へへっ」と急に照れたように紫輝が笑った。
「ん?」鹿乃江が右側を歩く紫輝の顔を覗き込む。
「いや……」にやける口元を隠すように折り曲げた指を唇に当て「いいなぁ、と思って。こういうの」うつむきがちに言って鹿乃江に視線を移す。
「うん。いいですねぇ」照れ笑いが伝染して、エヘヘと鹿乃江も笑う。
うふふエヘヘと笑いながら手を繋ぎ並んで歩けることが、とても幸せに感じる。
何事もなくマンションのエントランスから紫輝の部屋へたどり着く。開錠して室内に入る紫輝に続き玄関に入り「鍵閉めますね」ドアを施錠した。
「鹿乃江さん」
「はい」
紫輝に呼ばれ振り向くと、腕を引かれて抱き寄せられた。
「すみません。ずっと、我慢してたんで……」
背中に回した腕にぎゅうっと力を篭めて、紫輝が申し訳なさそうに言う。
「……嬉しいから、だいじょぶです」顔をほころばせ、鹿乃江も紫輝の身体を抱き締めた。
「あー、やばい。かわいい」
呟いたのであろうその声は案外大きく、通る声も相まって鹿乃江の耳にハッキリと届く。
(うぅ……突然は心臓に悪い)
嬉しいような困ったような顔で、鹿乃江が口を結ぶ。
「……気付いてます?」
「ん?」
「わざと聞こえるように言ったの」
「……もう~」
ペシンと紫輝の腰辺りをはたく。
「ごめんなさい」笑いながら身体を離して「だってかわいいから」顔を覗き込み頭をポンポンと撫でる。
「慣れたら反応しなくなりますよ」ふてくされる鹿乃江に
「それはそれでいいですよ?」
ふふっと紫輝が笑って見せて、もう一度ぎゅっと抱きしめてから
「あがりましょっか」
穏やかに笑って、鹿乃江を招き入れリビングへ移動した。
バッグをフローリングに置いて、ソファに座る。
「今日もありがとうございました」
鹿乃江が、ご馳走になったことに対して礼を言い、
「いえいえ、こちらこそありがとうございました」
紫輝が会食に参加してくれたことに対して礼を言って、二人で頭を下げた。
「後輩さんにお礼しないとですね」
「チケットのことですか?」
「うん。ライブのときの手ぇ振ってくれたこととかがなかったら、呼び出す勇気なかったかもしれないんで。それに、ライブのことじゃなかったら、メッセに返信くれてなかったでしょ?」
「んー、そう…かも……」
園部に借りたDVDやライブを観ていなければ、確かに状況は変わっていたかもしれない。
「今度ご飯に誘ってるんで、美味しいお店探します」
「オレの分までお礼、言っておいてください」
「承知しました」
ふと、紫輝が腕時計を見やる。針は22時近くを指している。
「先にお風呂入ります?」
「そうですね、お借りします」
「着替え、渡しますね」
自分の着替えを取るついでに、鹿乃江を寝室内のクロゼットに誘導する。
「個人的にはこの辺がおすすめです」
言って、紫輝がいつも着ている服を取り出した。
「ありがとう、お借りします」
バスタオルと一緒に渡された服を抱え、鹿乃江はバスルームへ移動した。何度目かの訪問になるが、この時間が未だにソワソワする。
それは紫輝も同様で、鹿乃江がシャワーを浴びている間、どう時間を過ごそうかいつも悩む。仕事のことをするにも手が付かなさそうだし、かと言ってなにもせずに待つには時の経過が遅すぎる。
そうしていつも、思考や視覚の邪魔にならない衛星放送の環境番組や教育番組を視てしまう。
同様に一人リビングで視聴する鹿乃江は喜んでいるようだし、紫輝的にも教養が増えるしで良いのだが。
テレビの画面で番組表を確認し、宇宙の謎を紐解く海外のドキュメンタリー番組を選択した。日本語字幕が出るため、音声をミュートに切り替える。室内ライトの照度を落として、ソファの上で膝を抱えた。
しばらく経つと、廊下とリビングを繋ぐドアノブがカチャリと音を立てて動き、
「お待たせしました」
頬を桜色に染めた鹿乃江がリビングに戻って来た。
オーバーサイズのTシャツとサルエルパンツが良く似合っている。
(かわいい……)
自分の服を着る鹿乃江を見るたび、新鮮にそう思う。
シャツスタイルの多い鹿乃江がラフな格好をすると、ノーメイクの顔も相まっていつもより幼く見える。
「ちゃんと水分補給してくださいね」
思わず保護者の気分になってしまう。
「はぁい」
鹿乃江は素直に返事して、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出しコップに注いだ。
いますぐ駆け寄って抱きしめたい気持ちをグッと堪えて、
「オレも、入ってきます」
ソファの上に置いておいた着替えを持ち、バスルームへ向かった。
「いってらっしゃい」
その背中に鹿乃江が声をかける。
(いいなぁ……)
朝仕事に出かけるとき、毎回言ってもらえたらなんて幸せだろう。
そんな風に考えるまでに、時間はかからなかった。
いつ言おうかとタイミングを見計らっていたが、まだ早いだろうかと思いためらっていた。常にそう考えていたため、会食の席で後藤に聞かれ、あまりにも普通に答えてしまった。
ポロッと言ってしまったように聞こえただろうか。
そのあとの行動の意味を、鹿乃江は察してくれただろうか。
せがまれたからという理由だけではなく、メンバーに紹介したその意味を、言葉で伝えるべきだろうか。
シャワーを浴びながら考える。
仕事のことももちろん大事だが、同じように鹿乃江も大事で。
この先、FourQuartersとしての目標や希望が首尾よく達成できるのであれば、時間が経過するほどに、鹿乃江と一緒になることはおろか一緒の時間をとること自体、難しくなるだろう。それならいっそ、今のうちに話を進めておいたほうがいいのではないか。
付き合い始めてから二か月。その間、鹿乃江の心の機微に幾度となく触れるたび、その想いは強くなっていった。
事務所との相談も必要になるが、まずは本人への確認と承諾が必要だ。
(……よし)
シャワーを浴びながらまとめた考えを、行動に移すことにした。
ドライヤーで髪を乾かしてから洗面所を出ると、仕事でもあまり感じないような緊張感が湧いてきた。
廊下で深呼吸をしてからリビングルームのドアを開ける。色々とクールダウンさせたくて、冷蔵庫から出したペットボトルの水を飲み下す。冷えた液体が身体の中を流れていく。
もう一度、小さく深呼吸してようやっと落ち着いたところで、リビングでテレビを視る鹿乃江の隣に腰かける。
「おかえりなさい」
頬の赤みが少し収まった鹿乃江が、隣を向いて微笑みかけた。
「ただいま」
答えてから、
「鹿乃江さん」
改まって呼びかける。
「ん?」
「さっき言ったこと、本気だからね?」
「さっき?」
「結婚しよ、って」
鹿乃江の顔がみるみるうちに赤くなる。それにつられて紫輝も耳まで熱くなるのを感じた。
「あ、や、えっと……」
照れくさくなってごまかそうとする紫輝だが、思い直して鹿乃江をまっすぐ見つめる。
「本気、だよ?」
「……はい。私で良ければ、ぜひ。なんですけど……」鹿乃江が言い淀んだのを、紫輝が不安そうに見つめる。「紫輝くん」
「はい」
「真面目な話を、していいですか?」
「…はい」
改まった鹿乃江の口調に、紫輝が若干緊張した面持ちになる。
「……この先もずっと、一緒にいてくれるとしたら、子供のこととか、老後のこととかに、直面するときがくると思うんです」
鹿乃江は言葉を探しながら、一言一言を紡ぎ出す。
「私たちは歳も離れているし、私はたぶん……子供を作るのは難しい年齢だと思います」
緊張を少しでも紛らわせたくて、膝の上で組んだ指を擦り合わせる。
「紫輝くんよりも、18年…早く生まれてるから。その分、おばあちゃんになるのも早くて、きっと……面倒をかけると思います」
言いながら、胸が苦しくなる。
それは、紫輝に惹かれ始めたときから頭の片隅にずっとあった、避けては通れない『問題』。
「私と一緒に進む未来には、そういうことも含まれていて……ただ、楽しいだけじゃない……」
息苦しくて、だんだん掠れていく声は、沈黙の空間に溶けて消えていく。
「それでも……いい、ですか……?」
不安とやるせなさとで、鹿乃江は意図せず涙目になっている。
やっと見ることのできた紫輝の顔は、少し困っていて、でも、とても優しかった。
「不安にさせてごめんなさい。たくさん考えてくれてありがとう」
紫輝は頭を下げて、自らの膝に乗せていた鹿乃江の手を取り、優しく握った。
「オレも、それは考えてて……考えて、ただ、この先なにが起こるかわからなくて……それでも、ずっと、鹿乃江さんのそばにいたい。鹿乃江さんだけが悩んで苦しむんじゃなくて、一緒に乗り越えたい」
それは付き合う前、紫輝が鹿乃江に伝えた言葉。
そのときよりも強く、ハッキリと言い切った紫輝の胸中に触れ、鹿乃江はいまにも泣き出しそうだ。
「あ、でも……」紫輝がぴょこんと身体を弾ませ「オレが苦しいときとか悩んだときにも、一緒に、乗り越えてもらえますか……?」少し不安そうに問い返す。
鹿乃江が泣き笑いの表情になって頷き
「もちろん」
力強く答えると、紫輝は安堵の笑みを見せた。
「好きだよ、鹿乃江」
紫輝の愛の言葉に、おなかの奥が甘く締め付けられる。溢れ出す感情を、もう抑えることはしない。
「私も、大好き」
はにかみあって身体を寄せ、どちらからともなくキスをした。
多幸感が溢れ、涙と一緒にこぼれ出す。
少し恥ずかしそうにうつむく鹿乃江の頬を指で拭い、紫輝が抱き寄せた。自分と同じ洗髪料が仄かに香る。
「近いうちに時間作っておいてください。親に紹介したいです」
耳のすぐそばで、紫輝の声が聞こえる。
「はい。予定調整します」
紫輝の肩に頬をすり寄せ、腰に腕を回した。
「……鹿乃江。……好きだよ」
ソファの背もたれに身体を預け紫輝がゆるやかに身体を倒す。鹿乃江を胸に抱いたまま、いくつかのクッションを支えにして横たわった。しかし身体の座りが悪いのか、紫輝がもぞもぞと動く。
「体勢、苦しくないですか……?」
「そうすね、ちょっと無理しました」
苦笑する紫輝の言葉に笑って、んしょ…と鹿乃江が身体を起こす。その下をすり抜けるようにして、紫輝が脚を座面に上げた。立てた脚の間に座る鹿乃江に
「はい」
呼びかけて、両手を広げる。
のしかかるようにして、紫輝の胸に鹿乃江が乗った。
トクトクと心臓の音が聞こえる。紫輝の長い指が鹿乃江の髪を撫でる。
お互いの呼吸する音が聞こえてきそうな静けさ。テレビ画面には星座の成り立ちを解説する番組が映っている。満点の星空に何本かの白線が引かれ、星と星とをつなげていた。
呼吸をするたび胸が上下動する。規則正しいその動きが心地よい。
さりげなく座面に置いた腕で自重を多少ささえる鹿乃江に気付き、
「もっと、体重かけていいですよ?」
紫輝が肩を抱き寄せる。
「……重いですよ?」
「鍛えてるんで大丈夫です。ほら」
身体を支えていないほうの手を紫輝が取り、腹部に当てた。
以前、胸にそうされたときも思ったが、細い割にかなりの筋肉質だ。しかもそのころよりも更に厚みが増している。仕事の関係で鍛えていると聞いていたが、実際に触れてみて、想像以上のトレーニングを自分に課しているのであろうことがわかる。
「もっと、色々頼ってください。心も身体も、もっと、甘えて欲しいです」
「…いいの?」
「もちろん。好きなようにしちゃってください」
「襲ったりするかもですよ?」
「襲う……?」
右斜め上を見て想像するが、いまいち映像が浮かばない。
「ちょっと想像つかないんで、やってみてもらっていいですか?」
冗談めかして言う紫輝の胸から体を起こして紫輝に乗り、覆いかぶさった。恥ずかしそうに視線をさまよわせながら顔をゆっくりと近付ける。
熱っぽい鹿乃江の唇を、紫輝が受け入れた。
静かな室内に小さく水音が漂う。
永遠とも一瞬ともつかない時間を経て唇を離し、
「すき……」
紫輝を見つめて鹿乃江がぽつりと言う。
紫輝は目を細めて鹿乃江の頬を撫で、顔を引き寄せてもう一度深く唇を重ねた。
離した唇から熱い吐息が漏れる。
紫輝は鹿乃江の身体を起こすと、自分も起き上がって座り直し、
「……もう限界っす……」
苦しそうに呟くと、ソファから降りて鹿乃江を抱え上げた。
「ひゃっ」
突然の浮遊感に鹿乃江が小さく叫んで、紫輝の首元にしがみつく。危ないのがわかるから、下手に動くこともできない。
「し、紫輝くん」
「はい」
「自分で歩けるから」
「それはわかってますよ」
「テレビ、電気、点けっぱなし」
「そのうち勝手に消えます」
言いながら笑って、寝室のドアを開ける。
「紫輝くん」
突然の展開に動転した様子で駄々をこねるように呼びかけるが、紫輝は答えない。そのままベッドに鹿乃江をおろして、ゆっくり押し倒した。
「嫌なことしたら、止めてください」
疑問形ではないその言葉に、まっすぐで真摯な視線に、強い意志が込められている。
強く脈打つ鼓動に甘い期待が混じりあって、どうにかなりそうだ。
抵抗なんて、するわけない。
雨粒のように降り注ぐキスと甘い言葉、それからの紫輝の行動を、鹿乃江はすべて、受け入れた。
* * *
甘い余韻に浸りながら、腕の中に鹿乃江を包み込んで「実は…」紫輝がぽつりと呟く。
「いまだから言えるんだけど、ホント最後にしようと思ってたんですよね」
「なにを?」
「鹿乃江さんに連絡するの」
紫輝が少し気まずそうに笑って続ける。
「付き合うことになった日、コリドラスに来てくれなかったら、もう諦めようと思ってたんです。しつこくメッセ送ったりして、メンバーにもストーカーストーカー言われてたし」
鹿乃江が何度も誓った『最後』を、紫輝もまた同様に何度も誓っていたのだと知る。
「承諾の返事もなかったし、割と諦め気味だったんです」
「たくさん待たせちゃったしね」
「うん」
「ごめん……」自分で言っておいて申し訳なくなり、つい謝罪してしまう。
「いや、いーんす、全然。あの日も謝ってくれたけど、それよりも来てくれたことが嬉しかったから」
「うん」
「だから席に戻ったとき、マジでビックリして。もうちょっと戻るの遅かったら会えてなかったかと思うと、いまでもマジびびります」
「行って良かった……」
「やっぱり来るつもりなかった?」
「…うん。仕事から帰るまでは、行こうと思ってなかった」
「そっか……」
「でも、行って良かった」
腕の中で紫輝にすり寄る。
「来てくれてありがとう」
「待っててくれてありがとう」
微笑みあって、おでこと鼻をくっつける。
「……オレ、いま、超幸せっす」
“もしもあのとき、ああしなかったら――”
後悔ばかりのたらればを繰り返してきた。
だけど。
もしもあの日、休憩中に外出していなかったら、きっと鹿乃江は紫輝に出会えていなかっただろう。
紫輝もまた、スマホを取りに戻らなければ鹿乃江には出会えず、二人は別の未来に進んでいたはずだ。
ほんの少しの偶然が幾重にもなり、繋がり、紡がれる。
二人で架けた橋は、もう壊れない。
進んだその先になにがあるのか、まだハッキリとは見えないけれど、そこはきっと、居心地の良い、かけがえのない場所になるだろうと二人は確信している。
だからもう、大丈夫。
「私も、超幸せ」
二人は顔を見合わせて、微笑んだ。
end
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