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【前編】

 通勤途中にあるビルの大型ビジョンから歌声が聞こえる。誰かのMVが流れているようだ。CD売上ランキングの紹介映像らしく、気になって画面を見るが別のMVに切り替わってしまった。

 同時に信号が赤から青に変わる。

 大型連休後、季節外れの肌寒い朝。通い慣れた道を進み、とあるビルの従業者通用口から建物内に入る。エレベーターで7階まで上り事務所の電子キーに暗証番号を入力して室内へ。ほかの従業者が出勤している時間だが、どこかで作業をしているのか事務所には誰もいない。

 打刻システムにIDカードを通して始業の打刻をし、まとめて入れられた書類を保管棚から持ち出す。

 階段を登り倉庫フロアへ入る。メインデスクに書類を、サブデスクに備えてある椅子に荷物を置いた。

 デスクに設置されたモニタとパソコンの電源を入れ、上着を脱いで予備椅子の背もたれにかける。リズム良くキーボードを叩き、モニタに表示されたログイン画面のID欄に(tsugumino.kanoe)と入力する。続いてパスワード。少しのロード時間を経て、パソコンが起動した。

 着席してメールを開く。週末の連休中に溜まったすべてのメールを受信するまで軽く伸びをしながら待って、鶫野ツグミノ鹿乃江カノエは業務にとりかかった。


 いつものありふれた日常が始まる。


 とある繁華街にあるアミューズメント施設が鹿乃江の職場だ。接客担当のスタッフに囲まれ、一人で一店舗分の事務を担当している。

 鹿乃江のデスクは手狭な事務所内ではなく、その上階にある倉庫フロアに設置されている。業務の八割でパソコンを使用するが、事務所にはチーフやフロアマネージャーが入れ替わり立ち替わりしないとならない台数しか常設されていない。パソコンが使えないと業務が中断されるため、特別に定位置を作ってもらった。

 人に過干渉されるのが苦手な鹿乃江にとっては働きやすい環境だ。立場柄、完全自由シフト制なのもポイントが高い。

 店舗の人事、労務、法令管理が主な仕事。客へ提供する景品をビニル袋に入れて獲得しやすいような加工を施したり、店頭で行う物販の対応補佐もたまに担当する。

 気苦労も多いが、多彩な業務に取り組めてなかなかに楽しい。

 メールを確認して行うべき業務を選定し、休日の間に溜まった人事書類の不備不足確認などに取り掛かる。電話対応や店長からの飛び込み依頼に対応していると、あっという間に時間は過ぎていく。

「おなかすいた……」

 こなすべき業務がひと段落して一息つく。気付けば13時を回っていた。決まった時間に入らなくても良いので、休憩開始時間は毎日バラバラだ。

(ご飯どうしよう)

 通勤途中に買い物はしてきたが、買ったときに食べたかったものはいまの気分にはそぐわなくなってしまった。

(ポストも行かなきゃだし……買い物行くかぁ~)

 伸びをして、業務中に作成した封書を財布と一緒にサブバッグに入れた。

 エレベーターで1階まで降りて通用口から店外へ出ると、日差しをまぶしく感じる。

 観光地として有名な土地なのでインバウンド客の姿を散見する。しかし、イベントごとのない平日ということもあって人通りはまばらだった。

 何を食べようかと考えながら駅前に向かう。

(忘れないうちにポスト……)

 と、サブバッグを大きく広げ封筒を手に取ったと同時に、曲がり角から突然人影が現れた。

「ふぁっ」「うぉっ」鹿乃江と人影が同時に小さく叫ぶ。

 身じろぐことしかできなかった鹿乃江をスレスレでかわしたその青年は、大きく目を見開き、すぐそばで立ち止まる。両手を広げて顔の横に挙げた姿は、まるでホールドアップを命じられた人間のようだ。

「「ごめんなさい!」」

 同時に言って、しばし見つめあう二人。

「あのっ! オレっ!」

 青年が鹿乃江に呼びかける。しかし、それを遮るように近くから若い女性数人の声が聞こえてきた。

 いま来た道をチラリと見て、

「ごめんなさい」

 もう一度早口で言って、青年は足早に去って行った。

 鹿乃江は少し遅れて振り返り、少し離れたところに停めてある車に乗り込む青年の背中に会釈する。若い女性の声は人を探しながらどこかへ移動して行った。

(なに言いかけてたんだろ。まぁもう知る由もないけど……。あっ、もしかして殴っちゃったりしたかな)

 しかしバッグを広げるために肩ひもを持っていた手に、なにかがぶつかった感覚はない。

(まぁ大丈夫か……)

 曲がり角の向こうを目視して、人が来ないことを確認してから歩を進めた。

(肌の綺麗な男の子だったなー)

 歩を進めながらそんなことをぼんやりと考える。

(ここから始まる恋物語~なんてね。ラノベかソシャゲならなくはないな)

 脳内で笑って、ポストまで歩く。右手に持ったままだった封書を投函してコンビニに立ち寄るが、食べたいものが見つからない。そもそもなにを食べたいのかわからない。

(疲れてるんだなー……。まぁもう時間もないし、いっか)

 来た道を戻り自席に着く。通勤途中に買ってきた昼食を食べていると入電があった。事務所に誰もいないらしく呼び出し音は鳴り続ける。こうなると、休憩中とはいえ出ないわけにいかない。定められた休憩時間を何度かの小休憩に振り替えて取得することも良くある。

 子機を充電器から取り上げて対応に入る。数分後、通話を終えてそのまま業務に戻った鹿乃江に

「つぐみさーん」

 フロアスタッフで後輩の園部ソノベ三月ミツキが、鹿乃江の名字を縮めた愛称で呼びかけた。

「はぁい~」

「休憩室いっぱいなんで、ここでご飯食べていいですか?」

「いいよー。ここ使ってー」と、荷物を移動させてサブデスクと椅子を空ける。

「やったー」

 持参したタブレットにイヤホンを挿し、動画を視聴しながら食事をとる園部を横目に、書類をさばきながら鹿乃江が業務を進める。

 しばらくしてご飯を食べ終えた園部が、最近視た動画やハマってるゲームをクリアしたや推しドルが近くでロケしてたや、他愛のない話をし始めた。

「へー」「そうなんだー」「すごいねー」などと相槌を打ちながら作業を進める鹿乃江に

「ちょっと、つぐみさん。聞ーてます?」園部が口をとがらせて問う。

「聞いてるよー。クリアしたけどミッション達成率40%だったんでしょ?」

「そーなんですよー。100パーにするのにまだまだ遊べるんですよー」言葉とは裏腹に嬉しそうだ。

「元気だなぁ~」

「楽しいですよ。まだ見つけてないモブとかいるの探すんですよ」

「何時間やれば100%になるんだろね」

「私はいま100時間超えてますね」

「すご」

 喋りながら書類と入力内容に相違がないかを確認する鹿乃江。

「新人ちゃんですか」

「うん、そう」

 園部がかたわらに置かれた書類を眺めていると、住民票を確認していた鹿乃江が「フヘっ」と変な声で笑う。

「どしたんですか」

「んー? 親御さんが同い年だったわ」

「えー、マジですか」

「うん。産めるわ」

「えーでもつぐみさん40代には見えないし、いいんじゃないですか」

「見た目だけ若くてもねぇ」言われ慣れている鹿乃江は苦笑しながら続けて「中身がねぇ」モニタに顔を近づけて、書類と入力内容を見比べる。

「えっ、中身も全然若いですよ?」

「え? 精神じゃなくて体力とか内臓モツの話をしているのよ?」

「あ、そっち」

「うん、そっち」

「……ねぇ~?」二人で言って、笑いあう。

「まぁ若いコに若いって言ってもらえるのはありがたいわ。ありがとう」

「いや、お世辞とかじゃなくてホントに見えないんです」

「ありがと~」

(良く言われる。たまに申し訳なくなる)

 心の中で苦笑したところで電話が鳴った。

「ごめん、電話出るね」

「私も時間なんでフロア戻ります」

「うん、行ってらっしゃい」

 入電は本社からで、入金した売上金額の確認に必要な書類のデータを送ってほしいという依頼だった。事務所へ移動して作業をしていると、店長やスタッフから飛び込みの依頼が入る。そこから忙しくなってしまい、あっという間に終業時間を迎えた。

(つかれたな……)

 事務所で終業の打刻を完了させ、自席前に移動し帰り支度を始める。

(もういいや…)

 昼に財布を入れてそのままのサブバッグを丸ごと通勤用のリュックに詰め込み、帰路についた。


* * *


「一目ぼれしたっす!」

 都内にある焼き肉店の一室。対面に座る年長の男を、つぶらな瞳で見つめながら青年が言った。

 個室に肉の焼ける音だけがしている。

「焦げんで」

 関西弁で言って、久我山クガヤマ紫輝シキと自分の取り皿に程よく焼けた肉を乗せた。

「いやいやいや、マジなんですって! マジマジ! ガチで!」

「冷めんで」

「あっハイ。肉はアザッスなんですけど! いやマジ、ガチなんですって!」

「わかったって」眉間にしわを寄せて面倒くさそうに言い放つと「相手だれ?」続きを促した。

「先輩が知らない人っす」

業界こっちの人ちゃうんか」

「フツーの人っす、たぶん。今日のお昼くらいに、道端でぶつかりそうになったんす」

「なんやそれ。名前も知らんの」

「ハイ!」

 とびきりの笑顔で頷く紫輝とは対照的に、久我山は網に生肉を並べながら苦笑した。

「そりゃビョーキやな」

「あーハイハイ。“恋のやまい”的なね?!」

「ちゃうわ。“フツーの恋がしたいびょう”。職業病やわ」焼けた肉を口に運びながら「最近仕事忙しいみたいやし、疲れてんにゃわ。ゆっくり風呂でも浸かり」付け足す。

「ちがいますって! 運命なんですって!」

「そんならそんでええけど……」肉を咀嚼しながら面倒くさそうに受け入れるが「もう二度と会われへんのと違う?」諭すように反論する。

「ちがうんすよ!」紫輝がぶんぶんと手を横に振りながら否定した。「オレ、そのときスマホ落としたみたいなんすよ! これってチャンスじゃないですか!」

「ピンチやろ」

「だから先輩、スマホ貸してください」

「なんでやねん。折り目正しいツッコミ入れてもたわ」

「先輩のスマホからオレのスマホにメッセ入れるんすよ。そしたらその子と連絡とって、直接返してもらえるじゃないですか」

「いや、そもそもその人が拾ったとも限らんし、返信くれるかもわからんし、もう警察届けられてるんちゃう?」

「やってみないとわからないじゃないですか。メッセだったらほら、オレ先輩のメッセ、通知切ってないんで」

「しらんけど……」

 期待に満ちた瞳で見つめる紫輝。

 久我山は観念したようにため息をつき、バッグの中からスマホを取り出してロックを解除した。

「ほら」

 差し出されたスマホを紫輝が満面の笑みで受け取って「あざます!」いそいそとメッセージアプリを立ち上げた。


* * *


 帰宅後、夕飯を食べ、シャワーを浴び終えた鹿乃江がピンチハンガーを使って洗濯物を室内に干していると、ポコン♪ ポコン♪ と聞き覚えのある音がリュックの中から聞こえてきた。

(あれ? ミュートしてたはず……)

 リュックを探りスマホを取り出すが通知は来ていない。

「んん?」

 念のためアプリを立ち上げてみるが、やはり新着メッセは届いていなかった。

「なんで?」

 そのとき、再度ポコン♪ と音がする。しかしその音は、手の中のスマホではなくリュックの中から聞こえている。不思議に思い中身をすべて出した。ついでに中身を整理しようと、帰り際に職場で詰め入れたサブバッグを開き、中を覗く。と、何故かそこには、財布と一緒に見知らぬスマホが入っていた。

「えっ?」

 身に覚えのない端末機を取り出してみる。今日一日の行動を思い返すが、入れた記憶はない。

「えっこわい」

 そのときもう一度通知音が鳴り、見知らぬスマホの画面にメッセの新着通知が表示された。すべて短文で書かれたメッセは『このスマホを拾った方へ』という一文から始まっている。


『このスマホを拾った方へ』

『良ければ返信ください』

『ロックはかかってないのですぐ使えます』

『いまは先輩のスマホから送ってます』


 メッセはすべて【久我山みやび】から受信されている。

 また新たに通知音が鳴って、メッセの新着通知が更新された。


『昼間、ぶつかりそうになった男です』


(あー、“肌の綺麗な男の子”か)

 くだんの青年の顔を思い出す。

 少し悩んで、通知からメッセアプリを起動すると個別ルームが表示された。

 こんばんは、と打とうとしたところで新着メッセが届く。


『拾ってくれた方ですか?』


『はい、そうです。』送信と同時に既読のサインがつく。

『通知拝見して、スマホお借りしてます。』送信。既読。


『間違っていたらごめんなさい』

『昼間の女性の方ですか?』


『はい。』

『ぶつかりそうになったとき、』

『何故かバッグに入ってしまったみたいで。』

『気付くの遅くなってすみません。』


 送信者のパターンに倣い、幾度かに分けて短文を送る。既読はすぐにつくが、しばらく返信がない。

「んー……」

 鹿乃江は少考して、メッセを送った。


『明日、警察に届けますので』送信。既読。


 お昼すぎたら問い合わせてみてください、と打ったところで、送信する前にメッセが届く。


『まってください』


 文字通りの要求に、鹿乃江は送信ボタンを押せなくなった。


『ちょっと警察行く時間なくて』

『直接返してほしいんです』

『明日とか、どうでしょう』


 突然の提案に回答を躊躇する。

(うーん。まぁお互い手続き面倒だよね……)

 業務上、店で拾得した落とし物を届けに行くが、預けるにも受け取るにも多少の時間と手間がかかるのを鹿乃江はっている。

 仕事以外で警察に行くのは正直おっくうだ。“肌の綺麗な男の子”は、見た限り性格の良さそうな青年だった。

(ちょっと会って渡すだけならいいか……)


『ダメですか?』


 考えている時間を躊躇の時間だと解釈されたのか、窺うようなメッセが届く。明日も出勤で家から出なければならないし、終業後なら行けないことはない。

 さきほど入力した文章を削除して、新たにメッセを送る。


『大丈夫です。』

『仕事の後なので夜になってしまいますが……。』

『それでもよろしいですか?』


『もちろんです!』

『僕は前原紫輝といいます』

『シキって読みます』


『鶫野 鹿乃江(つぐみの かのえ)です。』


 遅ればせながらの自己紹介をしあって、待ち合わせの約束をした。


 翌日。

 てっきりスマホが入り込んだであろう鹿乃江の職場近くで会うのかと思っていたが、そうではなかった。

(そういえば車で移動してたしなぁ)

 移動に自宅とは逆方面行きの電車を利用したため、警察に届けたほうが楽だったかも、と考える。

(まぁいいや。こっちのほう久しぶりだし、帰りにどこかのお店眺めて帰ろ)

 約束の10分前、道案内アプリを頼りに、紫輝に指定された店に到着した。

 都心の繁華街でも比較的人通りの少ない場所に佇む、小ぢんまりとした【コリドラス】という名前の喫茶店だ。

 少し古めかしい入り口を通る。

 綺麗に保たれたレトロモダンな内装は、歴史を感じる重厚感がある。少々手狭な一階のカウンター席にはスツールが、広い地下フロアのテーブル席で構成された客室には、座り心地の良さそうなビロード張りのソファと飴色の机が規則正しく配置されている。

「いらっしゃいませ。一名様ですか?」

「待ち合わせなんですけど……」

「かしこまりました」

 店員に案内されたのは、地下へ続く階段下スペースの壁際にしつらえられた半個室の四人席だった。

「あっ」

 紫輝が鹿乃江の姿を視界に捉え、小さく声をあげて立ち上がった。

 鹿乃江は微笑んで会釈を返す。

「お決まりになりましたらお呼びください」と言い残して立ち去る店員に、「ありがとうございます」と二人で礼を言う。

「あらためて……」小さく咳ばらいをして「前原マエハラです」紫輝が頭を下げた。

「鶫野です」

 お辞儀をして席に着く。

「すみません、わざわざ来て頂いて」

「こちらこそ、すぐにお返しできずにすみません」

 鹿乃江が隣の空いた椅子にバッグを置くと、

「何にしますか?」

 紫輝がメニューを広げ、鹿乃江に差し出す。

 スマホを引き渡したらすぐに帰るつもりだったが、どうもそうはいかないようだ。

「じゃあ……ミルクティーで」

「了解っす」

 紫輝は慣れた様子でフロアを巡回する店員を呼び、カフェオレとミルクティーを注文した。

「あの、これ……」鹿乃江がバッグの中からエアキャップ封書を取り出し「念のため、ご確認ください」うやうやしい業務口調で紫輝に差し出した。

 一瞬なにを渡されたかわからなかったのか、紫輝が疑問符を顔に浮かべて受け取り、中身を確認する。中にはもちろん、紫輝のスマホが入っている。

「あっ。えっ。これ、入れてくださったんですか?」

「なにかの拍子に壊してしまったら申し訳ないので……」

「えーっ、すごいっすね」癖なのか、何度も口元や首筋に手を当てながら喋る。

「いえ……職業病みたいなもので……」

「なんのお仕事なされてるんですか?」

「店舗事務です」

「テンポジム」

 漢字変換ができていない口調で復唱する紫輝に、

「お店で、事務業をやっているんです」

 鹿乃江がキーボードを打つジェスチャー付きで簡単に説明をする。

「あぁ! へぇ~! どんなことやるんですか?」

「えーっと……」

(めっちゃグイグイくるな~)

 おそらく二十代前半であろう紫輝の気力をまぶしく感じながら、鹿乃江が業務内容をかいつまんで説明した。そのうちに注文したドリンクが運ばれてくる。

 店員に礼を言って、

「私の話ばかりですみません」

 バツが悪そうに鹿乃江が小さく頭を下げると、

「いやっ、オレが聞きたいんで気にしないでください」

 紫輝が破顔した。

(すごい……ナチュラル人たらしだ……)

 多少強引に押し切られても悪い気がしない。紫輝にはその才能がある。計算している感じもないので、天性の勘のようなものだろう。

(モテそうな人だな~)

 紫輝と会話をしつつ、仕草や言動をつい観察してしまう。見た目はもちろんだが、耳馴染みの良い声や程良くほぐれた言葉遣いもチャームポイントとなっている。

“二次元みのある人”というのが、紫輝と話した印象だ。

 お互いがドリンクを飲み終えたところで、鹿乃江が口を開く。

「ごめんなさい、長々と……。そろそろ…」

 気付けば待ち合わせから1時間ほど経っていた。

「あっ。そう、っすね。こちらこそ、スミマセン。ありがとうございます」

「とんでもないです」

 鹿乃江が伝票に手を伸ばそうとすると、「いえっ、ここは……」紫輝が制した。

「え、でも」

「来ていただいたのに申し訳ないので」

 何度も断るのも失礼かと鹿乃江が手を膝に戻し、お辞儀をした。

「ありがとうございます。ごちそうさまです」

「いやいや、全然」

 バッグを持って席を立とうと準備している鹿乃江に、

「あのっ…!」

 紫輝が意を決したように口を開いた。

「はい」

「…ちゃんとお礼がしたいので、連絡先を交換してもらえませんか」

 改まった様子で紫輝が鹿乃江に提案する。鹿乃江は一瞬驚いて、すぐにやんわりとした笑顔になる。

「いえいえそんな。そこまでしていただくようなことしてないですし」

「いやもぅ、大事な連絡先とかデータが入ってるやつだったんで、本当に助かったんです」それに、と付け加え「お話してて、楽しかったんで……」傾聴しないと聞き逃しそうなくらいの小声で紫輝が言った。

 その言葉を聞き逃せなかった鹿乃江がまた一瞬驚く。

「ダメっすかね……」

 少し上目遣いになって、紫輝が鹿乃江を見つめた。

(うっ……犬みがすごい……)

「…ほとんど、アプリしか使ってないですけど……」

 受け入れた鹿乃江の言葉を聞いて、紫輝がパァッと笑顔になる。何度も小さく頷いて、スマホを手に取った。

「ふるふるしましょう、ふるふる」

 アプリを開いて紫輝がウキウキと言う。

(可愛いなー)

 思わずフフッと微笑んだ鹿乃江の反応に、紫輝が苦笑して見せた。

「なんかすみません。オレばっかり浮かれちゃって」

「あっ、ごめんなさい。そうじゃなくて。なんかこう……微笑ましくて」

 男性に“可愛い”というのは失礼な気がして、別の形容詞をチョイスしてみる。

 紫輝はちょっと意外そうな表情を浮かべて、顔をくしゃっとさせ照れ笑いを浮かべた。

(わーかわいい。こっちが照れちゃう)

 鹿乃江は微笑み返しながらアプリ内のメニュー画面を操作して、【ふるふる】モードに切り替える。

「はい」準備ができたことを伝えると、紫輝もスマホを手に取った。

「じゃあ」

「はい」

 二人でスマホを左右に揺らす。程なくして【友達】に新しいユーザーが追加された。

 紫輝は画面を嬉しそうに眺めて

「また、連絡、します」

 はにかんで言った。

「……はい」

 社交辞令かもしれないが、それでもなんとなく、心が弾んだ。


* * *


(不思議な時間だった……)

 電車に揺られ、ぼんやりと考える。

 “肌の綺麗な男の子”は、“前原紫輝”という名前だった。

 職場にも同年代くらいの若者たちがいるが、紫輝は彼らより少し大人びた雰囲気をまとっていた。社会人っぽかったが、そうだとしたら平日の昼間から私服で繁華街を歩いたりするだろうか。しかも、誰かが運転する大型車で移動するような。いや、そういう仕事もあるか、などととりとめなく考える。

 自分のことをあまり話さないたちなのか、そのあたりの話題は出てこなかった。

 直接聞けば答えてくれていただろうけれど……。

(わざわざ聞くのもなぁ……)

 自宅最寄駅に着き、改札を抜ける。途中でスーパーに寄り買い物をする、いつもの仕事帰りのパターン。

 さっきまでの時間が嘘のように、いつもの生活に戻る。

(また連絡するって言ってたけど……どうかな……)

 なんとなく、いつもは消音にしている通知音を解除してみる。

(……過度な期待はしないようにしよう……)

 帰宅してシャワーを浴びながら、期待と不安の入り混じった感情を抱く。脳裏をよぎる“理由”は、どこか心の奥のほうに押し込んで、自覚のスイッチを入れないようにした。

(だって…ねぇ……)

 このヒト、ジブンに気があるのかな? と感じても、いやまさか思い上がりだと、その感情に気付かないフリをする。自分が傷つかないための防御策。


 叶わなかったとき、なにもなかったことにするために。


 部屋着を着て、濡れた髪にドライヤーをかける準備をする。BGVとして点けたテレビに、見覚えのある人物が映っている。

「……えっ」

 思わず二度見して、ドライヤーを置いた。

 画面には、見た目も声も仕草も口調もまるっきり同じなままで、さっきまで同席していた“前原紫輝”が番組に出演している。その画面右上に【FourQuarters・前原紫輝 日本秘境の旅】とテロップが表示されていた。

「えっ?」

 すぐ近くに置いてあったスマホを手に取り、ブラウザを立ち上げて【前原紫輝】で検索をかける。数秒ほどでズラリと結果が表示された。ご丁寧に顔写真付きだ。

「えぇっ?!」

 何度目かの驚きとともに、昨日の園部の声がフラッシュバックする。


『でー、さっきSNSで見たんすけどー、さっきまでこのあたりで私の推しがロケやってたみたいなんですよー。メンバー全員そろってたみたいでー』ほらこれ、とSNSの投稿を見せてくる。そこには英語表記のグループ名が書かれていた。いま視ているテレビの画面右上に表示されているのと同じ綴りのそれを、園部は“フォク”と略して呼んでいた。


(えっ……)

 思わずメッセアプリを立ち上げた。ついさっき【友達】に追加された【マエハラシキ】のID。アイコンに使われている、ピースサインをした紫輝の手の写真を見つめてしまう。

(良かったの…?)

 紛うかたなき男性アイドルの個人アカウントを、そうとは知らずに追加してしまった。

(いやでも、連絡先聞いてきたのあっちだし。メッセだってきっと来ないし。こっちから送るつもりもないし)

 誰に言うでもない言い訳が次々と頭に浮かぶ。

 そういえば喫茶店から出るときもキャップを目深に被っていた。陽も落ちていたので少し不思議に思ったが、あれはきっと顔で素性がばれないようにしていたのだろう。

 駅まで送るという申し出を丁重に断って良かったと、遅ればせながら胸を撫で下ろした。

(そりゃ二次元みもあるわ……)

 対話した時の印象を思い出し、一人納得する。

(これ……もし“お礼”に誘われたとしても、断るべき…だよね……?)

 自問自答してみる。しかし、枝分かれした道のその先にある答えにはたどり着けない。

 鹿乃江の迷いとは対照的に、テレビの中では、紫輝が山の奥にある鍾乳洞へ入り込み、その奥にあるコバルトブルーの湖にたどり着いていた。


* * *


 いつも通り出勤して、いつも通り勤務する。なんの変哲もない日常。

 しかし、その時は突然やってくる。


 机いっぱいに広げた書類と格闘中、かたわらに置いたリュックの中でポコン♪ ポコン♪ と立て続けにスマホが鳴った。

 鹿乃江の心臓がドキリと波打つ。

 通知は“ある人”からしか届かないように設定されている。

 しかし、業務中のため手が物理的に離せない。

 提出期限の決まった書類と本社や上司からの依頼を、小声で手順確認しながら完了させていく。その間にも、他店や客からの電話が入る。用件を聞き、必要に応じてパソコンで調べ物をしたりインカムを使って店内のスタッフに景品の在庫状況を確認するのも店舗事務の仕事だ。

 頭の中でうおぉーと叫びながら業務を完遂させ、ふぅっと息を吐く。

(……あ、メッセ)

 ふと思い出し、リュックの中からスマホを取り出す。【マエハラシキ】からのメッセは、通知から1時間弱が経過していた。


『こんにちは、お久しぶりです!』

『突然ですが、来週お時間ありますか?』


 一週間ぶりのメッセは、会う約束を取り付けるものだった。もう連絡は来ないものだと思っていたので、正直意外な申し出だ。

 パソコン内のメールシステムで予定表を確認する。業務内容上、先々の予定や締切が決まっていることも多い。休日は独り自宅にこもっていたいタイプの鹿乃江だが

(うーん……)

 悩んで検討して、仕事終わりなら大丈夫な日と、夜遅くならなければ大丈夫な日を入力して返信した。

 すぐに既読がつくはずもなく、スマホをスリープさせてリュックに戻す。

 業務に戻りつつも

(社交辞令じゃなかったんだ……)

 ふと微笑んで、すぐに引き締める。

(そういうのじゃないし。ましてや相手は芸能人だし。アイドルだし)

 と考えて気付く。

(じゃあ、彼が芸能人じゃなかったら……?)

 年齢や立場、そのもろもろ。そういう“条件”的なものをすべてなくして考えたとき、自分はどう思うのだろう。

 紫輝はもしかしたら、知られたくなくて自分の仕事のことを話さなかったのではないのか。


 防御策。


 そんな三文字が頭をよぎる。


 鹿乃江とは違う意味で、自分の身を守る術に長けなければならない立場のはずだ。ともすれば異性と二人きりで会うだけでリスクを負う可能性だってある。それでも誘ってくれるのなら、それは軽い気持ちではないように思う。

(スキ? いや……)

 答えの出ない疑問。ただ、また会えるかもしれないという期待が、鹿乃江の心を弾ませる。

(スキ……?)


 ♪プルルルル…プルルルル…


 電話の着信音で我に返る。

 デスク脇に置かれた電話の子機を取り、対応業務に入る。事務所に内線を入れる操作をしていると、バッグの中から何回か通知音が聞こえた。反射で一瞬手が止まるが、時間もないので業務を続ける。結局、手が空くこともなく終業時間を迎えた。

 帰宅前に自席でスマホを確認する。

 鹿乃江が挙げた候補の中から、紫輝と予定の合う日がチョイスされていた。三連休の初日なので、鹿乃江の都合的にもありがたい。

(また会えるんだ……)

 紫輝からの連絡が、鹿乃江の疲れた心身を緩やかに癒す。


 難しく考えすぎだと言われたことがある。言われた本人はそっちが考えなさすぎなんじゃないの? と思ったが、反論はせずにそうかなァと答えてお茶を濁した。

 石橋を叩いて確認してから渡ったのに、いともあっさり崩れ落ちたときの記憶が、いつでも鹿乃江にブレーキをかける。

 渡る橋と渡らない橋の選別は、自分なりに正しくできているつもりだ。

 紫輝とのことは、まだ橋の入口しかできてない。だから叩くに叩けない。


 地面ごと崩れ落ちるのは、一生に一度でいい――。


 ……だけど。


 せっかく紫輝が作ってくれた橋の入口。

 そのたもとからの一歩目は、自分が足場を掛けてもいいんじゃないかと思えた。


(好きとか嫌いとかじゃなくて、会えるなら、そのときを楽しんでみよう……かな)


 同時に送られて来ていた待ち合わせの時間と場所を確認して、承諾の返事を送信した。


* * *


 鹿乃江が休日の平日、ランチには遅くディナーには早い時間が待ち合わせに指定されていた。

 落ち合う場所は、以前使った喫茶店の【コリドラス】。

 いつもより身だしなみに気を遣った鹿乃江は、どこかソワソワしていた。仕事に行くだけのときはノーメークもざらだが、今日はきちんとしている。服装も、動きやすいことより身ぎれいさを優先した。

(デートだとは思ってないけど……礼儀としてね……なんて自分に言い訳しなくてもいいんだけど)

 駅ビルの化粧室で一人、自問自答する。

(……普段うるおいがないと、こーなるよね……)

 鏡に苦笑した自分の顔が映る。身ぎれいにしても、顔立ちだけはどうにもならない。

(いいや、もう行こう……)

 約束の10分前に目的の場所へ到着した鹿乃江が、店の出入り口をくぐる。上から見る限り、地下フロアは案外席が埋まっている。ある程度の年齢を超えた男性ばかりだから大丈夫だろうけれど、それでも身バレしないかが心配だ。

 席の予約をしているそうで、前もって教えられた“マエハラ”ではない名字を店員に告げると、【予約席】のプレートが置かれた半個室の四人席に案内される。スマホを渡すときにも使った席だ。

 以前は紫輝が座っていた壁際の席に、今度は鹿乃江が座る。

(思ってたより隔離されてるんだ……)

 鹿乃江の座った位置から、フロアの席はほとんど見えない。ということは、フロアからもこちらはあまり見えてないのだろう。

 なんとなく、ホッとする。

 関係性がどうあれ、相手が自分のことをどう思っているのかをさておいても、はたから見れば“女性と二人で会っている”というのが見たままの事実だ。誤解でもされて迷惑をかけるのは嫌だ。スマホを届けたお礼として~なんていうのは、本当の理由だったとしても言い訳のように聞こえてしまう。自分はどう見られても良いが、紫輝の職業を考えると相手の立場を優先すべきだろう。

 しばらくして、紫輝が時間通りに到着した。鹿乃江が先に着いているとは思っていなかったようで、少し驚いている。

「すみません、遅れました」

 申し訳なさそうな紫輝に、鹿乃江が首を横に振って否定する。

「私が早く着いちゃっただけなので……」

「何か注文されました?」

「いえ、まだです」

「あ、じゃあ、決まったら教えてください。店員さん呼びます」

「ありがとうございます。もう決めてあるので、いつでも大丈夫です」

「マジっすか。待ってもらっててありがとうございます」

「とんでもないです」

 紫輝が近くを通りかかる店員を呼んで、それぞれが前回と同じくミルクティーとカフェオレをオーダーした。


 少しの沈黙。


 紫輝の職業を知ったことを言おうかどうしようかと悩んでいる鹿乃江に気付き

「どうかしましたか?」

 紫輝が優しく誘導した。

「あ、えっと……この間、前原さんをお見掛けして……」

「えっ、マジっすか。声かけてくだされば良かったのに」

「あー……できなかったんです…その……」と逡巡して「テレビの、中に、いらしたので……」遠慮がちに伝えた。

 紫輝は一瞬キョトンとして

「あー、バレちゃいました?」

 首に手をやり、照れたように苦笑した。

 鹿乃江は恐縮して頭を下げる。

「すみません。言おうかどうしようか迷ったんですけど……」

「あっ、いや。知られたくなかったワケじゃないんです。あー、いや。正直、その……そういう仕事してるってわかったら、鶫野さん、気にするかなって……」テーブルの上で手を組み、指を握ったり放したりしながら言葉を続ける。「それで、それが理由で、会うのやめるって言われたくないなーって……すみません」

 苦笑したまま紫輝が頭を下げる。

「前原さんが謝ることではないです。ごめんなさい」

 慌てた鹿乃江が両手を振りながら言うと、紫輝は優しく微笑んで、ゆっくり首を横に振った。

「……もう、会うのやめるって、思ったり、してますか……?」

 上目遣いの紫輝に向かって、鹿乃江はとっさに首を振る。

「思って、ない…ですよ…?」

(えっ? そうなの?)

 自分の口から出た言葉に自分で驚いた。行動に言葉が付いてきた感覚が拭えない。

 紫輝は鹿乃江の回答を聞くと大きく息を吐いて「良かったー!」と背もたれに体を預けた。

 鹿乃江の胸がギュッと締め付けられる。

(あ…これは、やばい……)

 気付いてはいけない感情が、頭をもたげて表面化しようとする。

 この先があるかわからないのに、その感情を抱いて傷つくのはもう嫌だ。


 甘い胸の痛みは、苦い思い出の箱を開ける。


「あの、これはホントにお願いで」紫輝が前置きをして続ける。「ボクの仕事のことが理由で、お気遣いいただいて、会うのやめようっていうのは、やめてくださいね」

 慎重に言葉を選び、誤解のないように伝えようとしているのがわかる。

 その気持ちに嘘はつけなくて、

「…はい」

 答えと同時に頷く。


 それから紫輝は、ずっと笑顔で楽しそうに話をしていた。

 鹿乃江も、同じように笑顔で会話を楽しんでいた。きっと、気持ちも同じだろうと感じている。なのに、どこかに刺さった小さなトゲが、ここぞとばかりに主張してくる。

 楽しいのに、心の底で不安要素が渦を巻く。払おうとすればするほど悪いイメージが頭をよぎる。それは、自分の意志とは関係なく行われる鹿乃江の悪い癖。

 けれどそれも、紫輝と話すうちに薄らいで、消えていった。


 お茶と会話を楽しんでから、食事のために場所を移動することになった。

「私あとから行きますね」

「いや、一緒に行きましょう」

「誰かに見つかったら大変でしょうし」

「でも誘ったのオレなのに……」

「じゃあ……少し後ろを歩きます」

「…………はい」

 長考後、紫輝が折れて承諾し、キャップを目深にかぶって席を立った。


 コリドラスを出て、次の店までの道を紫輝から数メートル遅れて進む。

 先導する紫輝が人通りの少ない道を選んでいるのか、まれにすれ違うのはサラリーマンの男性ばかりだ。

(神経質になりすぎたかなぁ……)

 と鹿乃江が視線をあげたとき、前方から学生らしき女性三人組が歩いてくる。チラチラと横眼で見ながら紫輝の横を通り過ぎ、鹿乃江の近くにさしかかったとき「ねー、いまの絶対そうだってぇ~」「え~、こんなところ歩いてるわけないじゃん」「えっ、声かけちゃう?」「でも違ってたらハズいじゃん」とヒソヒソ声で話しながら名残惜しそうに背後を見つつ、曲がり角に消えていった。

(杞憂ではなかった……!)

 何故か脳内に【安全+第一】の看板が浮かぶ。

 紫輝は特に気にすることなく緩やかに歩を進め、やがてビルの中に入っていった。

 バッグの中から通知音が聞こえたのでスマホを見ると、エレベーターホールに人がいるから先に店に入るという旨のメッセージが届いていた。同時に送られてきた階数と店名を頼りに、遅れて店に入る。

 店員に案内された個室内、薄暗い照明の中で、紫輝が立ったまま待っていた。

「すみません。ありがとうございます」

 鹿乃江を視界に捉えると、紫輝が軽く頭を下げる。

「はい……。なにかしましたっけ?」

「いや、離れて歩こうって言ってくださって」と鹿乃江に着席を勧めて自分も座る。「下にも人いましたし、なんか、さっきすれちがった女の子たちに気付かれたっぽかったんで……」

「ぽかったというか、声かけようかどうしようかって話してましたね」

「マジすか! あぶねぇ~! 鶫野さんが言ってくれてなかったらヤバかったかもですね。ありがとうございます!」

「いえいえ……」

「……どうかしましたか?」

「えっ? いえ……」と言葉を探すが「人気、あるんだなって……」思わず言って、「あっ。気にしないでください、なんでもないです。スミマセン」言葉選びを間違えたことに後悔した。

「……ありがたい話です」紫輝が少し困ったように笑う。「ファンの方たちがいなかったら、成り立たない仕事なんで」

 なにを言っていいかわからず、鹿乃江は黙って紫輝の話を聞いている。

「けど、たまに、ちょっと、困ることがあります」

 意外な言葉に鹿乃江が顔をあげる。

「どこかへでかけるにも見つからないように気を遣うし……二人で一緒に、歩くことも、できない……」

 鹿乃江は、ただ黙って紫輝の言葉の続きを待つ。

「でも、それは最初から覚悟してたんで。自分が気を付ければいいだけの話で……って、お気遣い、いただいちゃってますよね」

 鹿乃江に言って、紫輝がヘヘッと笑った。視線を下げて、鹿乃江はゆっくりと首を振る。

「素晴らしいです……。素晴らしいと、思います」

 うつむいていた顔をあげ、紫輝を見つめる。

 心からの言葉に、今度は紫輝はうつむいて、照れて、笑った。

「そうだ、ここ」と思い出したように席を立ち「鶫野さん」こっちこっちと、手招きをして窓際に呼んだ。

「見てください」

 鹿乃江は隣に立って、紫輝が指さす窓から外を見る。

「わぁ……!」

 窓の外に広がる都心の夜景に、思わず声が漏れる。

「すごい……きれい……!」

 室内が薄暗いのは、この夜景のためなんですよ、と紫輝が教えてくれる。

「って、お店の方の受け売りなんですけどね」

 いたずらな子供のように笑って、後頭部に手を当てる。鹿乃江がつられて笑顔になると、紫輝が嬉しそうに微笑んだ。

「やっぱいいっすね。……笑顔のほうが、かわいいっす」

 言われたほうが照れてしまうことを、紫輝はたまにこともなげに言う。職業柄というよりも、もともとの性格から来るものだろう。

「ありがとう、ございます……」

 それ以上どうリアクションしていいかわからず、紫輝と一緒に、ただ夜景を眺めていた。


* * *


 ごびょうまえー、さんーにぃー……カウントダウン後、手で合図が送られる。

「こんばんはー! FourQuartersでーす!」

「いつも元気な右嶋ウジマ永遠トワですっ」

「スポーツ万能、左々木(ササキ)翔吾ショウゴでーす」

「冷静沈着、後藤ごとう良水よしみです」

「えー……リーダーの前原紫輝でーす…」

「えっ、もうちょっとオレらみたいに自己紹介してよ」

「いや急に言われても」

「そこはなんとか出さないと。なに、特徴“リーダー”って」

「っていうか、打ち合わせしてたんならオレにも教えてよ!」

「えっ? してないよそんなの」

「ウソウソ、ぜってーウソ!」

「まぁまぁ、拗ねんなよリーダー」

「そうだよ、元気出してリーダー」

「次があるよ、リーダー」

「こんなときばっかりリーダー扱いすんのやめてよ」

「えー、そんなリーダーからお知らせがありまーす!」

 いえーい、と、紫輝以外の三人が紫輝に向かって拍手する。

「急! 急だな! えー……僕たちFourQuartersのニューアルバムが、来週発売になります!」

 メンバー三人にイジられ、戸惑いつつも告知を続ける。

「みなさん、ぜひ!」

「チェックしてみてください!」

 四人で言って、カメラに向かい手を振る。

「はーい、おっけーでーす! ありがとうございまーす!」

 フロアのスタッフが拍手を送る。フォクは口々に「ありがとうございます」と言いつつスタジオをあとにして楽屋へ戻った。

 いち早く私服に着替えた紫輝は、メンバーの着替えを待ちながらスマホをいじっている。

「なに、デレデレしちゃって。どうしたの」

 左々木に問われ、紫輝が視線をあげる。

「へっ? してた? デレデレ」

「してるしてる」

「そっかー、出ちゃってたかー」

 照れているような気まずいような顔をして、表情をほぐすように自分の頬に手を当て上下に撫でつけた。

 スマホの画面には、撮影中に着信した鹿乃江からのメッセが表示されている。


『昨日はごちそうさまでした。』

『素敵なお店を選んでくださって、ありがとうございます。』


 いつでも簡潔な鹿乃江の文章が、紫輝は好きだった。眺めるたびにニヤついてしまうのには、また別の感情が含まれているのだが。

「最近なんか多いよね、そういうの」

「えっ? そう?」

 左々木の指摘に答えつつ、紫輝は相変わらず頬を上下に撫でながらスマホを眺めている。

「なになにー? 青春しちゃってるのー?」

 隣に座って、右嶋が紫輝の肩に何度も体当たりをした。

「痛いいたい。なに、“青春しちゃってる”って」

「えー? だって相手オンナノコでしょ?」

 画面を覗き見ようとする右嶋からスマホを遠ざけて、

「オンナノコっていうか……」

 紫輝が口ごもる。

(多分年上なんだろうけど……)

 見た目から推測するに、二十代中盤から三十代手前くらいだろうと思っている。言動や行動はそれよりも大人びているし、少なからず自分より年上の人に“オンナノコ”という表現を使うのはどうかとためらわれて、歯切れが悪くなる。

「いや、いいでしょ別に」

 詳しく話すつもりもない紫輝は会話の糸口を切るが、右嶋はめげない。

「えー、気になるじゃーん。みんなそういうの言わないからさー」

「それはトワだってそうでしょ」

「ボクいまなんにもないもーん。だから人のを聞きたいの」

「オレだって話せるようなことなんもないよ」

 右嶋と紫輝のやりとりを横目に、後藤と左々木はスマホのゲームアプリで共闘して遊んでいる。

「おーい、そろそろ次の現場行くよー」

 楽屋の片隅でタブレット片手に業務中だった現場マネージャーの所沢トコロザワがフォクに呼びかけると、

「はーい」と各々が答えて、身支度を終えた。

「スマホ持った?」

「持った持った。っていうか持ってる」

 左々木の質問に紫輝が答えて右手を掲げる。

「バッグ持ってきてなかったっけ」

「あっ」後藤の指摘に紫輝が周囲を見渡し「あぶね。ありがと」鏡前のカウンターに置かれたボディバッグを取り上げた。

「もー最近ホントヒドイよねー」

「また取りに戻るとかやめてよね」

 右嶋と左々木が口々に言って、自分の荷物を持ち楽屋を出る。

「悪いことばっかじゃないんだけどね」

 言い訳のように言う紫輝は、鹿乃江と出会ったときのことを思い出し、またニヘッと笑う。スマホを片手に移動車へ向かいながら、鹿乃江に送るメッセを入力し始めた。


 一方その頃。


 鹿乃江はとある駅に降り立った。住宅街をゆっくりと歩きながら、10階建てのマンションへ入る。

 部屋番号を押してオートロックのエントランスドアを開けてもらう。中層階までエレベーターで上がって、【芦津アシヅ】の表札がかかった部屋のインターホンを押した。

「はーい、おはよー」しばらくして開いたドアから、百合葉ユリハが顔を出し、「どーぞぉ~」鹿乃江を迎え入れる。

「おはよー、お邪魔しまーす」

 慣れた様子で内鍵を閉めて、鹿乃江は靴を脱ぎ廊下を進む。

「これ、ご飯とおつまみ」

「サンキュー」鹿乃江から渡された紙袋を開けて「おー、美味しそう!」中身を取り出した。

「食べたくて、キンパ」

「いーね。こっちももうすぐ焼けるよー。今日は鶏肉~」

 言いながら百合葉がサラダボウルをテーブルに置く。

「鶏肉だいすき~」

 鹿乃江はキッチンから取り皿とカトラリーを二人分取り出して、それぞれの席の前に置いた。

「今日はムスメは?」

「学校のあとそのまま習い事~」

「最近の小学生は忙しいねぇ」

「そうなのよ~」

 月一の“女子会”は、ここ数年来の恒例行事だ。

 ご飯を食べたりお酒を呑んだりしながら、近況報告や共通の趣味の話をしたりする。最近のブームは、一昔前にヒットしたゲームのリメイク版をダウンロードして対戦することだ。

 ご飯を食べ、ひとしきり話したところでゲーム本体の電源を点ける。いくつかダウンロードしたタイトルの中から定番の落ちゲーをセレクトした。

 軽快な音楽に乗せてキャラクターセレクト画面が表示される。それぞれが得意技の違うキャラを選んで、ゲームを開始させた。

「最近なんかあったん?」連鎖を組みながら百合葉が聞く。

「えー? なんも?」

「そー?」

「うん」

 画面に集中しながらの会話は、どこか上の空だ。

「あー、ちがうんですー」思っていた場所とは違うスペースに落ちたブロックに思わず声が出る。

「まだまだ弱いな」にやにやしながら百合葉が言い「はい」連鎖を起爆させた。

「だって下手の横好きなんだものおー!」負けた鹿乃江の言葉尻が心の叫びに変わる。目の前の操作画面にポップなフォントで書かれた【げーむえんど】の文字が落ちてきた。

「少しは手加減してよぉー」

「無理だよ、そこまで上手じゃないし。あんたが得意な音ゲーは手加減しないじゃん。それと一緒だよ」鹿乃江の訴えに正論で返す。

「あ、はい。すみません」

「ってかゲーセン勤めてんだからもっと練習しなさいよ」

「ゲーセンで働いてるからって自由に店のゲームできるわけじゃねーのよ」

 斜め後ろのテーブルからコップを取ってお茶を飲む鹿乃江のすぐそばで、床に置いたスマホがポコン♪ ポコン♪ と鳴って震える。反射的にビクリと体を縮めスマホの画面を確認すると、新着メッセの通知が表示されている。送信者はもちろん【マエハラシキ】だ。

「ちょっとごめん」百合葉に一言詫びてスマホを操作する。

「んー」百合葉は特に気にしない様子で、一人モードをプレイし始めた。

 通知は、移動中の電車内で送信したメッセへの返信だった。


『こちらこそ、ありがとうございました』

『とても楽しかったので、また2人で食事に行けたら嬉しいです』


(それは、私も一緒…だけど……)

 だけど、“楽しいから”という理由だけで気軽に会っていい相手じゃないのを知ってしまった。

 年齢。職業。そのもろもろ。

 しかし断るという選択肢の優先度が低いのは、一番の理由である“職業”のことを気にしないでいいと言われたからだ。

 アイドルだから。芸能人だから。それ以外に、紫輝の誘いを断る理由がない。

 本能と理性の狭間で感情が揺れる。

 アプリを立ち上げキーボードを表示させた。返事を打っては消し、消しては打ちを繰り返す。悩めば悩むほどなにが“正解”なのかがわからなくなっていく。

「めっちゃ悩んでんじゃん」

 すでに一戦を終えた百合葉が鹿乃江を眺めていた。

「えっ? そう? そうかな。そうだね」

 時計を見ると通知から10分ほど経っている

「なんかわからないけど、やりたきゃやればいいし、嫌ならやめればいいんじゃない? ってあんただったら言うでしょ」

「あっ、はい」

(……うん……)

 百合葉の言葉で少し冷静になり、やっと返信を打ち込んで送信した。途端に既読マークが付く。

(あっ。待たせてしまっていた……)

 すぐに『また誘います!』という一文と、目を輝かせた犬の頭上に『パアァ……!』という効果音が描かれたイラストが送信されてきた。

(似てる……)

 思わずふふっと笑う。

「……カレシ?」

「ちがう」

「カオ」

「え?」

「ゆるんでる」

「えっ?!」

 思わず頬を手で隠す。

「どんな人?」

「……」答えに詰まり「アイドルの人……みたいな人……」一瞬悩んで付け加える。

「抽象的すぎるなぁ」

「ですよね」

「誰、アイドルの人」

「えーっと……」と誰もが知っている有名な事務所の名前を出したあとに「そこの、前原くんって人、みたいな人」

「知らないかも」百合葉が自分のスマホで検索をかけながら「中身は?」鹿乃江に問いかける。

「あー、えっとー……」と、紫輝の行動や言動や癖を思い出す。「犬っぽい。人懐っこいっていうか、素直っていうか…」

「このヒト?」検索結果画面を鹿乃江に見せた。

「うん、そう。その人」

(まさに本人。とは、言いたいけどさすがに言えない……)

「いくつの人?」

「えっ、いくつだろう」

 そういえばこの間調べたときにプロフィールを見そびれた。検索履歴から追って調べる。

(うわぁ、やっぱり若い)

「23歳だって」

「それ“前原くん”じゃん」鹿乃江のスマホを覗いて百合葉が言う。

「え? あぁ、いや。たぶん同じくらいだと思う」

「ふーん」興味が有るやら無いやら分からない態度で相槌を打つ百合葉が唐突に「好きなの?」当然のように聞いた。

 いきなり核心に踏み込まれて、鹿乃江は思わず顔をしかめる。

「好き……になってもねぇ……親子レベルで年下だしねぇ……」

「でも別に親子じゃないじゃん」

「そーだけど……」

「遊んだりしてるの?」

「昨日、ご飯行った」

「二人で?」

「…うん」

「いいじゃん」

「いやまぁでも、お礼の意味しかなかったと思うよ?」

「なんかしてあげたの」

「スマホ拾って、預かって、返した」

「だけ?」

「だけ」

 んー、と首を傾げながら百合葉が唸り、「それってさぁー」と言葉を区切ってから何かを思ったように「……まぁいいか」続けるのをやめた。

「えっ気になる。何故やめる」

「ヒトから言われてもあんまりかなと思って」

「あんまりとは?」

「あんまり響かないというか、納得しなさそうというか」

「言ってくれないとなんとも言えない」

「えー? だからぁ……」と少し悩んでから「スマホ云々をきっかけに、仲良くなりたいんじゃない? 鹿乃江と」

「仲良くとは」

「えー…なんかしらの思惑があってぇ、繋いでおきたいってことなんじゃないの? ってこと」

「……んん~~~……」

「あら意外」

「なにが」

「反応が。もっと“いやぁ~”とか言うかと思った」

「あー……いや、でも、思い過ごしだとは思うんだけどね」

「まぁその辺はあんまり考えないでさぁ。まずは一緒にいて楽しいかどうかでいいんじゃないの?」

「“まずは”ねぇ……。まぁ…そんなに誘ってこないんじゃん?」

「いやいやさっきの」百合葉が笑いを含みながら言ってスマホを指さす。

「え?」

「メッセっしょ?」

「メッセっす」

「あらあら」

「いや別に約束はしてな」ポコン♪

 あまりのタイミングに思わず体が跳ねる。その反応に一瞬驚いた百合葉が、すぐにニヤニヤし出し

「どーぞどーぞ」ニヤニヤしたまま、スマホを操作するよう手で促した。

「……あざス」

『早速なんですけど』で始まったメッセは、空いている日を教えてほしいという内容だった。

(仕事終わりならいつでもいいけど、ゆうて最近残業多いしなぁ~……)

 予定していたタスクに加え飛び込みの仕事で予想以上の業務量になることがままある繁忙期前。考えていた予定が無意味になるなんて日は珍しくもない。

 忙しくない曜日と休みの日を織り交ぜて送信したうえで、紫輝の都合のよいときを最優先にしてほしいと付け加えた。

 またすぐに既読が付く。

(今日お休みなのかな。お仕事休憩中?)

 ふと横を見ると、百合葉がニマニマしながら鹿乃江を眺めている。

「……なんスか…」

「いやー? 通知音出してるんだーと思って」

「…うん…そうだね……」

 なんとなく解除した消音の設定は、まだ解除されたまま紫輝からの新着メッセを知らせる。

“なんとなく”、“気まぐれ”だと思っていたその行動は、心の奥にぼんやりと浮かんでいた感情を照らして、明確にしようとする。

「いやもうわかってるんだ。わかってるんだけどね?」

 手で顔を覆う鹿乃江。長い付き合いの百合葉は、何故そんなにも鹿乃江が逡巡するのかを知っている。

「ごめんごめん。追い立てるつもりはないんだけどさ。もったいないなって思うんだ。鹿乃江が悪いわけじゃないのにさ」

 百合葉の言葉を、鹿乃江は黙って聞いている。

「我慢しないで、好きになってみたら? うまくいったら心の底から祝福するし、万が一ダメだったら、かまってほしくなるまでそっとしておくよ」

「うん……」と顔をあげ「泣いてないよ?」百合葉に顔を見せると、

「わかってるよ」

 百合葉が笑った。


* * *


 仕事終わり。すっかり見慣れた道を行く。店に一番近い駅の出口ももうわかっている。目印にしている場所が見えると、自然に鼓動が早くなる。

(……あれ。緊張してきたな……)

 無意識にしている意識に気付いて、急に頬から耳にかけて熱くなっていく。

(えっ、やだ。赤くなってるよね。どうしよう。いやどうもできない)

 あと少しで待ち合わせ場所に着いてしまう。

 嬉しいようなしんどいような感覚。

(これ、知ってる……知ってるなー……)

 三度目の【コリドラス】来訪。入店前に大きく呼吸をする。

 待ち合わせまではあと10分程度。きっと前回と同じように、少し落ち着く余裕があるだろうと思っていた。

 しかし。

 すでに着席していた紫輝が気配に気付き顔をあげ「あっ」短く言って笑顔を見せた。

 その反応と笑顔に、ドキリと心臓が跳ねる。

「ごめんなさい、お待たせして」少し急ぎ足で鹿乃江が席へ近付く。

「いえ、全然。こちらこそすみません、何度も呼び出しちゃって」

 くしゃっとした笑顔で紫輝が詫びた。しかしそれには、誘いに応じたことへの感謝が見え隠れしている。

 鹿乃江もつられて笑顔になり、首を横に振る。

「誘ってくださって、ありがとうございます」

 鹿乃江の言葉に紫輝が笑顔を見せて、姿勢正しく座り直した。正面の席に鹿乃江が座ると同時に、テーブルに置いた紫輝のスマホが震える。

「あっ、ごめんなさい。仕事のメールが……」

「はい。どうぞ、お気になさらず」

「ありがとうございます」

 礼を言って、紫輝がスマホを操作し出す。

 ふと、百合葉の言葉を思い出した。

“我慢しないで、好きになってみたら?”

(好き……なのかな)

 向かいの席に座る紫輝を見つめてみる。

 伏せたまぶたに長いまつげ。整った眉にすべらかな肌。シャープで細い頬から、顎にかけてのライン。形の良い唇。スッと通った鼻筋。色素の薄い瞳がゆっくりと正面を向く。鹿乃江の視線に紫輝が気付き、驚いて、そして照れる。

「なんか、付いてます?」

 確認するように自分の頬をさする、細く長い指。

「いえっ。付いてないです」

 観察モードから会話モードに切り替わるべく、鹿乃江は背筋を伸ばす。

「照れるんで、あんまり見ないでください」

 苦笑交じりの照れ笑いを浮かべて、顎をさすっていた指を首筋に移動させた。

(見られるの、慣れてるのでは?)

 と思ったが、それは言わない。たぶん、そういうことじゃない。

「すみません」確かに無遠慮だったなと頭を下げる。

「あっ、イヤじゃないんすよ? ただ、照れるだけっすよ?」

「じゃあ、今度眺めるときは、ちゃんと言いますね」冗談交じりに言う鹿乃江に、

「はい、お願いします」

 紫輝が笑って答えて、画面を伏せてスマホをテーブルに置いた。

「すみません、終わりました」と、メニューを持ち「ミルクティー?」広げながら紫輝が微笑む。

「そう言われちゃうと、別のにしたくなりますね……」

 冗談めかして言いながら、紫輝と二人でメニューを眺める。

「前原さんはカフェオレですか?」

「そうですね……オレも別のにしようかな」

 言いながら、空いた手で頬を撫でつける。

「ここ、良くいらっしゃるんですか?」

「はい、家から近くて。集中したいとき、たまに来るんです」

(そんな簡単に個人情報漏らしちゃって大丈夫かな……)

 自分が聞いたこととは言え、つい心配になってしまう。

 紫輝に“芸能人”という意識があまりないのか、それとも鹿乃江に対して安心しているのか……。

 あまり深く考えないようにして飲み物を選んだ。

「「決まりました?」」

 二人同時に言って目線をあげる。

 案外距離が近付いていたことに気付き、お互い一瞬固まって、ゆっくりと上体を起こした。

「私、ブルーベリージュースにします」

「オレはミルクティーで」鹿乃江の馴染みを口に出して「いつも美味しそうに飲んでるんで、気になってたんですよね」はにかむ。

「……味の趣味が似ていることを祈ります」

 その言葉に紫輝が笑って、店員を呼んだ。オーダーを済ませ、鹿乃江に向き直る。

「今日もお仕事忙しかったですか?」

「今日はそこまででもなかったです。前原さんは、お忙しそうですね」

「いやぁ、まだまだっすよ」

「お体壊さないように」

 若いから大丈夫だろうとは思うものの、ついつい心配してしまう。

「ありがとうございます。鶫野さんも、おからだ大事にしてください」

「はい。ありがとうございます」

 顔を見合わせるとなんだか可笑しくなってきて、二人で笑ってしまう。


(楽しいなぁ……)

 素直にそう思う。

 二人で会って他愛もない話をすることが、単純に楽しい。そう思えるだけでもう、相手は“大切な存在”になっている。

 気付いているけど見ないフリをして、大切な時間をなにげなく過ごす。意識して、緊張しすぎて、心から楽しめないのは嫌だから。

 普段と同じように、少しでもいつもみたいに楽しめるように。そしてそれを、なによりも大切に思えるように。


 ほどなくして飲み物が運ばれてきた。

「うん、うまい」

 ミルクティーに口を付けた紫輝の感想に、何故か鹿乃江が安堵の気持ちを抱く。

「紅茶もいいですね」

「美味しいですよね。カフェオレも気になったんですけど、コーヒー飲めなくて……」ストローを指先で回してグラスの中身を攪拌かくはんしながら鹿乃江が残念そうに言う。

「味ですか?」

「味はむしろ好きなんです。体質的に合わなくて……胃が痛くなっちゃうんです」

「あらら、なら無理しないほうがいいですね」

「はい。ここのは特に美味しそうなので、残念です」

「じゃあ、ほかにも美味しいもの探しましょう。呼び出してもらえればいくらでもご一緒しますよ」

 何気なく言ったであろう紫輝の言葉に心臓が反応した。

「ありがとうございます」

 次の約束を取り付ける場面なのかもしれないが、鹿乃江から誘うのはまだまだ気が引ける。

(いつかスマートに誘えるときが来るのかな)

 ぼんやりとそんなことを考える。

 そもそもそういう行動が苦手なので、ハードルの高い希望だったりするのだが。


 お茶を飲みながら話していると、あっという間に時間が過ぎる。


 お互いの飲み物が終わる頃、「そろそろご飯行きましょうか」紫輝が手首に巻かれた時計を見て言った。

「はい」

 次の店も、どうやら紫輝が予約を取っているらしい。

「ごめんなさい。一緒に、行けなくて……」

 申し訳なさそうに言う紫輝に向かってゆっくりと首を横に振り、

「大丈夫です。先導、お願いします」

 頭を下げた。


 先に出た紫輝を追うようにコリドラスをあとにして、まばらな人通りの裏道をしばらく歩く。紫輝はたまにさりげなく後ろを見て、鹿乃江を確認する。鹿乃江は気付かないふりをして、その背中を目印に歩く。

 10分ほど歩いて紫輝がとあるビルに入っていく。と、半身を出して手招きをした。それに気付いた鹿乃江は小走りに紫輝の元へ向かう。鹿乃江が近付くと笑顔になり、

「誰もいなかったんで呼んじゃいました」

 いたずらに笑って

「ここからは一緒に行きましょう」

 エレベーターホールへ入った。

「意外に人通りなかったっすね」

「そうですね」

「これなら、一緒に来ても良かったかも」

「そうですね……でも、念には念を入れることも大事ですよ」

 にこやかに言う鹿乃江に、

「そうっすね」

 ニヤッと笑って紫輝が同意した。


 店員に案内されて入った個室は、壁一面がステンドグラスのように装飾されていて、なかなかに幻想的だ。

 鹿乃江がパァッと笑顔になり「すごーい」思わず声を上げた。

「気に入ってもらえて良かったです」

 鹿乃江の隣で一緒に内装を眺めながら、紫輝は自分が褒められたかのように嬉しそうに笑う。

「こないだのお店も喜んでくださったんで、こういうのもお好きかなって」

「はい、素敵です。自分じゃこういうお店選ばないので、嬉しいです」

「…誘われたり、しないんですか?」

「しないですねぇ。職場のコたちとは、居酒屋とか食べ放題とか行っちゃうので」

 探るような紫輝の質問の意図に気付かず、鹿乃江が室内を見回しながらサラリと答える。

「若い人多いんですか?」

「はい。年上なのは上司……店長くらいですね」

「ずいぶん若い方が多い会社なんですね」

 言いながら紫輝が席に着く。

「んー……そう、ですね。職種柄? ですかね?」

 核心に触れられるのを避けるように目線を逸らして、紫輝の向かい側に着席した。

 いままで聞かれたことがなかったから、鹿乃江は自分の年齢を紫輝に言っていない。言ったところでなにが変わるでもなさそうだが、それでも多少の抵抗はあった。

(下手したら店長も年下になったりするんだけどね……)

 社員は数年おきに人事異動がある。年齢に関わらず配属が決まるので、店長はおろか、そのさらに上司のエリア長クラスでも年下はざらにいる。

(一回り以上も上だとは思ってないんだろうな)

 壁一面の装飾を眺めながら、少し後ろめたい気持ちを抱く。

 いつものこととは言え、今回ばかりは割り切れない。

「鶫野さんってお酒呑まないんですか?」

 紫輝がパネル式メニューを見ながら鹿乃江に問うた。

「好きなんですけど、あまり強くなくて。呑まれるんでしたらどうぞ、お気になさらず」

「ちゃんと家の近くまで送りますよ?」

「きっとおうち遠いですよ」

「だーいじょうぶです。それこそお気になさらずっすよ」

 顔の前で手をヒラヒラと振り、紫輝が目を細める。

(……たまにはいいか……)

「じゃあ……少しだけ……」

 送ってもらうかどうかは別にして、期待に応えてみる。その言葉を受けて、紫輝が嬉しそうに微笑んだ。

「はい、どうぞ」

 酒類のページを開いて鹿乃江に渡す。

「ありがとうございます」

 紫輝と同じように両手を使ってメニューを受け取り、飲み物を選んで紫輝に返す。鹿乃江の選んだスクリュードライバーに、紫輝がジントニックと食べ物を追加してオーダーボタンを押した。

「大丈夫だと思いますけど、なにか粗相したらすみません……」

「全然。勧めたのオレですし、味わっちゃってください」

「はい。ありがとうございます」

 紫輝の口調に鹿乃江が笑いながら答えた。

 談笑しているうちに、飲み物と軽食が運ばれてくる。

 じゃあ、と紫輝がグラスを掲げる。鹿乃江もそれに倣って「お疲れさまです」グラスを軽く当てた。

 口をつけ、少量を飲み込む。

(おいしい~)

 久しぶりの味に、思わず頬が緩む。

(ピッチ上げないように気を付けよう)

 味は好きだが、体質的にアルコールに弱い。自分でも弱いのを知っているから、無茶な飲み方はしない。帰りに30分弱電車に乗ることを考えたら、なおさら気を付けなければならない。なのに。

 一緒にいるのが紫輝だから。その安心感に、そして普段行く店で呑むよりも濃い目のアルコールに、鹿乃江は自分が予想していたよりも早めに酔い始めていく。


 紫輝は、テレビで自分を見たと鹿乃江から聞いて以降、自分からどんな仕事をしたのかを話すようになった。そのたび鹿乃江が目を輝かせて興味深そうに話を聞いてくれるので、純粋に嬉しくてついつい話してしまう。

「この間は、鍾乳洞の奥にある湖を見に行ったんです」

「あ、それ、見ました。それで、まえはらさんのお仕事しったんです」

「そうなんすね! あれ見てくれたんですね」

「たまたまなんですけど」

「いやいや、充分です! 嬉しいっす」

「とちゅうからみたので、経緯とかはわからないんですけど」

 鹿乃江の喋り口調にだんだん平仮名が混じってくる。

(酔ってきてる……かわいいな~……)

 いつもより甘く幼い口調で喋る鹿乃江の上気した顔を見つめて、紫輝が目を細める。

「キレイな色の湖でしたよね」

「そうなんですよ。ネットで見て、行ってみたかったんで嬉しかったです。実際に見るのと画面を通してだと、また違った見え方で良かったんです」

「いいですねぇ。行ってみたいけど、行くのたいへんそうでしたよね」

「…確かに一人じゃ大変だと思いますけど……オレ、案内、しますよ…?」

 探りながら言った紫輝に、鹿乃江は満面の笑みで「ありがとうございます」と返した。

(いまのは…肯定……? 反応……?)

 紫輝が悩みつつ次の話題を考えていると、グラスの半分ほどの酒を呑み終えた鹿乃江の表情がさらに緩み始める。エヘエヘ言わんばかりの笑顔で、ゆらゆらとゆっくり左右に揺れている。

(カワイイ! カワイイけど……!)

 悶絶しそうになるのをこらえ「かのえさ~ん……」さりげなく名前で呼びかけてみる。

 ん? と鹿乃江が紫輝に目線を移した。

「大丈夫…ですか?」

「はい。だいじょぶでスよ?」

 両手でグラスを包んで、美味しそうにスクリュードライバーをちびちびと飲んでいる。

「めちゃ顔まっかですよ?」

「そーなんでス。すぐカオに出ちゃうんでス」と、首筋や腕の内側をさすって「このあたりも赤くなっちゃうんですよね……」伏し目がちに言い、さするのをやめた手でグラスを持ち直す。「でも、よってないんですヨ?」

「いやいやいや……酔ってるでしょ」

 紫輝は手を左右に振って鹿乃江の言葉を否定した。

「だいじょうぶですー」

「揺れてますもん」

「ゆれたいんですー」

 自分の手元を見ながら喋る鹿乃が、時折眠たそうにゆっくりと瞬きをする。

 その仕草に、紫輝はとろけそうな笑顔になってしまう。

(やべぇ~! かわいい~!)

 緩む口元を隠そうと手で覆う紫輝。そのまま頬杖をつく体制になって、赤く染まった鹿乃江の顔をジッと見つめた。

(ちょっと無防備すぎるでしょ……)

 自分の手元を見つめながらゆらゆらと揺れる鹿乃江を見つめ続ける。その視線に気付いた鹿乃江が、不意に視線をあげた。

(うわっ……!)

 アルコールのせいでとろんとした目つきに上気した頬。

(うわっ! うわーっ!)

 紫輝の動揺に気付かず、鹿乃江はこてんと首を傾げ、唇に付いた水分を拭うように下唇をむ。

「どーしました?」

「ぃやっ! なんっでもない、ですヨ?」

 あまりの動揺に変なイントネーションになってしまう。

「あっ。お、お水飲みます? お水。飲みましょお水。持ってきてもらいましょ」と紫輝が慌ててオーダーした。

「えぇー。そんなにのんでないですヨ?」

「いや、ちょっと一回グラス置きましょ? ね?」

「はぁい」

 返事を聞いて紫輝がグラスに手を被せ、鹿乃江の口元から遠ざけた。

 グラスから離れた鹿乃江の手に、指先が触れる。グラスの温度が移った冷たい指をそのまま絡め取りたい衝動に駆られた紫輝はそれを必死に抑えるが、触れた指先を離すことができない。

 思考の読み取れないとろんとした目つきのまま、鹿乃江が紫輝を見つめる。指が触れているのを気にしているのかどうかすら、紫輝にはわからない。

「まえはらさん?」

「……鹿乃江さん…あの…オレ……」

 指先に少し力を篭めたタイミングで、個室のドアがノックされる。

「っはい!」

 返事をした紫輝が弾かれるように手を離した。

「失礼いたします。お水をお持ちしました」

「あっ、ありがとうございますっ」

 テーブルに置かれた二つのグラス。そのうちの一つを紫輝が取り、グラスの半分ほどの水を飲み下した。あまりの勢いに、鹿乃江がキョトンとした顔で見つめる。

 紫輝は緩やかに頭を左右に振って鹿乃江に微笑みを向け

「鶫野さんも、どうぞ」

 もう片方のグラスを鹿乃江の近くに置いた。

「…はい…」

 少し不服そうな表情の鹿乃江に

「お水もきっと美味しいですよ」

 言って、笑う。

(そうだけど…そうじゃない……)

 鹿乃江は少し拗ねたように唇を尖らせながら、水の入ったグラスに口を付けた。



 席で会計を済ませて店を出る。エレベーターホールにはほかに誰もいない。ボタンを押して、エレベーターの到着を待つ。

 まだ少し揺れている鹿乃江を横目に見て、紫輝が被っていたキャップを鹿乃江の頭に乗せ、上から優しく押さえて被せた。

「?」

「…そんな無防備な顔、オレ以外のやつに見せないで欲しいんで…」

 照れくさそうに前を向いたまま指で髪をほぐし、紫輝がぽつりと言った。

「…おかりします…」

 うつむく鹿乃江の上気した頬に触れたくて仕方ないが、酔っているところに付け入るようなことはしたくなくて、紫輝はなるべく鹿乃江を見ないようにする。しかし、なにかから守るように一定の近さで寄り添っている。

 かごの到着を知らせるランプが点くと、中から人が出て来た時に備えて紫輝が鹿乃江を背中に隠した。

 ドアが開くとサラリーマンと思しき数名が会話をしながら降りてきて、二人には目もくれず店に入っていく。その集団をやり過ごしてエレベーターに乗り込んだ紫輝が開ボタンを押して待つ。

 一瞬ためらって、鹿乃江が歩を進めた。

 小さな個室に二人きり。

 少し気まずくて、少し甘い沈黙の空間。

 瞬間、様々なことが頭をよぎるが、それは一分足らずで終わってしまう。

 エレベーターを降りビルを出た少し先に、店を出る前に紫輝がアプリで呼んだタクシーが停まっていた。

「ごめんなさい。ちょっと急用ができたので、送って行けなくなりました」

 理性を抑えられる自信を失くした紫輝は、そんな嘘をついた。

「そうですか。おいそがしいなかありがとうございました」

 鹿乃江がゆっくり頭を下げる。

「心配なので、家に着いたらメッセください」

 帽子の中を覗き込んで、紫輝がまっすぐに見つめる。

「はい」

「それじゃ…また」

「はい……」

 鹿乃江がタクシーに乗り込むと、ゆっくりドアが閉まる。自宅近くの住所を伝えると、運転手はそれをカーナビに打ち込んで発車した。

 紫輝は、タクシーが見えなくなるまでその場にたたずみ、鹿乃江を見送った。


 店から少し離れ、タクシーが繁華街に入る。雑踏を行きかう人の流れを見ながら、鹿乃江は飲酒の余韻を感じていた。しかし、ほろ酔い気分は醒めつつある。

 店から自宅まではスムーズに行って3~40分程度だ。車酔いもさることながら支払いが心配になり、クレカが使えるかを運転手に確認した。しかし、アプリで予約した人が登録済みの方法で支払うシステムらしい。

(電車で帰るって言えばよかった……)

「少し、窓を開けていいですか?」

「どーぞどーぞ」

 運転手が快く受け入れてくれたので、窓を細く開ける。夜風が気持ちいい。

 頭を冷やして紫輝の行動を思い返そうとするが、うまく考えがまとまらない。

 アルコールのせいでうつらうつらしていると、見覚えのある景色が近付いてきた。窓を閉めて降りる準備をする。

「ご住所だとこのあたりなんですけどー」

「あ、はい。ここで大丈夫です。ありがとうございます」

 家から徒歩5分程度の大通りでタクシーを降りた。風に当たりながらゆっくりと歩く。

 酔ってはいたが、酩酊はしていない。むしろ記憶はハッキリしている。

 次第に覚醒する脳内では、先ほどまでの光景が何度もリピートされていた。

 鍵を開けて靴を脱ぎ、家の中でキャップを脱いであっと気付く。

(返しそびれた…)

 タクシー代もそこそこの額になっていた。なにをいつどうやって返そうかと考える。その気がかりと一緒に、店内での出来事がグルグルと回る。

(手…指……あれなんだったの……?)

 自分のものとは違う体温が、紫輝の指の形に残っている気がする。

(急用……って、あれたぶん……言い訳、だよね……)

 手に持った紫輝のキャップを眺めながら、別れ際の紫輝を思い出す。様子がおかしいように見えたのは、アルコールのせいなのか、それとも……。

(そうだ…メッセ……)

 バッグの中からスマホを取り出し、アプリを立ち上げて個別ルームに入る。


『先ほどはありがとうございました。無事帰宅しました。』


 タクシー代がどうのとかまだるっこしいことを書きたくなくて、しかしなにも書かないのもためらわれて。酔いが醒めた頭で二の句を考えていると、送信したメッセに既読が付いた。しかし、いつもなら早めに来る返信がしばらく待ってみても来ない。

 なんとなく居心地が悪くて、おやすみなさい、と打って、送信できずに消した。

(……嫌われちゃったかな)

 思いがけず気持ちが落ち込み、自分で自分の感情に戸惑う。

(なんかもう、わかんないや……)

 アプリを閉じて、けだるい体で部屋着に着替える。

(トイレ…あと、メイク落とす…)

 逐一考えながら行動する。そうでもしないと床に突っ伏してしまいそうだ。

 長く吐いた息が熱い。

(あした、やすみでよかった……)

 ベッドに横たわり電気を消す。

(まえはらさんは…なにをかんがえて、いたんだろう……)

 紫輝のことを考えながら、鹿乃江は眠りについた。


* * *


 鹿乃江を見送ったあと、紫輝は別途拾ったタクシーで帰宅した。酔った鹿乃江と対峙して欲望と戦い続けたため、若干疲れている。

 疲労を癒し、頭を切り替えるためにシャワーを浴びながら悶々と考え始める。

 誰かに持ってかれる前に、気持ちを伝えて関係を繋ぎたい。率直に言うと、自分の彼女モノにしたい。

 しかし、告白するには色々考えなければいけない。

 仕事。立場。そのもろもろ。

 やっとデビューして仕事も軌道に乗り始めたこの時期に世間で言われる“スキャンダル”を起こしたら、きっと事務所やメンバーに迷惑をかけてしまう。自分の幸せだけを考えていてはダメなのだ。

 鹿乃江には仕事のことを理由にしないでほしいと望み、自分は仕事を理由に告白すらできずにいる。そのアンビバレンツささえも、いまの紫輝には仕事の一環に思えてしまう。

 しかし、タクシーで一緒に帰れるほどの理性も残っていなかったのに、この先もただ会って喋って食事して別れるだけで満足できるとは到底思えない。

(会いたいけど、今度会ったらマジでやばいかも……)

 指先に触れた滑らかな柔肌は、手から続く身体の肌質を想像させた。

 よくあの程度で止まったと思う。あそこで店員が来ていなかったら、勢いでなにをしていたかわからない。

(なにか聞かれるかな……。「なにを言おうとしてたんですか?」とか? そしたらどうしよう。仕事は仕事で頑張るとして、もう言っちゃう? でもメッセで伝えるのはナシかな~……)

 ソワソワと展望を描きながら部屋着を着る。髪を拭きながらリビングに戻ると、テーブルの上でポコン♪ とスマホが鳴った。

(きた!)

 鹿乃江からの新着メッセを知らせる通知は、無事帰宅したことを伝える一行分の文章で終わっている。

(えっ。これだけ?)

 まさかと思いアプリを立ち上げるが、やはりその一行だけで完結している。

(え? 覚えてないとかじゃないよね? もしかして気にしてないとか? えっ? ちょっといい雰囲気だったよね? えっこれオレもフツーのこと返したらただのお友達になっちゃうやつ? えっ、それはやだ! えっえっ、どうしたらいいの?)

 スマホを持ったままリビングをウロウロと歩き回る。

 あれもちがう、これもちがうと考えているうちに、既読を付けてからだいぶ時間が経ってしまった。

(いや~! タイミング逃したよなぁ~!)

 頭を抱えてその場にしゃがみこむ。

(あぁ~……情けねぇ~……)

 ガシガシと頭を掻いた。さきほどまで濡れていた髪が乾きかけている。

(既読スルーになっちゃってるし~……)

 はあぁ~と大きく息を吐いて、ズルズルと床に突っ伏す。

(…いまごろ寝てるのかな……)

 個別ルームの履歴を眺めながら鹿乃江の寝姿を想像して、悶えながらゴロゴロと床を転がった。

(中学生かっ!)

 大の字に寝転んで、天井をあおぐ。

(……ガツガツしてるって思われたかな……)

 照明のまぶしさに目を細めて、うつぶせになる。

(嫌われたかな……また、会ってくれるかな…)

 頬をフローリングに当て、冷たさで頭を冷やした。


* * *


 ♪~…♪~~…♪♪~……♪~…


 意識の遠くから聴き覚えのあるメロディが聞こえる。

 毎朝の習慣。

 休日だというのに、解除し忘れた目覚ましのアラームに起こされた。

(うぅ……)

 枕元に置いたスマホを操作し、アラームを止めて時間を確認した。

(……ねむい……)

 夢の中に紫輝が出てきたような気がするが、記憶はおぼろげだ。昨日の夜の記憶とごちゃまぜになって、なにが現実でなにが夢かも判然としない。

 眠い目をこじ開けもう一度スマホを確認するが、新着メッセの通知は来ていない。

(あぁ……)

「呑むんじゃなかった……」

 乾いた口からかすれた声が出る。

 久しぶりのアルコールに、少々飲まれた感はある。しかし残った記憶を手繰ってみても、特になにかやらかした覚えはない。左右に揺れるのは、酔った時の鹿乃江の習性に過ぎない。

(……読んだあと、寝落ちしちゃったのかもしれないし…)

 だんだん覚醒する脳が、昨晩の記憶を呼び起こす。


 触れた指先。熱っぽい視線。言いかけて遮られた言葉。


(……思い上がりじゃ……ないのかな……)

 期待を交えた考えは、鹿乃江一人で答えが出せるものではない。

(ちゃんとお礼言えてないな……それに……)

 ベッドサイドのミニラックに置かれた紫輝のキャップを眺める。

(……うん……)

 意を決して、鹿乃江はアプリを立ち上げた。


『昨日はありがとうございました。』

『酔って変なことしていたらごめんなさい。』

『帽子とタクシー代、今度お返しします。』


 勢いに任せて立て続けに送信する。


(今度……あるのかな)

 画面を眺めながらため息をつく。と同時に、メッセに既読がついた。すぐに『大丈夫です!』という文字入りのイラストが届く。続けて文章。


『タクシー代のことは気にしないでください』

『それより、おうちまで送れなくてごめんなさい』

『帽子は今度会った時に返してもらえれば大丈夫です』


(今度、あるんだ……)

 ふと口元が緩む。


『ありがとうございます。』


 気持ちとは裏腹な簡素なお礼を送信すると、すぐに返信が届く。


『また、お店さがしておきますね』

『鶫野さんも、行きたいところ見つけたら教えてください!』


(今度、あるんだ)

 紫輝からの返信に笑顔が溢れだす。

 会えてうれしいと思える人がいる。いまはそれだけで充分だ。

 連絡が来たらドキリと心臓が跳ね、会えるとなったらソワソワと着ていく服を選んだりする。久しぶりのその感覚は、やはり鹿乃江の心を躍らせる。

 紫輝も同じ気持ちでいてくれたらいい。

 鹿乃江はアプリを操作して、【マエハラシキ】の詳細画面に表示された星印をタップする。

 空白だった星印の内側が塗りつぶされて、ウィジェット一覧に紫輝のIDが表示された。

(なんとなく……)

 少しの言い訳。それでも、それがとても大切な儀式のように思えた。


* * *


 忙しくてなかなか会えず、鹿乃江とはメッセでの連絡しかとっていない。鹿乃江から誘ってくることはなく、かといって紫輝から誘うにも仕事が忙しく、夜中近くにならないと時間が空かないから約束を取り付けるに至らない。

 そんなある日、紫輝は呼び出されて事務所に出向く。よっぽどのことがない限り単独でチーフに呼び出されることはないため、内心不安でいっぱいだ。

 デスクワークをしている社員に挨拶をすると「応接室に通してほしいって言ってましたよ」と教えられた。紫輝は礼を言って事務所の一角にある個室へ移動し、ドアをノックした。

「はーい、どうぞー」

「失礼します……」言いながらドアを開けて入室する。

「おー、来た。お疲れ様。そこ座って?」

 中で待っていたチーフマネージャーの小群こむれが、テーブルを挟んだ向かいにあるソファを手で示して着席を促した。

「お疲れ様です」

 言いながらソファへ座る。

「あのー……」思い当たる用件もなく、どう切り出そうか悩む紫輝に

「なんか飲む?」小群が問いかけた。

「あ…じゃあ…お茶で」

 カウンタに置かれた小型の冷蔵庫から350mlのペットボトルを取り出して、小群がソファに座りながら「ほい」と紫輝に渡す。

「ありがとうございます」受け取って礼を言う紫輝に

「突然だけど、いまお前、彼女いるの?」小群が再度問いかける。

「へ?」唐突な質問に、間抜けな声が出た。「いないっすいないっす」手を横に振る。

(好きな人はいるけど)

 とは、もちろん言わない。

「ふーん」と小群はあごひげを指でさすってから「単刀直入に言うね? 再来週発売の週刊誌に、お前が載ります」話を続けた。

「え? 単独で取材受けましたっけ?」

「取材は受けてないやつです」

「へ?」

「これです」

 小群はテーブル脇のマガジンラックから、既に発売されているゴシップ系写真週刊誌を机上に移した。

「えっ? あっ!?」

 それにリンクして、鹿乃江の顔が浮かぶ。

「事務所としてコメント求められてんだけど、本当に彼女いない?」

「いないっす! それは本当に!」

 小群は少し考えてから、かたわらに置いていたビジネスバッグからクリアファイル入りの書類を取り出した。

「もしかして、この子のこと思い浮かべた?」

 二つ折りにされたA3サイズの紙には、仮組みのレイアウトと共に粒子の荒い画像が何枚か印刷されている。

「そう…っすね……」

 一ヶ月ほど前、鹿乃江と食事に行った帰りのものだ。自分が被せたキャップに隠れ鹿乃江の顔がほとんど見えていないのを確認して、紫輝は内心安堵した。

「同業者じゃないみたいだし、相手の顔はわからないように加工されるけど、一応相手には事前に説明してあげるといいよ」

 怒るでもなく小群が言う。

「これ…絶対載ります?」

「よほどの大事件でもなければ載るねぇ」

「良く似た赤の他人ですよー的な」

「お前コレとおんなじ服、仕事で私服公開企画やったとき使ってたじゃん」

「あ」口に手をやる。

(っていうか、その仕事帰りに会ったんだわ)

「……油断してました。すみません」

「いやまぁプライベートの話だし、犯罪でもない限りは自由にしていいと思ってるんだけどね? こっちも一応仕事だし、業務として聞いてるだけよ?」

「はい」

「ほかにも誰か一緒にいた?」

「いえ、二人だけでした」

「んー」とあごひげをさすりながら小群は考えて、「……まぁ、知人ってことでコメント出しておくよ」書類をバッグの中に仕舞った。「今日はそんだけ。悪かったね、急に呼び出して」

「いえ。お手数おかけしてすみません」

「……一応もっかい言っとくね? 知人ってことでコメント出すから」

「? はい」

「狙ってるんだったらしっかり説明なり弁明なり、ちゃんとフォローしとけよ? ってこと」

 小群の言葉に、紫輝が目を大きく開く。

「反対しないんすか」

「もう大人なんだし、別にハメ外さなきゃいいよ。ファンは大変だろうけど」

「うっ」

「初スキャンダルだし」

「うぅっ」

「相手特定されないようにしばらく気をつけてやれよ? 一般の人だろ?」

「そうっすね…気をつけます……」

 失礼しますと応接室を出て、同じビル内の地下駐車場で所沢と落ち合い、移動車に乗った。

 数か月先に控えたツアーで販売するグッズ用の写真を撮影するためにスタジオへ向かう。途中でメンバーの自宅に寄り、ほかの三人を拾う。まずは事務所から一番近くに住んでいる後藤が乗り込んだ。

 軽い挨拶をして、紫輝が車外の景色を眺め始める。

 気を付けていたつもりだったのに、“まさか自分が”という気分だ。鹿乃江にも気にかけてもらっていたのに、それを無下にしてしまった。

(もういっそ付き合って公表したい)

 なんてできもしないことを考える。

「はあぁー」

 声でも出さなければやってられない気持ちになって、ため息を声に出して吐いた。

「えっ、なに」

 隣で寝ていると思っていた後藤がいぶかしげに眉根を寄せて紫輝を見る。身体は若干引き気味だ。

「えっ。あ。ごめん」

「なに? なんか聞いてほしいの?」

「いや、そういうわけじゃないんだけど」

 いつになく歯切れの悪い紫輝に、後藤はますますいぶかしげな顔になる。

「珍しいね」

「そう?」

「別に話くらい聞くのに」

「うん、ありがとう。まだ話せるほど自分の中でもまとまってないんだよね」

 バツが悪そうに笑う紫輝に、後藤が「ふぅん」と相槌とも返答ともつかないリアクションをする。そこで会話は途切れた。

 車内にエンジンの作動音が聞こえる。時折大型トラックとすれ違って、風が切られる。

 しばらく景色を眺めていた紫輝が、ゆっくり口を開いた。

「……ゴトーってさぁ……誰かのこと、好きになったこと、ある?」

「え? 恋愛感情でってこと?」

「うん」

「まぁ、あるけど……なんで?」

「いや、そういうとき、どうしてるのかなと思って」

「どうしてるっていうか……その時といまとじゃ状況違うしなぁ。デビューしてからはそういう相手もいないし」

「その前はどうしてたの?」

「その前……って、高校生だったし……。こっちから告って付き合いはしたけど。一緒に勉強したり、ちょっと遠出してデートしたり? でも、向こうが大学受験だったりこっちの仕事が忙しくなったりで、自然に疎遠になっちゃったなぁ」

「そっかー……」

「紫輝くんだっていたでしょ、そういう相手」

「いや、いたけど……またちょっと、状況が違うっていうか……」

「紫輝くんも相手の人も、なにも今回が初めての相手ってわけじゃないんでしょ?」

「そうだろうとは思うけど……初体験なところも多いんだよねー……」あっ、と小さく声をあげて「まだ、ササキとトワには内緒ね」人差し指を立てて唇に当てた。

「うん」

「いますぐどうこうってことでもないからさ」

「でもいずれどうこうしたいから悩んでるんでしょ?」

「そう……そうね……」

「まぁ悩むよね。いまの時期、特にね。狙われやすいしね」

 後藤の言葉に紫輝が固まる。あ、やっぱり。と後藤。

「え、なにやっぱりって」

「え? 特に理由なくそういうこと聞いてくる人じゃないじゃん紫輝くん。だからなんかあったのかなーって」

「……すごいね」

「長い付き合いじゃん。……いつ載るの?」

「再来週って言ってたかな」

「じゃああいつらにイジられるの覚悟しとかないとね」

 言われて、左々木と右嶋の顔が浮かぶ。

「そうね……。……前もって教えておいたほうがいいのかな……」

「どうだろう。めっちゃ説明させられるとは思うけど」

「そうね……」

 メンバーに説明も必要だが、それ以前に鹿乃江に説明しなければならない。まずはそこからだな、と考え始めたところで、マンションの前に移動車が停まる。所沢が電話をすると、数分後に左々木がマンションから出てきて車へ乗り込んだ。その十数分後に右嶋も合流し、全員揃ってハウススタジオへ入る。

 室内セットを使い、数パターンの衣装に着替えて写真を撮影していく。公演が開催されるたびに実施される仕事なので、皆の動作もスムーズだ。

 ふと、先ほどまで悩んでいた自分と、ライトを浴びてシャッターを切られる自分とが乖離はくりした気分になる。同じだけど、少し違う。

 まぶしい照明に照らされて、悩んでいる自分が飛散していく。

 BGMとして使われているフォクのアルバム。その楽曲が耳から頭に流れ込んで充満する。カメラマンの指示を受け、瞬間毎にポーズを変える。切られるシャッターの音。レンズの奥で瞬きするように閉開する絞り羽。保存されていく過去の自分。

 中学生の頃から住んでいたこの業界せかい。自分にとっての当たり前は、この星で暮らす大部分の人のそれとは違う。

「はーい、OKでーす。チェックしまーす」

 少し離れた場所に設置された長机の上に機材一式が置かれている。パソコンの画面に表示される多数の写真を、カメラマン、複数の現場スタッフ、自分で確認する。

「あ。いつものやつ

 左々木が横から、ある一枚を指さし言った。

「やめてよ、表情ワンパターンみたいに言うの」

「だいじょぶだいじょぶ、違うのもたまにある」

「ちょっと山縣ヤマガタさん」

 紫輝が口をとがらせてツッコミを入れると、デビュー前から世話になっているカメラマンの山縣がケラケラと笑った。

「そんな何十パターンも表情持ってる人なんてそうそういないから」ヒラヒラと手を振って山縣が言い、画面に表示された写真をくまなく眺め「うん、オッケー。紫輝くん完了。次ササキくんね」左々木を振り返る。

「はーい」紫輝と左々木が同時に返事した。

 このあとにグループの集合写真と、パンフレットに載るインタビューが控えている。メイキング映像用のカメラも入っているので、完全なプライベートの時間が取れるのはまだ先だ。

 ハウススタジオ内の空きスペースでくつろぎながら、メンバーと談笑したりアンケートに答えたりする。場所や衣装を変えて撮影を続け、インタビュアーからの取材を受ける。

 常に回っている映像用のカメラの前では私情が消えていく。気分転換になって良いような悪いような複雑な気持ちだ。

 撮影は順調に進み、終了予定時間の少し前で「オールアップでーす。ありがとうございまーす」現場監督から撮影終了が告げられた。

 メンバーと一緒に「ありがとうございました」と口々に言って、控え室に入り私服に着替える。いつもならこのタイミングで連絡を取るところだが、内容が内容だけに人がいる場所ではなにもできない。

 入りとは逆に、撮影現場から近い順にマンションを巡って各々が帰宅する。紫輝が家に着いたのは21時過ぎだった。

 リビングをウロウロと歩き回りながらなにを伝えるか考え、鹿乃江にメッセを送る。


『いま、電話しても大丈夫ですか?』


 程なくして既読マークがつき、


『はい。大丈夫です。』


 返信が来た。

 リビングのソファに座り、軽く深呼吸してからアプリの電話機能を使う。

(電話で話すの初めてだな)

 数秒間の発信音のあと、通話が開始される。

『…はい。鶫野です』

 久しぶりに聞く鹿乃江の声に頬が緩む。しかしいまはそんなにホンワカしている場合ではない。

「前原です。急にごめんなさい」

『大丈夫です。…なにか、ありましたか?』

「えっと……」

 まずは雑誌の存在を知っているか、雑誌名を出して確認する。

『あー、吊り広告でたまに見る程度には……』

「あの、その雑誌に、載るらしいんです。オレ…っていうか、オレらが」

『……ん?』

 紫輝の言葉が飲み込めなかったようで、鹿乃江が気の抜けた声を出す。

(そりゃそうだよね……)

「このあいだ食事した帰り、ビルの下でカメラマンに張られてたみたいで……。そのとき撮られたオレらの写真が、その雑誌に載るんです」

『…え……』

 鹿乃江はそれきり黙ってしまう。

「あのっ!」慌てた紫輝が付け加える。「鶫野さんの顔は出ないんです。個人情報も。でも…ごめんなさい。オレのせいで、ご迷惑をおかけして……」

 それでも鹿乃江は無言のままだ。

「本当は直接会ってお話しないとダメなやつなんですけど……いまお会いするともっとご迷惑をおかけしてしまいそうなので……」

 だんだん消え入りそうになる声。

『…あの…』

 鹿乃江の声にギクリとする。

『お気になさらないでください…』

「え…」

『前原さんが悪いわけじゃないですし…その…タイミングというか…巡りあわせというか…んと…』言葉を選びながら、慎重に言葉を紡ぐ。『写真を撮られたこと、私も気付きませんでしたし…そのー』

「ありがとう」

『えっ』

「…ありがとうございます…」

『……はい……』

(やっぱり…好きだな……)

 ソファの上で膝を抱えながら、ふと微笑みが浮かぶ。

「あの……」

『はい』

「しばらく、会うのは控えようと思います」

『……はい』

 少し落ち込んだ声に聞こえて、少し嬉しく思う。

「でも、メッセは送っていいですか? このまま、連絡取れなくなっちゃうのは、嫌なので……」

『……はい。前原さんに、ご迷惑がかからないなら』

「迷惑なわけないっす」喰い気味に強く言う。「迷惑だなんて思うなら、最初から誘ったりしないんで」

(伝わったかな……伝わってなさそうだな……そういうの鈍そうだもんな、ほかは鋭いのに。そこがいいんだけど)

『そう……ですよね。はい。ありがとうございます』

 声で笑顔になったことがわかる。

(期待して、いいのかな)

「もし、なにかリアルにご迷惑をおかけするようなことがあったら、すぐに教えてください」

『はい』

「今回の件じゃなくても、困ったことがあったら連絡ほしいです」

『え……』

「話を聞くくらいしかできないかもですし、オレじゃ頼りないと思いますけど……」

『そんなことないです。いつも…元気、もらってるんですよ?』

 鹿乃江の不意な言葉に、胸が熱くなる。

『だから、頼りに、します』

「はい! いつでも待ってます!」

『ありがとうございます』

 電話越しに二人で笑い合うと、緊張していた気持ちがほぐれていく。

 電波に乗って会いに行けたらなぁ、なんて、少しロマンチストめいたことを思って独り笑う。

 いつまでもこのままでいることもできず、

「それじゃ、また……」

 紫輝が名残惜しそうに言葉を紡ぐ。

『はい。おやすみなさい』

「おやすみなさい」

 通話を終えて、小群の言葉を思い出す。

“知人ってことでコメント出すから。狙ってるんだったらしっかり説明なり弁明なり、ちゃんとフォローしとけよ?”

(いまので、できた……よね?)

 きっとあの感じだと、記事の内容までは読まなさそうだ。変に伝えて誤解されるより、いま把握している事実だけを伝えたほうがいい。そう判断しての対応だった。

 会えないのは寂しいが、どちらにせよ忙しくてしばらくは約束できなさそうだ。

(色々落ち着いたらまた誘おう)

 通話を終えたばかりのスマホで、検索履歴から【都内 個室 デート】のワードを選んで次に行く店の候補を探し始めた。


* * *


 休日の朝、たまたま点けたテレビでワイドショーが流れている。

『さぁ。続いては、グループ初の熱愛報道です』

(ん)

 なんとなく気になって、家事の手を止めた。

 画面中央、大きなパネルに貼り出された雑誌記事に見覚えのある名前が見出しとして載っている。

「ひっ」

 思わず変な声が出た。

『人気アイドルグループ、FourQuartersのリーダー、前原紫輝さんに熱愛発覚?!』

 コーナー担当の女性アナウンサーが雑誌の見出しを読み上げる。

『フォクの愛称で知られるアイドルグループの前原紫輝さんに、初の熱愛報道です』

 雑誌から拡大コピーされたらしき紫輝と自分の写真が画面に映し出された。

「うわ……」

 紫輝から多少聞いてはいたものの、実際目の当たりにすると想像以上の動揺に襲われる。

(か、顔は…わからないよね……?)

 画面越しに見る粒子の荒い写真からは、“紫輝と一緒に、キャップを被った女性がいる”ということしかわからない。

『お相手の女性については一切情報が公開されていないみたいですねー』

『事務所のコメントですが、お相手の女性は前原さんの“知人”とのことでしたー…。さて、続いての話題です。都内の動物園で……』

 2~3分足らずの記事紹介。しかし鹿乃江に衝撃を与えるには充分な時間だった。

(あの服、しばらく封印しとこ……)

 家事を再開して考える。

 紫輝は鹿乃江に迷惑をかけると心配していた。でも、それは紫輝の杞憂に過ぎない。

(迷惑なんかじゃ、ないです)

 会おうと誘ってくれること。写真を撮られたこと。それが雑誌に掲載されてしまうこと。

 電話をしているとき言おうと思ったのに、どのタイミングで言おうかとまごまごしているうちに、紫輝に先に言われてしまった。タイミングを失ったまま、その言葉を伝えることができなかった。

「めーわくじゃないですよー」

 テーブルの上に置いたスマホに呼びかけて、ヘッと鼻で笑う。スマホに話しかけたところで、紫輝の耳に届くわけじゃない。


 紫輝からの連絡は、あの日から途絶えたままだった。


* * *


「あー、つぐみさーん! 聞いてくださいよー!」

 出勤直後に事務所で出くわした園部が、挨拶もそこそこに鹿乃江のもとへ飛んでくる。

「おはよう。どーした」

「推しじゃないっちゃないんですけどー! フォクのリーダーのー! デートしてるトコロが週刊誌に載ってるんですよー!」

「でぇと」

「そーなんですよー」

(そんなつもりはなかった)

 なんて弁明できるわけがない。

「へぇー」

 平坦な抑揚での回答。

「興味なさそー!」

「いや、そういうわけじゃないけど」

(興味があるとかないとか、そういう問題ではないんだよね……)

「……ショック?」

 気になって、つい聞いてしまった。

「推しじゃないんで私はそこまででもないんですけどー、推しの人たちは落ち込んでる人多いみたいですね」

「そっか……」

「いや、つぐみさんが落ち込むことないんですよ」

「え? あぁ、落ち込んでるわけじゃないよ、ありがとう」

 上行くね、と言い残して、鹿乃江は自席のあるフロアへ移動した。

 メールを確認するが、特に対応しなければならない案件はない。提出期限のある書類も先日送ったばかりで、新しいものは発生していない。

(今日、暇だな……加工しようかな)

 クレーンゲームに入れる景品のラッピングをするために、景品と部材をデスクに並べて作業を始める。脳裏によぎるのは、先ほどの園部の言葉とワイドショーで紹介された記事の内容だ。

(…やっぱり…ショックだよね……)

 単純な手作業をしながら考える。

 自分だって、自分が応援している恋愛対象になり得る相手に恋人の影が見えたら、少なからず衝撃を受けると思う。

(いや、恋人じゃないんだけど)

 事実そうだったとしても、それが真実かどうかは本人たちにしかわからない。

(また連絡しますって言ってたけど……)

 あの報告から、連絡は取っていない。紫輝の意図はわからないが、自分からコンタクトをとるのは気が引けた。

(だって、別に付き合ってるわけじゃないし…)

 単純作業をしていると、ついつい考えごとをしてしまう。しかもなかなかにマイナスな方向に。

(いままでが特殊なだけだし……)

 どんどん口がとがってくる。

(そもそもなんであんなにグイグイ来てくれてたのかもわからない……)

 とがらせながらも、単純作業は進んでいく。未加工の箱から加工済みの箱へ、ビニル袋に包まれた景品が次々に入れられる。一定の速さで行われるその動作は、まるで作業の動きをインプットされた機械のようだ。

(それに、“知人”だし……)

 紫輝とのトークルームは、仕事の連絡や登録した企業の公式アカウントからの新着メッセに追いやられ画面の下へと移動していく。

(このまま終わっちゃうのかな……)

 努力を怠っている自分を棚に上げて、身勝手に残念な気持ちを抱いている。ステレオタイプの寂しさに溺れていれば楽になるだろうか。そんな退廃的なことまで考えてしまう。

(寂しいのはおかしいでしょ)

 ただ出会う前の日常に戻っただけなのに、そんな気持ちを抱く自分に苦笑する。

 連絡が途絶えた時期から、テレビや雑誌で紫輝やFourQuartersの姿を頻繁に見かけるようになった。気にかけているから目に留まりやすいだけかも知れないが、それでも知り合った当初より仕事量が増えているのは確かだ。リアルタイムでどんな仕事をしているかはわからないが、きっと忙しいに違いない。

 声を聞くだけ、元気な姿を見るだけならテレビや雑誌で事足りる。それだけでいいなら、むしろいまの状況は充分すぎるほど。

 だけど……。

 鹿乃江のわがままはそれでは満たされない。その感情は少しずつ大きくなり、鹿乃江はそれを持て余していた。

“困ったことがあったら教えてください。”

 紫輝の言葉を思い出す。

 困っているわけじゃない。ただ、他愛のない話をして笑い合いたい。

 そんなこと相談できるはずがない。そんなわがままを言えるような相手じゃないのは重々承知している。

 名前を付けられない関係性が、鹿乃江の心を揺さぶる。

 悶々と考えているうちに、机脇に積んでいた段ボール5箱分、計200個の缶バッヂが“獲得しやすい加工”を施された状態になっていた。

 しかし、それを終えてもようやっと昼すぎにさしかかったばかりだ。夕方の終業時間まで、先はまだ長い。

(…休憩行こ…)

 サブバッグに財布を入れて、昼食を買いに席を立つ。エレベーターで7階から1階へ。従業者用の鉄扉を開ける。

「あつ……」

 外気にさらされ思わず声が出た。季節は夏。いつも“例年”と較べられているが、正直毎年新鮮に暑い。

 駅前に向かいつつ、小道の手前で道の向こうを確認する。紫輝とぶつかりそうになった交差路だ。

 もうあんなことはないだろうと思いつつ、通りかかるたび、つい人が出てこないかを確認してしまう。あの日のことを思い出すと、少し心がざわつく。

((連絡してみればいいのに))

 頭の片隅で、俯瞰ふかんに浮かぶもう一人の自分が語りかけてくる。

(だって、なんて送っていいかわからないし)

((元気ですか? とかでいいじゃん))

(だって、最近忙しそうだし……そもそもテレビとかで元気なのはわかってるし……)

((じゃあ黙って待ってるの?))

(だって…待つしかないじゃん……)

((だってだってってさぁ~))

(だって……)

 自問自答しているうちに到着した駅ビル内の書店で、平積みにされているテレビ情報誌に目が行く。

(うわ、すごい)

 FourQuartersが表紙を飾る週刊、月刊誌がズラリと並んでいる。先ごろ発売されたアルバムレコーディング時のエピソードや感想、曲紹介を交えたインタビューとグラビアで構成された特集が各誌で組まれていた。

 何種類かのうちの一冊を手に取ってみる。巻頭グラビアに使われている写真には、二人で会っているときとは少し違う表情の紫輝が写っていた。あらためて、芸能人――アイドルなんだなぁ、と実感する。

 連絡を取り合ったり食事に行ったりしていることのほうが不思議に思え、あれは白昼夢だったのでは? なんて考えてみる。

 しかし、借りたままになっている紫輝のキャップは家にあるし、アプリのトークルームにはいままでのやりとりが保存されている。表示される最新の日付は二週間前。

 パラパラとめくった週刊誌を買おうかどうか悩んで、そっと置いた。一冊購入したら、数珠つなぎに何冊も購入してしまいそうだ。

 その足で同じフロアのスーパーに寄り、昼食を買って職場に戻る。


 いまどこで、なにをしているんだろう。


 インターネットを駆使すれば、タイムラグはあるだろうけれどある程度の情報は知ることができると思う。なんなら園部が知っているかもしれない。

 ただ、下手にディグって知りたくない情報まで見てしまうのが怖い。

(会ったらきっと、教えてくれるんだろうな)

 そう考えて、いつ会えるかわからないからクヨクヨしてるんだった、と思い出す。

(会いたいのかー……)

 自席に着き、昼食をとる。パソコンモニタ下に置いてあるスマホの画面を表示させるが、特に通知は届いていない。

(連絡……してみる……?)

 個別のトークルームを立ち上げてみる。

 10分足らずの通話記録から途絶えた連絡。いつも始まりは紫輝からだ。

(でも、なんて書けばいい?)

 元気なことはわかっている。仕事が忙しいことも。近況報告や雑談をして、じゃあそのあとは? 他愛もないやりとりをして、それで終わる? それとも、また会いたいって言う?

 いつも同じようなことを考えて、なにも打てずにアプリを閉じる。

(はあぁ……)

 悩んでいるうちに休憩時間も終わってしまい、業務に戻る。

 紫輝がもし自分と同じ感情を自分に抱いているとしたら、連絡をとるときに緊張したり逡巡したりするのだろうか。それとも、それは性格の問題で、それほど気にせずにいるのだろうか。

 そんなことを考えているとメールや電話で業務依頼が入る。なんだかんだと業務が重なり、午前中と打って変わった忙しさに追われ、あっという間に終業時間になったのだった。


* * *


 ある休日。家で溜まった家事をこなしていると、ベッド脇のミニラックからポコン♪ と待ちわびた音が鳴る。思わず体が跳ねて、危うく洗い物を取り落としそうになった。食器を片付け、濡れた手を拭いてスマホの画面を表示させる。


『お久しぶりです』


 ポップアップに表示された【マエハラシキ】からの新着メッセージに心臓が締め付けられた。

 気付きたくない感情に気付いてしまいそうで、思わず眉根を寄せる。

 すぐに既読をつけることにためらいがあり、アプリを立ち上げることができない。

 その間にも通知のポップアップ表示は続く。


『忙しくて連絡できませんでした』

『良ければ、また一緒に食事に行きませんか?』

『今度は事務所の先輩も呼ぶので、安心してください!』


(“安心”とは……)

 スキャンダルに対してなのか、それとも……。

(いや、やめよう)

 深読みする悪い癖を無理やり振り払って返事を考え、アプリを立ち上げた。


『お誘いありがとうございます。』

『ご都合よろしいときがあれば、また行きましょう。』


 言い回しが素直じゃないなと思いつつ送信すると、案外早く既読がつきアプリを終わらせる間もなく返信が表示される。


『来週の金曜はどうですか?』


 思いがけずすぐに約束を取り付ける算段になったので、職場のグループルームに共有されているシフト表の画像を確認した。その日は出勤なので、終業後なら可能だ。


『夜だったら大丈夫です。』


『ボクらも夜のが良いので、ありがたいです』

『19時半に、このお店予約します』


 と、店の地図と予約者の名前が送られてくる。紫輝はいつも仕事が速い。“事務所の先輩”の都合を優先して先に約束を取り付けていたのかもしれない。


『ありがとうございます。』

『金曜日、お伺いします。』


『はい! 楽しみにしてます!』


 紫輝との連絡を終え、なんとなく安心して小さく息を吐く。

「たのしみ……」

 紫輝の返信を口に出して呟き、口の中で転がしてみる。うん。たのしみ。

 じんわりと喜びがわいてくる。

 同じ気持ちでいられることが、いまはただ、嬉しい。それだけで、いまはいい。


 いつの間にか紫輝は、鹿乃江の暗闇を打ち消す太陽のような存在になっていた。


* * *


 8月も終わろうとしているのに、夜もかなり蒸し暑い。職場や自宅近くより都心に近い場所だからか、ヒートアイランド現象が際立っている気がする。

 指定された店に着き予約者の名前を伝えると、店内奥にある個室に通された。レンガ造りの壁と丸みを帯びた背もたれの木椅子が可愛らしい。

 程良く冷えた無人の個室で一人着席して待つ。

 足元に置かれた籐かごにバッグを入れながら

(いつ以来だっけ……)

 前に会ったときを思い出す。

(雑誌に載る前か……。まだ長袖着てたなぁ)

 ふと、たまたま点けていた深夜番組にFourQuartersが出ていたことを思い出す。


 新しいアルバムを発売するという告知のために、音楽ランキング番組に四人揃ってVTR出演していた。ほかの三人にイジられ、困りながらも紫輝がCDの発売日や聴き所を紹介していく。

(そういえばレコーディングしてるって言ってたなー)

 スマホをいじる手を止め、画面を注視する。

(少し痩せた……?)

 まるで母親の気分だ。

 最後に四人で挨拶をして、出演シーンは終わった。

 その後も、テレビで紫輝を見かけるたび、(忙しそうだな)と(元気そうだな)を繰り返しながら、不思議な気持ちで画面を眺めていた。


 ポコン♪ と紫輝からの新着通知が来て、回想が中断される。


『ごめんなさい。撮影が押してまして』

『そちらに行くのが遅くなります』

『先輩が先に着くと思います』

『久我山さんって人です』


『わかりました。お仕事がんばってください。』


『ありがとうございます! 行ってきます!』


 紫輝からのメッセを確認して、アプリを閉じる。

(久我山さん……。なんか見覚えある文字列だな……)

 しかしどこで見たのかは覚えていない。

(事務所の先輩って書いてあったし、テレビとかで見てるんだろうな)

 などと考えていると、個室のドアがノックされる。

「はい」

「失礼いたします。お連れ様がお見えになりました」

 店員に案内されて入ってきたその人は、バラエティ番組に良く出ている男性アイドルグループのメンバーの一人だった。

「ありがとうございます~」

 柔らかな関西弁で店員に礼を言って、久我山が室内へ入ってきた。鹿乃江は反射で立ち上がっておじぎをする。

「こんばんはー、久我山です~」

「こんばんは、鶫野と申します。初めまして」

「初めまして。お噂はかねがね」

(おうわさ……?)

 疑問が顔に出ていたようで、久我山が目尻を下げた。

「前原がご迷惑おかけしてるみたいで」革製のトートバッグを肩からおろし、足元の籐かごへ入れる。

「迷惑だなんてそんな」

 久我山は斜向はすむかいの椅子に着席しながら「あ、どうぞ」鹿乃江に着席を勧める。

「ありがとうございます」

「なんか注文してます?」

「いえ、まだ」

「アイツ遅れてくるみたいなんで、頼んじゃいましょうか」

「はい」

 それぞれでメニューを開き、ソフトドリンクと軽食を注文した。


 注文したものが届くまで、他愛のない雑談をする。

 こういう時、天気や時節の話題は便利だ。


 飲み物が来たところで、軽く乾杯をする。

「なんかスミマセンね。お邪魔でしょ? オレ」

「えっ? いえ。全然」

「職業柄ご面倒おかけしますけど、大目に見てやってくださいね」

「はい……」

 鹿乃江は、久我山の言葉の意図がいまいち掴めず、薄く疑問符を浮かべながら返事する。

「家とか呼んだげたらいいのにねぇ」

「おうちはちょっと…ハードル高いですね…」

「えー? でももう付き合って一か月くらい経つでしょ?」

「付き合ってないですよ?」

「ん?」

「え?」

「あ、そうなんです?」

「はい」

「ごめんなさい。勝手に勘違いしてましたわ」

「いえ」

「付き合ったらいいのに」

「えぇっ?」

 鹿乃江の反応に久我山が笑う。

「そない驚かんでも」

「いやぁ」

「対象外?」

「いえっ?」

 鹿乃江の答えを聞いて、ニコニコし出す久我山。

「じゃあええやないですか」

「いやぁ…」

「どっかあかんのです?」

「なんというか…恐れ多いというか…こう…年齢も、離れてますし…」

「えっ? でもそこまで離れてないでしょ?」

「いえ」思わず苦笑する。「たぶん、親御さんとのが近いと思います」

「それは言い過ぎでしょー」

「いやぁー…もう四十代ですし」

「またまたぁ」

 久我山の言葉に、さらに苦笑して首をすくめると

「…えっ」

 ようやく信じたようで、驚いた顔を見せる。

「…ありがたいことに、良く言っていただけるんです」へへっと笑う。

「いや、それは、すごいですね」

「すごい」思わず反復してしまう。「すごい、は…ちょっと新鮮ですね」

「いや、びっくりしました。ごめんなさい、年下かと思ってました」

「いえ、全然。お気になさらないでください。むしろ、スミマセン……」

「いえいえ……」

 二人で同時にグラスを持って、飲み物に口をつける。

「それって…アイツは…」

 久我山の質問に、鹿乃江が首を横に振る。

「言うタイミングがなくて…」

 目を細めて聞きながら、久我山は続きを待つ。

「正直…引かれるのも、こわい…ですし」

「引かんとは思いますけど」

 久我山はニコニコしながら言う。

 紫輝には話せないことでも、久我山には何故か話せてしまう。聞き上手なのもあるが、相談しやすいオーラのようなものをまとっている。

「あの……」

「はい」

「前原さんには、内緒にしていただけますか」

「年齢ですか?」

「引かれたらいやだなって思ってるほう、です」

 ちょっと意外そうな顔をして「はい、内緒で」久我山がふわりと笑った。


 柔らかくドアがノックされる。「失礼いたします」と店員が入室して、注文したいくつかの料理を机上に並べて退室する。

 久我山はそれをつまみつつビールを飲んで

「アイツもねぇ、若いからガツガツしてるでしょう?」

 鹿乃江に問いかけた。

「ガツガツ」

「最初に鶫野さんに連絡したときにね? オレのスマホ使ってたんで、あとでこっそり履歴見ちゃったんですよね」

(あー、あのとき名前見たんだ……)

「あ、これアイツには内緒にしといてくださいね」後付けして久我山が続ける。「メッセ送ってるときも一緒にいて見てたんですけど、拾ってくれたのが鶫野さんやってわかったとき、アイツめっちゃ喜んでたんですよ」

(えっ、そうなの)

 鹿乃江の表情を読んで、久我山が微笑む。

「喜んで、どう誘おうか悩んでたら、ケーサツ届けますって届いて」

「あー……」

 既読から返信までに空いたの意味がやっとわかって、鹿乃江が納得する。紫輝の人柄を知ったあとに聞くと、そのときの光景が目に浮かぶようだ。

「アイツ、本気なんで。心配しないで大丈夫ですよ」

 久我山の突然の言葉に、鹿乃江が驚く。

「僕ら職業がこんななんで、ちょっと会うにも気ぃ遣わせちゃうことも多いんですけど、ゆうてフツーの男なんで。会いたいなって思う人とは大手を振って会いたいんです。まぁ周りがほっといてくれないんで、なかなか難しいんですけど」

 久我山が苦笑した。

「きっと鶫野さんも不安に感じることあると思いますけど、アイツが頑張ってくれますよ、いろいろ」

 鹿乃江は何かを考えながら、神妙な面持ちで目線をさまよわせる。

 やがて、

「はい」

 うつむいたまま、頷いた。


* * *


「すみません! 遅くなって!」

 息せき切って紫輝が個室へ入ってくる。

「おー、おつかれさんー」

「おつかれさまです」

「……」二人の顔を見比べて、紫輝が黙った。

「どしたん、座りぃよ」

「あ……はい…」

「なんやの感じわるい」

「いや、なんか……仲良さそうだなって……」

 久我山の隣に座りながら、紫輝が歯切れ悪く言う。

「ヤキモチやくなってぇ。取ったりせんよ」

「やっ!……キモチとかじゃ…ないっす」

 紫輝が唇をとがらせて拗ねたような顔を見せた。

 久しぶりに会った紫輝は、やはり少し痩せていて、でも変わらず元気そうで、それが確認できただけでも鹿乃江は嬉しかった。

「とりあえずなんか頼んだら? 腹減ってんの?」

「そうっすね……若干減ってますね」

「ん」

「ありがとうございます」

 久我山に渡されたメニューを見て、紫輝がオーダーを済ませる。

「仕事なんやったん?」

「番組の収録です。あの」と、とあるバラエティ番組の名前を出して「それにゲストで呼んでもらいました」

「あー。頭フル回転になるやつや」

「そーなんですよー。せっかく振ってもらえても、面白いこととか返せなくて……まだまだ反省ばっかりっすね」

(大人だなー)

 鹿乃江は自分が紫輝と同世代だった頃を思い出す。まだ実家暮らしをして、親のすねをかじっていた。なんだか勝手に申し訳ない気分になる。

 久我山に軽い相談のような話をしていた紫輝がハッとした顔になり

「あっ、スミマセン。来ていきなりグチっちゃって」

 バツが悪そうに言う。

 その紫輝の言葉に鹿乃江が驚き

「全然! そういうのはグチじゃないですよ」

 なにを言ってるのという勢いで言葉を発する。

 その反応に、紫輝が切なそうな笑顔を見せて「ありがとうございます」ぽつりと言ってうつむいた。

 久我山はそれを見てなにかを思うようにニヤニヤ笑って、隣に座る紫輝の腰をポンとはたいた。

「……なんすか……」

 小声で言って、久我山を見やる。

「えー? 別にぃー?」

 なおもニヨニヨと紫輝を眺める久我山。鹿乃江はその光景を見て、自分と百合葉の関係を思い出す。きっと普段から遊んだり相談したりしているのだろう。

 なんだか微笑ましくなって、ニコニコしながら見てしまう。

 そんな鹿乃江に気付いて

「すみません、独り占めして」

 少し冗談めかして久我山が言った。

「ふえっ? いえっ?」

 あまりにも急で、思わず変な声が出る。

「久我山さん……っ」頬を赤らめる紫輝に

「なにぃ、ええやん。素直にそう思ったんやもん」少し拗ねたようなそぶりを見せ「独り占めしたら、鶫野さん怒っちゃうかなーって」うそぶく。

 予想外の言葉に鹿乃江が目を丸くして久我山を見つめた。久我山はそれを受けて、なにか思惑がありそうにアルカイックスマイルを浮かべる。

「鶫野さんはそんなことで怒ったりしないです。よ……ね?」

 急に話を振られて、鹿乃江はうんうんと頷くことしかできない。

「困らせちゃいますから、やめてくださいよ」鹿乃江の反応を見て、紫輝が久我山をたしなめる。

「ええやん。鶫野さんのことよー知らんくせに、勝手に判断したらあかんよ」

「先輩だって今日初対面じゃないですか」

(でも……)

 紫輝がふと黙る。

 よくよく考えると、鹿乃江のプロフィールを全然知らない。検索すればすぐにわかる自分たちとは違って、知りたいことがあれば本人に聞くしかないのだ。

 スマホを受け渡したときは、もっぱら鹿乃江の仕事のことばかり聞いていた。鹿乃江からは話題にあげないので、パーソナルなことはあまり話したくないのかと思い突っ込んで聞いたこともなかった。

「初対面やけど、紫輝がおらんときに色々話したもん。ねー?」久我山の問いに

「そうですね」鹿乃江が笑顔で答えた。

「えっ。なんすか? まじで仲良くなったんすか?」

「だからヤキモチ焼くなって~。聞いたらええやん。嫌なことじゃないなら、答えてくれはるやろ」

 その言葉に考え込む紫輝の横で、

「ねぇ?」

 久我山が軽く鹿乃江に目配せした。

(もしかして、誘導してくれてる?)

 確かに、二人きりの時に聞かれて困惑されるよりは気が軽い。

「はい」

 久我山の心遣いを無駄にはできず、鹿乃江はそれをありがたく受け入れる。

「えっ、えっ、じゃあ……」と慌てて紫輝が右斜め上のクウを見て考え「出身地から、教えてください」鹿乃江に向き直って言った。

 基本的なプロフィールを聞かれ、鹿乃江はそれに答えていく。特に起承転結もない普通の内容だが、それでも紫輝は嬉しそうだ。

「あと…女性に聞くのは失礼なんですけど……」

(きた……)

 鹿乃江の心臓が締め付けられる。でも、ここで答えなかったら久我山の心遣いが無駄になってしまう。

「いま、おいくつなんですか?」

「えっと……よんじゅーいち、です……」紫輝の反応を伺うように言うと、

「……えっ! マジっすか!? 全然見えねー! えっ!」紫輝が長い指を折り、歳の差を計算して「いや、アリっすね! オレ的には全然アリっす!」親指を立てた。

「…ありがとう、ございます…?」どう答えていいものかわからず、お礼を言ってみる。

「あっ? やっ? そーゆーんじゃなくて! いや! そーゆー意味なんスけどっ! えっ? あれ?!」

「動揺しすぎやろ」

 軽く笑いながら久我山が紫輝を微笑ましそうに眺める。

「そういえば、お仕事はなにしてはるんですか?」

「ゲームセンターで事務をやってます」

「じゃあお店勤め?」

「はい」と、とある観光繁華街の名前を出して、ビルの特徴と店名を伝える。「そこの事務所が職場です」

「じゃあスマホ拾ってくれた日もお仕事で……?」

「はい。お昼休憩中に外に出たんです」

「普段も外でご飯食べるんですか?」

「んー……繁華街なのと観光地なのとでどこのお店も混むので、あんまり出ないですね」

「えっ、じゃあ、もしかしたら、結構たまたま……?」

「そうですね。あの日はたまたま。珍しかったですね」

「マジかー」

 紫輝がおでこに手をやって感慨深げに言う。

「なに急に。どしたん」

「いやぁー、出会うべくして出会ったんだなーって思って!」

 顔をくしゃっとさせて笑う紫輝と、顔を見合わせて戸惑う久我山、鹿乃江の温度差がすごい。

「あれっ? オレなんか変なこと言いました?」

「変なことは言ってないけど……」

「すごいことをサラッと言われたなぁー……って」

「すいませんね。まだ人生の機微とか余韻がわからんのですよ」

「ぃゃぁ……まぶしいです……」

「えー、なんすか。オレ仲間はずれっすか」

「仲間外れにはしてないですけど……」

「ジェネレーションギャップやなー」

「若さ感じますね……」

「えっ、じゃあいまのナシ! ナシでお願いします!」

 紫輝が慌てて両手を振り否定する。

「まぁでも…。鶫野さん、こいつくらいんとき、こんな感じでした?」

「え…」と若かりし頃を思い返してみる。「いえ…ちがいましたね…」

「自分で言っといてなんですけど、年齢より性格の差なのかもしれないですね」

「そうっすよ! 歳の差とか気にしないでください! オレ、気にしてないんで!」

「……ですって」

 久我山の含みある笑顔に、

「……はい」

 鹿乃江は困ったように笑った。


 久我山はメインMCのレギュラー番組で培った会話術をいかんなく発揮し、要所要所に誘導を挟みながら巧みに会話を繋げた。

 いままで知らなかった紫輝の話や、言っていなかった鹿乃江のこと、時折クッション材のように入る久我山自身の話題。その全てが淀みなく進む。

 会話の途中でテーブルの上に置かれたスマホが震えた。持ち主である久我山が画面を確認し、

「あ、ごめんなさい。ちょっと電話……」

 断りを入れる。

「はい」

 紫輝と鹿乃江の返答を聞いてから席を立ち、「もしもし?」個室の外へ出た。

「あっ、そうだ」と、鹿乃江がサブバッグの中から小さい紙袋を取り出して「これ、ありがとうございました」と紫輝に渡す。

「ん? なんですか?」と受け取って中身を確認し「あぁ!」笑顔を見せる。

 袋の中には、借りっぱなしになっていた紫輝のキャップが入っていた。

「ありがとうございます」と礼を言ってから紫輝は少し考えて、「これ…持っててもらえませんか?」鹿乃江に差し出す。

「えっ、でも……」

「持っててほしいんです。……イヤっすか?」

「イヤ、では、ない、です……」

 自分の気持ちを確認しながら答える。

「じゃあ、ぜひ」

「…はい。お預かり、します…」

 鹿乃江はいつでも紫輝に流されてしまう。甘えてはダメなのに、一回り以上も歳の離れた紫輝に、依存してしまいそうになる。

 それではダメなのに。


 足元から橋が崩れ落ちたときのような“あの時”の感覚が甦る。あんな思いは、もう二度としたくない。


(だから、もう……)


「ありがとうございました。ごちそうさまでした」

 礼を言って、頭を下げる。

「いえいえ」

 恐縮する紫輝の横で、二人に背を向け久我山がニコニコしながらエレベーターの到着を待っている。

 その少し後方にいる鹿乃江の隣に紫輝がそっと並んで立ち

「また、連絡しますね」

 久我山に聞こえないよう、囁く。

 鹿乃江はそれを聞いて笑顔を見せるが、肯定も否定もしない。

 その横顔は、どこか寂しげだった。


「まだ電車あるので……」

 タクシーを捕まえようとする紫輝に言って、近くの駅から電車に乗った。紫輝と久我山は二人でもう一軒行くそうで、通り道だからと地下に降りる階段の入口まで送り届けてくれた。

 ホームへ降りるとちょうど電車が入ってきたところ。四割程度埋まる席の端っこに座り、仕切り板にもたれかかる。

 紫輝と別れた帰り道、いつもさいなまれる寂寥感せきりょうかん。自分の日常とはかけ離れた世界で生きている紫輝に感じてはいけないとわかっていても、それは意志とは関係なく湧き上がってしまう。

 自分でも持て余すその感情を、どうしていいかわからない。だから、抱かないようにしなければ……。

 紫輝との関係が良いものになるよう協力してくれた久我山には申し訳ないが、負の感情を抱いたままで、紫輝と一緒に先へは進めない。


 だからその夜、鹿乃江は決めた。


(もう、前原さんと会うのは、やめよう……)


 好きになるのは簡単だ。けど、自分が踏み込んでいい人生ではない。

 紫輝がどう思っていても、きっとこの先、状況は変わる。深入りして谷底に落ちてしまう前に、元の平凡な生活に戻れるうちに、渡りかけていた橋を戻ろう。

(前原さんには、もっと若くてかわいい、同じ世界で生きていける人のがいい)

 そんな常套句を言い訳にして、鹿乃江はそっと、身を引いた。



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