第6話 リアル
目を覚ますと背中と腰が妙に強張っていた。右を向くと、艶やかな黒髪とつるっとした陶器のような白い肌が目に入る。
アスカが俺の右腕に頭をのせ、身体に寄り掛かるようにして寝息を立てていた。彼女がいたから寝返りをほとんど打てなかったんだろう。右腕が痺れて上手く動かせない。パラライズビーに刺された時のようだけど、不快ではない。
かかっていた毛布を少しめくると、アスカの身体が露わになる。ほっそりとした身体に、下着の隙間から覗く手のひらサイズの乳房と薄桃色の突起。
窓から差し込む薄暗い月明かりで見たアスカは、美しく艶やかだった。澄んだ朝の光の下では、別人のように清らかに輝いて見える。
俺は思わず左手を伸ばし、アスカの黒髪を撫でた。寝ていたというのに髪は乱れることなくまっすぐでしっとりしている。
「ううん……?」
「あ、起こしちゃったか? ごめんな」
「うん……おはよう……アル」
どうやらアスカは朝が苦手なようだ。閉じようとする重いまぶたをこすり、必死に眠気に抵抗しているみたいだ。
「ああ、おはようアスカ」
そういって俺は、アスカの腰に手をまわして、そっと抱き寄せた。アスカは俺の首筋に顔を寄せ、鼻の頭を擦り付ける。なんか猫みたいなしぐさだな。
「んふふ……アルぅ…………って、え!? アル!?」
甘えていたかと思ったら、アスカが跳ねるように起き上がった。朝の白い光が差し込む部屋をゆっくりと見回している。
「……森番小屋……そんな!!」
アスカは唐突に立ち上げり、ドアを開けて部屋を出て行く。
「お、おい!」
俺は慌てて追いかけると、アスカは小屋と転移陣の中間地点で立ち尽くしていた。
「そんな……夢じゃなかったの……? こんなの……ありえない……」
近づくとアスカは転移陣を見つめながら何やらブツブツと呟いていた。俺は後ろから声をかける。
「アスカ……」
「アル……どうしよう……これリアル……なの……?」
振り返ったアスカの顔は青ざめ、肩が小刻みに震えていた。アスカが何を言っているのかはよくわからないけど、何かに怯えているみたいだ。何かに困っているのなら、力になるのはやぶさかではないんだけど。でも、さしあたってはコレかな。
「大丈夫か?とりあえず、コレを羽織れよ」
俺は革製の外套を差し出した。アスカは寝起きそのままに駆け出して、ここまで来てしまっている。俺たちは昨夜、お互いを求めあった後に、そのまま眠りについた。今、アスカが身にまとっているのは細い肩紐で吊るされ肩が露わになった薄手の肌着と下着だけ。そんな姿で森に飛び出してしまったのだ。
「えっ…って、いやあぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
バチィンッ!!
アスカは凄まじい速さのビンタを俺に食らわせ、大声を上げて小屋に向かって走り去る。俺はとっさのことに受身も取れずに張り倒され、小尻を揺らしながら全速力で走り去るアスカをただ呆然と眺めることしかできなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「……ちょっと待ってよ……まじでかぁ……こんな初体験とか……なんか挟まってるみたい……ああぁぁ……どんだけ肉食なのよあたし……まだちょっと痛いなぁ……ほんとに夢じゃないの……うわぁ…」
小屋に入ろうとしたところで、アスカの独り言が聞こえた。また殴られたらかなわない。俺はノックしてから、小屋に入った。
アスカは服を着こみ、ベッドの上で膝を抱えてうなだれている。顔を真っ赤にしてうつむいていて、小屋に入ってきた俺を見向きもしない。
「あ、アスカ、だいじょうぶか?」
「…………」
アスカはピクっと反応したが、何も答えない。もしかして怒ってるのか? 昨夜は彼女から迫ってきたとはいえ酔わせて手を出したみたいなものだからな……。
どっちにしても、取りつくしまがない。しょうがない。朝食でも作ろう。
俺はコンロの薪に火を入れて、ウサギの肉とぶつ切りにした野菜に軽く焼き色を付ける。それをオーブンで火を通したらウサギのローストが出来上がる。オーブンが仕事してくれている間に、ウサギの骨とくず野菜でとったスープでオート麦を煮込む。塩と胡椒で味を調えたら、主食のオートミールの完成だ。ちょうど梨と無花果も取ってきたから、食べやすいようにカットする。
今日は数日ぶりに畑仕事と狩りをしなきゃいけない。朝からしっかり食べておかないと、身体が持たないからな。
「アスカ、朝食できたよ。食べよう?」
「……うん」
アスカは顔を紅く染めながらも、テーブルに座った。
「あ、ありがとう……アル」
「あ、ああ、いただきます」
今日は昨日と打って変わってアスカがほとんどしゃべらない。やっぱり怒ってるんだろうな……。たぶん後悔しているのだろう。
そういえば、『目が覚めたら、もう会うことは無い』とか言ってたよな。あれは、どういう意味だったんだろう。俺が起きる前に、どこかに旅立つつもりだったのだろうか。
「俺は飯を食ったら畑仕事をやって、狩りに行くつもりだけど、アスカはどうするんだ?」
「…………わからないの……」
アスカが消え入りそうな声で言った。さっきまで紅潮していた顔が、急速に青ざめていく。
「わからない?」
「……うん。あたし、どうやってここに来たのか、なんでここにいるのか……どうやったら元の世界に戻れるのかも……どうすればいいか、何もわからないの……」
「ど、どういう事だよ。もしかして記憶を失っているとか?」
錯乱の魔法を受け続けたり、特殊な罠にひっかかると記憶を失うことがあるって聞いたことがある。アスカもそうなのか?
「……違うの。ちゃんと記憶はあるの。あたしは学校からまっすぐ帰ってきて……夕食まで時間が少し時間があったからゲームをしようとして……気づいたらここにいたの……」
「よくわからないけど、誰かに転移の罠にはめられたとか?」
「ううん。それとも違うの……ごめん、なんかうまく説明できそうにないや……」
「そっか……」
つまりアスカは意図せず、この転移陣に来てしまったということか。ごくたまに、転移陣にそういう流れ人が現れるって聞いたことがある。
「とりあえず、当面はこの小屋にいるといいよ」
アスカは帰ることもままならない。戦える加護じゃないって言っていたから町に行くのも無理。ってことは、アスカは俺と同様に聖域から出られないってことだ。
「……いいの?」
アスカは不安そうな顔で俺を見ている。
「もちろん。転移してきた人の手伝いをするのも森番の仕事だしね」
「……あ、ありがとう」
アスカは不安に押しつぶされそうだったのだろう。少しだけ顔色が良くなった気がする。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
それから二日間が過ぎた。俺は普段通り、畑仕事や狩り、転移陣の掃除をこなしている。
アスカの分の食糧を確保しなくてはならないので、狩りになるべく時間を割くようになった。運良く鹿型の魔物ワイルドスタッグの子供を狩ることができたので、当面の食糧は心配ない。
アスカの方はというと、初対面の時の快活な印象と打って変わって、かなり挙動不審だった。ふらっと小屋からいなくなって辺りをうろついたり、ベッドでブツブツと独り言を言ったりしていた。
何かを思い悩んでいるようで、ずっと上の空だ。食事は食べてはいるが、こちらから声をかけないと何時間でも独り言を呟いたりしている。
話しかけても生返事しか返ってこないから、俺は事情を聞くのを早々に諦めた。力になってあげたいとは思うけど、何も話してくれない以上は俺にできることは何も無い。
夜は別々のベッドで眠っている。初日以降、アスカには指一本も触れていない。もちろん俺も男だし、期待してないわけじゃない。でも、アスカは何か思い悩んでいるようだし、とてもそんなことをするような雰囲気じゃない。それにアスカは俺としてしまったことを後悔しているように思える。
辛いのは同じ部屋で眠っていることだ。小屋はキッチンとダイニングと寝室が一つなぎになっていて、間仕切りどころか衝立すらない。何もできないのに寝室をともにするのは、生殺しに近いものがある。俺は二日間、悶々とした夜を過ごしていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
その次の日の正午、転移陣の掃除と畑仕事を終えた俺は小屋に戻ってきた。捕まえた鹿肉の大半は塩漬けにしたり、燻製の仕込みをしたりしたけど、まだ少しだけ生肉が残っている。
早く食べてしまわないと腐ってしまう。今日の昼食は鹿肉のローストを作ろう。そう思い塩と胡椒やニンニクで肉に下味をつけていたら、ドアが開く音がした。
「ただいま! アル!」
「あ、おかえりアスカ……って、ええ!?」
そこにいたのは水も滴るいい女。比喩ではなく、実際に全身ずぶ濡れのアスカだった。
「おい、どうしたんだよ一体? 通り雨でも降った?」
「ちょっとねー。着替えとタオル貸してくれない?」
「ああ……ちょっと待ってて」
俺は慌てて、着替えを用意してアスカに手渡す。
「早く着替えないと風邪ひくぞ。ほら、コンロに火は入れてあるから、あたりな」
「うん。ありがと」
そう言ってアスカはニコニコと笑って、俺を見つめる。なんか、急に元気になったな。出会った日のアスカみたいだ。
「…………」
アスカはタオルで髪を拭きながら、じーっと俺を見つめている。えーっとこれはどういう事だろう。
冷えたから暖めてほしいとか、そういうサインだろうか。まだ暖かいとは言え、もう秋口だ。こんなにずぶ濡れだと寒いだろう。
オッケー。ハグして暖めてあげようじゃないか。そう思って手を広げてアスカに近づく。
「で、いつまでここにいるのかな、アルは?」
「へ?」
「着替えるんだから席を外しなさい!」
はい、間違えました。ビンタが飛んできそうなので、ほうほうの体で小屋から逃げ出す。
それにしても、ずいぶん元気だなアスカ。今朝までの鬱々とした雰囲気がみじんも無い。なにか吹っ切れたみたいだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
少し時間をおいて小屋に入ると、アスカは下味をつけていた鹿肉をコンロで焼いていた。
「ねえ、アル? このお肉は、この野菜と一緒にオーブンで焼くの?」
ぶつ切りにして置いておいた人参とじゃが芋を指さしながら、アスカが尋ねる。
「ああ。肉に焼き色がついたら野菜をのせて、フライパンごとオーブンに入れて」
「はーい」
「じゃあ、そっちはアスカに任せる。俺はスープを作るよ」
俺は茹でておいた芋を潰して、小麦粉と塩、削ったチーズを混ぜあわせる。鹿の骨で作ったブイヨンを少しだけ混ぜて、軽くこねてから丸く成型する。次に出来上がった丸い塊に打ち粉をして転がしながら棒状に伸ばしていく。それを3センチ幅にカットしてから、一つ一つを指で軽くつぶして楕円状にする。たっぷりの塩水で茹でてから、ブイヨンでひと煮立ちさせれば……芋ニョッキの鹿スープの完成だ!
ちょうど、アスカの方も、鹿肉のローストを薄くスライスし終えたところのようだ。さて、料理も出来たことだし昼食にしよう。
「神龍ルクスよ、あなたの慈しみに感謝を」
「いただきまーす!」
二人でテーブルに座り昼食をいただく。アスカもなんだか元気になったみたいだし、今日は楽しい昼食になりそうだ。やっぱり一人で食べるより二人で食べた方が楽しいしな。誰かと話をしながら明るい団らんっていうのはいいよな。
「あ、ねえ、アル。食事しながらで良いから、ちょっと相談っていうか、聞いてほしいことがあるんだけど」
食べはじめた直後にアスカは真面目な顔をしてそう言った。
出会ったばかりの時のアスカは天真爛漫で騒がしいぐらいに元気な子だった。ここ数日は、塞ぎこんで呪詛をまき散らしているかのようにブツブツと何事かを呟いている陰気な様子だった。
そして今は、何かが吹っ切れたかのように決意を秘めた瞳で俺を見ている。これは真面目に聞いてあげないといけないな。
「……どうした?」
「えっと、その、信じられないかもしれないけど…」
そう言ってアスカはゴクリと唾を飲み込み、言葉を区切る。
「あたしってば、どうも異世界から、この世界に迷い込んじゃったみたいなのよ」
どうやら明るい団らんってわけにもいかないようだ。
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