第52話 戦いの爪痕
しばらくアスカの柔らかい唇の感触を確かめた後に、顔を離す。頬をわずかに上気させたアスカの微笑みが目の前にある。
艶やかな黒髪は土埃と泥で汚れ、クシャクシャに乱れているけど、いつも以上に可愛らしく見えた。この柔らかな唇と微笑みを、守る事が出来て本当に良かったとしみじみ思う。
「ギルバードをあそこに放置するわけにもいかない。領主の屋敷まで運びたいんだけど、いいかな?」
「うん。でも、もうへとへと。ギルバードを送ったら、はやく宿に戻って休もう」
「そうだな。アイテムボックスに入れてある物でも食べて、ぐっすり眠ろう」
俺はそう言ってアスカの腰に回していた腕を離す。名残惜しいけど、戦場のど真ん中で抱き合っているのもどうかと思うし、倒れているギルバードを放置するのも悪いしな。
「あ、アスカ、待って。【乾燥】」
「え、なに、なに?」
アスカが慌てて俺から離れた。
「いや、腰回りがビショビショじゃないか。乾かしてあげるよ」
「ああっ!! ……いや、これは……違うの! だ、だって……怖かったから……ちょっと漏れちゃっただけで……」
しどもどろになるアスカ。うん? なんだ、急に?
「うん? いいからこっちにおいで、乾かさないと風邪ひくよ」
「ちょっと……あ、その……や、いやぁ!」
「なんだよ? ほら、手どかして。【乾燥】。」
俺はアスカの腰回りに手を向けて生活魔法の【乾燥】を唱える。洗濯物を乾かしたり、ベッドを乾燥させてノミやダニを一気に退治したりする事ができる便利な魔法だ。
俺は、壊れた噴水からこぼれ出た水で濡れてしまったのだろう、アスカの腰回りを乾かしていく。
「うぅー……あぁぁ……」
なんだ? 顔を真っ赤にして、手で顔を隠してる。変なヤツだな。
そうこうするうちに【乾燥】でアスカの服がだんだんと乾いてくる。すると、あたりにツンとした匂いが漂ってきた。
「ん……? なんだ……この匂い……」
俺はアスカの腰から手を離し、スンスンと鼻を鳴らし辺りの匂いをかぐ。
うん? 俺の手……か?
俺は自分の手を鼻に近づけて匂いを嗅ごうとした、その時……。
「か、嗅ぐなぁぁぁァァ!!」
「ぐへぇっ!」
アスカの右フックが炸裂し、吹き飛ばされて宙を舞う俺。いつもの通りステータス差を無視して突き刺さるアスカの剛拳。
ほんと……仕事しろよ、【剣闘士】の加護……。しかし、なぜ殴られた……解せぬ……。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
ウェイクリング家の屋敷はあちこちが崩れ、焼け落ちていた。この街の最重要拠点でもあるはずのこの屋敷がここまで損壊するなんて……。
有事には街中から兵士が集まり防衛に当たるはずなのだが、そんな暇もなく襲撃されたのだろう。レッドキャップの出現は本当に唐突だったのだな……。
「止まれ!!」
「何者だ!」
ウェイクリング家の屋敷に着くと、守衛の兵士達に槍の穂先を一斉に向けられた。魔物は去ったとは言え、まだ警戒態勢は解かれていないようだ。兵士たちの顔には張り詰めた緊張感と、色濃い疲労が浮かんでいた。
「騎士ギルバード様をお連れした」
俺はそう言って肩に担いでいた、ギルバードを下ろす。
「ギルバード様!!」
「ど、どういう事だ! ギルバード様は無事なのか!?」
慌ててギルバードの身体を支える兵士たち。ちなみにギルバードを運ぶのに邪魔だったから白銀の装備はすべて解除して、アスカのアイテムボックスに突っ込んである。
いや、重たくて運びづらいから外しただけだ。アスカが『ミスリル装備だー! これをバラせば……!』とか言ってた気がするけど、ギルバードを安全に運ぶためにいったん装備を外しただけだ。問い詰められなければ、アイテムボックスしまったまま忘れてしまうかもしれないけど……あくまでも外しただけなんだ。うん。
「ああ、ご無事だ。魔人族と戦い、ケガをされていたが、下級回復薬で治療は済ませてある。今は、疲れ果てて眠っておられるようだ」
「魔人族だって!?」
「そ、そいつはどこに行ったんだ!?」
「死んだ。遺体は広場に転がっている」
「本当か!? おい! 上官に報告だ!」
そう言うと二人の守衛のうち一人が、屋敷の方に走っていく。
「もう、行っていいだろうか?」
「あ、ああ。ギルバード様は、確かにご無事なようだ。お連れしてくれたこと、感謝する。君は……冒険者のようだが、名を何というのだ?」
「Eランク冒険者のアルフレッドだ」
そう言って俺は冒険者タグを守衛に手渡す。ちょっとした身分証がわりになるから便利だな。
「わかった。Eランクのアルフレッドだな。伯爵家から謝礼が出ることになるだろう。落ち着いたら冒険者ギルドに問い合わせてくれ」
「わかった。では、失礼する」
俺たちは踵を返して屋敷の入り口から立ち去る。今日は、いいかげん疲れた。飯を食って、とっとと眠りたい。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
安宿に戻る頃には街が白み始めていた。
俺たちは狭い部屋に戻り、干し肉と薬草を平焼きのパンで挟んで食べた。その後、アスカがどうしても全身をキレイに拭いて、服を洗濯してから寝ると譲らないので、なけなしの魔力でタライにお湯を捻り出す。
今日ぐらいはこのまま眠りたいところだったが、一刻も早く体を拭いて服を洗わないと、命に関わってしまうと言わんばかりに真剣な表情だったので、諦めてアスカに従った。
身体を丁寧に拭いた後に心身ともに疲れ果てた俺たちは、泥のように眠った。ちなみに安宿の寝具は潰れた藁の上に麻布を張った簡素なものだったので、森番小屋から持ち出したふかふかの藁を敷き詰めたベッドを取り出して休む。
清潔な衣服と寝具に包まれて深い眠りについた俺たちが目覚めたのは、太陽が高く上り昼を回った頃だった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
職人街と平民街は、昨日の魔人族襲撃でもさほど被害を受けていなかった。もちろんレッドキャップに襲われてしまった被害者は少なくはない。しかし建物にはさほど被害は出ていないようだった。
エドガー達門衛が城壁の門を開いていたら、城下町もこの程度の被害じゃすまなかっただろう。門衛たちは確かに城下町チェスターを守り抜いたのだ。
その代わりに、貴族街の被害は尋常じゃなかったみたいだ。ほとんどの木造建築物は焼け落ち、石造りの建物も少なくない数が崩壊しているらしい。おそらくは、あの銀髪の男が得意の魔法で燃やし、爆破したのだろう。
「それにしても……困ったね」
「うーーん。非常時だから、こればっかりは……」
もともと城下町チェスターでは旅の準備を整えて、早々に通り過ぎる予定だった。ベッドを含む寝具や薪などは、森番小屋で回収してアスカのアイテムボックスに詰め込んであるので、新たに購入する必要はない。野営用のテントとありったけの食料品などを買いそろえるつもりだったのだ。
「まあ、この緊急事態じゃあ、物も無くなるよな」
「値段もバカみたいに上がってるし、品薄でロクなもの売ってないし……。こんなんじゃ、なんの準備も出来ないじゃない……」
テントなどの仮設住居用の物品や食料品は貴族たちが買占めているらしい。貴族街の火事で備蓄や住居が燃えてしまったのだろうから仕方ないことではあるけど。
だが、我先にと買い漁るものだから、機に聡い商人たちは競うように値を上げてしまった。そのせいで平民たちは住居は無事でも、食べるものを得ることが出来なくなっているようだ。
「しょうがないね。ここにいてもしょうがないよ。オークヴィルにいったん戻りましょ」
なんと俺たちはつい昨日、感動のお別れをしたオークヴィルに出戻ることになってしまった。




