第5話 夢
「しんどいぃ! つらい目にあったんだねぇアルー!」
一通り身の上話をしたらアスカが大きな瞳に涙をためて抱きついてきた。とつぜんのアスカの行動に、戸惑いが隠せない。抱きつかれてることもそうだけど、俺なんかのことで泣いてくれるなんて。
「い、いや、もう何年も前の話だからさ。もうすっかり割り切ってるよ」
割り切ったというか、やさぐれたというか……。5年の月日が経ち、騎士や伯爵家のことは、もう自分には関係ない話と思えるようになった。今となっては、狩りや料理の腕を上達させることの方が俺にとっては重要だ。
森番の仕事にもいちおう役所からの給金はある。でも雀の涙ほどしかもらえないので、基本的には自給自足の生活をしなくてはならない。幸いにも自然の恵みが豊富な聖域にいれば、食糧を得るのに困ることは無い。
たった一人で生きる寂しさももう慣れた。誰もいないという事は、他人の目を気にしなくて済むし、誰に迷惑をかけることも無いってことだ。同情や蔑みの視線に耐えることもない。
「ぇぐ……そっかぁ、えらいね。えらいね、アルは」
アスカはそう言って俺の髪を撫でまわした。出会ったばかりの美しい少女の甘い香りと、柔らかい感触に心臓が早鐘を打つ。
「おいおいおい、どうしたんだよ。酔っぱらったのか?」
「そうなのかなぁ。お酒は初めて飲むからわかんないやぁ」
アスカは俺の首に両手を回したまま、顔と体を少しだけを引いて俺を見つめる。
「あたしはアルに比べるとなぁんにも苦労してないなぁ。学校行って、勉強して、部活やって、家でゲームして……。なぁんにも苦労してないのに、勉強がヤダとか、テストがめんどいとか、あの先生うざーいとか、誰それがかっこいーとか、そーーんなことばぁーっかり言ってる」
学校、か。やっぱりアスカはいいとこの子なんだな。都市に住む貴族か大商人の子供でもない限り、学校に通うことなんて無いだろうし。
「そういうもんじゃないか? 俺だってテストは面倒だったし、嫌な教師だっていたよ」
「ふふっ、やさしいねぇアルわぁ」
アスカは俺にしなだれかかり、肩の上にちょこんと頭をのせた。綺麗な黒髪から花のような香りがする。
アスカはけっこう酔っぱらってるのだろう。蜂蜜酒が気に入ったようで、瓶のほとんどをアスカが飲んでいた。
いま、俺たちはベットの端に腰かけて、蜂蜜酒を飲みながら話をしている。館にいた頃ならソファに座っていただろうけど、もちろんそんな物はここにはない。藁と毛皮を詰めた簡素なベッドだけど木製の椅子よりは柔らかい。背もたれが無いのは残念だけど。
でもベッドの上で、かわいらしい女の子に密着されると、さすがによからぬことを考えてしまう。そもそも無防備すぎるだろ、この子。二人きりの小屋で、男に密着するなんて手を出してと言ってるようなものじゃないか。
いや、いかんいかん。酔った女の子に欲情するなんて騎士の風上にも置けん。
「アスカ、ちょっと離れろって。年頃の女が男にべたべたくっつくなよ」
俺は風前の灯だった理性の火をなんとか灯して、アスカの両肩を掴み身体を離す。転移してきた人には、礼を尽くすのが森番の務めだ。
「んー? 意識しちゃったのぉ、アル? かわいいねぇ」
そう言ってアスカは俺の髪を撫でまわす。
「やめろって、もう」
俺はアスカの両手を掴み、撫でまわすのやめさせる。まったく、意識するにきまってるだろ。20才にして娼館にすら行ったことない童貞だぞ、俺は。
「あ、でもぉアルってかわいいって言うよりは、かっこいいだねぇ」
「えぇ? そうか? そんなこと言われたことないけど」
容姿は十人並みだと思う。弟のギルバードなんかはかなり美形だとは思うけど。
「かっこいいよぉー。彫が深くてぇ、鼻筋がスッと通っててぇ、お目めがぱっちり! 外人みたーぃ」
アスカがくすくす笑いながら、褒めてくれる。
「……ガイジン? よくわからないけど、ありがとう?」
「髪もダークブロンドっていうの? 綺麗な色だよねぇー」
「ああ、この辺りの人はだいたいこんな色だな。ときどき明るいブロンドの子もいるけど」
クレアなんかがそうだな。ふわっとした質感の、白に近い明るいブロンド。
「あたしもそーゆー綺麗な色の髪に生まれたかったなぁー」
アスカがぼやく。
「アスカの髪は綺麗じゃないか。濡れてるみたいに艶々してて、まっすぐで、綺麗だ」
アスカの髪は、すとんとまっすぐで艶やかな黒髪が肩ぐらいまで伸びている。この辺では、あまり見かけない髪色だけど、とても美しいと思う。
「あ、ありがと……男の人にそんなこと言われるの初めてだなぁ」
アスカがそう言って、火照った頬に手を当てた。ほっぺが真っ赤だな。照れてるのか? あ、いや、酔っぱらってもともと赤くなってたか。
「んー……」
アスカがまじまじと俺の目を見つめてる。
「……ど、どうした?」
こんなにかわいい子にじっと見つめられると、照れるなやっぱり。蜂蜜酒を飲み始めてから妙に距離感が近くて、俺もずっとドキドキしてくる。
そんなことを考えたらアスカがとんでもない提案をしてきた。
「……ねえ、アル、しよっかぁ」
「……………はぁ!?」
おいおいおい。からかってんのか?
「……やなの?」
アスカが顔を真っ赤にして聞いてくる。もちろん嫌じゃないけど! 唐突すぎるだろ!
「いや、そんなこと無いけど、アスカは酔っぱらってるから……」
そう。騎士たるもの、酔った女の子に手を出すなんて言語道断だ。
「酔ってはいるかもしれないけどぉ……早く経験しときたいかなーって。動画は何度も見たことあるけど、やっぱりこういうのは実践してみないと。アルはかっこいいし、優しいし、初めての相手にはぴったりじゃーん」
何を言ってるんだこの子は。いいとこの令嬢かなんかじゃないのか? いくらなんでもまずいだろ。
「初めてって、お前そういうのは大切にしろよ! 会ったばかりの男とすることじゃないだろ」
「してみたいんだもん。女子校だから出会いがほとんど無いしぃ。ね?」
マジで言ってんのか、この子……。こんな事になるなら避妊魔法を覚えておけばよかった! 着火、静水、乾燥とかはこの森での生活のために教えてもらったけど、避妊までは教えてくれなかったんだよな。
「避妊魔法? そんなのあるんだぁ? でも、だいじょうぶだよぉ。夢なんだから妊娠なんてするわけないじゃーん」
「……夢?」
そういえば、さっきから夢がどうとか言ってたな。夢って、ヤるのが夢だったこと?
いや、違うか。んなアホな。
「んー気にしないで。でも、一夜限りの夢って思えばいいじゃん? アルはかっこいいし、良い人だし、優しいから、お付き合いするのもいいなぁーって思うけど、目が覚めたらもう会うことは無いだろうし……」
「…………なるほど、ね」
あくまでも、行きずりの情事ってことか。そこまで固く考える事は無いのか? いや、俺だって興味津々だし。こんなにかわいい子と出来るんなら大歓迎だし。
「ねぇ? しよ?」
そう言ってアスカは俺が掴んだままにしていた手を解き、再び俺の首に両腕を回す。
「……ダメだって。酔ってる女性に手を出すなんて騎士がすることじゃない」
「えぇー? アルは森番じゃない」
アスカがくすくす笑う。あ、そっか俺、騎士じゃなかったわ。
思わず微笑むと、アスカは目をつむって唇を合わせてきた。柔らかい触感がそっと唇に触れ、すぐに離れる。
「…………………」
「…………………」
俺とアスカは無言で見つめあう。そして、今度はお互いに顔を近づけ、唇を触れ合わせる。
柔らかく、温かく、少し湿った感触をもっと味わいたくて、俺はアスカの唇を何度もついばむ。俺はアスカの下唇を、アスカは俺の上唇を。入れ替わって俺が上唇を、アスカが下唇を。
甘い蜂蜜酒の味がする唇を味わう様に舌を這わせると、自然にお互いの舌が触れあう。俺はアスカの口腔に舌を差し込み、アスカが舌を絡ませる。アスカが押し返すように舌を俺の口に入れ、俺はアスカの舌と甘い唾液を吸う。
どれくらいそうしていたのだろう。俺とアスカは顔を離し、少しだけ息を荒げる。
「…………………」
「…………………」
俺とアスカは再び無言で見つめあう。
その時、フッとランプの灯かりが消えた。込めていた魔力が切れたのだろう。
暗い部屋に月明かりが差し込んでいる。そう言えば、今日は満月だったな。