第405話 大海嘯
「波が、大きな、大きな波がやってきて…………ぜんぶぜんぶ攫っていってしまったの……」
アナスタージアはそう言って、ガタガタと震える身体を抱きしめた。
前日の昼過ぎ、アナスタージアは息せき切って王の塔のテラスに踊り出た。繰り返し鳴り響く警笛が、国家的危機を告げていたからだ。
セントルイス王国の奇襲?
まさか、また龍の従者達が海竜に乗ってやって来たの!?
最悪の想像を思い描きながら飛び出したテラスから周囲を見回す。
海の上に水竜や海竜の姿はなく、船着き場の様子もいつも通りだ。陸の様子もいつもと変りない。ずいぶんと潮が引いているようではあるけれど、ちょうど干潮の時間だし別におかしくはない。
警笛は誤報かと思い沖に目を向けたアナスタージアは、自らの目を疑った。沖の方から、とてつもなく巨大な水の壁が押し寄せていたのだ。
『大海嘯』
かつてジブラルタ王国に壊滅的な被害をもたらした天災。高さが十数メートルを超えていたという、海竜の群れが呼び寄せた大波。
王都マルフィに迫りくる大波は、伝え聞く『大海嘯』よりも遥かに巨大だった。まだかなり離れているというのに、この王の塔よりも明らかに高かったのだ。
波は驚くほどに早さで、ここに近づいている。迫るにつれて早さはだんだんと落ちている気がするが、かわりにどんどん高さが増している。
もはや、どうすることも出来ない。波はこの湾上に林立する白亜の塔をなぎ倒し、陸を、山を、慎ましやかに暮らす王国民達の生活を根こそぎ壊すだろう。
一瞬でそう悟ったアナスタージアは、腰が抜けたようにテラスに座り込んだ。
ぼんやりと大波を見やり、ふと気づく。波の上に、何かが浮かんでいる。その何かは波とともにこちらに向かって飛んでいた。
人……? いや、そんなバカな。人が空を飛べるわけがない。なら、あれはなんだろう?
遠くてその姿が捉えられないなら、魔力を視ればいい。【魔導士】の加護を持つ自分は、魔力を感じ取るのに長けている。アナスタージアは波の上を飛ぶ何かの魔力を探った。
「身を引き裂かれるかと思うほどの殺気をはらんだ……強大な魔力でした」
強烈な殺気に怯えたアナスタージアは、咄嗟に持てる魔力の全てを注ぎ込んで【水装】を発動し、恐怖に呑まれかけた精神をなんとか立て直した。
続けて【土装】【水纏】……と身体強化魔法を重ねがけする。そして間近に迫った何かに怯え、頭を抱え込んで縮こまった。
それは超常の存在に対する防衛反応だったのかもしれない。結果的に、それがアナスタージアの命を救った。
ふと気づくと、アナスタージアはぼろぼろの衣服を纏って海岸に横たわっていた。目の前に広がるのは美しく輝く瑠璃色の水面ではなく、土砂で茶色く濁った海。水底に沈んでしまったのか生まれ育った白亜の塔は忽然と姿を消し、狭い陸地にひしめいていた建物は根こそぎ波に攫われていた。
「アレは……いったい何だったのでしょうか。人ではありません……。人の形をした何かでした……」
アナスタージアが、声を震わせる。ジブラルタ王国の第一王女の威厳など、もはやどこにもない。ただ天災に怯え、うずくまる少女の姿がそこにあった。
「アナお姉さま……」
ローズが震えるアナスタージアを抱きしめる。
聖ルクス教国の聖都ルクセリオに続いて、ジブラルタ王国の王都マルフィが滅んだ。もはや疑いようがない。ジェシカの話は、真実だった。
神龍……いや、龍王ルクスは再び人族に牙を剥いたのだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「これから……どうする?」
転移陣とマルフィを繋ぐ坑道出口にある広場に幌馬車とテントを設置し、俺達は焚火を囲んでいる。この広場は高台にあるため、大海嘯の災禍を免れたのだ。
海底迷宮を探索していた時は毎日この広場に戻って、米の酒と海産物を楽しみ賑やかに夜を過ごしていた。エースにじゃれつかれたアリスやローズ、ほろ酔いのアスカの笑い声が絶えなかった。
だが今は、押し殺したような泣き声や呻き声しか聞こえない。広場は暗澹とした雰囲気に包まれている。
輪の中にエースの姿は無いし、ローズもアナスタージアに寄り添っているためここにはいない。いつも不敵な笑顔を浮かべて胸を張っているローズもさすがに堪えていたが、それでもアナスタージアと生き残った数十人の人達を甲斐甲斐しく世話していた。
「各地の都市をまわって警鐘を鳴らすべきだわ」
「私達の話を信じてくれるだろうか」
「それでも訴えるしかないわ。レグラム王家の人達ならユーゴーの話を無下に扱ったりしないはずよ。セントルイス王家やガリシア氏族も、貴方達の話なら聞いてくれるでしょう? エウレカは……ゼクス家が実権を握っているだろうから、トレス家の私の言うことなんて聞き入れてはくれないでしょうけど」
そうだな、エルサの言うとおりだ。
一つの都市を焼き尽くしたり、海に沈めたりするような、化け物に抵抗する術なんて思いつかない。でも、何も行動を起こさないわけにはいかない。
幸いにも、俺達の仲間はそれぞれの地を治める王や族長と信頼関係を結べている。避難を促す事ぐらいしかできないけど、やらないよりはマシだ。
「まず、どこに向かう?」
「エウレカは後回しでいいわ」
「レグラムはマナ・シルヴィアの転移陣からだいぶ離れているから、レリダを先にした方がいいかな」
「……クレイトンは後回しでいいのです?」
「レリダとレグラムは、アリスとユーゴーの家族が住んでるんだ。早く伝えたいだろ? まずはレリダ、その次にレグラムに行こう」
おそらく龍王ルクスは各国の大都市から襲撃するだろう。だとしたら俺の家族がいるチェスターが狙われるのには、まだ余裕はある……と思う。
冷たいようだけどクレイトンには俺の家族はいない。セントルイス王家とは良い関係を築けているとは思うけど、後回しにさせてもらう。仲間たちの家族の方が優先だ。
「では、最初にレリダ。次にレグラムで、その次がチェスター。最後にエウレカの順番で良いかしら?」
ガリシアの転移陣からレリダへは半日程度で行けるが、シルヴィアの転移陣からレグラムまでは1週間ほどかかってしまう。レリダに行ってからレグラムに行く方が、効率が良いだろう。
「エルサはそれでいいのか?」
「いいわ。私の家族は……もうエウレカにはいないもの」
「そうか……」
「……そうしてもらえると嬉しいのです」
ユーゴーもこくりと頷く。
「なら、今日は早く休もう。急いで向かいたいところだけど、俺達もきちんと休まないと身が持たない」
「ええ、そうしましょう」
皆、おもむろに立ち上がり、そそくさとテントと幌馬車の方へと向かった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「あ、あれ?」
翌朝、早々にレリダに向かおうと『龍脈の腕輪』を使ったアスカが困惑の声を上げる。強い光を放った龍脈の腕輪が、その輝きを失っていったからだ。
「どうしたの?」
「えっと、その、『龍脈の腕輪』がおかしいの。レリダに転移できない……」
「え? ま、まさか!?」
もしかしてガリシアの転移陣が……ルクセリオの転移陣のように、龍王ルクスに破壊された!?
「『龍脈の腕輪』起動! レリダ! シルヴィア! 始まりの森! エウレカ!」
アスカの左腕の腕輪が何度も光り輝く。だが俺達は転移することなく、光はしぼむように消えていく。
「……ジェシカの腕輪もダメみたいなの」
「転移陣が……破壊された!?」
「いくらルクスでも、たった数日で各国の転移陣を破壊できるとは思えないの……」
「なら、どうして転移陣が使えないんだ!?」
冗談じゃない。マルフィからチェスターに行くだけでも何十日もかかるだろう。レリダやレグラムなんて、その比じゃない。今すぐにでも、各国の王家に会いに行かなければならないというのに。
「もしかしたら……アザゼルが世界中の転移陣を封じたのかもしれないの……」
ジェシカが顎に手を当てて、唸るように言った。




