第295話 消えた記憶
アスカは『なんでもないの』『大丈夫だよ』と涙を流しながら笑っていた。だが、俺の部屋に連れて来て、手を繋いで黙って背中をさすっていると、ぽつりぽつりと胸の裡を語り始めた。
「……この世界に来る前のことが、ぼんやりとしか思い出せないの。お母さんの顔も、お父さんの顔も。お姉ちゃんがいたような気もするし、妹がいたような気もするの……」
「いたような……気がする?」
「なんか、変なの……。アミューズメントパークとかスタジアムとか、原宿とかお台場とか、行ったことがある場所のことは覚えているの。でも、誰と行ったのか、何をしたのか、なんで行ったのか、思い出せない」
記憶喪失か……。目にしたことは無いが聞いたことはある。頭部に衝撃を受けたり、強度の不安や恐怖を受けたりすることで、自分に関する記憶が思い出せなくなる障害だ。
でも、アスカが頭を強く打ったことなんて無かったはずだ。精神的なストレスは……不死者の大群やキャロルの死は強い刺激を受けるに足る出来事だったとは思うけど……でもアスカにとって衝撃的だったかというと違う気がする。
「三角関数とか、英語構文とか、どうでもいいことばっかり覚えてるの! WOTのことは、スキル特性も、ジョブ補正も、ストーリーもぜんぶ覚えてる! でも……家族の顔も、友達の顔も、何も……思い出せない……」
アスカが俺の肩をつかんで、絞り上げるような声で叫ぶ。だが、その声はだんだんとかすれていき、最後は今にも消えいりそうになった。
俺はアスカの肩を掻き抱き、艶やかな黒髪を胸に押し付ける。アスカは声を出さずに、その細い肩を震わせて涙を流し続けた。
「不安だったよな」
ぽんぽんと頭を叩きながら、抱きしめる。
遠い異世界からたった一人でこの世界にやってきて、たまらなく寂しかったはずだ。短剣すらも握ることのない平和な世界からやって来て、人と魔物、人と人が殺し合う殺伐とした世界が怖くなかったはずがない。
元の世界に残してきた家族や友人の記憶は心の支えだっただろう。その大事な人達の顔や出来事が思い出せないなんて、どれだけの不安に襲われるだろう。
20年もこの世界に暮らし、何年も人と触れ合わず生きていた俺だって、耐えられそうにない。後ろ指をさされ嘲笑された過去であっても、父上や母上が、クレアが示してくれた俺への親愛の情はいつだって俺を支えてくれた。
「辛かったな」
母の顔が浮かばない? 父にかけられた言葉が思い出せない? 姉や妹がいたのかさえわからない? どれだけ心がかき乱れるだろう。どれだけ恐ろしいだろう。
俺はただ、静かに涙を流すアスカを抱きしめ続けた。
数十分が経っただろうか。ようやく泣き止んだアスカは、俺の胸から顔を離して泣き腫らした目で照れ臭そうに俺を見上げた。
「ごめんね、こんなはずじゃなかったのにな」
涙で湿った俺の服を撫でながらアスカが力なく笑う。明らかに無理をしているのがわかってしまう微笑だったけど、それでも幾分かは緊張が解けてすっきりとしたように見えた。
「強い魔力に晒されたり、大怪我をした後なんかに、一時的に記憶が混濁することがあるって聞いたことがある。でも、大抵は時間が経てば記憶を取り戻せるそうだ」
「そうかな……うん、そうだよね」
聞き齧りの話でしかないけど、戦争帰りの兵士や、魔物に襲われて死にかけた冒険者が、記憶を失ってしまうことがあるそうだ。失った記憶を取り戻せない場合もあれば、ふとしたきっかけで思い出すこともあると聞く。
「食べたことのある料理を食べるとか、聞いたことある歌を聞くとか……そんなちょっとしたことで思い出したりするらしいぞ」
「食べ物に……歌かぁ」
「シルヴィアの料理はニホンと似てるんだろ? たくさん美味いもの食べよう。きっと思い出せる」
「うん……食べたい」
気休めにしか聞こえないかもしれない。無神経かもしれない。けどさ、何も言わないよりいいよな。
「この世界に来てからのことは覚えてるんだろ?」
「うん」
「なら、俺がいる。俺との思い出はある」
「……うん」
「ずっと一緒にいる。だから大丈夫だ」
「……ぐずっ……うん!」
アスカの気持ちはわかってあげられない。共感してあげることぐらいしかできない。それでも、アスカの寂しさや悲しみが、不安や恐怖が少しでも和らげることならできるだろう。
一緒にいてくれる……それだけで俺はアスカに救われたから。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「あっ、あっ、んっ……んんっ、あっーーーああああぁぁっっ!!」
「……くっ、はぁっ、はぁっ」
抱きしめあって、唇を求めあって、体温を確かめ合ってたら……まあ、こうなるよな。エウレカを出てからというもの、ずっとアリスやエルサと一緒にいたから、互いにずいぶんと溜まってたみたいだ。
ベッドにくたっと顔を埋めて、肩呼吸をするアスカの黒髪を撫で、毛布を掛ける。季節は冬。今は汗ばんでいるけど、すぐに冷えてしまう。
それにしても男ってなんでこうなんだろうな。アスカは、未だ快楽の余韻の中にいるってのに、こっちはどんどんと冷静になっていく。
いや、気持ちが冷えていくわけじゃない。触れれば触れるだけ、求め合えば求め合うだけ、愛おしさは増していく。
ただ事後の冷静さだけは唐突にやって来る。アスカによると、かの地ではこれを賢者の時間と呼ぶらしい。良い得て妙だ。
まあ、そんなことより。賢者では無く、ここからは【暗殺者】の時間だ。
俺は端に座っていたベッドから立ち上がり、水差しを手に取る……ように見せかけ、テーブルの上に置いていた漆黒の短刀を逆手で握りしめて一足飛びにドアへと跳ねる。
急激に冷えた感覚が、俺に訴えたのだ。俺やアスカを監視する目があると。ドアを一気に開き、他人の情事を覗き見る不埒者に鈍く輝く漆黒の刃をつきつける。
「って…………はっ?」
「あ、あ、ち、違うのです! ア、アスカが心配で、の、覗くつもりじゃ…………ごくり」
ドアの外にいたのは小柄な少女……アリスだった。真っ赤な顔で瞳を潤ませ、ズボンの股座に手を突っ込んだ……アリスだった。
「んー? やっ、えぇっ!?」
アスカが胸元まで掛かっていた毛布を頭まで引き上げ、すっぽり全身を覆い隠す。うん、そりゃね。例え女の子同士でも、事後の姿なんて見られたくはないよな。
対して俺は、まあ、事後そのままだ。まさか、アリスがドアの目の前にいるとは思わないじゃないか。不埒者の首に短刀を突きつけようとしたら、膝立ちで覗いていたアリスの目の前に丸出しの股間を突きつけてしまっている。
「ほ、ホントなのです! アスカが泣いてたから! エ、エルサ!? ずるいのです! なんで一人で隠れちゃうですか!? ……ごくり」
そう言うアリスの目線は真っ直ぐに俺の股間へと向いたままだ。いや、ナニと話してるんだお前は……。




