第27話 火喰い狼
「アルっ!」
背後からアスカらしき声が聞こえる。……アスカ、俺のことはいいから……早く……逃げろ……。俺はもうこいつを抑えられない……。
今にも飛びかからんと火喰い狼が身を低く屈める。全てを諦めかけたその刹那、俺の右腕が唐突に青緑色の光を放つ。
途端に痛みが嘘のように引いていく。あらぬ方向に折れ曲がっていたのに、あっという間に真っ直ぐになっていった。全身の痛みで散り散りになりかけていた、意識がはっきりしていく。
「えっ……?」
いったい何が起こった!? これ……もしかして回復魔法か!? だとしたら一体誰が!?
いや、そんな事を考えてる場合じゃない!
まるで引き絞った弓から矢が放たれたかのように、大口を開けて牙を剥き出した火喰い狼が俺に向かって飛び込んできた。俺はとっさに身体を起こし、ハードレザーのガントレットをつけた左腕で頭をかばう。
火喰い狼の牙はいとも簡単にガントレットを貫通し、左腕に突き刺さる。左前腕を火喰い狼に咥えられたまま、飛びかかって来た勢いに押し込まれる。衝撃で左腕がボキっと嫌な音を立てて折れ曲がった。
「っっ!!!」
声も凍ってしまうほどの突き刺すような激しい痛みが全身を走り、あまりの激痛に意識が飛びそうになる。
さらに火喰い狼は俺の左腕を食い千切ろうと頭を大きく振る。俺はさせてなるものかと、火喰い狼の鼻っ面に覆い被さった。右に左に頭が振り回されるが、必死で足を踏ん張りしがみつく。
鋭い牙が深く突き刺さった左腕は、まったく動かせない。だけど足はまだ踏ん張れる。爪に裂かれ折れ曲がったはずの右腕はナゼか治り、元どおりに動かせる。
「おおぉぉ!!」
俺は左腕を差し出したんだ。お前にも相応のものを支払ってもらうぞ。
激痛に耐えながら火喰い狼の顔面に組み付いた俺は、右腕をヤツの身体で最も柔らかい部分に向かって突き刺した。
「ギギャァァン!!」
素手を突っ込まれ眼球を潰された火喰い狼は、嗚咽とも怒号ともつかない叫び声を上げる。絶叫で口が開き、強靭な顎と鋭い牙に囚われていた左腕が解放された。
左腕は全く感覚が無いし、肋骨は何本か折れている。まさに満身創痍だ。でも、まだ動ける……! このチャンスは逃せない。
何度と無く攻撃を仕掛けても、もう一歩踏み込めなかった火喰い狼との間合いがゼロなんだ。しかも火喰い狼は痛みに悶え、いまだ隙を晒している。
俺は腰に括り付けていた鋼のダガーを後ろ手で掴み取る。ダガーを渾身の力で握りしめ、身体ごと懐に潜り込んだ。
至近距離から全体重を乗せて突き出したダガーは、火喰い狼の喉元に深々と突き刺ささる。俺は間髪入れずにダガーを横に振るい、大きく引き裂いた。
火喰い狼の首元から大量の鮮血が噴き出し、残っていた右眼から急速に光が失われていく。
ほどなく身体を支えられなくなった火喰い狼は、自らの首から零れ落ちた血だまりに崩れ落ちた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「……勝った……のか?」
俺は左腕と脇腹の痛みに立っていられず、膝をつく。火喰い狼はピクリとも動かない。これだけ大量の出血だ。さすがに生きてはいないだろう。
ほとんど諦めかけたが、唐突に治った右腕……おそらく回復魔法のおかげでなんとか助かった。あれは一体何だったんだ?
「アルっ!!」
アスカが慌てた顔で俺に駆け寄って来た。良かった無事だったか。
「アルっ、大丈夫!? うわっ、腕が千切れそうじゃない……あわわわ」
そう言ってアスカは、目の前に浮かんでいるメニューをちょんちょんとつついた。すると、俺の左腕がさっきの右腕と同じように青緑色の光に包まれる。
牙で抉られ切り裂かれた肉も、砕かれた骨も、全てが元どおりに治っていく。ふと気づくと脇腹の痛みも消え失せている。
「えっ……まさか……さっきの光も?」
「えっ? そうだけど? 回復役は任せてって言ったじゃん」
おいおいおい。回復魔法が使えるなんて聞いてないぞ?
「アスカだったのか……。でも魔力も無いのにいったいどうやって……。加護の力なのか?」
「んー、加護っていうか……回復薬を使っただけなんだけど……」
「……回復薬!?」
回復薬っていつも作ってるあれか?? そりゃ回復薬なら傷口にかけたり飲んだりしたら、咬み傷や火傷ぐらいなら治せるかもしれないけど……。ええぇ???
「うん。アイテムボックスから回復薬を選んで使ったら、体力が回復するって……当たり前じゃない?」
「回復薬を使ったって……アイテムボックスで? 回復魔法じゃなかったのか……」
「あー、たしかに下級回復薬は【治癒】とエフェクト同じだからね。もう少し工夫してもらいたいよねー」
……うん。もういいや。深くは聞くまい。アスカの使う回復薬は回復魔法っぽい何かになる。それでいいや。
「回復魔法なら離れた場所からでもいいけどアイテムは近づかなきゃ使えないんだよね。だから1回目に回復薬を使った時には、すぐそばにいたんだよ? デールもいなかったから、アルが負けたらあたしもたぶん死んでたねー」
おいおいおい。後衛のアスカが単独で魔物のそばに来るなんて、何かあったら致命的じゃないか。だから回復役はデールと二人組みでって言ってたのに……
「ってデール! あぁっ、そう言えばダーシャはどうなったんだ!?」
そうだよ!デールとエマが無精ヒゲと尖りアゴなんかにやられるとは思わないけど、奇襲されて倒れたダーシャは……。
「やっと思い出してくれたの? 思ったより薄情な男だね」
振り向くと、ダーシャ達3人が歩み寄ってきた。3人とも怪我も無く、無事なようだ。
「私はアスカのおかげでピンピンしてるよ」
「多少は怪我もしたけどアスカにもらった回復薬のおかげで、もう治ったよ」
「あんなヤツらに負けるわけ無いニャ」
「さすがだな。あいつらはどうしたんだ?」
「まだ死んじゃいないが、ほっとけばすぐ死ぬな。あそこに転がってるよ」
デールが指差したところには尖りアゴことローマンが転がっていた。左腕が切り落とされ、腹から血を流してうずくまっている。
引きちぎったローマンの服で縛り、左腕の止血だけはしているようだ。そうは言っても腹からも出血しているようだし放っておけば失血死するだろう。
そこから少し離れたところには無精ヒゲことディックが転がっている。こちらは肩や腕に矢がいくつも突き刺さっている。
そのうえ、残った四肢も切り裂かれてずたずただ。こちらはエマと回復したダーシャに二対一で倒されたのだろう。ディックも急所だけは守り切ったようだが、かえってそれが手傷を増やすことになったみたいだ。
「どうする? 火喰い狼と戦っているところに背後から奇襲を仕掛けて来たんだ。放っておいてもいいとは思うけど……」
「そうね。火喰い狼を狙ってたところに、後ろからブスリだもん。アスカがいなかったら私も死ぬところだったし」
「ああ。正当防衛だしな。おかげで、こっちは危うく全滅しかけたんだ」
「自業自得ニャ」
ダーシャ、デール、エマは俺と同意見のようだ。当然だろうな。俺も死を覚悟するぐらい追い詰められたし、ダーシャもそうだ。
「えぇぇ……。ほっといたら死んじゃいそうだよ? 助けてあげた方がいいんじゃ……ない?」
そう思っていたら、アスカは助けたいみたいだ。アスカだって危険に晒されたんだぞ? わざわざ助ける必要なんて無いと思うけどな。
「でも……死んじゃうんだよ……? デール達が殺したことになっちゃうんだよ……? 人殺しになっちゃうんだよ?」
アスカはどうしても助けたいみたいだ。ずいぶんお人よしだな。殺されかけたってのに。まあ、アスカがそう言うなら、俺は別にどっちでもいいんだけど。
「デール、ダーシャ、エマ……いいか?」
「……俺は別にかまわない。アスカ達がしたいようにすればいいさ」
「アスカには二回も命を救ってもらった恩があるしね。アスカがそうしたいなら私もいいよ」
「あちしも別にいいニャ」
デール達はアスカのお人よし加減にやや呆れた様子だが、従ってくれるようだ。じゃあ身動き取れないように縛り上げてから、回復してやるか。
俺はまずノーマンのところに向かう。装備を全部剥ぎ取り、着ていた服を切り裂いた布で足と右腕をきつく縛る。ディックの方は、デールが矢を引き抜いて回収したうえで同じように拘束した。
ディックもノーマンも息はしているようだが、意識は無い。俺はそんな二人に回復薬で応急処置を施していく。
回復薬を振りかけると、ディックの無数の矢傷や短剣に刻まれた創傷はあっという間に治っていく。ローマンの切り落とされた左腕までは元に戻せないが、出血は完全に止まり、剣で突き刺されたのだろう腹の孔は跡形もなく塞がった。
ローマンの方はさすがに血を失いすぎたのだろう。意識を取り戻す様子は無いが、ディックの方はほどなく目を覚ました。
「……なんのつもりだ」
意識を取り戻すなりディックが悪態をつく。俺たちに囲まれた、この状況で憎まれ口が叩けるなんてな。思ったよりも肚が座っているな。
「俺の連れに感謝するんだな。剣士の方も殺してはいない。当然、このまま領兵に引き渡すけどな」
「チッ……」
ディックは地面に向かって唾を吐いた。すぐさまデールが鳩尾に蹴りを叩き込み、むせ込むディック。
「調子に乗るな。俺はすぐにでも殺してやりたい気分なんだ。命があっただけでも感謝しな」
「……ゲホッ……けっ。領兵に突き出されりゃあ、俺たちはどうぜ犯罪奴隷落ちだ。死んだ方がマシってもんだぜ」
「ふん。だったら殺さないでおいて良かった。死ぬまで扱き使ってくれるように嘆願しといてあげるわ」
デールとダーシャがそう言って睨みつける。ディックは二人を無視して、憎々し気に俺とアスカを見ている。
「なあ。お前らどういうつもりだったんだ? まさか冒険者ギルドの件で逆恨みして、俺達を狙ったのか?」
デール達にギルドで恥をかかされ、俺には相手にもされなかったのだから腹も立っただろう。とは言え、あの程度の因縁で俺たちを殺そうとしたのか? その結果が、返り討ちされて犯罪奴隷落ちだ。間抜けもいいところだ。
「ふん……お前らが気にくわなかったのもあるが、狙いはそこの嬢ちゃんが持ってる魔法袋だよ。ありえないぐらいの数の水瓶やら薬草やらが詰め込める大容量の魔法袋だそうじゃねえか。奪い取れりゃあ、何年も遊んで暮らせるぐらいの稼ぎになるはずだったんだ」
……なるほどね。やっぱり回復薬作りで、かなり悪目立ちしていたんだな。わかっていたこととは言え、やはりアスカのスキルは狙われてしまう。魔法袋どころじゃない性能のスキルだなんてバレたら、本当に厄介なことになりそうだ。
「欲をかきすぎたな。奴隷落ちして反省しろ」
俺はもう話すことも無いので、ディックの口に猿轡をかませた。アスカはいつの間にか火喰い狼の亡骸を回収したようだ。
「じゃあ、町に戻るか」
「おう!」
「うん!」
ようやく火喰い狼との戦いに決着がついた。さすがに疲れた。とっとと戻って休もう。