第195話 クレアの想い
アリンガム家の邸宅は店舗を兼ねていて、1階には商会の店舗や倉庫がある。2階はダイニングや応接室、客間などがあり、俺とアスカの壮行会はこの階で行われている。
「どうぞ、こちらへ」
クレアに案内されたのは3階のリビングだった。3階はアリンガム家の私的な空間だったので、今までお邪魔したことは無かった。
「そちらの椅子にお掛けになってください。お茶を淹れますわ」
「ああ」
俺はクレアが指した、柔らかな木目の椅子に腰かける。階下からは壮行会の賑やかな声が聞こえてくる。
あ、アスカに少し離れるって言っておけばよかったな。
「お待たせしました」
クレアがティーセットを持って戻って来て、俺の隣に座る。銀のトレイの上には白磁のティーポットとカップの他に、琥珀色の液体の入ったガラス瓶が乗っていた。
「スタントン准男爵に頂いた焼きワインです」
そう言ってクレアはティースプーンで焼きワインを一すくいする。
「【着火】」
ティースプーンに青い火が灯り、辺りに芳醇でまろやかな香りが漂う。紅茶の入ったカップに焼きワインを注ぐと、紅茶の表面にふわっと青い炎が広がりふっと消える。
「アストゥリアで流行した紅茶の入れ方だそうですわ。葡萄と紅茶の香りがより楽しめますね」
「へえ、洒落てるな」
前にボビーの邸宅でもご馳走になったが、この焼きワインっていうのはなんだか気持ちを穏やかにしてくれるな。紅茶の香りとも相まって、時間すらゆったりと流れている気がしてくる。
「休む前に頂くと、ぐっすりと眠れるんです。スタントン准男爵には良い物をいただきましたわ」
「せっかくだから俺ももらっておこうかな」
「そうですね。アスカさんのスキルがあればどんなに荷物があっても邪魔にはなりませんもの」
クレアはそう言うと、物憂げな表情で微笑んだ。
「アスカさんがアル兄さまの元に遣わされたのは運命だったのですね……」
「運命……?」
「ええ。魔人族から世界を救うために、神龍ルクス様がアスカさんを異世界から招かれたのでしょう。そんなアスカさんが、幼い頃から神童と呼ばれたアル兄さまと出会ったのは必然だったではないでしょうか」
そう言われてみれば、なぜアスカがこの世界に転移して来たのかは、考えた事が無かったな。
俺がアスカと出会ったのは、森番の俺が転移陣の側にいたという偶然だと思っていた。アスカと出会うために神龍ルクスが俺に【森番】の加護を授けていた……ということも考えられるのか?
人に加護を授ける『成人の儀』では、その者が持つ才能や血筋、魔力の性質などから、最も適性のある加護が与えられると言われている。だとしたら騎士となる事を目指して努力を重ね、誰よりも才能に恵まれていると言われていた俺が【騎士】の加護が与えられなかったのは、やはり不自然だ。
アスカがこの世界に転移してくる、あの日、あの時に俺が始まりの森の転移陣にいるように、俺は【森番】になった。そして、アスカも俺に会うために転移して来た。
……そう考えると、しっくりくる。
「……とても……敵いませんわね」
思索して黙りこくった俺を見て、クレアが小さく呟く。
「え……?」
「……アル兄さまとこんな風に二人でお話しするのも久しぶりですね」
「あ、ああ、そうだな。クレアが始まりの森に迎えに来てくれたとき以来かな?」
不意に話題を変わったことに戸惑いつつ答える。そう、あれはアスカと出会う前日か。
始まりの森に馬車で迎えに来てくれて、チェスターの役場に森番の仕事の定期報告に行った日だ。ああそうだ、クレアと街を歩いていたらダリオとカミルに絡まれたんだったな。ずいぶん前の事のように感じる。
「そうですね。ねえ、アル兄さま? 私、あの森を訪れるのが本当に楽しみでしたの」
「……うん。俺も、クレアが来てくれるのを、いつも楽しみにしていたよ」
森番となって始まりの森に籠った5年。半年に一度、様々な物資を持って会いに来てくれるクレアが心の支えだった。
粗末な森番小屋で持ってきてくれた紅茶や焼き菓子を楽しみながらクレアと語らう時間が、本当に楽しみだった。俺を忘れないでいてくれること……それだけで嬉しかった。
「まさか、あの森から遠く離れた王都で、こんな風にアル兄さまとお話しすることになるなんて夢にも思いませんでしたわ」
「そうだな……」
アスカに出会わなければ。アスカに新たな加護を与えられなかったら、俺が今ここにいることは無かった。
「これが運命……なのですね」
クレアはそう呟くと力なく微笑んだ。不意に、クレアのつぶらな瞳から一筋の涙が流れ出た。
「あ……ご、ごめんなさい。こんなつもりじゃ」
クレアは慌てて涙をぬぐう。だが、グリーンの瞳からは止めどなく涙があふれ出る。クレアはうつむいて両手で顔を抑え、声を殺して涙を流した。
「クレア……」
俺は、ただクレアの隣に座る事しか出来ない。
幼い頃から将来結ばれる相手として当たり前に側にいて、妹のように、幼馴染のように、そして恋人のように接していた女の子が、隣で肩を震わせて涙を流している。
クレアを抱きしめ、涙を拭ってあげたい。だけど……そうすべきでは、無いんだ。
クレアが俺の事を慕ってくれていることはわかってる。俺だってクレアのことは好きだ。大事な人だと思ってる。
森に籠っていた時には、全てを諦めて無感動になっていたから、クレアがギルバードの婚約者となったと聞いても心は動かなかった。でも今は……クレアをギルバードに渡したくない、そう思ってしまっている。
剣闘士の加護を手に入れた俺に、父は戻って来いと言ってくれた。ウェイクリング家の後継者に返り咲けと言ってくれた。
俺がウェイクリング家に戻れば、クレアは再び俺の婚約者に、ひいては第二夫人になるだろう。クレアは、それを心から願ってくれている。
そうしてあげたいという思いも、俺の中にはある。幼い頃から俺を慕ってくれて、失意のどん底にいた俺を支えたくれたクレアに報いたいという思いもある。
それでも……俺はクレアを抱きしめてあげられない。
俺は、ウェイクリング領に戻らないし、クレアを娶ってあげることも出来ない。俺は恩人であり、恋人のアスカと、旅に出る。
龍の従者とか、世界を救うとか、そんな事はどうでもいい。ただ、俺はアスカの隣にいたいし、アスカの騎士でありたい。
クレアを抱きしめて、涙を拭ってあげるべきでは……ないんだ。俺はクレアの傍にいてあげることは出来ないんだから……。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
ひとしきり泣いた後にクレアは中座して涙を拭い、化粧を整えて、再びリビングに戻って来た。瞳は真っ赤に染まっているが、普段通りの可愛らしい微笑みを浮かべている。
「こんなつもりじゃなかったのです。申し訳ありません」
「いや……」
俺は答えられない。返す言葉が、見つからない。
「旅に出られる前に、アル兄さまに伝えておきたかったんです」
クレアは静かに微笑む。
「アスカさんには、アル兄さまの事を諦めたつもりは無い、そう言いましたけれど……今日はアル兄さまにお別れを申し上げたかったのです」
「え……」
「アスカさんとの旅が、神龍ルクス様の天命だったのですもの。アスカさんをアストゥリアにお送りして、すぐにチェスターに戻って来られるということも無いでしょう?」
「……そう、だな」
きっと、長い、長い旅になる。とても数年で帰って来られるような旅じゃないだろう。
「魔人族を討伐する旅をやめてアスカさんと共にチェスターに戻って来ていただければ、一緒に娶っていただける……そんな事も考えてはいたのですけれど……。その旅が神龍ルクス様の天命だという事であれば、それをお止めすることは出来ませんもの。諦めざるを得ませんわ」
クレアはそこで言葉を止め、息を飲み込んだ。そして決意を込めた瞳で俺を見据える。泣きはらした、真っ赤な瞳で。
「私はチェスターに戻り、ギルバード様に嫁ぎます。アル兄さまの代わりに、ウェイクリング家を支え、その繁栄に努めます。アル兄さま、どうか……どうかご無事で、天命を全うください」
そう言って、クレアは微笑んだ。




