室外機に隠れる君を見つけた
錆びた手すりは、早く手放したいと感じる程の熱を持っていた。この手すりを離せば、僕の体は宙に投げ出され、その数秒後、校舎裏の職員駐車場を僕の体で汚すことができるはずだ。
そう考えて目を閉じると、心臓の音が体全体を揺らした。九月の陽はまだ暑い。夏の残り火は容赦なく後頭部と背中を焼き付ける。額に汗が滲む。この鼓動が暑さからくるものでないことを僕は知っている。
満足した僕は踵を返し、手すりを飛び越え屋上の平地へ戻った。
「お前はひとりじゃないからな。」
あの時、あいつはそう微笑みかけた。だけど僕は、今でもひとりな気がしてならない。
家族全員が交通事故で死んだのは、高校入学の直前だった。
中学校の部活仲間と卒業祝いにボーリングをしていた僕は、友人の一人がストライクを取りハイタッチを求めてこちらへ向かってくる途中、叔母からの電話でその知らせを聞いた。周りの雑音がなくなり、突如として自分だけがその空間から切り離された。
今聞いた話が理解できず、気付くと僕は携帯を持っていない方の手で、友人のハイタッチに応えていた。
高校生にして、一人暮らし。
家族の面影が残る地元から離れ、高校のある隣町に越してきた。料理は出来ないので、コンビニ弁当を食べる毎日だ。
煙草を吸う癖がついたのは、コンビニ弁当を買う際に思いつきで煙草を注文したのがきっかけだった。私服でいれば、店員はすんなりと煙草を手渡してくれた。ライターは、父親の形見のジッポを使った。
高校に入学してから、自分から積極的に友人は作らなかった。
新しい高校生活への期待に膨らむ高校一年生というのは、友人になろうという気概のない人間を見分ける能力が高いようで、僕は苦労なく孤立した。
地元の同級生が何人か同じ高校に通っており、彼らも最初のうちは声をかけてくれていた。しかし、僕はそれを素っ気なくあしらった。中学時代とはまるで違う態度だが、事情を知っている友人達はそれを責めることはなかった。彼らはそっと僕から離れ、新しい同級生の輪に入っていった。
高校の屋上が施錠されていないことに気づいたのは一人になれる場所を探していた時だった。
それからは、昼休みや放課後を屋上で過ごすことが多くなった。滅多に人が来ることはなく、積み重ねられて背丈ほどの高さになった室外機に隠れれば煙草を吸ってもバレなかった。
室外機を背に、灰皿代わりの空き缶を両足の間に置いて隠れるようにしゃがみ込む。ポケットからジッポを取り出して煙草に火をつけた。
別に美味しいとは思わない。煙が喉に引っかかる感じも心地よいものではない。
なぜ煙草を吸っているかと聞かれたら、自分の体を痛めつけていることを自負できる分かりやすい行為だからだと答える。世間の通説によると、煙草は死を早めるそうだ。
煙を飲み込み、空に薄い白煙を渡す。梅雨明けの空はいつにも増して青く見えた。
用宗大志から初めて声をかけられたのは、そんな青空の下だった。
「俺も混ぜてよ。」
後ろから、高校生らしい張りのある声がした。振り向くと、短髪に黒い肌、白い歯のまさに健康優良児そのものといった男子生徒が立っていた。さらにそれを助長するかのような爽やかな笑顔を僕に向けている。
「へぇ、瀬名、お前煙草吸ってんだな。見た目によらず不良だね。」
大志は自分のポケットから煙草を取り出して、僕よりもずっと慣れた手つきでライターに火を付けた。
「職員駐車場からチラッとお前が見えてさ。それで俺もここに来てみたのよ。」
大志は室外機にもたれかかって話を続けた。
「いい場所だなぁ。これからは俺も使わせてもらうよ。」
僕にはそれに答えるより先に聞くことがあった。
「ごめん。誰?」
僕にとって大志は初対面だった。
煙をぷっと吹き出して、大志は笑う。
「お前の後ろの席の用宗だよ。用宗大志。同じクラスの後ろの席に座ってる奴くらい覚えとけよ。」
クラスメイトに全く知らない奴がいるとは思わなかった。しかも、後ろの席だなんて。
「まぁいいけどさ。これからよろしくな。授業始まる前にトイレ行きたいから先行くわ。」
そう言うと、煙草を空き缶に突っ込んで大志は小走りで屋上を出て行った。
少ししてから、臭い隠しのガムを口に放り込んで屋上を出た。
教室の扉を開けると、すぐそこに僕の席がある。最も廊下に近い列の後ろから二番目。一番後ろの席の、つい先ほど知り合ったばかりの大志はまだ戻って来ていなかった。大志の席の後ろにあるゴミ箱に、銀紙で包んだガムを捨ててから席に着く。
「ねぇ、におってるよ?」
隣の席の菊川という女子生徒が僕に言った。持ち前の人当たりの良さと、人見知りがない性格が相まって、もはや空気が読めていないのではないかと疑うほどに平気で色んな人に話しかける。
「…ごめん。」
目も合わせずにそう言うと、僕は机に突っ伏した。
後ろから大志にペン先でつつかれて、僕は目を覚ました。授業が始まっていた。振り返ろうとして、机の上に丸められたメモがあることに気付く。こっそりとメモを開く。
『消しゴムかして たいし』
なんだそれ。僕はわざわざ振り返ることなく、予備の新品の消しゴムを大志の机に置こうとした。しかし、机に着くより先に大志の手が消しゴムを持っていった。「サンキュー」という小さな声。その声に気付いた菊川が大志の方をチラリと見るのが分かった。
それから毎日、大志は屋上に来た。
僕が煙草を吸っていると、「よお」と声をかけてきては、一方的にべらべらと喋り出し、僕は時折相槌を打ちながらその話を聞くというのがいつものパターンだった。
自分でも意外だったが、大志との時間はそれほど苦ではなかった。大志は中学の友人達のように気遣いや同情の目線を僕に投げることがなかったからかもしれない。家族のことなど話していないから当たり前だったのだが。
それに、大志の話は基本的にはくだらない世間話ばかりで、僕はうんうんと答えていればよかった。
隣のクラスの〇〇という男子生徒が告白して振られたという話や、学校の横にある公園に出る幽霊の話など、そういった類の話だ。そんな話をしながら、僕達は空き缶に吸い殻を重ねていった。
「ほら、俺って一番後ろの席だろ。だから授業中にクラスの奴らが何してるかよく見えるんだよ。漫画読んだり、護みたいにすぐ寝たり、色んな奴がいて面白いよ。まさに授業の裏側を覗いてるって感じでさ。」
出会ってから2週間が過ぎた頃、大志はこんな話を始めた。この頃には、「大志」「護」とお互いを下の名前で呼び合うようになっていた。もちろん、大志が言い出したことだ。
「例えばさ、斜め前の菊川は…」
そんな調子で大志はクラスメイトの授業中の様子を説明し始める。クラスの4分の1ほどの名前が出たところで、我慢ならずに僕は言った。
「別にいいよ。わざわざ皆のことを説明してくれなくても。」
ふぅと煙を吐き出して呆れるように大志は答えた。
「護はクラスのやつらに興味がなさすぎ。」
「お前がありすぎるんだよ。」
思った以上に語気が強くなってしまった。大志は呆れ顔をやめて僕を真っすぐ見た。
「俺にはお前が、頑なにひとりでいようとしてるように見える。」
僕は何も答えない。
大志は続ける。
「この先もひとりでいるつもりかよ。ひとりは寂しいぞ。」
黙り込んだ僕に少し焦ったのか、大志は表情を崩して明るい声で言った。
「ごめんごめん。説教垂れるつもりはないんだよ。俺は寂しがり屋だからさ。お前のそういうの分からないんだよ。こうして屋上に来るのだって、俺の場合はお前がいるからだよ。ほら、どうせ校則破るならひとりよりふたりのが楽しいでしょ?」
それでも僕は沈黙を続けた。無理に作った笑顔をやめて、大志も黙った。
夕方の風が少しだけ涼しかったが、夏の夕空はまだまだ青い。
少しの沈黙の後、大志は白い歯を隠して言った。
「あのさ、お前…」
――――何かあったの?大志の次の言葉が出てくる前に、僕は言った。
「家族が、全員交通事故で死んだんだ。」
何も知らない大志がいて、僕がいて、大志の馬鹿話に付き合いながら屋上で煙草を吸うこの関係に、居心地の悪さはなかった。
だけど、そんな何も知らない大志の『何も知らないところ』に腹を立ててしまった。
家族のことは口にしないようにしていたが、一度その禁を破ると、飽和していた言葉が一気に溢れ出した。
「こんなこと言われても困るだろ?でも本当なんだ。この高校に入学する少し前、交通事故で父も母も5つ下の妹も、皆死んでしまった。僕は中学時代の友達とボーリングをしていて、その車には乗っていなかった。叔母さんから事故の知らせを受けた時、友達の一人がストライクを取ってさ。急な知らせに何も飲め込めなかった僕は、その友達とハイタッチしていたよ。家族が死んだのに、ハイタッチだよ。」
「それからは当たり前に過ぎていく時間や当たり前に生きている自分に腹が立つんだよ。家族はその当たり前を失ったっていうのに。」
「当たり前を失ったのは僕もだ。大学に行って、結婚して、子供が出来て、そういった『当たり前のこれから』に、もう家族はいないんだ。 」
「もう僕に、他人のような当たり前の人生はないんだよ。だから嫉妬してしまう。他人の持っている当たり前に、嫉妬してしまうんだ。」
「大志には分からないと思う。」
相変わらず空は青かった。憎たらしいほどに、当たり前に青かった。
そんな空を見ているのが嫌になって、僕はジッポを取り出した。先程まで簡単についていた火が中々つかず、七回八回とホイールを回してようやく煙草に火をつけることができた。
その間、大志は何も言わずにずっと僕を見つめていた。
一息ついて、それでも僕はまだ続ける。
「大志が来るまではよくその手すりを乗り越えて、自殺まがいのこともしてた。自分の心臓の鼓動が強くなって、汗が噴き出て、怖くて結局留まる。そうして、自分はまだ生きたいんだって確認してた。」
「馬鹿なことやってんじゃねぇよ。」
大志は鋭く言った。僕は少しの笑みを浮かべて答えた。
「馬鹿なことなのは分かってる。ただ、これからの人生を考えると、疲れてしまう。他人には家族がいるという当たり前に、嫉妬して疲れてしまう。ひとりでいたいと思うのも、友達を作るのに積極的になれないのも、その嫉妬からきてるんだと思う。」
互いにしばらく黙った。僕が指で挟んでいる煙草は、長い灰が地面に向かって垂れ下がっていた。
沈黙を破ったのは、大志だった。
「なぁ、お前の煙草一本くれよ。俺のやつなくなっちゃったからさ。銘柄が違うことは我慢するよ。」
そう言って僕のポケットから煙草を奪うと、大志は一本を取り出して、自分のライターで火を付けた。
「生きとけばいいよ。」
大志は空を見ながら言った。口から吐いた白い煙は、真っ直ぐに空に登っている。
「なんつうか、その、俺からすれば生きてることが当たり前だ。」
髪を短く揃えた頭を掻きながら、大志は続けた。
「それにさ、例えば今俺が生きたいと思う理由は何かと聞かれたら、こうして護と煙草を吸いたいからってのが理由の一つだよ。俺が生きたい理由がお前ってのは、お前が死なない理由になるだろ。お前ひとりの問題じゃないんだよ。」
それにしてもこの煙草あんまりうまくねぇな、と言って大志はいつもと同じ真っ白な歯を見せて笑った。家族や自分のことを吐露したことが急に恥ずかしくなってきて、結局僕はそれ以上何も喋らなかった。
気付くと空は、ほんのりと赤く染まり始めていた。
大志が一学期いっぱいで転校することを僕に切り出したのは、夏休みに入る直前だった。
転校すると聞いても、不思議とそれほどに寂しさはなかった。
あの日、家族の死を大志に伝えて、大志に優しい言葉をかけられた。だけど、根本的なところで、僕の心に大きな変化はなかったと思う。冷たい言い方になるが、死なない理由の一つが大志というのは、天秤の傾きが変わるほどの重さではなかった。
だから、転校の理由は聞かなかった。
終業式に疲れて、ホームルームが終わるとすぐに屋上へ向かった。そこには当たり前に大志がいて、いつも通りの時間を過ごした。連絡先を交換したり、今までの思い出話を語ったりはしなかった。
屋上から降りて、校門の前で別れる直前、大志は言った。
「護との屋上、楽しかったぞ。じゃあな。」
真っ白な歯を見せて微笑みながら、最後にこう付け加えた。
「お前はひとりじゃないからな。」
それが、僕が大志を見た最後だ。
夏休みは、コンビニに行き、弁当を買い、煙草を買い、宿題をして、ゲームをして、寝て、起きて、気付くと終わっていた。
二学期の始まりの朝、教室の扉を開けると、当たり前に僕の後ろの席はなくなっていた。
始業式に出るのがかったるくて、僕は屋上へ向かう。
煙草を一本吸ってから、手すりを乗り越えた。
錆びた手すりは、早く手放したいと感じる程の熱を持っていた。この手すりを離せば、僕の体は宙に投げ出され、その数秒後、校舎裏の職員駐車場を僕の体で汚すことができるはずだ。
そう考えて目を閉じると、心臓の音が体全体を揺らした。九月の陽はまだ暑い。夏の残り火は容赦なく後頭部と背中を焼き付ける。額に汗が滲む。この鼓動が暑さからくるものでないことを僕は知っている。
満足した僕は踵を返し、手すりを飛び越え屋上の平地へ戻った。
「お前はひとりじゃないからな。」
あの時、あいつはそう微笑みかけた。だけど僕は、今でもひとりな気がしてならない。
平地へ戻ると同時に、遠い真下からカチンという音が微かに聞こえた。何の音かと再び職員駐車場を見下ろすと、駐車場に光るものが見える。
嫌な予感がしてポケットをまさぐった。やっぱりか。ジッポを落としてしまったらしい。
職員駐車場まで降りてジッポを拾う。落ちた衝撃で蓋が開かなくなっていた。あの高さから落ちれば仕方ないか、と屋上を見上げた。いつもの背の高い室外機が見える。僕が煙草を吸っていた場所はすっぽりと隠されている。
大志はよくここから僕を見つけたものだ。
始業式の終わりを待って教室に戻ると、菊川が話しかけてきた。
「ねぇ瀬名くん。消しゴム貸してくれない?」
そういえば予備の消しゴムは大志に貸してからそのままだ。
「ごめん、僕が使ってるやつしかないから後で返してほしいんだけど。」
「ありがとう!消しゴム、捨てなければ良かったね。」
何の話だ。
菊川の言葉が理解できず、僕は聞き直す。
「えー。一学期の授業中、瀬名くん、新品の消しゴムをゴミ箱に捨ててたじゃん!後ろを振り返らずにノールックシュートって感じで。」
菊川は、腕だけを後ろに伸ばして何かを落とすジェスチャーをしながらそう言ったが、僕にはそんな記憶がなかった。
それに、今でこそ僕の席の後ろはゴミ箱だが、一学期はまだ大志の席があった。仮に菊川の話通りだと、大志の机に消しゴムをノールックシュートしていることになる。
・・・ああ、そういえば、そんな記憶はある。
「菊川さん、勘違いしてるよ。一学期はこの後ろの席に用宗大志がいただろ?僕はあいつに貸したんだよ。」
「もちむねたいし?」
菊川は眉を歪ませた。
「もちむねたいしって、誰?それに、瀬名くんの後ろに席なんて今までもなかったじゃん。」
再び、菊川が何を言っているのか分からなくなった。菊川の勘違いだろうと安堵しかけていた心に、再び影が覆う。
「用宗大志だよ。一学期が終わって転校していった…」
「だから知らないよそんな人。それにうちのクラスに転校していった人なんていないし。」
大丈夫、瀬名くん?と菊川は眉をひそめたまま笑う。
叔母から電話がかかってきたあの日のように、僕だけがこの空間から切り離される。今聞いた話をなんとか咀嚼しようと努める。
菊川は大志を知らない?
はじめから僕の後ろにはゴミ箱しかない?
転校していった生徒はいない?
梅雨が明けてすぐの日に大志と出会ってからの記憶をなぞるようにして辿る。
白い歯で楽しそうに馬鹿話をする大志。屋上、室外機、灰皿代わりの空き缶。
・・・そして、ある違和感を掴んだ。
僕は教室を飛び出して屋上へ向かった。走りながら、今一度考える。
用宗大志がいない?そんなはずはない。たしかにあいつは屋上にいた。一学期の間、屋上で何度か僕と会っていた。
じゃあ、教室では…?そう、問題はここだ。何度思い返しても、教室であいつを見た記憶がない。
背中をつつかれ、メモを渡されはしたが、大志そのものは見ていない。
そして、おかしいのは終業式の日だ。僕はホームルームの後に屋上に向かった。ホームルームにはきちんと出たのだ。それなのに、大志の挨拶の記憶がない。一学期いっぱいで転校する生徒が、最後のホームルームでクラスメイトに何も挨拶をしないなんてあるだろうか。それどころか、ホームルームが終わってすぐに教室を出た僕より先に、大志は屋上にいた。
叩くようにして屋上の扉を開ける。そして真っすぐに灰皿代わりの空き缶に向かうと、僕はそれをひっくり返す。茶色く滲んだ吸い殻が無数に散らばる。僕はそれをひとつひとつ丹念に確認した。
何度も、何度も、何度も。
梅雨が明けてから夏休みまでの間、僕と大志は何十本もの煙草をここで吸った。
それなのに、そこにある吸い殻は全て、僕の煙草の銘柄のものだった。
用宗大志はいなかった。
厳密には、今はもういないと言うのが正しい。
屋上で煙草の銘柄を幾度となく確認したあの日から一ヶ月ほど後に、用宗大志が十年前に交通事故で亡くなっていたことを知った。
全てを教えてくれた初老の教師は、僕にこんなエピソードを話してくれた。
「色黒で白い歯が印象的な子でね。まさに健康優良児という風体なのだけど、素行は今ひとつ。それでも、とても良い子だった。そうそう、ある日ね、用宗はいつも一人で過ごしていた生徒に声をかけて、自分の仲良しグループに連れて行ったんだ。その生徒は友達作りが苦手でね。用宗に誘われてとても嬉しそうにしていたそうだ。だけどね、その生徒を見るなり仲間の一人が『放っとけよ』と言ってね。結局、用宗と取っ組み合いの喧嘩になっちゃって。たまたま仲裁に入った私が、しつこく喧嘩の経緯を問いただして用宗の喧嘩相手からやっと聞いた話だよ。私が驚いたのはね、誘った生徒と用宗はクラスも違って、それまで何の面識もなかったということだよ。放っておけなかったんだろうね。」
「…用宗君らしいですね。」
「うん?彼のことを知っているの?」
ええ、少し。
僕は教師に礼を告げて、職員室を後にした。
「俺にとっては生きてることが当たり前」だと言った大志を思い出す。大志はとっくに自分の当たり前を失っていたんだ。大志のことを何も知らなかったのは僕の方だった。
それでも大志は、生きろと言った。自分の持っていない当たり前を、僕に望んだ。
それに比べて僕は、他人の当たり前を羨むばかりだった。
・・・だからこそ。
だからこそ僕は、僕にあって大志にないこの当たり前を、大切にすべきではないだろうか。大志がいたことを、僕の生きる理由にしてもいいのではないだろうか。
僕は、一ヶ月ぶりに屋上の扉を開いた。
あの日々よりも空は高くなり、風は冷たくなってきている。 当たり前に、秋が訪れている。
室外機に寄りかかり、ポケットから100円ライターと煙草を取り出す。大志が吸っていた銘柄の煙草だ。僕はそれを室外機の隅に置いた。
父親のジッポが壊れてから、僕は煙草を吸っていない。このまま、やめようと思う。それでも時々は、ここに顔を出そう。ひとりで校則を破るのはつまらないと言う友達の為に。
あの日大志が僕の前に現れたのは、ずっとひとりでいる僕を放っておけなかったからだろう。
だからこそ、大志が僕の前からいなくなった理由が分かるんだ。
僕はもう、ひとりじゃない。