何の前日か、何の始まりか
「おはよ」
目が覚めた先には、白塗りでばっちり化粧済みの涼がいた。
「あれ、私また寝て……?」
私が眠たげに目をこすっている様子を見ると、涼はおかしそうに笑って、
「俺に毛布、かけてくれたの葵衣でしょ。ありがとう、温かかった」
と言った。
「いえいえ」
ふと、私は自分を包む温かい布の存在に気が付く。
どうやら、涼にかけた毛布を、居眠りしてしまった私にかけ返してくれたようだ。
「また、無意識で寝ちゃった」
私は自分の顔をぱしぱしと叩いた。
これは、さっきもやった気がする。
「はい、お目覚めの時間ですよ」
そう言って涼は、毛布をひらりと優雅に翻して見せた。
毛布がまるで高価な布のように錯覚してしまう。
涼の手の成す技は凄いと思う。
そんな感心をしながら、私は立ち上がって、少し乱れた着衣を整える。
あくびをして、伸びをして。
その時、涼が私に訊いた。
「葵衣、今日が何の日か覚えてる?」
「何の日……だっけ?」
まさか、涼の誕生日?
脳裏に不安がよぎった私の中に、一筋の記憶が光となって閃いた。
「あっ、末宵祭」
「惜しい、今日は祭りの前日!」
涼がウィンクして言った。
そういえば修行に追われてすっかり忘れていた。
私たち着付け師は、祭という日には特別な仕事が用意されているのだ。
明日の夜の祭りに合わせて、この国の着付け師は準備をしているところだろう。
きっとこの師範の屋敷も、そのうち慌ただしくなるだろう。
そう思っていると、バタバタと足音が聞こえた後に、薄桃の花の絵が描かれた部屋の障子が開かれた。
その向こうには姉弟子の姿。
「はやく、朝ご飯食べちゃってよ、ネッ」
姉弟子はしゃもじを握りしめて、私と涼を交互に見て言った。
「わっ、分かりました」
「すぐ行きまーす」
私と涼は連れ立って、食卓へと向かう。
食卓にはすでに師範の姿が見えていた。
私と涼は畳に三つ指などついて、
「おはようございます、師範。今日も宜しくお願い致します」
といつもの挨拶をする。
「はい、はい。早くお食べなさい」
師範は私たちを食卓につくように促す。
ぺこりと頭を下げ、私と涼は食卓に着く。
(師範、涼のこと何も突っ込まないな……)
なんて呑気に考えていると、師範が眼光鋭くして私を睨んだ。
私が卓の上で箸を持ち上げたまま、硬直していると、
「葵衣、どうして勝手に妹弟子を取ったのです」
と師範の声が飛んできた。
「そっ、それは……」
私がしどろもどろに答えようとすると、涼が制止した。
「私が頼み込んだのです」
「へえ、それは何故ですか」
師範が訊いた。
涼は眉一つ動かさずに答える。
「奉仕の心でございます」
「それは一体どういう意味ですか」
師範は追及の手を止めない。
私は内心ひやひやして二人のやりとりを見ていた。
「今宵の祭りで、少しでも力になりたく……葵衣さんが、より集中して仕事が出来ますよう、着付けの手伝いを申し出たのでございます」
「あぁ」姉弟子が口をはさんだ。「半人前と半人前で一人前の仕事をするって感じかしらネ?」
これが、姉弟子の援護射撃なのか、それとも深い意味なんてないのか、よく分からなかったが、私はその姉弟子の言葉にこくりと頷いた。
(ごめん、涼。話の成り行きで、涼を半人前ってことにしてしまった……)
「祭のためなら、構わないでしょう」
師範が箸を持つ手を止めて、私たちに言った。
どうやら、祭りに役立てるつもりならば良いと、そう許可が下りたのだった。
私と涼はほっと胸を撫で下ろした。
「あなた名前は?」
師範が涼に訊いた。
「涼子です……」
涼が恭しく答えた。
「葵衣、涼子、支度が終わったら呉服屋に小物を取りに行きなさい。皿洗いなどはこちらがやりますから」
私がちょうど魚と白米と醤油を口の中で混ぜ合わせている最中に、師範が言った。
「ふぁい」
私は急いで朝ごはんをかきこむと、風呂敷を持って玄関へと向かった。
「ご馳走様でした。失礼いたします」
下駄を引っ掛け、私と涼は呉服屋へと急いだ。
「たぶん、帯とか小道具どっさり運ばされるよ」
私は、師範の屋敷から出たにもかかわらず小声で話していた。
「うん、毎年のことだからね。もう、慣れてる」
私たちは、呉服屋に着くと、のれんの内側にいる店主に目配せをした。
店主は私たちの姿を見ただけで、状況を察したらしく、店の奥から縦に積みあがった帯の層を持ってきた。
「うわ、凄い」
思わず感嘆の声を上げてしまう。
「はい、頑張ってね、着付け師さん」
店主は愛想の良い笑みを浮かべて、私と涼に平等に帯を分けて持たせた。
私たちは前方の視界不良を起こしたまま、帯を抱えて師範の屋敷へときびすを返した。
「おっとと……」
思わず親父のような声を出してよろよろと街を歩く。
その時、風のいたずらか、私の抱えていた帯の一番上にあった、紫の染料で染め上げた古風な帯が舞い上がった。
あっ、と声をあげる間もなく、帯はするするとどこかへ流されて行ってしまう。
「もう、両手がふさがってる時に~」
私は風にそんな愚痴をこぼしてしまう。
帯がどこに行ったのか、視線で追いかけていくと、その帯が誰かの手によって拾い上げられるのが見えた。
「わ、すいません。その帯……」
私は親切なその人に声を掛けようとしたところで、ハッとした。
紫の帯を手にして、不思議そうに見つめていた人物は、あの日の剣士――大河だった。
「大河さん」
「――これ、お前のか?」
大河は風で開いてしまった帯を畳んで、私の手の中に戻してくれた。
「は、はい。ありがとうございます」
「こんにちは、どーも。白露流の涼と申します。大河さんのことは素晴らしい剣士と聞いてます。この前は、その場に居合わせなくて残念でしたが……」
涼が自己紹介を終え、流れるようにこの前の雨木の座を決めた日の話にもつれこもうとした、その時だった。
大河が複雑そうな表情になって、
「着付け師ってのは、不思議な職業だな」
と言った。
「へ?」
「戦闘の着付けをしろって言われるよりも、祭りの日の着付けをしてくれ、と頼まれることの方が、本望なんじゃねえのか?」
大河が首を傾げた。
「いいえ、どちらも同じくらい大切なことです」
涼が即答した。
その様子を見て私は思った。
違う。
何かが違う気がする。
大河が訊きたいのはそんな事じゃない気がする。
どちらが、本望か?
どちらが大切かじゃなくて、どちらを本当に選び取りたいのか。
私の本心は……。
私が口を開こうとすると、
「そうか」
と大河の声が聞こえてきて、私は口を閉じてしまう。
着付け師として、どうしたいか。
師範の言っていた、二人三脚の心。
一緒に刀を振るって戦うわけではない、だけど、気持ちだけは一緒に。
もう少しで、分かりそうな気がする。
「俺は、着付け師は祭りや祝事にだけ必要とされるべき職業だと思うがな。剣士には剣士の道、着付け師には着付け師の道。きっと交わる必要なんてねえ……」
大河が私の腕の中に積み上げられた帯をぽんと叩いて、そう呟いた。
それを聞いた瞬間、私は目を開き、帯の上から顔を覗かせて言った。
「私は、戦いの装いを整えることが着付け師としての本望です!」
大河も涼も私の言葉にかなり驚いていた。
でも、今の私の心の素直になってみれば、その道が本望と言うのだろう。
「どうしてだ?」
大河が理由を問いかけた。
「分かりません」
大河がずっこけた。
「分かんねえのに、なんでそんなに自信満々なんだよ……!」
「でも、私は大河さんにまた着付けをしたいんです」
「えっ」
涼が青ざめた顔で素っ頓狂な声をあげた。
「俺はお前がいけすかねえって、そう言っただろ」
大河が言い放った。
「……はい。でも、あの日大河さんを着付けたのは私なんです。他の誰でも無い」
「!」
「着飾らせたんじゃなくて、戦いを見据えて着付けたんです。それは、大河さんと私は一緒に勝ちたいって思ったからで、二人三脚で」
私は一気に言った。
「お前……さすがに自分では言ってる意味、分かってるんだろうな?」
俺にはよく理解できねえ、と大河はかなり困惑した様子で言った。
「いえ、途中からよく分からなくなってしまいました」
私は首を振って白状した。
「――っあー、お前ほんと調子狂うんだよ! ……もういい。いきなりあんな事訊いた俺も俺だ、どうかしてる……。引き留めて悪かったな、それじゃ」
大河は手をびしっと振って、そこを去ろうとした。
「あっ次会う時は、もっと腕磨いておきますから!」
微妙そうな顔をしている大河に私は最後にそう投げかけた。
そして、帯の重さで小刻みに震えだした腕を懸命に持ち上げつつ、私たちは師範の屋敷へと駆けた。
下駄をうるさく鳴らして走る中、
「……変なやつ」
後方で大河がそんなことを呟いた気がした。