こころは千々にみだれて……
私は算数が苦手だ。
あの日以来、大河さんへの想いは足し算。
膨らんで、大きくなっていくばかりの想いを、どうやって引いていくのかがわからない。
あの日から、大河さんには会えていない。
多忙な彼と、ばったり街で会ったりする幸運な出来事も起こらない。
彼は戦士であり、私が着付け師であり続けるのならば、いつか会うことは出来るだろうけど……。
あの時、彼が剣術でもって私に勝利を与えてくれたことが、多分すごくうれしかったんだと思う。
ずっと落ちこぼれのままは嫌だ、だけどどうしたらいいのか、分からない。
そんな矛盾を抱えた私を、ほんの少し、彼の剣が救ってくれた気がしたから。
もしかしたら、また彼に着付ける機会があるかもしれない。
そうしたら、今度は上手にやりたい――。
雑念をひととき全て忘れて、ただ一人の剣士のことだけを想って。
私は今、師範の家に泊まり込みで修業をしに来ている。
「雑念が入っていますよ」
「は、はい」
枕に練習用の帯を巻いて、ほどいての繰り返し。
何度やってもうまくはいかない。
私はたぶん集中力が弱いのだろう。
帯に手をかけるとすぐに”自分には出来ない”という呪縛の文字が浮かび上がってくる。
逆を考えてみればいいのだろうか?
できる、できる、できる――。
「雑念が入っていますよ」
「はい……」
「アンタホント、下手ねえ」
「いつまでその修業やってるワケ」
私は同室の流派の面子になじられてしまった。
悔しい――。
すると私の悔しさを察したのか、師範は、
「心を分かっていますか」
と話し出した。
「心?」
「着付けをされた後、その人がする行動に思いを馳せるのです。闘いに赴くのですよ」
「は、はい、分かってます」
「分かっていません」
師範は顔を顰めると、厳しい口調で言った。
「闘いに赴くときの装いを、着付けるのです。どういう気持ちが必要ですか?」
「頑張って、って」
「それでは、貴方の中に二人三脚という概念はないのですね」
「へ……?」
二人三脚って、アレ?
足を縛って走るやつ。
「一緒に頑張ろう、という思いがないといけないのではありませんか?」
と、師範の問いかける声。
一緒に頑張ろう?
戦地に私は赴かないのに、何を助けることが出来るのだろう。
……あれ?
でもこの前、宮殿で大河さんが勝利を決めた時『二人の勝利ですね』と私は言った。
あまりにも自然に口をついて出た言葉だったので、忘れていたけれど……。
二人で、二人三脚で――?
「昔は貴女にもその心があったはずなのに。――何もかも、忘れたということなのですか」
「……師範、もう一度、お願いいたします」
私は呆れた様子の師範に頭を下げて、もう一度着付けを見てもらった。
*
私は師範が部屋を下がり、同室のみんなが寝静まった後も、ひとりで着付けの練習をしていた。
練習用の帯が巻き付けられた枕を前にして、
「集中、集中」
なんて、ひたすら私が呟いているとき。
ふと後ろから声を掛けられた。
「そうそう、上手」
そこには黄色い着物を赤い帯で締め、薄い白塗りの目元の上に、朱色で線を引いた美しい人が座っていた。
ぱちぱちと軽やかに手を叩きながらしきりに、上手上手、と男声で口にした。
「……涼?」
「分かっちゃったか」
赤い舌を少しのぞかせて涼は言った。
「何でそんな恰好……」
「だって男の格好のままだったら門前払いになるし」
涼は半襟を整えながら言った。
「会いにきちゃった、心配で」
「涼――」
ぎゅうっと涼を抱きしめる。
「本当にね、まずいの。なんで私、国家着付け師になっちゃったんだろ」
「うん、うん」
女姿の涼が私の頭をなでる。
「この前、上手くいったのだって、私の力じゃなくて大河さんが凄かっただけなのに……」
「――大河さん?」
涼は首を傾げながら、その長い指を私の肩の上で彷徨わせる。
「あの、剣士の人なんだけど」
「あぁ」
涼は納得したように笑った。
「どうしよっか、葵衣を手伝う友達でも、葵衣を連れ出す騎士にだって、俺はなれるんだよ」
「……ありがと、でも今はまだ帰れない」
「大丈夫、でも俺にひとりで帰れとは言わないでね。本当に」
と涼はやさしく言った。
その時、ふすまが空いて、
「ちょっと、アンタ。洗濯物当番はどうしたの!」
と寝間着を着た不機嫌な姉弟子が、布類を丸め込んで私に向かって爆投した。
布のボールは勢いよく、涼の顔面に着地した。
「あら……ま」
姉弟子は涼の方を見て、口を押さえた。
白塗りの、凄みのある美女だと認識したらしく少しばかり焦って、
「だ、誰この人?」
「えっと、この人は……」
私が答えに困っていると涼が咳ばらいをした後に、
「葵衣さんの妹弟子になりました、どうぞ以降お見知りおきを……」
と三つ指ついて裏声で言った。
「へ、へぇそう」
姉弟子はひきつったように笑っていた。
若干引いているらしいが、これで男嫌いの師範に『男が侵入している』と告げ口をされる心配はないだろう。
葵衣が変な女を弟子にした、とそのうち騒ぎにはなるだろうけど。
「ですから」
涼は布類を抱え込み、がっと立ち上がると姉弟子を見下ろしながら、
「洗濯などの雑用は私がやります、よろしいですねっ!?」
と威圧した。
「……い、いいわそれで」
姉弟子は首を傾げながら、そそくさと部屋から出て行ってしまった。
「涼、悪いよそれは」
「いや、気にしないで本当、俺がやりたいだけだから」
涼はそう言って微笑み、その場を後にした。
背後から覗き込むようにして見ると、涼は洗濯場の片隅で、素早くたすき掛けにして洗濯に取り掛かっていた。
ふとした動きで跳ね上がる水の粒が、妖艶な白塗りの顔を濡らすが、それを気にしている様子はない。
涼がいなくなったその部屋で、ひとり黙々と修行をしていると、ふと睡魔に襲われてしまった。
「……はっ、私寝ちゃってた……?」
私はだいぶ時間が経ってから目を覚ますと、練習用の帯の上に突っ伏して、自らの腕に顔をうずめて眠ってしまっていたことに気付いた。
戻ってこない涼が心配になり、様子をこっそり見にいくことにした。
涼は洗濯物を周りに干し、そのまま床で眠り込んでいた。
「涼――」
その光景を見た時、私はハッとした。
今まで、どれだけ涼から親切にしてもらっただろう。
涼は私にいつも優しくしてくれるけど、でも本当はそれに甘えてばかりじゃいけないんだ。
情けない。
私は師匠に言われた通り、何事に対しても”心”が足りていないのだ。
どうして、今日まで自覚しなかったのか、不思議に感じる。
たぶん、涼の優しさはゆりかご。
心地よくて、いつまでも身を任せていたいと思わせてくれる。
でも、ゆりかごの中で大人になる人間はいないのだ。
自分を心地よく揺らしてくれる環境から、いつかは出なきゃいけない。
私は、疲れて洗濯場の床で眠ってしまった涼に毛布をかけた。
涼の化粧を落とすか落とすまいか迷ったが、そのままにして私は再び修行に戻る。
――涼が目を覚ましたとき、私は私が少しでも変わってないと嫌。
ゆりかごを休ませてあげたいから。
よっしゃ、と自分の頬をぱしぱし叩いて私は活を入れた。