くらげはお帰り。あなたはだあれ?
なんで、私はあんまり着付けがうまくないんだろう。
なんで、私が着付けたら、くらげを呼んじゃうんだろう。
いけすかない、か――。
やっぱり大河さんが私のことを嫌っても、そんなのは仕方のないことかもしれない。
冷静になればなるほど、仕方がない気がしてきた。
家の縁側ぽつんと座り込み、私はひとり反省会を開催していた。
「葵衣、なーにしてんの?」
「あ、涼」
隣に住む従兄の涼が塀の向こう側からこっちを見ながら手を振っている。
涼の色素の薄い茶の髪は、彼の首の後ろでまとめられ、毛並みの美しい獣の尻尾のように、いつも風になびいている。
涼は白露流の中でも将来有望な若手株だと言われているくらいに実力があるのに、手紙の一件で結局私が国家着付け師に選ばれてしまった。
それでも、変わらず私と接してくれる。
「ちょっと、考え事してて」
「そっち行ってもいい?」
涼が首を傾げて訊いてきたので、私は頷いた。
「浮かない顔だね。着付け師として国王に認められたばかりなのに」
私の横に浅く腰掛けて、足をぶらつかせながら涼は言った。
王宮での出来事があってから数日、白露流は大騒ぎになっている。
皆が細工された文に惑わされている間、こんな私が何やかんやで国王に認められたという事実が、白露流を震撼させている。
「うん、まあね……」
「なんか、あった?」
「ほら私さ」私は宙に円を描いてみせる。「くらげ呼ぶでしょ?」
「あぁ呼ぶね」
「あれ治したいの」
「病気みたいな言い方するね」
「あはは。……それで私、近いうちに白露流の師範のとこでしばらく修行しようと思ってるんだよね。一応もう、国家着付け師になったんだし、このままじゃ……」
「ええっ」
涼が目を見開く。
「師範って、大の男嫌いの師範のこと? 師範の家って、確か男子禁制のとこじゃ……」
「うん」
「ちょっと待って。しばらく会えないって意味? そんなの、無理かも……。葵衣が心配で、壊れそう」
「大げさだよ!」
「葵衣……」
涼は少し考えた後にこう尋ねた。
「誰かのため?」
「……国のため、かなぁ」
私は涼の前で大河の名前を出すことに気が引け、自分の中の動機を濁して答えた。
「……そう。それにしても、不思議じゃない? 葵衣は昔は神童だって言われるくらい優秀だったのに」
「うん、ほんとにね……」
「無理だけはしないでほしい。氷の結晶みたいな葵衣が、誰かに壊されやしないかと不安で……」
「氷の結晶ねぇ……」
私にそんなものの例えをするのは涼だけだ。
触れただけで風に溶けていくあの粉雪みたいに、私はか弱く儚い女だと思われているのだろうか。
涼以外の人には、神経が図太い、なんて言われることが結構多いのだけれど。
「あ! 時間時間、稽古行かなくちゃ。……それじゃ、またね」
「うん、また……」
涼を稽古に送り出した後、ぼんやりと私は考え事を再開する。
でも、大河さんのことではなく、私の幼少期のことについて。
――昔、昔、私という、無垢で小さい女の子がいました。
いっきに回想の景色の中へレンズを絞っていくと、光に照らされている、ひとりの少年の姿が見えてくる。
森の奥、暗がりの先に見えてくる少年の姿――。
*
子供の時走ることが大好きだった。
出来ることなら、どこまでもずっと走っていたかった。
地面を蹴って、風を切って走る心地よさは他のことでは得られなかったから。
まだ国同士の争いなんか、ちっとも理解出来ないくらい小さかったとき、私はあまりに遠いところまで走って行ってしまい、そこで人生初めての一人ぼっちを経験した。
気が付いたときには、私は鬱蒼と木が生い茂った、暗い森の中に迷い込んでいた。
獣の鳴き声が左右から聞こえ、前方にはぽつぽつと橙色の光が丸く灯っていく景色が見えた。
私はこの森に居るのがたまらなく怖くて、その灯りの方へと息を切らして走っていった。
「うわっ」
私は足元の小さな石に躓いて、勢いよく転んでしまった。
ぐすぐすと泣きじゃくりながら痛む体をどうにかして起こしたその時、優しい声が頭上から降り注いだ。
「どうしたの?」
「転んじゃった……」
土のついた手で目をこすりながら私は言った。
「立てるかい?」
優しい声の持ち主は私に手を貸して、ゆっくりと立ち上がらせてくれた。
立ち上がって、服を払ってから、私はその優しい声の持ち主を見た。
彼は幼い私と同じくらいの年齢にみえた。
鏡のように煌めいた長い銀の髪と、紫水晶の瞳が印象的だった。
高貴な男の子――そんな近寄りがたいような印象と裏腹に、彼はあどけなく微笑んだ。
「うん」
私の返事を聞くと安堵したような表情の後に彼は微笑みを消して、
「ここから先には来てはいけないよ、もう二度と来ちゃいけない」
と言った。
「走って来たんだよ」
「偉いね、でももう来ちゃダメだ」
「うん……」
私は彼の温かい手を渋々離し、暗がりの道を一人で帰った。
彼は着物ではなく、私の見たことのない種類の服を身に着けていた。
そして、無事に家に帰ってから後に分かった事実がある。
あの暗い森は、敵国――セピアルと通じている獣道なのだということと、あの少年は敵国の民であり、本人たちの意思には関係なく私と彼は敵同士である、ということ。
その時、私はハッとした。
私はこの紅葉のような小さな手で、幾人もの戦士を着付け師として着付けてきた。
そしてその戦士たちは皆、数多の敵国へと旅立っていった。
つまり、私は着付けによって自国の戦士を守りつつ、敵国を傷つけることに加担していたのだ。
それが、私とあの子は敵、ということ?
でもあの子は敵なんかじゃない、だって私を助けてくれた。
そうでしょ?
そんな疑問が常に脳裏をよぎり、それ以来着付けに身が入らず、上手く力が発揮できない、という現象に悩むようになった。
敵国同士の子は仲良くしちゃいけないの、そう昔から大人に口を酸っぱくして言われ続けていた私は、意地になっていたのか、それとも純粋にあの高貴な彼にもう一度会いたかったのか。
私の心は「あの暗がりの森へ行け」と、そう叫ぶようになっていった。
*
私はまた、昼の明るい時間に森を通って、いつかあの男の子と出会った所まで一人で歩いてきてしまっていた。
その時、森を抜けた場所で大きな男性に着物の襟を掴みあげられた。
「神威の国のガキか、ここに来ちゃいけねえよ」
「触らないで! 着崩れる!」
私は神経質になっていた。見知らぬ人に着物をぞんざいに扱われることに対して。
特にこの着物は、力が発揮できなくなって以来、上手くいかない着付けに戸惑いながらも、懸命に仕上げたのだ。
「あぁ?」
「私が自分で着付けしたの」
その時、私の着物の中からたくさんの蝶が放たれた。
一匹一匹虫あみで捕まえて仕込んでいたわけではない。
蝶を放つ魔物を着付けで呼び寄せていたのだった。
人型ではない魔――それを宿らせてしまったのは初めてのことだった。
幼い私の心はショックを受けた。
「こいつ、着付け師のガキか――!?」
驚いた男は私を担ぎ上げて、神威の国とセピアルを隔てる、この森からどんどん離れていき、セピアルの中へと飛び込んでいった。
私はセピアルの、王宮近くの牢屋にほっぽり入れられた。
冷たい床にべちんと尻もちをついて、私は呆然とした。
「大人しく待ってろ」
それだけ言い残してその無礼な男はいなくなってしまった。
「怖いよぉ……」
私はようやく恐怖を自覚し、目に涙を沢山浮かべてふるふると震えていた。
どのくらい経っただろうか、牢屋の檻の向こうに、光が差し込んでくるのが見えた。
「どうしてここに来たの、もう来ちゃダメと言っただろう?」
いつかの優しい声が再び、檻の隙間から差し込まれる。
「あのね、連れてこられたんだよ、ここをね掴まれて……」
「いいかい」
男の子は私を宥めるように言った。
「もうすぐ、王様が君に着付けをやってみせろと言うけれど、絶対に上手にはやっちゃいけないよ」
男の子が檻の鉄パイプを白い手で包んだ。
「どうして?」
「上手にやると、帰してもらえないんだよ」
「でも……どうやったら、いいか分からない」
いまなら、私は人型の魔が召喚できない。
この男の子の言う通り、着付けを下手にやってみせることができるかもしれない。
でも、万が一上手くいってしまうかもしれない――。
「頭の中で強く思ってみて。自分は着付けなんて出来ない、絶対に上手くは出来ない」
私は彼の言う通りにしてみた。
脳内を反響する、否定的な言葉。
その時初めて私は知った。
否定的な言葉がどれほど、本当に人間の能力を失墜させてしまうのかを。
「そう、君は着付けのやり方なんか忘れてしまってもいいんだ」
「うん……」
「良い子だね……後で迎えに来てやるからね」
そう言って男の子は私の頭を撫ででくれた。
*
「娘、着付けが出来ると豪語したそうじゃないか」
「うーん……」
「やってみせろ」
私は王の前に引っ張り出されて、着付けをすることになった。
「神威の国からの盗品の品だ、大事に扱えよ」
でも、出来ない。
脳内にリフレインする呪文――私は着付けなんかできない。
私は蝶の魔すら呼び出せない。
私は滅茶苦茶な工作のように、こんがらがった状態になった着物を見せた。
王様は私にがっかりしたらしく、
「この娘を殺せ」
と冷酷に言い放った。
「はい」
あの男の子がそう返事して、私を外に連れ出した。
そして、あの森の手前で。
「もう本当にここには来ちゃいけない。いいね?」
と念を押した。
「やっぱり来ちゃいけないの?」
「いけないよ。これからは着付けなんか出来ないって思って、やらない方が良いんだ」
「出来ないってずっと思ってればいいんだ?」
「そう、それで今日あった怖いことはすべて忘れるんだよ」
「忘れる――けど」
「けど?」
「貴方のことだけは覚えていても良い?」
男の子は無言で私を森の途中まで送り出した。
「早くお帰り」
「待って! 私、葵衣って言うの。……貴方の名前は?」
「……ルーク」
忘れない。
私はまた、ルークという男の子の手によって無事に家に帰ることが出来たのだった。
――そして、現実に戻った私は気が付いてしまった。
いつかの少年の与えた呪縛の言葉が、おそらく十年近くたった今でも大きく影響を及ぼしているということ。
そして、それを解決する方法が見つけられないということに。