プロローグ
服を着るのは面倒くさい。
その面倒くささを越えて、身に着ける服はできるだけ美しいものが良い。
それが人の心というもの。
着物――前の開いた長着を肩にかけ、帯で締めて着用するこの衣装を国民のほとんどが愛用している国、神威の国。
複雑な手順を経ないと着ることすら難しいこの服飾文化は、国の文明がどんなに発達しても、廃れていくことはなかった。
その理由とはいったい何か。
ひとえに、着物を身に纏うことが国益に直接的につながるのである。
この国における着付け師とは、ただ服を美しく着こなすための職人と言う立ち位置だけでは語りきることが出来ない。
着付け師とは、国を豊かにする職業である。
国国同士の、領土を争った長い戦争の中で、神威の国に勝利を飾らせてきたのは言うまでもなく着付け師という立役者がいたからに他ならない。
着付け師が、古くから伝承されている方法で着付けを行うと、その着物には「魔」が宿るのだ。
魔は「力」と言い換えてもいい。
帯を巻き、裾をそろえ、丁寧に着付けていく中で、着物には不思議な力が宿っていく。
魔は着物を着用している人間に、限りない知恵と、栄光の力を授ける。
その神秘が神威の国を強靭な国へと昇り詰めさせていった。
やがて神威の国は領土を広げ続け、圧政政治によって成立させていた数多の国家を終わらせ、着物を身に着けた民達によって生まれる、美麗な景色が印象的な都を拡大することに成功した。
魔を宿す着付け技術は、誰もが習得できるわけではない。
特に古の時代から言い伝えられている秘儀の術を用いることが出来るのは名家に生まれた、その中の更に一握りの人間だけだと言われている。
神威の暦、陽樹36年。
厳しい寒さの季節が終わり、温かい陽によって雪解け水が大地からあふるる、一年の始まりの時節のこと。
雨木と言う名の女が突然、病で亡くなった。
彼女は現在の都に幸福をもたらし続けてきた偉大な国家着付け師の一人だった。
偶然空いた雨木の座。
着付けにおける二大流派、白露流と月下流の者は、国家着付け師の座を手に入れるべく、爪をとぎ、虎視眈々とその時を待ち望んでいた。