壱
今日の俺にツキはないみたいだ。雨が止んだばかりで曇っているから太陽もない。はいはい、そっちの月じゃないし巧くもない。
一人ツッコミでもしなければ、やってられない。
すっ転んで水溜まりに買い物袋と下着までぐっしょりやられ、同じ温度の周りの人に笑われている。なんとか自分を誤魔化そうとしているだけで、本当は泣きそうだ。
「もう勘弁してくれよ」
本当に今日は朝から不運の連続で、気の弱い奴なら一生もののトラウマが増えているところだ。
俺の不運の発端は、叔父から譲り受けたパソコンが壊れたことから始まっていた。
夏休みの初日、彼女はいないのはいいとして、友達が少ない性格の高校生男子ならば、寝ないでゲームと親交を深めるというのが相場と決まっている。
それも、パソコンで部屋の鍵を確認してからやる方のだ。
それがだ、三日は寝ないでお気に入りの嫁と過ごそうと誓った初日にパソコンが壊れやがった。
モニターを真っ青にして、読めないのをいいことに偉そうにアルファベットを並べ立てられた。
イラ立ちを抑えながら、解体そうと本体のカバーを外そうとして、やむを得ない事情から買い物に出ることになった。
それは、何故か本体のカバーを抑えるネジ穴が、マイナスドライバーしか受け付けない意味不明な仕様だったからだ。
誰も気にもしていないことは承知の上で、濡れた買い物袋を掴み、なんでもない調子で立ち上がろうと膝を立てる。
水溜まりに映る自分と目が合い、表面の水が揺れて波立った。
なんだろうと顔を近付けた瞬間、二本の腕に首を掴まれ、水溜まりの奥へと引きずり込まれた。
口に耳にと水をご馳走され、溺れる寸前のパニックに襲われる。首に絡み付く手も恐怖を煽りに煽り、身体の動かせる部分を総動員で暴れまくった。
「た、助け……死にたく……」
ない、と叫んだら突然に空気にありつけた。 俺は吸えなかった分を取り戻そうと、大の字に仰向けのまま、ぜぇぜぇと酸素を貪って辺りを見回した。
左には森と言うにはに足りないくらいの木が見え、右には同じ景色と四本の足が生えていた。
誰だと上を向くと、俺を見下ろす二人の女の子と目が合った。
「必死だったすっね。ダサいっす」
けらけらと笑っているのは、チョコレートと同じ色に肌を焼いた女の子。髪はホワイトチョコレートの色に染められ、はち切れそうなチューブトップから文句を言われそうな大きな胸が二つ揺れている。
「仕方ない。マザーも驚くって言ってたし」
そう嗜めるのは、腰まであるストレートの黒髪を風に遊ばせる背の低い女の子。
ちょっとオデコが広めで、学級委員長をしてそうな真面目な雰囲気に、俺は呪いの藁人形のように釘付けにされた。
食い入るように見詰める俺に、その子がゴミを捨てる時の態度で有り難いお言葉をくれた。
「デコばっか見んな。生まれて来なければ良かったようなトラウマ作って、首吊れよ……」
「そ、そこまで言わなくても」
雨は降っていないのに、しとしとと視界が滲んでいく。隣のギャル風の子が、またもけらけらと笑い出す。
「ひっでーっす。カイロっちは口が悪いっすから、気にしたら敗けっすよ」
カイロと呼ばれた子はゴミを見る態度は変えず、前髪を気にして口を尖らせた。
「あ、ウチはラムっす。一流の黒ギャルを目指して修行中の者っす」
ラムと名乗る子はウインクをしながら、目尻からはみ出しそうなつけ睫にピースサインを足した。
二人とも、俺とは一生縁がないくらい可愛い。
特にカイロはやばい。なにかが足りない気はするが、俺の嫁にそっくりだ。まるで夢を見ているようだ。
夢と現実の境を見極めようとして、俺の手が無意識にカイロを求め伸びる。
その手をラムが掴んで、自分の胸元に持っていった。
「ヤバいっすって。カイロっちタッチはエヌジーなんで、こっちで我慢するっす」
ぷるぷるでいて、むにむにな感触に生唾を飲む。自慢気なラムの笑顔が眩しい。
俺はせっかくのラムの好意に甘えまくり、カイロが呆れ果てるまで楽しませてもらった。
「気は済んだ? さっさと基地に戻るよ。この、変態コンビが……。急がなきゃ大変なんだから……」
巧くもなんともなく、ただ心を刻まれて仕方なくラムにお礼を言って立ち上がった。
改めて辺りを見て、ここは何処だと疑問が湧く。水溜まりに引きずり込まれたのは覚えているが、その前の記憶がない。それどころか、自分の名前も歳もなにも思い出せない。
覚えているのは、カイロが嫁に似ているということだけだ。
再びパニックに襲われ、霞のかかる頭の引き出しを開けていく。なにも入ってはおらず混乱だけが増幅していく。
記憶がなくなるとは、こんなに怖いとは思わなかった。
上手く呼吸が出来なくなり足がふらつき、不安から支えを求めた手を、ラムが優しく握ってくれた。
「大丈夫っすか? とりあえず、帰るっすよ」
「俺は……誰だ?」
ラムの手を握り返し自分の名前を求める俺に、カイロが答えをくれた。
「名前は、燈。後は基地に戻ってからにして」
くいっと顎をしゃくるカイロの口から流れた俺の名前。耳から染み込み、妙にしっくりと馴染む響きがある。
きっと、それが俺の名前なのだろう。それだけで、ほんの少しだけ落ち着いた。雲の上にいるようだった覚束なかった足も地面を踏んでいる。
「いい名前っすね。じゃ、行くっすよ」
ラムに元気を貰い、すでに歩き出しているカイロの後を追った。
「ほら、キリキリ歩く」
前を行くカイロにはいはい、と返し樹々に囲まれた道を進んだ。見える範囲に人気はなく、俺たちの歩く音と風しかなかった。
どれくらい距離があるか気になり出した頃、ラムが前方に見えてきた建物を指差した。
「あれっす。ウチらの秘密基地っすよ。お腹が空いてきたっすから、ガチャにするっす」
その建物は色から察するに壁は鉄製、形は真四角だ。正面には、赤い色のドアがはめ込まれ、俺はサイコロを連想した。
こんな家があってもいいと思う。これには別に文句はない。気になったのは、その後に言ったことだ。
「なんて? お腹が空いたから、なに?」
「なんすか、ウチ変なこと言ったっすか?」
俺もラムも首を傾げ、お互いの疑問点を探す。
カイロがすたすたと基地に入って行った。
「よくわかんないっすけど、とにかく入るっす」
説明してくれるだろうと思い、カイロが閉めずに開きっぱなしのドアから中に入った。
二人が基地と呼ぶ内部は、15畳くらいのワンルームだった。
部屋の中心に四つ足の丸テーブルが置いてある。壁は外と同じく鉄製で正面にはキッチンとドアが二枚あり、片方はすりガラスになっている。左端には大きな出窓が陽光を招いていた。
窓だけでは薄暗いらしく、カイロが壁のスイッチを押して天井からぶら下がる電灯を点けた。
女の子の部屋にお邪魔できる数少ないチャンスに、どうしてもきょろきょろとしてしまう。よく見ると、部屋の中心を隔てるように赤いガムテープが貼られていた。
中心から左側は、壁を背にした大きめなクローゼットが二つとカラーボックスが並べられている。隣のベッドと鏡台は綺麗に整理と整頓をされていた。
右側はというと、床にベッドの上にと物が散乱しており、ゴミ屋敷の一歩手前の様相を晒している。
やはり部屋は性格が出る。おそらく、左がカイロで右がラムだろう。だが、俺の予想は速攻で打ち破られた。
「カイロっち、お片付けしようねって言ったっすよね。これじゃ、ウチが恥ずかしいっす」
「大事な日に朝帰りキメて、片付けてくれなかったラムが悪い」
ラムががっくりと肩を落として、落ちている物を拾っていく。カイロはふんと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
てきぱきと掃除をして、あっという間にゴミ屋敷から人の住む部屋に甦らせた。
ラムの掃除の手際の良さに拍手を贈る俺を見て、カイロは忌々し気な顔をした。
「こんなところっすね。じゃ、お昼ガチャにするっすよ」
またもラムがごく自然に、不自然な謎のワードを口にする。
「さっきも聞いたけど、ガチャってなに?」
「なにって、ガチャっすよ。ご飯食べないっすか?」
冗談とかではなく、俺の言っている意味が本当に分からないようだ。
これはおかしいと気付いたカイロがベッドの枕元にあったファイルケースを開いた。
「ふむふむ。しょうがない」
カイロはファイルを置いて向き直った。
「燈の世界では、ガチャシステムがなかったみたい。説明いらないよね?」
「ウソっしょ。なら、どうやってご飯食べるっすか」
疑いの口調でラムが首をひねった。
「俺の世界って、どういうことだ。ガチャシステムも聞いたこともないから」
どこまでも面倒臭そうなカイロに、ラムが代わりにファイルを開いた。
「んんー、長いから巻きで言うっす。ウチらの世界では、全部ガチャっす。おしまいっす」
「いや、分かんないから。つか、ここって、他の世界ってことか?」
らしいっすとラムに簡潔に締められ、返す言葉が数え切れない。なんで、どうして、と連呼するがラムはファイルをぶん投げて説明を放棄した。
「ご飯食べてからっす。ファイルは自分で読むといいっすよ。ガチャやるっすー」
ラムは俺の食い下がる質問をスルーしながら鏡台に行き、引き出しからカードを一枚取り出した。
光沢を持ったそのカードには、大きくお昼ガチャと記されている。
カイロも枕の下から同じカードを取り出し、俺の方を見てテーブルを指差した。
「燈のは、テーブルの下」
そう言って、カイロは小走りでキッチンに向かった。
俺の分もあるのかとテーブルの下を覗く。
そこには海賊が喜びそうな宝箱があった。大きさは掌大だ。箱をテーブルの上に引っ張り出す。箱の上蓋に古風な鍵穴があるが、鍵はかかっていなかった。
どれどれ、と若干の期待をしながら箱を開けた。中には何枚かのカードが入っていて、その内の一枚だけは虹色に輝いていた。
そのカードには、お昼ガチャプレミアムと記されている。
どう使えばいいかは不明で、二人のいるキッチンに向かった。
「こんなの入ってたけど、これどうすんの?」
手に持ったカードを見せると、どちらも羨ましそうな顔をした。
「いいっすね、プレミアムじゃないっすか」
「初心者応援ガチャ券。最初の一週間は特別なガチャ券が支給されるから」
だんだん飲み込めてきた。携帯のゲームでお馴染みのシステムだ。俺も多少は遊んだことがある。ソーシャルゲームの世界と考えればいい。
つまり、ここでは食事はもちろん、欲しいものは全部ガチャを回せということだ。
それで合っているか聞くと、ラムが親指と人差し指で輪を作ってオッケーをくれた。
一つ謎が解けてすっきりしたところで、カイロがキッチンに備え付けの電子レンジを開けた。
「お願い、アレはやめて」
どこから見ても普通の電子レンジの中に、カイロは祈りながらガチャ券を入れて閉めた。
「なにしてんのこれ?」
「見てればいいっすよ」
待つこともなく、かちかち、と聞こえ最後に、チーンと聞き慣れた音と一緒にレンジが開いた。
恐る恐るカイロが中を見て、がっかりしたように息を吐いた。
「またこれ……」
レンジから出てきたのは、バランス栄養食のビスケットが二つきり。カイロはそれを持って、嫌そうに自分のベッドに行ってしまった。
「あれがお昼ご飯か?」
「カイロっちは、ガチャ運ないっすから。メニューはいっぱいあるっすけど、あればっか引くんすよ」
「一食分の栄養が摂れるから……別にいい……」
ぼそぼそとカイロが言い訳をするが、死んだ目でビスケットを噛っていて完全に強がりにしか聞こえない。
「次はウチっす。お肉が食べたいっす」
ラムも祈りながらガチャ券を入れて、レンジを閉めた。また、チーンと鳴って蓋が開かれる。
「やったっす。唐揚げ定食っす。大好物っすよ」
中から出てきたのは、山盛りの唐揚げとご飯にサラダのセットだった。からりと揚げられた唐揚げは見るからにジューシーで腹の虫を鳴かせられる。
「ほら、燈っちの番っすよ。いいの出たらシェアするっす」
「いいね、分けよう。唐揚げも食べたいし」
二人の真似をして、レンジにガチャ券を入れて蓋を閉めた。
「でさ、プレミアムって書いてたけど、そんなにいいもの出るのか?」
待ちきれずにラムが唐揚げをもぐもぐしている。
「プレミアムだけ、食後のコーヒーが付くっす」
「そ、そう。そりゃプレミアムだね」
もっとこう、特別ななにかを期待していたのに、俺の考えていたプレミアムとは違うようだ。
腑に落ちない俺のプレミアムガチャ券の結果は、さっき誰かも引いていたビスケットだった。
「あらら、燈っちもっすか。唐揚げ分けてあげるっすから、テーブルに行くっすよ」
どうやら俺も、カイロと同じでガチャ運はないようだ。
こんな右も左も分からない異世界で食事が出来るだけましと言い訳しながら、ラムと一緒にテーブルに腰を下ろした。