波――海王星
滉と倖は冬の海にきていた。
雲も太陽も低く垂れこめ、砂浜や埠頭に覆いかぶさっているようだった。波頭はきらきらと瞬き、冷たい海風を必死に払いのけようとするように耀きを放っている。鉛色の波が寄せては返す、また寄せては返す。潮騒の音も心地いい。浜は開店休業といったさま。ほうぼうに残された夏の遺骸を散らばらせている。けっして美しいとはいえなかったが、なにか心を清めてくれそうな身震いをしたくなる、そんな展望がひらけていた。
「人いないねー」
倖の声が風にのって遠くまで流れてゆく。
「いないねー、俺たちだけー。ザッツもの好きィー!」
冬の訪れに抗うように、滉は少しずつ自分を取りもどしているようだった。
でも、まだまだ――そんなふうに思ったのか、倖は急に立ち上がって駆けだした。
裸足の足が砂を巻き上げ、彼女のあとを追うように、足跡が刻まれていく。
「海神ポセイドン、おいこらー!」
倖は全身でそう叫ぶと、砂浜に落ちていた枝を槍にみたてて空中へ放り出した。
「ちょ、ワイルドすぎー! んじゃ俺も。――ポセイドンの子、トリトンどこにいるー!」
枝は海までとどかずに落ちて渚に弄ばれている。
「アムピトリテー! あんたも現れろー!」
「誰それ? しかも名前いいにくそう」
しゃがみこみ、砂浜を泳ぐように掻きながら倖が訊いた。
「ポセイドンの奥さん、良妻賢母な奥さん」
「なんでそう言い切れるの?」
砂をかぶってまっ白になった倖が振り向いた。
滉はどっかと腰を下ろして話はじめた。沖を這うようにゆく貨物船が波間に見え隠れしていた。
「あのね、ポセイドンはさ、粗野で凶暴だったんだよ。この海見れば想像できるでしょ。高波、白波、逆波、はては津波までね……荒ぶる海の象徴だからね。けど海は静かなときもあるし大らかでもあるでしょ、あらゆる生き物を産みだした存在でもあるしね。だからなのか、アムピトリテとトリトンはさ、ポセイドンとは正反対の気質ってことらしいよ、優雅で物静か。それでバランスを取ってるってわけね。彼らの共通点といえば、三叉の矛かなァ」
「トライデントってやつね」
「そうそう」
滉の指が砂浜に三叉矛を描き出した。
「この絵は銛だから釣り針みたいにかえしがある形なんだけど、かえしのない絵や彫刻もあるらしいよ」
「それって重要な意味あるの?」
「どうだろうね。矛っていうのは槍の先祖、矛と槍の違いは、槍は切ることもできるけど、矛はできない。そんなことらしいよ。で、銛っていうのは、この絵のようにかえしのあるものってことらしいけどね」
倖は砂浜に書かれたかえしの部分を消し去ってしまう。
「刺さったら抜けないとか残酷だよー」
「そうだね。多分ね、三叉ってのにはさ、それとは違う意味が込められてるんだと思うんだよねェ」
「どんな意味?」
「んー……、自由、博愛、平等とかね」
「それはフランスの国旗でしょー」
砂のカンバスに三色の旗がすぐに翻った。
「海にもさ、そういう三要素みたいのを思い描いたんじゃないかなァ。三叉の矛はさ、バルバドスの国旗にもなってるんだ。民主主義を表してるらしいけど、海と空と砂っていう意味もあるらしい。ウクライナの国章も三叉の矛なんだけどね。――でもそれを海にあてはめようとしても、パッと思いつかないんだけどね」
「静、動、調和……かなー」
満潮が白い泡をひきつれながら、砂に描かれた絵を飲み込んでゆこうとしていた。
「濡れちゃう濡れちゃう、バックオーラーイ!」
いうが早いか、倖はウッドデッキの張られた場所へと走り出した。
「子どもみたいだなァ……もォー」
デッキの段差に腰をかけようとしている倖めざして、滉も走った。
ワンピースからにょっきり伸びた足が砂に下ろされ、何かを掴もうとでもしているように、力が込められた砂まみれの指先。やまない海風に煽られて、無造作にまとめられた髪がなびき、弱い冬の日射しを照りかえしている。視線はじっと海に浮かぶ船を追っているのかピクリとも動かなかった。耳元では潮騒と風の鳴く音が入り混じってごうごう呻っている。
滉は倖の横に座ってどちらに進んでいるともいえない船に目を向けた。
今見たものがひとつに溶けあってゆく感覚は不思議なものだった。
砂を掴もうとする指先、なびく髪と煌めき、据えられた瞳、靄にかすむ船、風の鳴る音……。
「静と動と調和は確かに存在するね」
「そうよ、あるわよ。あたしたち一人一人みんなが持ってるし、そのままそこにあるのよ。けれどね――」
脱ぎ捨てた靴の傍には拾い集めらた貝殻があった。
「それが何人かになると、とたんに崩れてゆくことってあるでしょ」
といいながら、倖は貝殻を海へと放り投げた。ひとつ、またひとつと。
「どうしたんだよ、今日ワイルド過ぎるよ」
「じっとしてられないの。そういう気持ちになるときだってあるの」
またひとつ貝殻が弧を描いいて飛んでいく。
「あたしと滉、そして滉のお母さん……アフロ……」
倖の目に涙が光っていた。
「じっとしてちゃいけない気がするの。理由なんてわからない。でもじっとしてたら壊れちゃうよ……」
涙を拭おうとする手は砂まみれのままだ。
「倖、だめだめ、そんな手で……」
滉は、空を覆った雲のように白く華奢な手が纏いつき、肩に涙がにじんでくるのがわかった。
「あの強いお母さんがポセイドンでもいい。あたしが良妻賢母になるから。それで足りないなら、あなたがトリトンになってよ。かえしがついてたっていい。残酷な目に遭うのが厭だなんて思ってない。ただじっとしてるのは嫌なのよ。それが一番怖いの……あれを見て、せっかく書いた絵、全部、ぜんぶ消えてしまったじゃない……波が何もかもさらっていっちゃう……」
「倖……」
その日、アフロの待つアパートへと向かう道々で、滉の脳裏に映しだされていたのは、トリトン率いる海の妖精たちが海王星の周りを遊楽して飛びまわる姿だった。トリトンは時々お喋りに夢中になったり、ふざけあって落伍しそうになる妖精を気遣って振り向くのだが、それ以外、決して立ち止まろうとしなかった。彼の周りにはいつも波が立ち、白い波濤に乗ってバランスを取りながら滑るように進む倖とアフロの姿もあった。倖は貝殻を投げつづけ、イルカたちを従わせている。アフロは魚をくわえて目を細めている。
列車に揺られている倖は肩に頭を持たせかけて眠っていた。
かえしがあることを誰よりも怖れているのは誰だったのか?
滉は彼女の夢見ているような幸せに満ちた顔を見つめては、何度も自分に問いかけたのだった。
寄せては返す波のように、とどまることを知らぬように。