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Distance――天王星

 父の死は、ひろしがそれまで見てきた出来事に和解する意味を気づかせた。だがそれは自分を見つめ直す契機ともなった。

 それまで彼にとって考えごとは、趣味の延長であったのだが、父との別れ以来、それは自らを律する哲理を見つけようとする視点に変わっていった。残された母は実家で、滉はこれまでと変わらないアパートでの暮らしが、変化の一番の要因だったのかもしれない。

 さちもそうした滉の変化にすぐに気づいた。

「このままじゃいけない……」

 明るい表情が少なくなった彼の口から、焦りの言葉がこぼされるたびに、

「だからって、あたし何もしてあげられないんだよね……」

 とこたえるのが、倖にとっても精一杯だったのだ。

 こうすればいい、ああすればいい、というアドバイスはいくらでもできる。少しくらいなら、わたしが何かをしてあげることだってできる。だけれども、それだけ。彼の人生は彼のもの。代わってあげることができるわけではない。

 倖は無力感に打たれていた。何かをしてあげることはできる、でもそれはある意味では、してあげたとはいえまい。したかったからしただけであって、彼にそれがどれほどの影響を与えたかとなると……。

 心の中にこれまであった何かが、萎んでゆくのを感じるのだった。

 一年を通して日当たりのよい席、休日になると待ち合わせをする喫茶店で、二人は向かい合っていた。

「そういえばウラノスだっけ天王星って、あたしも考えたよ、ちょっと突飛なんだけどね。ウラノスってさ、ウラニウム、つまりウランの名前の元なんだってさ」

「そうい視点もあったかァ」

「ウランといえば当然思い浮かぶのはさ、原爆じゃない、あとは原発。でもね戦争で使われた劣化ウラン弾とかね、ウラン鉱山の採掘場の近くの子どもたちとかがさ、奇形で生まれて苦しんでたりもするのよ。ニュースで放映されるのってほんとに一部なんだなーと思ってね」

「世の中っていつもそんなだよね。見えにくいところで苦しんでる人がいても、よく見えないようになってる。そこ、なんとなくウラノスとガイアの関係に似てるかもね」

「どういうこと?」

 いやに真剣な倖に虚をつかれたのか、ちょっと押し黙ってから、滉は話はじめた。

「原初の時代ってさ、まず混沌があって、そこに女神ガイアが生まれたんだよ。でね、ガイアはウラノスを生んで彼と結婚する。ウラノスは天空の神なのにさ、大地の女神であるガイアのすぐそばにいた。これじゃあさ、どこが天でどこが地だかはっきりしないよね。しかも、ウラノスはさガイアのところに来るときは夜の女神ニュクスを連れてる。真っ暗で何も見えなかったんじゃないかとね。――それはともかく、まえに話したけど、ウラノスは息子のクロノスに去勢されちゃうじゃん」

「それで生まれたのが泡から生まれたアフロディテっていうあれね、キミん家の猫の名でもあるけどね」

「そうそう。でもそれにはさ、神話的に重要な意味があるらしいんだよ。去勢されたあとのウラノスにはその後なんの挿話も残されてないんだけど、彼はそのまま天空の神のままで、今も天空の神なんだよ」

「んー、意味がわからない……」

 倖は、それとなく喫茶店の窓から、さっきまで雨を降らせていた雲が浮かぶ空を見ながらつぶやいた。

「つまりね、それまで混沌状態だった大地と空がある程度の距離をとったことで、秩序が生まれたってことらしいよ」

 二人の間に沈黙が流れた。だがそれは冷めたいものではなかった。

 まだカップにのこる琥珀色の液体が揺れ、あいたグラスに空の水色が映りこみ、水滴がそっと滑りおちていくの見つめながら、倖が口を開いた。

「近すぎると見えない。だから一定の距離をとったということかしら。距離があるっていうとさ、なんだか淋しく感じるけど、距離があることで、互いが互いでいられ、そのうえ相手のことも良く見える。そう考えたら、ウラノスは去勢されてむしろ良かったのかもね」

 倖は、心の中で萎んでいった何かが、もとのように膨らんでゆくのを感じていた。

「雨、止んだみたいよ。公園でも行かない?」

「また急にィ……」

「いいからいいから、さ、行くよ!」

 ついぞ最近見かけなかった倖らしさに少し圧倒されながら、滉は残った珈琲を急いで喉に流し込む。

 倖はすでに伝票をもって、チリチリと音を立てているレジスターの前に立っていた。

「はやくー」

「ごめーん、トイレいってからいくわァ」

「まいど、どうも。――いつもと変わらずいるのが一番ですよ。いろいろあってもね」

 事情を知ってか知らずか、マスターの顔には平素と変わらない笑顔があった。

 着古されたエプロンにはあるべきところに染みがあって、なんともいえない安心感を漂わせていた。

「知ってるわ、さっき気づいちゃったもの、彼はまだみたいだけどね。あたしはあたしであればいい。いつもごちそうさま! ――おいてくわよー! 外で待ってるねー」

 倖の足取りは軽かった。雨雲を吹き飛ばすかのように。

「ちょっとー、傘忘れたよー」

「りょうかーい!」

 滉は二本の傘を持って階段を駆け下りながら、それまで抱いてきたのとは違う焦りに、心地よさを感じていたのだった。

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