旅立つものが残せしもの――土星
秋の終わり、霜が凍るような寒い日に滉の父が他界した。脳血管障害による急死だった。
昔気質で家長であるという威厳を漂わせ、終始隙のない父、見ようによっては無理に強がっているようにも見えた。幼少時代など、一緒にいるとそこだけ気圧が高いのではないかと本気で思ったこともあった。そうした父への印象も、彼が高校に進学してバイトをはじめたころから、少しずつ氷解しはじめていった。彼自身、得体のしれないものに怯え、どう抗ってみても勝ち目なさを痛感させられる社会というものを垣間見たからだった。それからというもの、父から感じた息苦しいような威圧感も薄らぎ、虚勢をはっているような姿には憐憫の情を抱くことすらあった。それでも違和感や疑問はあったが、彼の中では父のほとんどを許せるという思いが醸成されてはいたのだ。
「きっとさ、親父が死んだときに許せるんだろうし、全部わかってあげられると思うんだよね」
倖とそんな言葉を交わしてもきたのである。
急死という現実感を伴わない喪失のせいなのか、深く傷つきながらも気丈であろうとする母――それは長く父と連れ添ったことで身につけた癖のようにも見えたが――のお蔭からか、彼は通夜の夕暮れまで無感覚とでもいうような心を引きつれたまま、斎場に身を置いていられた。
「滉、ちょっといい、ほらこの方がお父さんが口癖のように、頭があがらないんだといっていた国秤さんだよ」
「はじめまして、いつも父がお世話になっています」
口をついて出てからハッと我にかえった。こういう場合、いつもではなく、これまでなんだな……と。
だけれども、目の前に喪服を着て立つ、白髪の紳士、判事であり、経営コンサルタントをしてきた父の相談役だった国秤氏と話しているうちに、滉は奇妙な充足に満たされていくのだった。
「良葦さんはね、とにかく純真じゃったよ。困ればこまったで、怒れば怒ったでな、儂の事務所の扉を開けて入って来たときの顔を見れば、何を訊きたいのかは大体にしてわかったもんです。あるときこんなこともありましたよ――」
これまで目にしてこなかった父の姿、知らなかった一面。思っていた以上に純粋で、正義感が強く、それでいて慌てやすく涙もろい。鷹揚で粋がったクライアントにやんわりと、かつ厳しく叱責するにはどうすればいいか。そんな相談をするときの双眸は紅蓮に燃えていたという。どこまでも地道に努力をしている小さな工場の経営が行き詰まれば、目を潤ませながら、救済策はないものかと希い願ったという。
そうか、あの威圧感は照れ隠しだったのか。
国秤老人が父を懐かしんで語ってくれたことで、滉の心にあった氷がひとつ溶けていった。それは確固たる父への印象が消えてゆく淋しさでもあり、ごつごつとしていた父が大海原と一体になってゆくような感慨でもあった。
遠くに霞んで見える倖は心配そうな顔をしているが、その表情にある本当の意味はわからなかった。母は父をよく知る人から何かしら話をしておいて欲しいのか、様々な果物を首の上にのせているように見える参列者に紛れて、しきりに挨拶をつづけている。
そんなふうにして、滉の前にやってきたのは、和豊夫妻だった。
「生前は父がお世話になり――」
「いえいえ、お世話になったのは、わたしたちの方なんですよ。そもそもわたしたちの今があるのも――」
夫人はせっかちに話しはじめた。
「これこれ美都子、あまり先走るものではないよ。順番を追って話さなければ、滉君だって飲み込めやしないよ」
ご夫妻の仲人は父だったのだそうだ。そんな立場のせいもあったのだろう、父は彼らに対してはかなり手厳しい、あの虚勢をもって接していたらしい。
「そうそう、あの時ばかりは追い返してやりたかったですよ、あたしらの気持ちもわからずにってね」
夫人は屈託なく笑いながら話しつづけた。
「そりゃね、あたしたちだって少なくとも愛しあって結婚はしたんですよ。けれどもそれだけじゃ乗り越えられないものもあるじゃないですか、ねェ。でもね、あなたのお父さんは『乗り越えられない壁なんかない!』その一点張りでしたよ。でもね、月日が経って思いいたったんですよ、良葦さんの言ってたことが本当だってね。人間なんて臆病なものですよ、もう無理だ、これじゃあいけない……苦しいときに限ってそんなふうになるものなんですよ。でも良葦さんは立派でしたよ、きっと怖かったはずですよ、無理なことを押しつけようとしているのかもしれない……心の底では怖気ついていたのかと思ったら――」
夫人はそこまでしか話せなかった。あとは鼻を啜る音だけで何かを伝えようとしていた。
「申し訳ありませんね、美都子と来たら……こんな醜態をお見せして――」
滉は耳にのこるしゃくりあげて泣く和豊夫人の訴えを、しばらくかみ砕いていた。
父さんも、意外と臆病だったんだな、それで虚勢だったのか。けれどもその奥には信じて疑わない何かがあったんだね。信念と誠実さとでもいえばいいのかな……。
彼の中にあった氷がまた一つ溶けていった。眼前には凪いだ静かな大海原があり、父の笑顔が見えた。
「滉、少し休んだら」
突然、肩に触れられたことに驚いて振りかえると、綿毛のように儚げな顔をした倖がいた。
「そうだね」
二人は斎場を出て、ポプラが茂る風の通るベンチに腰をおろした。
「なんて声をかけたらいいのか、わたしにもわからなくなっちゃった」
「……土星にいるよ、親父は」
「え?……」
「親父はクロノスと同じさ」
心を読もうとしているのか、滉の手に倖の手が重ねられた。
「クロノスとゼウスはさ、長年反目しあってきた。でもさ、ゼウスは許すんだよ。親父にもいろいろあったんだと。――さっきね、ラダマンティスとハルモニア夫妻と話をしたんだ。それでわかったし、許せた。親父は天国にいけたと思う」
「ねえ大丈夫……それどういう意味?」
倖は、いきなり神話の話をはじめたことに夢遊病的なものを疑ったのだ。
「俺の目にはいつも威圧感を漂わせ、虚勢を張ってるって映ってた。けどそうじゃなかったんだ、そうじゃないと受け取ってる人もいたんだ。家族のいる家庭がさ、この世の天国って思ってた。けど親父にとっては違ったんだろうね。社会の中で働きながら、その威圧や虚勢を武器にしてさ、親父はそこに天国を作ろうとしてたんだってわかったんだ。そりゃあね、家庭でも社会でも戦ってさ、どっちも天国にできるのが一番いいさ。けど家庭で戦争したら、どこで翼を休めればよかったんだろうねってわかった」
「滉……」
「クロノスはさ、ゼウスと和解したあと、西の果てにある、エリシュオンの野ってとこで暮らすんだ。親父は今そこにいるよ、俺たちとは違うところ。でもさ、親父は生きてた時も天国にいたんだよ、いやそういう国を作ろうと必死だったんだろうね。何も死んだから天国に行ったわけじゃあない。だってさ、そう考えなかったら、生きてた意味が無くなっちゃうもんね」
「エリシュオンの野ね。日本でいえば西方極楽浄土とでもいえばいいのかしらね」
「そういうことになるかな……親父自身はエリシュオンにいる。でもさ、俺の中にいる親父はいまも天国を作ろうと必死にこの世界で戦ってる。おかしな発想かもしれないけど、そんなふうに思う。だからね、親父を本当に安心させてやるためには、俺も頑張らないとなんだなァってね。少しは倖に嫌な奴と思われるところを持たないといけないのかもね」
そういって彼は笑った。
「べつに無理することないんじゃないかな。だってあたしはヘラみたいな女になるつもりだから。家庭内戦争、どんと来いよ!」
ポプラの木が静々と風に揺れていた。その囁きは、ここが癒しの国であり、ここが光の国であるといわんばかりに。