世界――木星
滉の考えごとは、木星にいたって現実味をおびてきた。国家や政治といった方向に目が転じられたからだ。
その日、彼の部屋には倖の姿があった。
「なんかいる!?」
滉にまとわりついて歩く子猫アフロ、二人と一匹は気侭に自分の居場所を見つけると、そこへ陣取って根を生やした。
「木星というよりゼウス、おもしろいんだよ。彼は雷神、天界と地上を結ぶ神でもあったんだけどね、そこがまず面白くない?」
「そうかなー。地震、雷、火事、親父、確かに恐いものランキングはわりと上位だけどね」
「俺的には恐いものランキング一位は倖だけどね」
「なにそれ……」
といいながらも彼女は喜んでいるように見えた。
「とまれさ、天界と地上を結ぶ存在がなかったらさ、地上の人々は天界って何じゃらほい、想像の埒外ってことになるじゃん。つまりさ、ゼウス、イコール人間の思考、思想って捉えるとさ、これがなかなか興味深いんだよ。――まず最初に結婚した妻メティス、これはさ、智恵の女神なんだよ。これってさ、人間の思想で一番大事なのは智恵だってことを暗示してない?」
「そういう発想もできるわね。知識だといえないこともないと思うけど……」
揚げ足をとりながらも、倖は好奇心を示しているようだ。
「そうねェ、知識がなければ智恵を生かせないってことじゃないかなァ。――ともあれゼウスの家系はね、親子二代にわたって、子に王座を奪われてきたんだよ。だから当然ゼウスもそれは気にしてた。そんなんだったからね、メティスが懐妊したと知るや、彼は奥さんを頭から飲み込んじゃうわけよ」
「なんて非現実的な……食人族かよ……」
「んー、それをいうなら食飲族ね。神の子ってさ不死身だから殺せない、そういうことで飲んだってことらしいけどね。――だけどね、結局メティスはゼウスの中で子どもを生むのよ。『頭いたーい、誰かこの頭割ってー!』とかいってさ、『ほいほい、承りました!』スッカーン! とかいう感じでゼウスの頭かられて生まれてきたのが、智恵の女神アテナなのよ。彼女は勝利とか力の象徴でもあるんだけどね、軍神アレスと違ってさ、ゼウスの王座や政権を守るためだけに戦うんだよ」
「つまり、専守防衛ってことよね。頭から智恵の女神誕生ってわりとリアルね」
「そうそう、その通り。――でまァ、アテナは智慧の神だから、知略が得意なのであって、破壊や混乱といったアレスとはちょっと性格が違うわけですよ。面白いのはさ、飲み込まれたメティスはまだそのままでね、ゼウスの中で智恵そのものになったというところにもあると思うんだけどね。――つまりこれでゼウスは自身の智恵と自分をサポートしてくれるアテネの智恵というものをもったんだね。一人の智恵なんてさ、大したことないけど、三人寄れば文殊の智恵とかいうでしょ」
「何事をやるにしても、一人じゃ……っていうのは、わかる気がするわね。ゼウスをサポートしたのが女神の智恵ってのはポイントじゃないかなー」
倖は今日ばかりはちょっと感心したふうな流し目を送りながら、滉が口を開くのを待った。
「あーそれはあるね。男ってさ、なんだかんだいって暴力的だからね。――そんでね、次にゼウスの妻になったのが掟の女神テミスなわけですよ。実際問題さァ、智恵だけじゃ世の中治められないじゃん。だから、テミスは秩序、正義、平和の象徴である三女神を生むわけですよ。この三女神はさ、法、つまり法治国家への礎と見ていいと思うのね」
「おおー、そういう見方かー、とりあえず憲法作ろう! みたいなもの?」
「んーそういうのとはちょっと違うと思うけどね……。――でもさァ、現実ってそんな上手くいかないじゃん。だから、テミスは運命の三女神も生むわけですよ。ラキシス、クロートー、アトロポスがそうなんだけどさ、これには生、死、再生という意味もあるみたいだし、創造、調和、破壊という意味もあるみたいだけどね」
「ギリシャ神話ってけっこう哲学的なのね」
「そんな感じでね、とりあえず運命論を含みつつ国家を運営していくシステムをさ、ゼウス政権は形作るわけですよ」
「第何次なんちゃら内閣みたいなものよね。当然官僚とかもいたんでしょ?」
「そうそう、いたね、それも結構優秀なのがね。――でね、次に結婚するのが、例の嫉妬深いヘラなんだなァ。ここまでくるとさ、それまで当たりまえだった近親婚も薄らいでいってるんだけど、――いやまァヘラは彼の実の姉だけどね。でもここからゼウスのプレイボーイ伝説ははじまるわけですよ。もう数え切れないくらい妾つくって子ども産ませる。けどその意味はさ、智恵をベースに法と秩序をもたらした国家に、さらに文化や文明をもたらしたということらしいのよ。詩歌、音楽という芸術、農業や貿易といった社会構造といってもいいわけね」
「ゼウス、無駄にプレイボーイじゃなかった伝説ということね」
「ミャーオ!」
思わず馬鹿笑いする二人と一匹。男神、女神、猫の神が一体になって笑っているようでもあった。
「ともあれ、ここまで来てさ、ゼウスはようやく子どもに王座や政権を奪われるという不安や恐怖を克服したわけよ。いやむしろ反対に、自分の子どもたちが国家や国土の繁栄のために身を投じるという体制を築けたってことらしいよ。――ここまで来るのに三代かかった。そういう見方も出来ると思うんだけどねェ」
部屋には橙色の西日が射しこんでいた。
「なんだか眠くなった」
倖につられたのか、アフロもあくびをしている。
「クッション取ってください」
「なんだかなァ……古代から連綿と木星を仰ぎ見てきた人々と違いすぎる気がする」
非難の声をあげたものの、滉も眠気に襲われていた。
「いいのいいの、睡魔には勝てませんから」
まだ温もりを伝えてくる西日の中で、二人と一匹は丸くなった。
そんな彼らを、連綿とつづく物語が、川の流れの中で一つに包んでいくのだった。