五月の風まで待って――水星
喫茶店をでた倖と滉は、環状線の列車にゆられて、繁華街のある駅へとむかった。
そのあいだ話題は月から離れて、水星とヘルメスに移っていた。
彼らは知らなかったが、環状線と水星には共通点があった。水星が八十八日で太陽を一周するように、列車は線路の上を八十八分かけて一周していたのだ。
目的地で下車した倖と滉は、ショッピングアーケードがつくる木漏れ日を浴びながら、ほどよい間隔でならぶ店々を眺め歩いていた。
「あれここ、前からあったかしら?」
倖が足を止めたのは、色とりどりの商品が陳列されたガラスの前だった。
「鞄なんてさァ、いくつも持ってるじゃん、また見るのォ? もしかして買うとか……」
少々あきれ顔の滉だったが、特徴あるひとつのロゴマークに惹かれて、いきなりすっとんきょうな声をあげた。
「これ、ヘルメス!?」
「違う!! エルメス!」
倖は、抗議とも訂正ともいえない素早さで即答した。
「エルメスね……なんだっけ、有名なのあるよね」
「バーキンとケリーね」
「ふーん」
どうせ時間がかかるのだろう。滉はそう思いながら、腕組みをして倖がウインドウを覗きこむ背中を見つめていた。
バーキンとケリーね。確か……ケリーは女優のグレース・ケリーが持ってたので有名になったはず。じゃバーキンは?
「ねえ倖、バーキンて何?」
「興味あるの? なに、ヘルメスでなんか思いついた? まあいいわ――」
そういいながら彼女は滉の袖を摘まんで、憧れのブルージーンバーキンの前に引っぱっていった。
「これがバーキン。女性歌手、ジェーン・バーキンが名前の由来ね。ブルージーンというのは、このなんともいえない水色のことよ」
「はァ、はちじゅうまん! 嘘でしょー!!」
滉は、いまにも気絶しそうに息たえだえに呟いた。
それから彼は、八十万円を目前にしながら、ケリーやバーキンの蘊蓄を、倖からたっぷりときかされた。
ヘルメスならぬエルメスにも人間の智恵がある、話を耳にしながら滉はそんなことを思った。
彼の印象からするとヘルメスは智恵の象徴だった。本には伝令の神であり、商業、貿易、旅人、計略、泥棒などの守り神だとあった。滉はそれを読んで、それらは良くも悪くも智恵を働かさなければ成り立たない職業だと考えたのだ。ときに賢明であり、ときに狡知にたけ、かつ決断力と行動力は風のように迅速。それが彼の中のヘルメス像だった。
倖の蘊蓄によると、ケリーバッグはパパラッチに追われたグレース・ケリーが、妊娠中のお腹を隠した写真で有名になったのだとか。これも一つの智恵。
また倖がいうには、バーキンはとにかく便利なのだそうだ。お洒落を気にする乙女心というのは、いつも同じバッグを持つことを嫌うのだと。でも化粧道具だとかあれやこれや、そういった日用品を入れ替えるのは面倒くさい。だから整理しないでとりあえず放りこめるバーキンは、使い勝手とファッション性を兼ね備えているという。なるほどこれも智恵であろう。特に便利なのは、探し物が見つからないときに「あーもォー!」とボヤきながら、どんがらがっしゃーんと中身をぶちまけ、いち早く探し物を見つけ、あとは投げ出したものを何もなかったかのようにバーキンに投げ込めば済んでしまうのがいいらしい。
倖って意外と豪快なんだなァと思いながら、滉は八十万円を凝視した。
「でもあたしには無理! せいぜいバーキン“風”がいいところ。これは中古だからこの値段だしね」
「あのォ……エルメスじゃなくて違うのなら買ってあげられるかもしれません。――そういうのなら、水星が太陽の周りを一周するくらい待ってもらえれば何とかなるかもしれません」
「それってどのくらい?」
「八十八日だからさ、一月から数えたらね、五月の初旬、えっとォ二日か三日のはずだよ」
「爽やかな季節に吹く、バーキン“風”、お待ちしております。――さ、行こう、あたしお腹空いちゃった」
そういって倖は滉の袖を引っぱったのだった。
どうやらいまはバーキンより食欲のようである。