大きなこころ――月
倖は定刻どおり、いつもの喫茶店で、お気に入りの席に座っていた。一年を通して一番日当たりのよい場所に。
夏至と冬至を比べれば、おおよそ二時間半の差がある。だから、滉を待つのは慣れていた。
「おッはようー」
悪気のない顔をして、滉は向かいの席についた。
倖は時計も見ずに読んでいた本を閉じた。
「おそようー」
そこへウェイターが注文を聞きにやってきた。
滉は珈琲を注文し、倖は本を手にしたまま、追加でカフェ・オレを頼んだ。
「今日も時間どおり?」
「そうよ」
それから二人は月について語りあった。
滉がいうには、倖は月みたいだと。地球に対して常に同じ表面を見せるさまは、湛然不動を思わせるのだとか。
「月の女神アルテミスはさ、太陽神アポローンとの双子なんだよ。アルテミスが姉なんだけどさ、彼女、生まれてすぐ弟が生まれてくるのを手伝ったらしいよ。健気だよね。――純潔の女神なんだけどね、妊娠、出産、多産、それから子どもの守り神でもあるんだってさ。純潔というのは処女性、つまりは貞操感を意味するんだろうけど、それって妊娠とかとは矛盾する気がするんだよねェ」
相変わらず本を手にしたままの倖が口を開いた。
「男ってさ、どうして処女に拘るんだろね。――あのね、貞操って意味ちゃんとわかってる? 人として正しい道を守るってことだよ。別にさ、するなとかいってないの。淫らはやめなさい、そういうことだよ。神格化ってさ、何でも物事を極端にしちゃうんだよ」
滉は妙に納得したように、美味しそうに珈琲を喉でころがしていた。
「でもアルテミス、純潔ゆえに意固地で気性が激しくてさ、『野生の女王』とも呼ばれるらしいよ。いつもミニスカート履いてさァ、弓矢もって山野を駆け回ってたらしいよ。狩りは上手だったんだってさ」
「うーん……」といって本の背を鼻に当てて倖は考えている。
「月ってさ、そんなに不動の存在じゃないよ、女もそう。だって月は満ち欠けするでしょ。もうそれだけで気性が激しいこととかは説明できない? ひとついえることは、純潔と潔癖は違うってことね。そこも男から見た神格化じゃないかな」
「ミニスカートはどう説明するのさ?」
「ただのスケベ心でしょ」
なんだか男の本性を暴かれた気がした滉だった。
「まァね、脚はシンボルっていうもんね」
「神話ってさ、話を聞くかぎりだと、男目線すぎると思う」
そういいながら、『女性からみた神話の世界――Woman's eyes』といった表紙の本を、ぼんやりと思い浮かべる倖だった。
「どちらにしてもね、女ってそんなに不動じゃあないと思うよ。結婚前と後でも違うし、子どもが出来れば、女から母になったりする、精神的にも肉体的にもね。老いて子どもが巣立てばまた女に戻ってみたり。結構いそがしく変わるものだと思うけどな。でもあるっていえばあるかもね、変わらないものが……」
そこで倖は本をテーブルに置いた。
「母性とかね……」
滉にはなぜそこで彼女が本を置いたのか理解不能だった、しかし当の倖もまたそうだった。
それでも漠然とではあるが、二人にはその理由がわかったし、その意味が同じであることを心の奥で感じとっていた。
二人の胸には、変わらぬものはきっとあるという顔をした真昼の月が、ぽっかり浮かんでいたのだった。