断罪の試練
大勢の人々で賑わう町から少し離れた山の麓で、僕は今年で還暦を迎えるお婆ちゃんと暮らしていた。
以前は僕も町で両親とともに暮らしていたのだが、母が出産で体力の落ちた時期に不運にも重病を患って亡くなってしまったのを切っ掛けに父が出稼ぎに行って僕達に仕送りするという生活を送っている。
とは言え、小さな農家を営むお婆ちゃんとの暮らしは6歳の僕にとって当初想像していたよりもずっと自由奔放で楽しいものだった。
「ほら、夕食ができたよ。早くお食べ」
「うん!」
小さなテーブルに並べられた美味しそうなカレーの香りに、今日も農作業の手伝いで疲れた体が歓喜に沸き立っている。
そしてまるで操られるように椅子に飛び乗ると、僕は猛烈な勢いで熱いカレーを掻き込んでいた。
やがてほんの15分程の食事を終えると、一杯になったお腹を摩りながらお婆ちゃんに話し掛けてみる。
「そう言えばお婆ちゃん、この前町に野菜を売りに行った時に気が付いたんだけど・・・」
「何だい?」
「あの町って、何処も彼処もドラゴンの彫像とか装飾で溢れてるよね?どうしてかなって思ってさ」
物心付いてからこれまでの数年間にも何度か町には収穫した野菜を売りに出掛けたことがあるのだが、前回初めてそのことに気付いてからずっと気になっていたのだ。
「ああ、それはね・・・この国には、昔から竜の神様がいるって信じられてたからよ」
「竜の神様?」
何でもお婆ちゃんが言うことには、この国が建国された600年程前には今住んでいる家の傍の山で度々大きな黒いドラゴンの姿が目撃されていたらしい。
しかも極稀に山の中でドラゴンに遭遇しても決して人間を襲わずに姿を隠してしまうことから、そのドラゴンを山に棲む竜神様として崇める人達が大勢いたのだという。
「その竜神様を祀る為に、山の中には祠が建てられたこともあったみたいね」
「祠って・・・?」
「神様を崇め敬う為に、小さな祭壇を作ったの。大分昔の話だから、今もあるかは判らないけれど」
竜の神様を祭る為の祠か・・・もし今も実在するとしたら随分と興味を引かれる話だが、流石に数百年も経っていたらそれを見付け出すのは無理というものだろう。
「だけど今から400年近く前に、この国で大きな戦争が起こったの。隣国との領土争いが発展してね」
隣国か・・・この国は南北と西側の三方を海に囲まれた半島のようになっているから、多分そこの山を越えた先にある東の国のことに違いない。
今は互いに和平を結んで争いの無い時代になっているものの、昔はそうでもなかったということだろう。
「でも、その戦争には勝ったんでしょ?」
「最後にはね。でも不利な立場だったこの国が勝てたのは、その竜神様が加勢してくれたかららしいの」
成る程・・・それがもし本当だとしたら、この国がそのドラゴンを大切にしている理由にも納得がいく。
「じゃあ、この国の人達は皆そのドラゴンに感謝してるんだね」
「そうね。でもその戦争が終わってからのこの数百年間、竜神様の姿を見た人はほとんどいないそうよ」
「どうして?」
もう少しで負けてしまうところだった戦争を勝利に導いたのだから、戦争が終わった後もドラゴンを崇める人々は大勢いたことだろう。
それなのに、どうしてそのドラゴンは姿を消してしまったのだろうか?
「さあ・・・それは分からないわ。もし生きていたとしても、別の国に移ってしまったのかもね」
「そっか・・・何だか残念だな」
もし本当にそんなドラゴンが実在していたとしたら、是非ともこの目で見てみたかったものだ。
「それじゃあ、もう少し休んだら今日はもうベッドに入りなさい。明日は早いでしょう?」
「明日って・・・何かあったっけ?」
「明日は山に山菜を採りに行く日よ。中腹まで登るんだから、今の内にゆっくり休んでおかないと」
そうか、明日は週に1度の山菜の収穫日か・・・
「ああ・・・そうだね。もう寝るよ」
僕はそう言ってお婆ちゃんよりも一足先にベッドに潜り込むと、あっという間に襲ってきた睡魔に身を任せるように目を閉じていた。
翌朝、僕はまだ空が薄暗い内から起き出してお婆ちゃんとともに家の裏手にある山へと入っていった。
かつて大勢の人々に神として崇められたドラゴンが棲んでいたという神聖な山だが、現在では地元の人間が時折山菜や薬草を採る為に足を踏み入れる程度の比較的影の薄い存在となっている。
そのご多分に漏れず、僕とお婆ちゃんも週に1度この山に山菜を採りに入るのが習慣になっていた。
60歳を迎えてなお溌剌としているとはいえ大量の山菜を入れた籠を背負って山を登るのは流石のお婆ちゃんにもかなりの重労働らしく、最近は僕も同じ籠を持って手伝っているのだ。
「それにしても寒いね、お婆ちゃん」
「もうそろそろ冬も近いからね・・・今年はもう、これで山に登るのは最後にしようか」
デコボコした道や緩急の付いた坂道をせっせと登りながら、山菜の群生している山の中腹までひたすらに足を進める。
気温が低いお陰でそこそこ厚着している割にはほとんど汗を掻かずに済むものの、それでも長時間歩き続けている体が早くも僅かばかりの疲労を訴え始めていた。
やがて2時間近い時間を掛けてようやく森の木々の中に食べられる草の姿が目に付く場所まで辿り着くと、僕はお婆ちゃんと分かれて別の道を進んでいった。
時刻は大体午前9時頃だろうか・・・
空はもう完全に明るくなっていて、朝特有の清々しい空気が辺りに満ち満ちている。
僕は予てよりお婆ちゃんから教わっていた山菜の知識を思い出しながら、間違い無く食べられる物だけを選んで背中の籠へと放り込んでいった。
「ふう・・・結構集まったなぁ・・・」
流石に豊富な山の幸に恵まれた場所なだけあって、30分程も森の中を歩いただけで既に籠の中は8分目程までが収穫した美味しそうな青菜で埋まっていた。
僕より山菜に目の利くお婆ちゃんも、そろそろ仕事を終えている頃だろう。
そして来た道を引き返そうと背後を振り向いたその時、僕は地面から突き出していた小さな岩に思わず躓いてしまっていた。
ガッ
「わっわっ・・・」
慌てて体勢を立て直そうと試みたものの、背中に背負った重い籠の勢いに振り回されて坂になっていた深い雑木林の中へと道を外れて転がり落ちてしまう。
バサバサバサッパキッペキッ・・・
「うわああっ!」
そして地面から生い茂った草や細い木の枝にぶつかりながら時々体のあちこちに走る鋭い痛みに必死に耐えていると、やがて大木の根元に激突した背中にドスンという強烈な衝撃が走っていた。
「あ・・・う・・・い、痛た・・・」
背負っていた籠のお陰でどうやら木への直撃は免れたらしかったが、ザラついた木肌や石などで体中に小さな擦り傷ができてしまっている。
やがて周囲の状況を確認しようと何とか痛む体を起こして辺りを見回してみると、僕のほんの目と鼻の先に深い草木に隠れるようにして真っ暗な洞窟が口を開けていた。
「なんだろう・・・これ・・・?」
洞窟とは言っても切り立った山肌に空いた穴のような場所らしく、外の明かりが差し込んでいる様子を見る限り奥行きは精々10メートルくらいしかないらしい。
だがその最奥の壁際に何か奇妙な物が見えた気がして、僕はゆっくり起き上がると体の痛みも忘れてその洞窟の中を覗き込んでいた。
「え・・・?何だ、ここ・・・?」
洞窟の入口からすぐに広がっていた、ぽっかりとした部屋のような空間。
その壁に乱反射する外光に照らされて、高さ50センチ程の竜の木像が土台に安置されているのが目に入る。
木像の竜は荘厳に翼を広げて天を仰いだ凛々しい姿をしていて、その右角に当たる部分に何やら黒い指輪のようなものが嵌め込まれていた。
「もしかしてここって・・・竜神様の祠・・・?」
昨夜お婆ちゃんに聞いた竜神様の祠の話が、急速に脳裏に浮かび上がってくる。
でももし本当にここがその祠なのだとしたら、洞窟の入口付近が覆い隠される程の大量の草木が生い茂っていることから見ても人の往来が無くなってから少なくとも数百年は経っているはずだ。
だが目の前に安置されている木像にはまるで数日前に作られたかのように劣化や汚損が全く見られず、その言葉では説明しようのない不思議な美しさを長い時を越えて保ち続けていた。
そして木像の竜の角に嵌っていた黒い指輪に目が行くと、心の中ではいけない事だと思いながらもつい誘惑に負けてそれを手にとってしまう。
「凄いな・・・この指輪・・・」
金属でできているのは確かなようだが、その材質が何なのかは僕には分からなかった。
リングの一部には大きさ1センチ程の小さな、それでいて恐ろしく精巧に彫られた竜の頭が付いていて、古い祠に置かれている物としては明らかに場違いな代物だったと言ってもいいだろう。
しかし子供ながらの好奇心には逆らい切れず、僕は自分の指には大き過ぎるというのに思わずその指輪を左手の中指に通してしまっていた。
シュルッ
「えっ?」
だが次の瞬間、ブカブカだったはずの指輪がまるで僕の指を締め付けるかのようにその径を縮めていた。
そしてきつく締め付けられた指が痛みとともに鬱血し始めた途端に、それまで装飾だと思っていた竜の頭が突然尖った牙を剥いて指輪の嵌っていた僕の指に食らい付く。
ガリッ
「うわあっ!」
短いながらも鋭い牙が突き立てられた激痛と傷口から噴き出した真っ赤な血の勢いに驚いて、僕は思わずバランスを失って背後に倒れ込んでしまっていた。
だが地面に強か打ち付けたお尻の痛みに顔を顰めたのも束の間、さっきまで指に感じていた痛みが全く無くなっていることに気が付く。
「え・・・あれ・・・?」
そして指輪の竜に噛み付かれたはずの左手の中指へと視線を向けてみると、綺麗に治った傷の上に指輪が嵌っていた跡のような黒い帯状の紋様が浮かび上がっていた。
今のは・・・一体何だったのだろうか?
指に嵌っていた指輪は何時の間にか消えてしまっていたものの、確かに感じた竜に噛まれた痛みと奇妙な帯状の黒い紋様がさっきの出来事が決して夢や幻覚ではないことを物語っている。
だが混乱した頭の中を整理しようと大きく息を吸い込んだその時、唐突に僕の背後からくぐもった誰かの声が聞こえてきたのだった。
「フン・・・久し振りにこの祠へやってきた人間が、まさかお前のような年端も行かぬ小僧とはな・・・」
「え・・・?」
その声に驚いて背後を振り向いてみると、何時の間にか体高が2メートル以上もある巨大な黒いドラゴンが洞窟の中に静かに蹲っている。
だが僕の方に真っ直ぐ向けられていたその鋭い紅眼に、僕は一瞬にして全身を恐怖に凍り付かせていた。
「う、うわあああっ!」
そ、そんな・・・どうしていきなりこんなドラゴンが・・・
一目で全体が見渡せる程のさして広くない洞窟なだけに、このドラゴンが最初から洞内にいたはずはない。
それにもし外から入ってきたのなら、この巨体では入口の茂みを音も立てずに通るのは到底無理だろう。
つまりこのドラゴンは、たった今僕の背後に煙のように現れたのだ。
背中に生えた大きな1対の黒翼と後頭部から延びる長い乳白色の双角、そして両手足の指先から生えた刃のように鋭く研ぎ澄まされた長い爪が、ドラゴンの獲物と化した僕の心臓を締め付けていった。
「あ・・・ぁ・・・お、お婆ちゃん・・・助けてぇ・・・」
だが今にも泣き出しそうな崩れた表情でそう呟いた僕に、眼前のドラゴンが何処か面白がっているかのような微笑を浮かべて迫ってくる。
「ククク・・・そう怯えるな・・・我の役目は、その指輪を嵌めた人間の願いを叶えることなのだからな」
「え・・・ね、願い・・・?」
予想だにしていなかったその言葉を聞いて、僕は初めてドラゴンの眼に僕に対する殺気や危険な感情が全く込められていないことに気が付いたのだった。
「ど・・・どういうこと・・・?」
余りにも不可解な出来事の連続で早鐘のように暴れ狂っていた心臓の鼓動を抑えるように、僕はゆっくりと後退りながらそうドラゴンに訊ねていた。
「言った通りの意味だ・・・3つだけ、お前の望みを叶えてやろう。それが、我の存在理由なのだからな」
何でも願い事を叶えてくれるだって・・・?
ということは、このドラゴンがかつて大勢の人々に神として崇められたという例の黒竜なのだろうか。
だが仮にそうだったとしても、突然現れて願いを叶えてくれるというのは幾ら幼い僕にだって流石に疑いの心が芽生えるというものだ。
「本当に・・・それだけなの?」
「何だ、我を疑っているのか?この状況で、我がお前に嘘を吐く理由が一体何処にあるというのだ」
確かに、このドラゴンは洞窟の隅に追い詰められて逃げ場を失っている僕など騙まし討ちなどしなくてもその気になれば何時でも捕まえることができるだろう。
そういう意味では、このドラゴンのことを信用できる理由が全く無いわけではない。
「じゃ、じゃあ取り敢えず・・・僕の怪我を治してくれるかな・・・?」
先程長い坂を転がり落ちたせいで、今の僕は体中に無数の擦り傷や切り傷を負ってしまっていた。
しかも岩や木にぶつけた手足がずっと鈍い打ち身の痛みを訴えていて、正直自力で歩くことくらいはできてもとても跳んだり走ったりできるような状況ではなかったのだ。
「それが1つ目の願いというわけか・・・いいだろう」
やがてドラゴンがそう呟くと、じっと僕を見つめていた紅眼がキラリとした輝きを放つ。
その眩いばかりの閃光に目を閉じた瞬間には、あれ程体中を蝕んでいた痛みが嘘のように吹き飛んでいた。
さっきまで痛々しい傷が付いていたはずの手足を見てみても、何処にも怪我らしい怪我は見当たらない。
「す、凄い・・・」
「これで・・・少しは我を信用する気になったか?」
確かに、一瞬にして全身の怪我を治してしまうなど何か特殊な力でなくては到底不可能なことだろう。
詳しい経緯はまだよく判らないし俄かには信じ難いのだが、このドラゴンが不思議な力で僕の願い事を叶えてくれるというのはどうやら本当の話のようだった。
「う、うん・・・信用するよ・・・でも・・・」
「何だ?」
「願い事なんてそうそうすぐには思い付かなくてさ・・・もう少し待ってもらえないかな?」
それを聞くと、ドラゴンは心底意外だという表情を浮かべて僕の顔を覗き込んでいた。
「すぐには決まらぬ、か・・・フン・・・まあよかろう。だが、願い事を待てるのは30日間だけだぞ」
「30日?もしその期限を過ぎたらどうなるの?」
「それを過ぎたら・・・また我の身がお前の嵌めた指輪に封印されるだけの話だ」
そうか・・・それじゃあやっぱり、このドラゴンは僕が指輪を嵌めたから出てきたのだろう。
だが不自然な程に長く間の空いた何処か歯切れの悪いドラゴンの言葉に、僕は何かしらの嘘が含まれているであろうことも敏感に感じ取っていた。
とは言え、今はそれを詮索するべき時ではないだろう。
「そう・・・じゃあ、それまでの間だけでも・・・僕の友達になってくれないかな?」
「な、何・・・?」
僕の提案に明らかな困惑の色を浮かべた大きなドラゴンの顔を見つめ返しながら、それでも臆せずにその先の言葉を喉の奥から絞り出す。
「僕、この山の傍でお婆ちゃんと2人で暮らしててさ・・・仲の良い友達が誰もいないんだよ」
「それが、2つ目の願いなのか?」
「う、うん・・・そう取ってもらってもいいよ」
その返事にドラゴンは一瞬何かを言いたそうに口を開き掛けたものの、淀み無く答えた僕がどうやら本気でそう言っていることを読み取ったのかそこから何か言葉が出ることはついに無かった。
「・・・・・・」
「どうしたの?急に黙っちゃって・・・僕、何か変なこと言ったかな?」
「いや・・・お前が望めばどんな事だろうと願いが叶うというのに、つくづく欲の無い小僧だと思ってな」
確かに、普通の人ならば何でも願いが叶うと言われれば大概の答えはすぐに出て来るのだろう。
大金持ちになりたいだとか、ずっと若いままでいたいとか・・・願いは人によって様々なのだろうが、まだ6歳の僕にだってそれくらいのことは容易に想像できる。
「うん・・・もちろん分かってるよ。でもお婆ちゃんなら、きっとこうすると思うんだ」
「何故だ?」
「お婆ちゃんは、人は欲を持つからそれが叶わないことに不満や不自由を感じる生き物だって言うんだよ」
その僕の答えには何か思うところでもあったのか、ドラゴンが相変わらずの険しい表情を浮かべたまま僅かに視線を落とす。
「成る程な・・・確かに、お前の言う通りかも知れぬ。まだ幼い割には、随分と利口なのだな」
「そ、そんなことないよ・・・それに、僕の願いならもうあなたに叶えてもらったからさ」
それを聞いて、眼前の巨大なドラゴンが何のことだとばかりに首を傾げる。
「あなたは、何百年も前にこの国を救った竜神様なんでしょ?僕、あなたに会ってみたかったんだ」
「この国を救った・・・か・・・そんな昔のことを、まだ語り継いでくれる人間達がいたのだな・・・」
だが人間達への確かな感謝と僅かばかりの後悔を含んだその何処か沈んだ声に、僕は何だかこのドラゴンにとって触れられたくない場所に触れてしまったかのような雰囲気を感じ取っていた。
「まあいい・・・我にお前の友になって欲しいというのなら、その願いは叶えよう」
「それじゃあ、早くお婆ちゃんのところに戻らないと」
僕はそう言ってドラゴンとともに薄暗い洞窟から出て来ると、天を覆った木々の梢の隙間から差し込んでくる真昼の太陽を眩しげに見上げていた。
さっきは結構長い坂道を転げ落ちてきたような気がしたものの、ふと上を見上げればほんの数十メートル先に僕が足を踏み外した山道が見えている。
背中に背負っていた山菜の籠は木に激突した時に壊れて使い物にならなくなってしまったのだが、それを遥かに上回るドラゴンの友達という収穫に僕は軽快に坂を登り始めたのだった。
「坊や、何処にいるんだい!坊やー!」
やがてドラゴンを従えて元の山道に戻ってくると、遠くからお婆ちゃんが僕を呼ぶ声が聞こえてくる。
そして声のする方に向かってしばらく歩いている内に、山菜で一杯になった籠を抱えながら必死に僕を探すお婆ちゃんの姿が見えてきていた。
「お婆ちゃん!」
「ぼ、坊や・・・ひっ!」
だが僕の声に気が付いてこちらを向いたお婆ちゃんの安堵の表情が、背後にいたドラゴンの姿を認めるや否や激しい恐怖の色に塗り潰されていく。
「お婆ちゃん、大丈夫だよ。このドラゴンが、昨日話してくれた竜神様なんだ」
「りゅ・・・竜神様だって・・・?まさか、この目で見ることができるなんて思わなかったよ・・・」
幸いお婆ちゃんは僕の言葉を聞いて身の危険は無さそうなことをすぐに理解してくれたらしく、つい数秒前まで驚きに見開かれていたお婆ちゃんの目が今度は感動にも似た興奮で更に大きくなる。
「一体、何があったんだい?」
「う、うん・・・多分長くなるだろうから、取り敢えず家に帰ってからゆっくりと話すよ」
僕がそう言うと、話を聞いていたドラゴンがおもむろにその巨大な翼をバサリと広げていた。
「山を下りるのなら、我の背に乗るがいい。空の旅が嫌いでないのならな」
「ほ、本当に?背中に乗せてくれるの?」
「友とは・・・そういうものだろう?」
見る者が見れば震え上がるであろう恐ろしげな紅眼に微かな笑みを浮かべながら、ドラゴンがそう呟く。
そのドラゴンの言葉に、僕は思わずお婆ちゃんと顔を見合わせていた。
「坊やと竜神様の間に何があったのかは知らないけど、それじゃあお言葉に甘えさせてもらおうかしらね」
だが意外にもその提案を僕より先に受け入れたお婆ちゃんが、背負っていた山菜の籠をドラゴンに預けてその背中に攀じ登っていく。
その何処か不思議な光景に僕も我を取り戻すと、お婆ちゃんに遅れまいとドラゴンの背に飛び乗っていた。
「しっかりと掴まっているのだぞ。特に小僧、お前はな・・・」
「え?う、うん・・・大丈夫だよ」
やがてそんな遣り取りを終えた数秒後、バサッという大きな羽ばたきとともに巨大な竜が天に舞い上がる。
だが木々の梢を擦り抜けて快晴の空の下に飛び出すと、山の麓に佇む僕達の家はすぐに見つかった。
「あそこだよ!」
激しい風の音の中でもそんな僕の声を聞き取ったのか、ドラゴンが眼下に見える小さな家へと首を向ける。
そしてゆっくりと翼を広げたまま滑空すると、ドラゴンがフワリと静かに家の前へと着地していた。
「ここで良いのか?」
「うん、ありがとう」
「ありがとうございます、竜神様」
お婆ちゃんはそう言うと、僕とドラゴンをその場に残したまま一足先に家の中へと入っていった。
「どうしたのかな、お婆ちゃん・・・何時もはもっと僕に世話を焼きたがるのに」
「我に遠慮しているのだ。恐らくは、我らの関係も想像が付いているのだろう」
確かに、先程ドラゴンの提案をすぐさま受け入れたことから考えても決してお婆ちゃんがこのドラゴンに疑念や必要以上の恐れを抱いているわけではないことは僕にも分かる。
「そっか・・・じゃあ、ちょっとそこで話をしない?家の裏手に、少し広い庭があるからさ」
「いいだろう」
そんなドラゴンの返事を確かめると、僕は様々な食用植物の植わった裏庭にドラゴンを案内していた。
冬が近いとは言えまだ辺り一面を覆っている短い芝生は青々と茂っており、ドラゴンが少しばかり心地良さそうに地面の上に蹲る。
「それで・・・何を話したいのだ?」
「う、うん・・・その前にさ、僕はあなたのことを何て呼べばいいのかな?」
「我には名など無い。竜神とでもドラゴンとでも、お前の好きなように呼べば良いではないか」
例を挙げた中に竜神という言葉が出てきたということは、案外そう呼ばれるのも満更ではないのだろうか?
「じゃあ、僕もお婆ちゃんに倣って竜神様と呼ぶことにするよ」
「・・・フン・・・お前はつくづく、変わった小僧なのだな・・・」
「どうして?」
僕がそう聞き返すと、竜神様が少しばかり僕から視線を外す。
「これまで我の姿を見た人間は、大抵がビクビクと恐れ戦きながら我に接していたものだ」
まあ、普通はそうなるのが当たり前だろう。
僕だって昨日お婆ちゃんから竜神様の話を聞いていなかったとしたら、こんなに冷静でいられたかどうかは甚だ疑問だった。
「確かに最初にその紅い眼で睨み付けられた時は凄く怖かったけどさ・・・今は全然平気だよ」
「この眼か・・・これは、本来の我の眼ではないのだ」
「え?どういうこと?」
思わぬところから竜神様の秘密の一端が垣間見えたことで、僕はつい反射的にそう聞き返していた。
「この眼は・・・竜の神が持つ特殊な眼なのだ。そしてそれと同時に、我に課せられた罰でもある」
竜の神が持つ特殊な眼?それに罰だって?
一体、竜神様は何を言っているのだろうか?
だが特に訊ねなくてもその先を語ってくれそうな雰囲気に、僕は黙って竜神様の次の言葉を待っていた。
「もう何百年前のことになるのか・・・その昔、我はそこの山に棲んでいたただの竜でしかなかった」
ただの竜・・・ということは、僕の怪我を一瞬にして治したような特殊な力は無かったということだろう。
「人間達との関わりもほとんど無く、それ故に人語を理解することも話すこともできなかったものだ」
「それが、どうして今みたいなことになったの?」
「切っ掛けは、人間を襲わなかったというだけで我を神として敬ってくれる人間達が出始めたことだった」
お婆ちゃんの話からすれば、恐らくそれが丁度今から600年程前のことなのだろう。
「尤も、それが原因で人間と関わりを持ち始めたわけではなかったのだがな・・・」
「じゃあ・・・」
「やがて、人間達の間に大きな戦が起こった。我の山を越えて、大勢の人間がこの国に雪崩れ込んだのだ」
400年前に起こった、山を挟んだ隣国との大きな戦争。
最終的には竜神様が加勢してくれたお陰で勝利したということだが、その時までは竜神様も人間とはまるで関わりを持っていなかったというのだろうか?
「初めは我もその様子を静観していたのだが、次第にこの国の人間達の旗色が悪くなり始めてな・・・」
「それで、人間達に手を貸してくれたの?」
「我を神として崇めてくれる者達がいる以上、彼らを見殺しにすることがどうしても心苦しかったのだな」
成る程・・・ということは、正にこの国の人々の竜神様への思いが通じたということなのだろう。
「でもお婆ちゃんの話だと、その後竜神様はほとんど人前に姿を現さなくなったって聞いたよ」
「神の・・・咎めを受けたのだ」
「え・・・?」
そう言って竜神様の方に顔を向けると、その険しい顔に深い後悔の色が滲んでいた。
「人間が神を崇めるのと同じように、我ら竜族にも強大な力を持った竜の神がいてな・・・」
「本物の・・・竜神様・・・?」
「人間は竜族にとって天敵たり得る唯一の種・・・故に、竜の神は人間の存在を快くは思っておらぬのだ」
まあ、その理屈は何となく分からないでもない。
人間だって、人にとって害悪となるものから身を護ってもらえるよう神に願うのが当たり前なのだから。
「もちろん、人間も自然界に生きる生物である以上竜の神が徒に人間に危害を加えることはない」
僕はその竜神様の言葉にホッとしながらも、裏に隠されている別の意味もまだ同時に悟ってしまっていた。
「だが自ら進んで人間達の争いに加担した我を、神は決して許さなかったのだ」
人間達の争いが終結を迎えてから3日後、我は山頂近くにある住み処の洞窟で平和な一時を過ごしていた。
山の中腹にあるという我を祀った祠には戦の勝利を記念して我の姿を模った木像が置かれたらしいから、後で人間達がいなくなった深夜にでもその出来を確かめに行ってみるとしよう。
そしてそんな何処か幸せな転寝に興じていると、不意に我の視界が真っ暗な闇に閉ざされていた。
「な、何だこれは・・・?」
ついさっきまで真昼の陽光が洞内に差し込んできていたから、突然夜になったというわけでもないだろう。
それにたとえ月明かりや星明りの無い漆黒の闇夜でも、ものの数秒もすれば眼が慣れてくるはず。
だが何時まで経っても何も見えてくる気配が無いことに若干の焦りを感じ始めたその時、突然我の前に美しい白鱗を纏った雌の巨竜が姿を現していた。
「う・・・だ、誰だ?お前は・・・」
余りにも突然の出来事に思わずそう口走った数瞬後、しまったという思いが脳裏を駆け巡る。
古来より、竜族にとっての白竜は神の使いか、或いは神そのものであったことを思い出したのだ。
だがそんな我の失言を特に気に留めた様子も無く、突如として眼前に現れた白竜はその双眸に嵌った轟々と燃え上がる炎のような紅眼で静かに我を見つめていた。
「お前は、私が人間の存在を快く思っていないことを承知で人間達に手を貸しましたね・・・?」
キンと脳裏に響くような甲高い、それでいて何処か荘厳さを感じる神の声が周囲に響き渡る。
"わ、我はただ・・・"
しかし反論しようにも我の体はまるで石になってしまったかの如く固く硬直していて、我は身動き1つできぬままこの身に投げ掛けられるその声を黙って聞いていることしかできなかった。
「人間達に神として崇められたことで、お前が何とかその思いに応えようとしたことは分かります」
穏やかな物言いとは裏腹に確かな怒りを内包しながら我の眼を見つめているその鋭い神の眼光に、我は背筋が冷たくなる程の凄まじい恐怖を感じていた。
神の意志に逆らった者がどうなるのかは分からなかったものの、こうして我の前に姿を現したからには神は我に何らかの制裁を加えるつもりなのだろう。
「しかし・・・私の意志に背いたお前には、相応の罰を下さねばなりません」
そしてそんな恐ろしい言葉が聞こえた次の瞬間、我は大きく見開かれた神の紅眼が妖しい輝きを放ったのを半ば絶望的な思いで眺めていることしかできなかった。
神は・・・一体我をどうするつもりなのだろうか・・・?
体の自由が利かぬ以上それがどんなに恐ろしい神罰であろうとも甘んじて受け入れなければならないという極めて危機的な状況に、紛れも無い恐怖心の溶け込んだ唾液がゴクリと喉を滑り落ちていく。
「お前が私の意志に反してでも人間に与したいというのであれば、私がその為の力を授けましょう」
な、何・・・?我は・・・罰を受けるのではないのか・・・?
てっきり想像を絶するような痛みや苦しみを伴う辛辣な罰を想像していただけに、我はその神の言葉を聞いて迂闊にも思わず安堵の感情を芽生えさせてしまっていた。
だがそんな我の胸中を知ってか知らずか、神がなおも淡々と先を続ける。
「これから、お前の魂は1つの指輪に封印されます」
ふ、封印だと?
いや・・・目の前に竜の神が現れた時から、元より死をも覚悟していた身だ。
その程度のことならば、寧ろ寛大過ぎる処置だと言ってもいいだろう。
「そしてその指輪を嵌めた人間の求めに応じて、3度まで神の力を使うことを許します」
成る程・・・それが我に与えられる、人間の為の力というわけか。
神の力というからには、恐らくどのような奇跡でも起こすことができる究極の力なのだろう。
「但し・・・人間の求めに応じずに力を行使したその時は、お前が死ぬということを覚えておきなさい」
神は我にそれだけを言い残すと、現れた時と同じように唐突にその姿を消していた。
「そ、それから・・・どうなったの?」
「祠に置かれた木像に不滅の印が掛けられ、その角に我の魂を宿した指輪が安置されるようになったのだ」
不滅の印か・・・あの竜の木像を見た時にまるで作られたばかりの真新しい物のように感じられたのは、実際に作られてから数日後にその不滅の印とやらを掛けられたからなのだろう。
「僕の他にも、指輪を嵌めたことのある人っているの?」
「何人かはな・・・だが我の姿に怯えたのか、大胆な願いを叶えようとした人間は皆無だった」
「はは・・・まあ、そうだよね。使い方を間違ったらとんでもないことになるんだし・・・」
もし大きな欲望や善からぬ企てを秘めた人間が過去にこの指輪を見つけていたら、これまでのような平穏な時代は続いていなかったのかも知れない。
だが幸運にも400年近い長い歴史の間にそうはならなかったことを考えると、案外このドラゴンに力を授けたという本物の竜神様はそういったことまで見通していたのだろう。
「ありがとう。凄く面白かったよ。お昼ご飯を食べたら、また何か話をしてもいい?」
「あ、ああ・・・」
「やった!じゃあ、ちょっと待っててね」
・・・駄目だ・・・やはり我に、本当のことなど言えるはずが無い・・・
無邪気な笑みを浮かべて家の中へ入っていく小僧の背中を見送りながら、我は今頃になって重苦しい罪悪感に苦しみ始めていた。
そう・・・初めは我も、これが心ある者の願いにより人間を助ける為の救済か、或いは邪心を持つ者による愚かな人間達の自滅を期した竜の神の試練なのだと思っていたのだ。
初めて我の指輪を嵌めた人間の前に姿を現してから・・・30日が経ったあの時までは。
祠に安置された我の指輪を最初に嵌めたのは、町に住んでいた1人の若者だった。
大金が欲しい、不老長寿になりたい、美しい娘を娶りたい・・・
突然背後に姿を現した我に半ば怯えながらも若者が口にしたその3つの願いは、まあある意味で月並みな物だったのかも知れない。
その全ての願いを即座に叶えてやると、若者は我に厚く礼を言って祠から出て行ったものだ。
そしてそれから毎日のように祠でとぐろを巻いていた我に様々な供え物を持ってきた若者の姿を見る度に、我は内心本物の神になったかのように得意になっていた。
だが若者が指輪を嵌めてから30日が経った頃・・・
それまで1日たりとも我への供え物を絶やさなかった若者が、突然姿を現さなくなった。
尤も我はその時にはまた指輪に戻っていたから特に気にも留めなかったのだが、後で別の人間から聞いたところによると、その若者は30日目の朝を目覚めることなく静かに息を引き取ったらしかった。
毎日顔を合わせていただけに、その人間の死が我にとって大きな衝撃だったのは言うまでも無い。
しかしそれでいながら、我は迂闊にも彼に不可思議な死をもたらした原因が指輪を嵌めたことだとはどういうわけか露程も考えなかった。
いや・・・もしかしたら、頭の片隅に芽生えたその想像を理性が必死に否定していたのかも知れない。
だが当時の真相がどうであれ、指輪を嵌めた人間が30日後に命を落とすという悲劇はそれからも続いた。
そしてそれらが町の人間達の間に良くない噂として広まったのか、8人目の人間が指輪を嵌めたのを最後に我の祠を訪れる人間はほとんどいなくなってしまったのだった。
あれから400年・・・時の流れに忘れ去られた我の祠を偶然にも見つけ出して指輪を嵌めてしまったあの小僧は、後30日で静かに死を迎えることになるのだろう・・・
過去には指輪を嵌めた人間にその事実を打ち明けようとしたこともあるのだが、どうやら神から与えられた人語を操る能力ではその運命を人間に話すことは禁じられているらしかった。
竜の神にとっては奇跡の力で願いを叶えたことへの代償という程度の認識なのだろうが、我にとっては自身の試練の為に失われていく人間の命が途方も無く重い物に感じられてしまう。
そう考えれば、これが何と残酷で救いようの無い罰なのかが良く分かる。
決して肉体的な苦痛を伴うことはないというのに、永い永い封印の年月が、それと知らず限られた命を精一杯に楽しむ人間の姿が、失われた命を前にした自責の念が、我の心を執拗に苛むのだ。
やがて昼食を終えたらしい小僧が楽しげな表情を浮かべて家から出て来たのを見て取ると、我は暗い追憶の彼方に向けていた意識を現実に引き戻していた。
仕方無い・・・今更我がどう足掻いたところで、あの小僧に掛けられた神の呪いを解くことはできぬのだ。
ならばせめて、我に友になって欲しいと言ってくれたあの小僧の為に我が身を尽くすことにしよう。
「お待たせ、竜神様!」
「別に構わぬ・・・それで、今度は何が聞きたいのだ?」
「うん・・・それなんだけどさ・・・竜神様って、実はあんまり聞かれたくないことが多いんじゃない?」
その言葉を聞いた瞬間、我はドキリと跳ね上がった心臓の鼓動が幸いにも小僧の耳には届かなかったことに心の底から安堵していた。
「な、何故そう思うのだ?」
だが流石に動揺までは完全に隠し通すことができず、詰まった声が僅かばかり上擦ってしまう。
「さっきお婆ちゃんと色々話をしててさ・・・竜神様、たまに僕から視線を外すでしょう?」
我が、視線を外す・・・?
確かに先程話をしていた時も、何度か無意識に小僧から視線を離していたことはあったと思うが・・・
「お婆ちゃんがさ、"竜は眼で感情を読み取ったり伝えたりする生き物だ"って教えてくれたんだよ」
「・・・それで・・・?」
「だから竜神様が僕から目を逸らすってことは、深入りされたくない話題があるのかなって思ったんだ」
無邪気というよりは寧ろ何処か我を心配しているかのような表情を浮かべてそう話す小僧の姿を見て、我は静かな驚愕が胸の内に競り上がってくるのを感じていた。
秘め事を見抜かれたからではない。
この小僧は、本心から我のことを気遣ってくれているのだ。
「フン・・・お前も、お前の祖母も・・・随分と聡い人間なのだな・・・」
「だからさ、代わりにまた背中に乗せてよ」
「いいとも・・・我の背がそんなに気に入ったのか?」
そう言いながらその場に小さく身を屈めた我を見て、小僧が嬉しげに背中へと飛び乗ってくる。
「それで、何処か行きたいところでもあるのか?」
「そうだな・・・竜神様が昔棲んでいたっていう洞窟はまだあるの?」
「まだあるかどうかは分からぬが・・・強固な岩窟だ。そう簡単には消えはせぬだろう」
我はそれだけ言うと、小僧の返事を待たずに再び大空へと舞い上がっていた。
「わあっ・・・」
先程は祖母とともに初めて空を飛んだのでそれどころではなかったのだろうが、1人でゆっくりと高空から大地を見下ろした小僧の口から感嘆の声が漏れ聞こえてくる。
「気分はどうだ?」
「最高だよ。ずっと・・・竜神様と一緒にいられたらいいのにな・・・」
だが続いて聞こえてきたそんな小僧の声を聞いて、我は山の上空を飛びながら密かに胸を痛めていた。
やがて紅葉に色付いた森の様子を眺めながら遥か昔の記憶を辿っていくと、ようやく微かな記憶に残っている景色が眼下に展開する。
そしてかつての住み処があった近辺に降りられそうな森の切れ間を見つけ出すと、我はゆっくりとその色鮮やかな木々の穴の中へと滑り下りていった。
バサッ・・・バサッ・・・
大きく羽ばたいた黒翼の風圧が赤や黄色の木の葉を振り飛ばし、周囲に美しい紅葉の嵐が吹き荒れていく。
我がまだこの辺りに住み処を構えていた頃は、こんな幻想的な光景が毎年のように楽しめたものだった。
指輪に封印されるという神の罰によってそんな当たり前の楽しみさえ失ってしまっていたことに気が付き、改めて自身が置かれている境遇の辛さを再認識してしまう。
だが背中に乗っていた小僧にはそういった我の複雑な心中など読み取れるはずもなく、すぐ近くにぽっかりと口を開けていた大きな洞窟の姿を目にして興奮を隠し切れないようだった。
「凄い!こんなに大きな洞窟に棲んでたんだね!」
「流石に当時はこれ程の深い草木には覆われていなかったのだがな・・・懐かしいものだ」
そう言った竜神様の声が何処か懐古的な響きを帯びたことに気付いて、僕はふと洞窟に向けていた視線を竜神様に戻していた。
「この洞窟・・・中に入っても大丈夫?」
「怪我をしたくないのなら止めた方が無難だろう。暗い上に奥は深く、足場も平坦なものではないからな」
「そっか・・・でも来て良かったよ。何だか、竜神様も気分が落ち着いたみたいだし」
それを聞いた途端に、竜神様がびっくりしたような表情を浮かべて僕の方を見つめてくる。
「我が・・・だと?まさか、お前はその為だけに我をここへ連れてきたのか?」
「だって竜神様・・・僕が昼食を終えて戻って来た時からずっと思い詰めたような顔してたからさ・・・」
何ということだ・・・
こんな小僧にさえ見抜けてしまう程に我が暗い感情を表に出していたということももちろんなのだが、我の気分を変える為だけに小僧が我をここへ連れてきたという事実に、我は驚愕を隠せなかった。
普通の人間が見れば間違いなく恐れ戦くはずの我の姿にさえ一切臆することなく、この小僧は本当に我を対等な友として大切に扱おうとそのまだ幼いはずの心を砕いてくれているというのか。
幾ら自身の命が危機に瀕しているという自覚が無いとは言え、自分を差し置いて人間でもない我の為にここまで気を遣うことのできるこの小僧に我はますます深く惹かれていったのだった。
小僧と過ごす楽しい日々は、正しく剛弓の元から放たれた矢の如くあっという間に過ぎ去っていった。
気が付けば命の期限である30日目はもう明日へと迫り、最後の・・・いや、最期の我との一時を終えて家への岐路に就いた小僧の顔に確かな寂寥感が如実に表れている。
そして何時ものように小僧を背に乗せたまま家の前にそっと降り立つと、我は何処となく沈んだ様子の小僧に遠慮がちに声を掛けていた。
「今日で・・・我らが共に過ごすのも最後になるのだな・・・」
「うん・・・でも僕・・・本当はもっと・・・ずっと竜神様と一緒にいたいよ・・・」
「残念だが、それはできぬのだ・・・明日になればお前は・・・」
思わずそこまで言い掛けて、死の運命はどうしても告げることができぬことを唐突に思い出してしまう。
「指輪に戻った我がこの場から消えてしまっていることに気が付くだろう」
「分かってる・・・それは分かってるよ・・・だけどそれって・・・願いでも覆せないのかな・・・?」
「な、何・・・?」
不意に耳へと届いてきたその言葉に、我はまだ小僧の願いを2つしか叶えていないことを思い出していた。
「だって僕、もう1つ願いを叶えて貰えるはずでしょ?竜神様の封印を、それで解くことはできないの?」
我の封印を解きたい・・・?それが、この小僧の3つ目の願いだと言うのだろうか?
「本気で言っているのか・・・?どんなことでも叶う力なのだぞ?我のことなど・・・」
「だからだよ!僕・・・どうしても竜神様と一緒にいたいんだ・・・ねえ、試してみてよ」
馬鹿な・・・確かにこの力は神から授かった奇跡の力、この世でできないことのない究極の力だ。
しかし幾らなんでも、神の罰から解放されるなどということが果たしてできるのだろうか?
だが我との別れを惜しむ涙で潤みながらも真っ直ぐにこちらを見据えている小僧の力強い目を見てこれ以上の説得は無駄だと思い知ると、我はそっと自身の解放を神に祈っていた。
次の瞬間、願いを聞き届けた我の紅眼がキラリと鋭い光を放つ。
それと同時に小僧の指に残っていた黒い指輪の紋様がまるで蒸発するかのように消えてなくなり、我は400年振りに紛れも無い自由を取り戻すことのできた感触に歓喜を覚えていた。
「お・・・おおお・・・」
「ど、どう・・・?もしかして・・・封印が解けたの・・・?」
まだ自分の指に起こった変化に気が付いていないらしい小僧のその期待を孕んだ声に、本当に神の罰から解放されたのだという実感が遅れて湧いてくる。
「どうやら、そのようだな・・・その証拠に、お前の指の紋様も消えているだろう?」
「え?ほ、本当だ・・・それじゃあ竜神様は、これからもずっと一緒にいてくれるんだね?」
しかしそんな小僧の心底嬉しそうな問い掛けの言葉に、我はどうしても返事をすることができなかった。
確かに、我の指輪への封印はこれで解けたのだろう。
だがこの小僧の命が、明日には消えてしまうという事実には変わりがないのだ。
今ここで肯定の返事を返して小僧を喜ばせたままその最期を看取ることもできなくはないのだが、恐らくは満足げな笑みを浮かべたまま逝くであろう小僧を見て我の心が耐えられる保証は無い。
それ程までに、今やこの小僧の存在は我の中で遥かに大きな部分を占めるようになっていたのだった。
「ねえ・・・いて、くれるんでしょ・・・?」
やがて我からの返事が無いことを不審に思った小僧から念押しの一言を投げ掛けられると、何とかその場を取り繕おうと慌てて脳裏に思い付いた返答を口にする。
「そ、そうだな・・・その返事は・・・明日まで待ってくれぬか?我もまだ、心の整理が付かぬのだ」
「あ・・・そ、そうだよね・・・じゃあ、今日はもう夕食を食べて早く寝るよ。明日、返事を聞かせてね」
「あ、ああ・・・」
そう言って家の中に駆け込んでいく小僧の姿を見送りながら、我は悔しさにギュッと拳を握り締めていた。
その日の夜・・・
自室のベッドで眠りに就いた小僧を開けたままの窓から覗き込みながら、我はぽっかりと穴の空いてしまったような気がする空虚な心を持て余していた。
やがて小僧が眠りに就いたことを確認しに祖母が部屋へやってくると、彼女が開け放していた窓を閉めようと我の前へと近付いてくる。
「あら、これは竜神様・・・どうかしたのですか?」
「いや・・・何でもないのだ・・・済まぬが、この窓は開けたままにしておいてもらえぬか?」
「え、ええ・・・わかりました。竜神様がそう仰るのなら・・・」
季節はもう冬。
恐らくはこの祖母も、冷たい夜風で小僧が身を冷やすことを危惧しているのだろう。
しかし流石に我の頼みとあっては断ることができなかったらしく、彼女は多少乱れていた毛布を整えて小僧に掛け直すと静かに部屋を出ていった。
「小僧・・・」
微かに聞こえている小僧の心臓の脈動に耳を澄ませながら、我は小声でそう呟いていた。
しかしもう完全に眠りに落ちてしまっているのか、小僧が反応を示す様子はない。
思えばこの4週間余りの間、我らは実に色々な体験をしたものだった。
山を越えて隣国の様子を見に行ったところを見つかって、小さな騒ぎになったこと。
屋外で起こした暖かい焚火を囲んで小僧と思い出を語らい合ったこと。
時にはこの国の歴史に明るいあの祖母に、我が見聞きしたことのある経験を話して聞かせたこともある。
極限られた人間達との関わり合いではあったものの、この小僧と過ごした期間は我の生涯の中でも特別なものだった。
だがそれも、もうすぐ終焉を迎えることになるのだろう。
日付が変われば小僧は・・・まるで眠るようにその息を引き取るはずなのだ。
竜の神に掛けられし死の呪いは、結局我にはどうすることもできなかった。
もう指輪に封印されてあの寂しい山で過ごす必要はないとはいえ、確かな友としてこれまで過ごしてきた小僧を失う悲しみが徐々に胸の内に膨らんでいくのが自分でも良くわかる。
そしてそんな感情の奔流に押し流されそうになったその時、我は不意に眼前の小僧の命の拍動が突然ピタリと止まってしまったことに気が付いたのだった。
「小僧・・・?小僧・・・!」
隣室で眠りに就いているのであろう祖母を起こさぬように、我は努めて小声で小僧にそう声を掛けていた。
だがいくらその耳元に呼び掛けの言葉を囁いてみても、幾ら指先で小僧の肩を揺すってみても、眼前の小さな人間が目を覚ます気配はもう無い。
小僧の魂は・・・竜の神の呪いによって既に天に召されてしまっていたのだ。
「こ、小僧・・・」
小僧が死んでしまった・・・
改めてその事実を認識した途端、我は自身の双眸から大粒の涙が零れ落ちた感触に震えていた。
本当は我も今この瞬間まで、もしかしたら我の封印を解いた小僧は死なずに済むのではないかと胸の内に密かに淡い期待を抱いていた。
だが今し方目の前で小僧の命が消え去った瞬間を目撃してしまい、唐突に突き付けられた無慈悲な現実に絶望の2文字が脳裏を埋め尽くしていく。
そして行き場を失った様々な激しい感情の奔流に心の堤防が脆くも砕け散ってしまうと、我は寒風吹き荒ぶ冬の空に向けて心の底から恨み事を叫んでいた。
「竜の神よ!何故・・・何故なのだ・・・何故この小僧を殺したのだ・・・!」
止め処無く溢れ出してくる悲哀と絶望の染み込んだ涙の塩辛さを感じながら、我はなおも声を張り上げる。
「こんなにも無欲で素直な罪の無い少年さえ・・・我は贖罪の為の犠牲にせねばならぬというのか・・・」
だが生まれて初めて感情的に叫んだその声に、竜の神からの返答は無い。
そこにあるのはただ、甲高い風の音と煌めく星々に彩られた漆黒の夜空だけだった。
「う・・・うっう・・・小僧・・・許してくれ・・・」
一切の苦痛も無く息を引き取った小僧は、きっと自分が死んだことにさえ気付くことは無かったのだろう。
心臓が動いていないことを除けば眠っているのと区別の付かぬ穏やかなその表情が、殊更に我の心を罪悪感という名の刃で深く大きく抉り取っていった。
・・・一体、それからどれ程の時間が経った頃だろうか・・・
我は顔を地に伏したまま、ただひたすらに小僧の死を悼んでいた。
だが徐々に白み始めた東の空から朝の気配が近付いてくる感覚に、何故かふと神の言葉が思い起こされる。
"指輪を嵌めた人間の求めに応じて、3度まで神の力を使うことを許します"
"人間の求めに応じずに力を行使したその時は、お前が死ぬということを覚えておきなさい"
そうだ・・・我は確かに小僧の願いを3つ叶えはしたものの、神の力はまだ2回しか使っていないはず・・・
神の言葉を正確に解釈するのなら、我はもう1度だけこの力を使うことができるはずなのだ。
しかしそれには、この我の命を代償に差し出す必要がある。
もし仮に我がこの小僧を生き返らせたとしても、小僧は息絶えた我の姿を見て何と思うことだろう・・・
できることなら、この小僧の命を取り戻してやりたい・・・
その為に自身の命を投げ出せというのなら、我は喜んでそうすることだろう。
しかしそれでこの小僧が喜んでくれるのかというところにまで想像が及ぶと、我はどうしてもその最後の一線が踏み越えられずにいた。
決断を下すのは小僧が死んだことを誰も知らぬ今しかないというのに、困難な選択が容赦無く我を窮地へと追い詰めていく。
だが何処までも何処までも執拗に続く神の試練に悩まされ続けている自分自身に決別の意を決すると、我は禁を破って小僧の蘇生を神に祈っていた。
そして紅眼が眩い輝きを放ったかと思うと、突然激しい眩暈を感じてドサリとその場に倒れ込んでしまう。
「ぐ・・・う・・・」
やがてゆっくりと死に向かって薄れていく意識の中で、我は辛うじて聞き取ることのできた小僧の心臓の鼓動が復活した音に精一杯の笑みを浮かべたまま目を閉じていた。
意識と記憶の終末から少しして・・・ふと気が付けば、我は何時の間にか一面何も見えぬ暗闇の中にいた。
これが死の世界というものなのかと、一瞬間抜けな思考が脳裏を過ってしまう。
だがその数秒後、あの時と同じように突然神々しい白鱗を煌めかせた竜の神が我の前に姿を現していた。
「・・・どういうことだ・・・?我はもう死んだのだろう?今更、神が我に一体何の用があるというのだ」
「大したことではありません・・・私はただ、お前の行動に少しばかり感銘を受けたのです」
「感銘を受けただと!?あの小僧の命を奪っておいて、よくも抜け抜けとそんなことが言えたものだな!」
もうどうせ死んだ身だと思い、我は竜の神を相手にしているのにもかかわらず心の底から精一杯の憎しみを込めてそう吐き捨てていた。
「罰から解放されてこれから自由な生活を送れるというのに、お前が禁を破ったのは私にも予想外でした」
「フン・・・たとえあのまま生き永らえたとしても、我は小僧を殺したことで永遠に苦しみ続けたはずだ」
「しかし生き返ったあの少年は今、お前の死を大変に悲しんでいます。お前は、それでも良いのですか?」
だがやがて神の放ったその言葉に、胸を貫き通されたかのような激しい痛みを感じてしまう。
「そ、それは・・・我に・・・一体どうしろと言うのだ?」
「別に何も。私はただ、お前が命を捧げて救ったあの少年に免じてお前の死を許そうと言っているのです」
我の・・・死を許すだと・・・?
つまりそれは、神の禁を破って力を使ったにもかかわらず我を生き返らせてくれるということか?
「ほ、本当に・・・我を生き返らせてくれるというのか?」
「お前は既に神の罰を受け終えた身・・・私がお前を生き返らせたところで、誰も咎めはしないでしょう」
神はそう言うと、その紅く燃える双眸を大きく見開いていた。
「私もお前とあの少年に、人と竜が共に手を取り合って生きていくことができるのだと教えられたのです」
やがてその言葉が終わるとともに、神の紅眼が奇跡を起こすべくキラリとした輝きを放つ。
「さあ、彼を余り悲しませぬ内に早く戻りなさい・・・但し、お前に預けた力は全て返してもらいますよ」
そして再び姿を消した神に感謝の念を抱きながら、我は闇の淵に落ちた意識を現実に引き上げていった。
「竜神様!竜神様!どうしちゃったの・・・?早く目を開けてよ・・・ねぇ、竜神様・・・!」
耳元で泣き喚くそんな小僧の甲高い声が、黄泉の国から舞い戻った我の意識を急激に覚醒する。
我の顔を抱いて胸に押し付けているらしいその少年の必死な様子に、我は大きな幸福感が心中を満たしていくのを実感していた。
我に預けた力は全て返してもらう・・・か・・・
人語を解す能力も元はと言えば神から授けられた力の1つだったはずなのだが、どうやらそれだけは我への餞別代わりにそのまま残してくれたということらしい。
だが、これ以上死を装って徒に小僧を悲しませるわけにはいかぬだろう。
我はそう心に決めると、そっと閉じていた眼を開いていった。
「小僧・・・そんなに泣き腫らして一体どうしたというのだ?」
「ああっ!竜神様・・・良かった・・・僕、竜神様が死んじゃったと思って・・・」
そして何事も無かったかのように涙に濡れた小僧の顔を見つめ返してやると、不意にその歓喜の表情が微かな驚きのそれに切り替わっていく。
「あれ?竜神様・・・眼が青くなってる・・・」
「ああ・・・これが、我の本来の眼の色なのだ・・・神の力を失って、我の眼も元の色に戻ったのだろう」
「そうだったんだ・・・でも、青い眼の方が僕は好きだよ。何だかカッコいいもの」
そんな無邪気な少年の言葉に、我も思わずフッと笑みを零してしまう。
「あ、それでさ・・・昨日の返事、聞かせてもらってもいいかな?」
昨日の返事か・・・まさか実際にそれを聞かれることになるとは思っていなかっただけに我は一瞬言葉に詰まってしまったものの、幸いなことに返答はすぐに脳裏に浮かんでいた。
「寧ろ、それは我の方から頼むのが筋というものだろう。小僧・・・生涯、我の友でいてくれぬか?」
その日から、少年とかつて神だった黒いドラゴンは生涯を共に歩むことを誓い合った。
ドラゴンとともに暮らす少年はその86歳の長い生涯に幕を下ろすまでに数々の波乱に満ちた実に刺激的な人生を送ることになったものの、そこには常に竜の神の手厚い加護があったという。
そして長き時を共に過ごした伴侶を失った黒いドラゴンはその後、再びかつての住み処だった山中の洞窟に移り住んで人間達を護りながら平和な余生を送ったということだった。
完