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別れを言う理由なんて、どこにもない

作者: 庭の鰐

 熱い。

 目が覚めて最初に思ったのは、それだった。

 夏休みの宿題から逃げ、離れの縁側で寝ていたら、鬱陶しいほどの熱さと、気持ち悪いほどじっとりとした汗で、最悪な目覚めとなった。扇風機はないか、団扇はないか、扇子はと辺りを見回していると、カランという涼しげな音が聞こえた。音のする方を向くと、着流し姿で麦茶を持っている叔父の姿があった。

「杏子ちゃん。おはよう」

 壁にかけてあった振り子時計はお昼を指していたけれど、私が眠りから覚めたから「おはよう」なんだろうなと思い、私もおはようと言った。叔父は氷の入った麦茶という最高の物を渡してくれ、私はそれを一気に飲み干した。

 コップをちゃぶ台の上にダンッと置いて、私は扇風機の前に移動し、裏にある突起部分を上げて固定、扇風機を独り占めすることに成功した。

 そんな私を怒りもせず、叔父は団扇を煽いで麦茶を飲む。

 叔父は私に甘かった。

 それは私が生まれた時から変わらない。

 変わらないといえば、叔父は若い。

 確か今年で三十くらいになっているはずなのに、五年くらいは見た目が変わっていないように思えた。

 しかもイケメンだ。

 お陰で周りの男子が劣って劣って、私の目には映らない。

 どうしてくれるんだと、じとっと叔父を見る。

「ん? どーしたの?」

 優しく笑って言うものだから、私はなんでもないと言ってそっぽを向いた。これだから叔父さんは。まったくもって、まったくもって、大好きだ!

「叔父さん叔父さん。抱っこしてみ。ほれ、私のこと抱っこしてみーよ」

 叔父のそばで喚けば、叔父は仕様がないなぁと私を抱っこしてくれた。子供の頃はよく抱っこしてくれたけれど、今の私は女子高生で、抱っこなんて年ではない。けれど、私はついつい叔父に甘えてしまうのだ。

「姉さんと何かあったでしょ? これだけ甘えるということは、喧嘩でもしたのかな?」

 さすが叔父。なんでもお見通しだった。

「よし。アイスをあげるから、俺に話してみなさい」

「どーせ安いのでしょ?」

「高い方にするから、話して下さい」

 食い下がり、叔父は下手に出る。

「よっしゃー!」

 母親と喧嘩した後はいつもこうだ。

 叔父の住む離れに私が逃げ込み、叔父は聞き出そうとお菓子で釣り、私が図々しくも高いものを強請る。

 高いカップアイスをプラスチックのスプーンで口に運び、私は幸せ気分だ。胡座でいる叔父の肩に、勝手に肩車という形で座り、アイスの美味しさにスプーンは止まらず、あっという間にアイスは無くなった。

「そろそろ話してみない?」

 ずっとされるがままで待っていてくれた叔父は、アイスの無くなったカップとスプーンを私の手からちゃぶ台に置いてくれ、そろそろ肩が限界かもと弱音を吐き出した。私は仕方なく下り、叔父の向かいに正座する。

「お母さんがね、夏休みの宿題をやれやれ五月蝿いんだよ。夏休みの宿題というものはね、ギリギリの、そう最後の一日で終わるか終わらないかのスリルを楽しむものなんだから」

「こらこら。そのヒヤヒヤにお母さん巻き込んじゃダメでしょ。杏子ちゃんが大事だから心配なんだよ。お母さんの気持ちはちゃんと解ってる?」

「解ってるけど……」

「ならいいや。解ってるなら、一安心だ。一人じゃ飽きるなら、俺も一緒に宿題を手伝ってあげるから。ね? 頑張ろう?」

「……はーい」

 ふてくされた風を装って、私は返事をした。

 ふふふ。ふははははは。計画通りだ。宿題は嫌いだが、これで叔父が宿題を見てくれる約束の成立だ。勝手に来て勝手に勉強するのもいいけれど、こうやって我が儘を言って甘やかしてくれるのが最高なのである。性格悪いなぁとか思うけれど、やみつきなもんで仕様がない。

「あ。井戸にスイカ冷やしてるんだった。杏子ちゃん食べる?」

「叔父さんは私を太らそうとしているみたいだね。だがしかし、その勝負受けて立とう。種をどっちが遠くに飛ばせるかをな!」

 叔父が台所でスイカを薄く切り、半分はラップをして冷蔵庫に入れ、叔父と私は縁側に座った。スイカを手に持ち、叔父は塩をかけて食べ、私達は種だけを口の中に残す。

 そして、ぺっと種を飛ばして飛距離を競うのだ。

「ぺっ……ぺっぺっ」

「ぺっ、うーん、ぺっ、あれっ?」

 ことごとく叔父は失敗し、足下に種が落ちていく。勝負は私の圧勝だった。

 風が吹き、チリリンと風鈴が鳴る。夏の風は、とても気持ちがいい。叔父の種はそよ風にすら負け、遠くに飛ぶ兆しはなかった。

「相手になりませんな」

 ふっと鼻で笑い、私は畳の上で大の字になって寝転がる。さて、何をしようか。昼寝はさっきしたから眠くない。振り子時計を見ると、お昼過ぎで、私はお昼ご飯を食べ忘れたことに気が付いた。

「叔父さん、お腹空いた!」

「スイカ食べたばかりなのに!?」

 叔父は驚きながら振り向いた。その口許には種がついている。よし、面白いからそのままにしていよう。

 私は叔父にお昼ご飯を食べ忘れたことを伝える。叔父は、家に戻って食べればいいと言うので、こっちで食べたいと言えば、お昼過ぎたから家で作られてるかもしれないと断られた。私は黒電話のダイヤルを回し、家に電話する。

「もしもーし。お昼って作っちゃった? こっちで食べようと思うんだけど」

「あんた宿題はどうしたの?」

「……うぐ。こ、こっちでちゃんとやるから。で、あるの?」

 家を飛び出したことをすっかり忘れてたぜ。

「…………。あるけど、そっちで食べてもいいから持っていきなさい」

 がちゃっと電話を切って、私は電話の内容を叔父に話し、離れから家へと戻った。

 母親から手渡されたお昼ご飯は、そうめんだった。

「…………またですか」

「…………またよ」

 親戚から届いたり、ご近所さんから貰ったりで、我が家はそうめん地獄だった。お昼はいつもそうめんで、弟はいつだってそれに文句を言う。どうやら育ち盛りに、量があってもそうめんは物足りないようで、がっつり系を弟は所望していた。

 母親から渡されたつゆとそうめんは一人前で、私は叔父の分も欲しいと言った。

「…………。そうなの。さとるもまだ食べていないのね」

「今までスイカ食べたり、遊んだりしてたからね」

 何やら複雑な顔で、母親は叔父の分も用意してくれた。

 母親と叔父の仲があまりよくないのは、血が繋がっていないからだろうか?

 父親からこっそり教えられたのだ。母親はここの一人娘で、跡継ぎの為に男の子を他所から貰ったと。

 でも、それでも兄弟なのになと、リビングのテレビを独り占めしている弟を見ながら思った。

 嫌な時もあるけれど、絶対に仲直りするし、兄弟なのに仲が悪いのは勿体無い。

 いや、でも昔はもっと仲が良さそうだったはずだ。

 だらしない弟と、しっかり者の姉として。

 私は二人分のそうめんを受け取って、離れへとゆっくり歩いた。


 叔父と二人でそうめんを食べ終え、私はちゃぶ台に宿題を広げて、叔父に教わりながら少しずつ終わらせていく。私の得意科目になると叔父は席を立ち、物置小屋へと行き、小さい頃夏によく遊んだビニールプールに、空気を入れ始めた。叩いて空気の入り具合を確かめ、叔父はそれを縁側の近くまで持ってくると、蛇口を捻り、ホースから冷たい井戸水を出して、プールを満たしていった。

「さ、杏子ちゃん少し休憩しようか。プールに入ってみて。冷たいよー」

「服の下に水着とか小学生めいた行動してないんで、無理っす」

「足だけ、足だけ」

 叔父の言われた通りに、足だけをプールに入れる。冷たい井戸水が気持ちいい。ばしゃばしゃと遊びながら、庭に咲いた朝顔と向日葵を見て、照りつける太陽と、青い空、白い雲を見る。夏だなーなんて呟いたら、叔父はそうだねと言って、豚の蚊取り線香にマッチで火を着けた。

 いつまでも水に浸かっては、ふやけてしまうし、宿題だって今日の分が終われば暇になる。さて、これからどうしようか。暑中お見舞いの葉書はいつまでだったろうか。先生に書かなければ、また母親に怒られてしまう。とはいえ、今は書く気分ではなかった。

 うーん。夏。夏といえば……山、海、花火、祭り。

 ん? 祭り?

「あ。川の近くで、明日お祭りがあるんだった。叔父さん今年こそ一緒に行こうよ」

 ここ数年は断られてるから、期待は薄い。でも、今年こそ行ってもらうぞ。綿菓子、林檎飴、金魚すくいに、射的。どれも大好きだ。そういえば、叔父は金魚すくいが得意で、家の水槽には大きくなって全然可愛くなくなった金魚がいる。父親の癒しではあるけれど、あの金魚はいつまで生きるのだろうか。あの金魚を見ると、金魚をすくった後は持ち帰らず返そうと思ってしまう。

「う、うーん。本当は人混み苦手なんだよね。花火を見る絶景場所なら、人もいないし行けるかもしれないけど」

「仕方ない! 許す!」

 と上から言うけれど、私は嬉しさに頬が緩んでいた。綿菓子より、林檎飴より、叔父と一緒に花火を見ることの方が何倍も嬉しいからだ。

「えっと。丘の上の神社なんだけど、そこに現地集合ってことでどうかな?」

「こんなに近くなのに?」

 同じ敷地内なのに、現地集合?

「…………駄目、かな?」

「………………」

 いや、待てよ。浴衣を着ていけば、それかなり美味しい展開なのではなかろうか。遅れて行って、浴衣で登場すれば、何か言ってくれるだろうし、夜の花火の雰囲気で、告白とかに持っていくのも……ありだな!

「それでいこう! 是非とも!」

 話は決まり、集合時間は花火の始まる一時間前ということになった。後で母親に浴衣の用意を頼まなくては!

 プールの水で涼んでいると、叔父は原稿用紙に万年筆で文章を書き始めた。叔父は小説家で、ミステリーを主に書いている。そういえば、この頃担当さんの顔を見ていない気がして、そのことを叔父に聞けば、こんな田舎まで来てもらうのがいつも申し訳なかったので、今では郵便と電話とで何とかしているとのことだった。

 叔父が原稿に集中してしまったので、私はつまらなくなってしまった。仕方ないから宿題でもやるかと、鉛筆をとり、黙々と書いていく。


 気が付いた時には夕方で、カナカナカナとひぐらしの鳴く声がどこか切なくて、私はノートを閉じた。

 うん。これ、母親に褒められるくらいなのでは?

 今日の分以上に宿題が出来たことに満足し、夕焼けの空を見上げる。明日は叔父と一緒にお祭りだ。

 晴れるといいな。

 いや、天気予報は大丈夫だったはずだけれど。

 私は庭に置いてあるサンダルを履き、高く飛ぶように蹴りあげた。

「あーした天気になーあれっ」

 飛んだサンダルは離れの屋根に乗り、転がって雨樋に直立で引っ掛かった。

「……え。どの天気だ?」

 きちんとした向きなら晴れ、裏なら雨。直立……?

 私が悩んでいると、叔父が物置小屋から脚立を持ってきてサンダルを見事回収していた。

 占いはよく解らなかったので、白いハンカチに綿をつめて紐で縛り、顔を書いて、てるてる坊主を作った。

 完璧だな。


 次の日の朝。

 私は夏の日課である水撒きをして、叔父の寝室を開けた。

 普段、寝室には入ってはいけないと言われていたけれど、叔父なら許してくれる気がして、叔父の寝顔見たさに、私は安易な思いで言いつけを破った。

 お早うと言うより先に、私は目の前に置かれた  を見た。

 誰もいない綺麗な布団を見た。

「…………え?」

 頭が混乱する。呼吸が乱れる。

 記憶が、フラッシュバックする。

 死。死。死。

 白い着物を着たあの人。

 白い布を頭にかけ、布団に眠るあの人。

 白く冷たいあの人。

 違う。違うと頭で拒絶する。


 錯乱状態で、私は叫ぶ。

 これは嘘だと、違うと思いながら。


 そして、私は意識を手放した。



◆◆◆◆◆



 しまった。

 失敗したと、己の失態を後悔する。

 つい原稿を書くことに夢中になって、杏子が来ていることに気付かなかった。こうして彼女が気絶するのは何度目だろうか。

 言い聞かせてはいるものの、彼女はちょっとした油断か、緊急のなにかでこの襖を開けてしまうのだ。

 家に迷いこんだ子猫を見せようとして、雨上がりの虹を見せようとして、この襖を開け、この部屋にある物を見てしまう。その結果、彼女は気絶し、前後の記憶がなくなるのだ。

 居間に杏子を寝かせ、寝室の襖を開ける。六畳ある寝室の奥には、閉じた仏壇がある。それを開くと、自分の写真が飾られている。

 俺、洲藤さとるが死んでから五年ほどが経つ。

 けれど、杏子は未だに俺の死を受け入れられていなかった。




 気付いたときにはもう遅く、手遅れだった。


 医者に言われたのは長くて、余命半年。

 俺は残りの命を病院で過ごすことよりも、自宅で過ごすことを選び、杏子と弟の俊樹には、俺が病気であるとだけ伝え、いつも通り小説を書いて過ごした。

 姉は俺のために泣いてくれ、義兄は姉を支えつつ俺の面倒を率先して見てくれた。

 感謝してもしきれないほど、俺は二人に迷惑をかけただろう。


「おっじちゃーん朝だよー! 起きて起きてー!」

 無邪気に布団を叩いてくるのは、杏子しかいない。俊樹は近所の男の子達と遊ぶけれど、杏子には近所で遊べるお友達がいないので、俺はよく遊び相手にされるのだ。

「今日は何して遊ぼうか?」

 そう言って笑いかけると、満面の笑みで杏子は「おままごと!」と大きく言ったのだった。


 段々と悪くなっていく俺の体に、杏子の様子も変わってきた。よくお手伝いしてくれるようになったし、遊びを誘ったりせず、逆に何がしたいかを聞いたりする。布団から出ない俺の手を繋いで、杏子が今日あった楽しい出来事を話す。それが毎日続いていた。


 杏子は泣きそうに笑う。

 早く元気になってねと、俺を励ましてくれた。

 ありがとうとは口では言うけれど、心の中ではごめんねと謝ることしかできなかった。


 赤と黄色に葉が色付く季節。

 俺は静かに息を引き取った。

 わんわんと泣いたのは俊樹で、怒りながら泣いたのは姉で、静かに泣いたのは義兄だった。

 杏子は泣かなかった。

 その目は魂の抜けたように虚ろで、何も映していなかった。

 そんな杏子は火葬場で泣いた。

 俺が燃やされるのが嫌だったらしく、泣いたと言うよりも、泣いて喚いて、暴れたのである。

 納骨も終わり、日常へと進みゆく家族達とは裏腹に、杏子はいつまで経っても俺の部屋で寝て過ごした。


 俺はその様子をずっと見ていた。

 気付かれないこの姿で。

 涙を流しながらうなされる杏子の涙を拭くことすら、この曖昧な体では叶わない。

 それでも、俺は手を伸ばした。


「…………叔父……ちゃん?」

 ぴたりと俺の指は杏子の肌に触れた。涙が俺の指を濡らす。

 驚いて固まる俺と、寝惚けている杏子。

 杏子は笑って、やっぱり死んでいなかったと安心したように眠った。


 残された俺は、この奇跡に困惑しか出来なかった。


 朝起きても杏子には、俺が見えていて、触れられた。

 俺は自分の体が実体化したのかと思ったけれど、どうやら見えるのも触れられるのも杏子だけだった。

 姉さんの瞳にも、義兄さんの瞳にも、俊樹くんの瞳にも、俺は映りもしなければ、触れようとすればすり抜けた。

 杏子だけが、俺を認識していた。

 それから杏子は俺を生きているように振る舞い、それを姉は心配しながら、諭した。

 叔父さんは死んだのよと。

 姉から見れば、娘はおかしな姿だったに違いない。

 でも、杏子は受け入れない。首を振って、俺はここにいると言う。

 それは事実だけれど、事実じゃない。

 姉がヒステリックに死んだと言えば、杏子は泣いて、叫んで、気絶した。

 それから杏子は俺が死んだことを言えば、意識を失うようになった。

 俺が死んだことも、病気だったことすらも、杏子は都合が悪かったのか記憶から消去してしまった。


 しばらく説得をしていた姉はやがて、変に刺激しないようにと、杏子に合わせて俺が生きているかのように振る舞い始めた。

 あんなに泣いて気絶をすれば、その選択も仕方ないものだと思う。


 俺は、いつここから去ろうと、笑顔の杏子を見ながら、ずっと考えていた。




「叔父さん、叔父さん、起きてよー」

 いつの間にか起きていた杏子に揺すられ、ゆっくりと座る。どうやら杏子が起きるのを待っていたら、自分も寝てしまったらしい。杏子の枕にと使っていた折り畳んだ座布団を、端に重ねている座布団の上に置く。

 うーんと伸びをして、朝御飯の準備を始める。

 夏休みは杏子がいるので、食事のいらないこの体でも、生きているようにきちんと食べている。食材は姉が冷蔵庫に入れてくれているけれど、そこから何を作ろうかと毎回それなりに悩んで考えるのが大変だった。

 味噌汁と漬け物と焼き魚のシンプルな朝御飯を食べ、宿題をする杏子に教えたり、麦茶を差し入れたりした。

 お昼近くになれば、より暑くなってきて、そういえばと食器棚の上に置かれたかき氷機を取り出す。氷を入れてハンドルを回せば、ゴリゴリと氷が削られ、器に落ちていく。氷が半分くらいたまったらシロップをかけて、また削る。最後にもう一回シロップをかければ、かき氷の完成だ。

 暑さにやられてぐでーんとなっている杏子に、はいどーぞと渡せば、目を輝かせた。

「やったー! ありがとう叔父さん! 大好き!」

「杏子ちゃんはイチゴでいいんだよね?」

「うん! でも、叔父さんのメロンも少しちょーだいね」

 にひっと笑いながら、杏子は早速メロンのかき氷を俺より早く一口食べたのだった。

 頭をキーンとさせながら、しゃりしゃりと二人でかき氷を食べる。シロップで色のついた舌を見せ合い、イチゴの色はあまり気にならないよねと話した。

「うーん。叔父さんは細いよね。お父さんのお腹、この頃ぽっこりしてきたから、お母さんに色々制限されてるよ。かき氷も没収されてた」

 そう言って、杏子は後ろから抱きついてきた。

 む、胸が当たってるっ!

 女性に免疫のない俺はどぎまぎしながら、ボディータッチの多い杏子が出すこの試練を毎回堪えている。なんとも無防備な杏子に、他の男の子にこんなことをしないだろうな? と、俺はいらぬ心配をしてしまう。

 杏子はお腹周りの細さを調べているようで、密着度合いがやばかった。

「えへへー。叔父さんは相変わらずいい匂いするね!」

「うぇっ!? そ、そうかな?」

 気が済むまで抱きつかれ、何故か杏子はシャツを脱ぎ出した。ま、待って。いくらなんでも叔父と姪だからって、仮にも異性なんだから、目の前で着替えたりしたらと、俺は慌てて手で目を覆う。しかし、杏子の「じゃーん!」の声に、ん? と手を下ろすと、水着姿の杏子が立っていた。

「さあ、プールはいつでも御座れだよ!」

 ドヤァとした顔で、かもーんとポーズをとった杏子に、俺は思わず吹き出した。


 夕方。俺は浴衣にするか甚平にするか悩み、結局、浴衣で行くことにした。なんだか自分に甚平は似合わない気がしたのだ。

 杏子は家に帰らせ、俺は先に一人で神社に向かう。一緒に行くことを拒んだのは、杏子が周りから変な目で見られないためだ。人気のない神社を選んだのも、それが理由だった。

 周りから見れば、杏子は一人で話す奇妙な子としてしか見られない。

 道をすれ違う人達の目に、俺は映らない。

 目の前に立っていても、すり抜けられるだけだった。


 神社には誰も居らず、ほっと胸を撫で下ろす。

 一時間くらい待っていると、大荷物の杏子が急ぎ足でやって来た。浴衣姿で下駄を履いているので、俺は転けないようにと慌てて駆け寄り、荷物を持った。

「ありがと、叔父さん。いやーお祭りを満喫してもらおうと会場に行ったら、あれよこれよとこの量に……」

 たこ焼き、いか焼き、焼きそばに、フランクフルト。チョコバナナ、可愛い絵の描かれた煎餅、林檎飴、綿飴。ヨーヨーもあった。

「大漁だね」

 笑いながら、俺は神社の階段に腰掛ける。

 買ってきた品々を並べれば、重かっただろうにと、杏子を撫でた。

「楽しまにゃ損だからね。じゃーん。花火もコンビニで買ってきました!」

 さらにはバケツとライターとロウソクを出して、準備万端だった。凄いなと素直に感心する。

 杏子が買ってきた食べ物を食べ、手持ち花火で時間を潰し、花火の時間がもう少しというところで、杏子が浴衣の感想が欲しいと言ってきた。

「うん。とっても可愛いよ。杏子ちゃんにしては紫なんて大人っぽいと思うけどね」

「うふふふふー。私ももう大人みたいなもんだよ」

 杏子が大人……か。

 そうだ。もうあれから五年。杏子の体はすっかり女性になっていた。例え、行動が子供っぽいとしても、それはぽいなのだ。

 なら、もう良いのかもしれない。

 この辺で別れるのが、彼女にとって、正しいのかも。

 もう、姉との喧嘩で泣くこともないし、そろそろ過去に区切りをつけた方がいいに決まっている。

 いつまでもここにいたのは、杏子の為でもあるけれど、俺の我儘なだけだったのかもしれない。

「杏子ちゃん。俺、君に言いたいことがあるんだ」

「奇遇だね! 私もあるよとっても大事なこと。でも、叔父さんからどーぞ」

 息を吸う。もう、終わりにしよう。


「杏子ちゃん、俺はもう死んでるんだよ」


 杏子の目が虚ろになる。きっと、受け入れたくないんだ。

 彼女が子供っぽく振る舞うのは、過去に囚われていたいから。ずっと、俺が生きていた子供のままでいたいから。


「ちゃんと聞いて、忘れたりしないで。……君が気絶して、目を覚ましても、そこに俺はもういないんだよ」


「……や、やだ……お願い、お願いだから、それ以上言わないでよ」


 杏子は耳に手を当て、目をぎゅっと瞑り、かたかたと震えだした。俺も言いたくない。でも、このままでいいはずがないんだ。


「…………さよなら」

 そう耳許で囁いて、俺は杏子の前から姿を消した。



◆◆◆◆◆



 急いで目を開けた時、そこに叔父の姿は無かった。

 待って、行かないで。

 そう言っても、何も反応はなくて、叔父の気配はどこにもなかった。

 ぽろぽろと涙が溢れる。

 ドーンと、花火の音が響く。

 私は花火を見る気にならなくて、一人で後片付けをして、とぼとぼと家へ帰った。

 私の涙で酷い顔を見て母親は驚いて、私は叔父さんからさよならをされたと素直に話した。

 私は浴衣を脱ぎ散らかしてお風呂に入り、さっさと出て、ベッドで眠った。


 八月の半ば。

 叔父がいなくなったことにより、ぐだぐたと夏休みを過ごしていた私は、母親に叩き起こされた。

「ほら、お墓参りに行くんだから」

 と。


 ぶすっぶすっと私はキュウリと茄子に箸をぶっ刺す。

「ねぇ、お母さん。私はなんで野菜を粗末にしなきゃいけないの?」

「粗末って……。キュウリは馬に見立てて、亡くなった人があの世から早く帰ってくるようにって意味で、茄子は牛に見立てて、亡くなった人があの世に少しでも遅く帰るようにって意味なのよ」

 なるほど、だからお爺ちゃんとお婆ちゃんそれに、叔父さんの分で奇妙な野菜が六個あるのか。

 私は茄子を一つ取って、冷蔵庫に戻した。

「ちょっと杏子。なんで仕舞うの」

「叔父さんを帰らせない為だよ」

 

 家から出ると、父親と弟が何やら火を燃していた。そういえば、毎年やっていることだけれど、興味なんてなくて何で燃しているのか、私は知らない。

「ねぇ、お父さん。なんで家の前で燃してるの?」

「これは迎え火っていってね。ご先祖様を迎える為に燃やしてるんだよ」

 なるほど。迎える為に。

「じゃあ、もっと目立つように火力上げようよ! あ、灯油か油持ってくる!」

 がしっと弟に掴まれ、火力を上げるのはあえなく却下された。


 折り畳んだ提灯と、線香を持つ。これから家族でお寺に行くのである。行く途中で、供える花を花屋さんで買う。お寺に着くと母親が水を取りに行き、私と弟と父親の三人でお墓の前でしばらく待った。

 けれど、一向に母親が来ない。

「話に花を咲かせてるのかも。ちょっと、父さん行ってくるから」

 そう言って父親は母親を迎えにいった。

 弟と待っていると、弟はあのさと、おずおずと聞いてきた。

「叔父さんってどんな人だったの?」

「え? 俊樹会ったことあるでしょ?」

「まだまだ子供だったし、遊んでくれる優しいお兄さんってくらいしか印象ないんだよね」

「だとしても、なんで今更?」

「叔父さんが生きているようにする為には、墓穴を掘らないように、叔父さんの話を僕らがするのは駄目だったんだよ」

 どうやら私は家族全員にかなり気を使わせていたらしい。私は弟に叔父のことを話した。どんな人かということ。最近一緒にしたことを。

「いーなー。お姉ちゃんは叔父さん見れて」

「妄想だとか思わないの? それに、もう見れなくなっちゃったし」

 そうだ。すべてが私の妄想で、幻覚で、本当は叔父なんてとっくに……。

「本当にいたと僕らは思ってるよ。お母さんはお姉ちゃんが料理を作れるわけがないからおかしいって言ってたし」

 ひ、酷い。

 でも、そうか。

 居たんだ。私の妄想とかではなくて、ちゃんと。

 弟はお墓の周りに叔父は居ないのかと聞いてきた。私は首を振って、居ないことを伝える。私もお墓に来れば会えるんじゃないかと思った。けれど、そう簡単な話じゃないらしい。

 私はお墓に刻まれた叔父の名前を見る。ここに、叔父が眠っている。ここに、叔父がいる。それは切ないけれど、ここにいるという安心感のようなものは、なんだか私を落ち着かせた。

「僕、叔父さんの書く本が好きでさ。僕もやっぱり見たかったな。お姉ちゃんはずるいよ。僕より五年も長く叔父さんと会えて」

「…………私はもっとずっと一緒にいたかったよ」

「そっか」

 やっと来た母親達と線香をあげて、私達は家へと帰った。お墓でつけた提灯の火を仏壇のロウソクに灯す。離れの仏壇には、私がつけてこいと言われ、私は叔父の寝室に入る。一旦深呼吸をして、閉じた仏壇の扉を開き、ロウソクに火を灯した。


 会いたい。会いたいよ。

 なんで、さよならしちゃうんだよ。

 叔父は私に甘い。我儘を聞いてくれる優しい叔父が、私は大好きだった。

「ねぇ、叔父さん。一生のお願い、もう一度会いたいから出てきてよ」

 魂は、家にいるんでしょ? それがお盆なんでしょ?

 けれど、叔父は姿を見せない。

 会うのなんて簡単じゃない。

 会えたことが奇跡だったんだ。会えないことの方が普通なのだし。

 でも、私は諦めたくはなかった。

「出てきてくれないなら、暴力振るうギャンブル男に嫁いでやる! 毎日泣いて働きながら定年むかえて、叔父さんに会いに行ってやるんだから!」

「わ、わああぁぁっ!? だ、駄目駄目。そんなの絶対駄目!」

 やったぞ! 叔父はちょろかった!

 慌てて出てきた叔父の腕を掴んで、逃げないようにする。もう逃してなるものか!

「…………やってしまった」

 がくんと項垂れ、失敗を悔やんでももう遅い。間抜けな叔父にがっちりと抱き付き、私は死んでも離さない覚悟だった。

「本当は成仏すれば良かったんだけど、俺、成仏のやり方知らないし…………知ってる?」

 いや、私も知らない。

 知ってたら凄い。

 と、いうか。

「成仏なんてしなくていいよっ。ずっと一緒にいたいんだから!」

 私は叔父が大好きなんだぞ! それを奪うつもりかこの野郎。

「……俺はもう過去の人間なんだよ。いつまでも俺に囚われてちゃいけない」

 なにやらしんみりとした感じで私の心配をしているようだけれど、それは全くの見当違いというものではないだろうか。

「私は囚われていたいんだよ。他の何もいらない。叔父さんがいれば幸せで、いなければ不幸だ」

 何が駄目で、何が良いのかなんて、人それぞれで、自分で決めるしかないことだ。

「私は叔父さんが好きだよ。付き合いたいって思ってる」

 きっと、この先、叔父さん以上に好きになる人はいない。だから、私は一生独身を貫くのだろう。

 断られたとしても、受け入れられたとしても。

 でも、愛しているんだ。それだけで十分だ。

 何も残せなくても、誰にも分かってもらえないのだとしても。

 愛しているんだ。

「…………」

 突然の愛の告白に、叔父は顔を真っ赤にさせた。

 ふっ。初心なやつめ。

「…………っ、……俺、幽霊……だけど」

「関係ないよ」

「おじさんだし……」

「関係ないね」

 何を言っても、無駄だよ。そんな分かりきったことなんて、今更じゃないか。そんなん気にしてたら告白するわけないじゃないか。

「姉さんに怒られる」

「なら、逃避行しよう」

「幽霊と?」

「うん。大好きな人と一緒にね」

 叔父は迷ってる。迷ってるってことは、少しくらい希望はあるはずだ。

 さぁ、答えてよ。断られても、私は叔父がいるだけで幸せだから。


「…………よ、よろしくお願いします。杏子ちゃん」

 


「こちらこそ、よろしく。さとるさん」



◆◆◆◆◆



 家の食卓は八月の半ばから奇妙な物になった。

 四人家族の筈なのに、五人分の料理が出ているのだ。

 おかしいだろう。

 けれど、それはおかしくないのだ。

 姉にだけしか見えないけれど、僕の目の前には叔父がいるらしいのである。

 見えないけれど、聞こえないけれど、姉によってその存在を知らされる。


「って叔父さんが言ってるよ。俊樹」

 なんということか。姉が通訳となって叔父との会話も可能だった。

 推理小説についての会話は盛り上がるものの、食事中とあって母親の目が冷たい。

 だが、叔父がここ五年の間に書いた未発表の小説が読めるとあらば、そんな目は些細なことなので無視をする。

 叔父が書いたという原稿用紙を姉が持ってきたけれど、それは真っ白で、何も書かれてなどいなかった。しかし、叔父と姉が言うには、どうやらきちんと書いてあるらしい。

 幽霊の書いた字は読めないのだとしたら、僕はこの素敵な宝を読めないことになる。落ち込んでいた僕は、はっと、打開策を思い付いた。

「お姉ちゃん。パソコンにこの原稿を書き写してくれないかな?」

 そしたら、僕も読めるじゃないか!

「……えー。めんどくさそうー」

 嫌そうな顔をした姉は、書き写し作業をしぶしぶすることにしてくれた。

 しばらくすると、

「なんか、めっちゃ作家さん気分になれて楽しい!」

 と、一作品仕上げてきてくれた。

 この時ほど姉が馬鹿で良かったと思ったことはなかった。


 幽霊の叔父との食事が二桁の回数になった頃。

 僕は目を擦った。なんだか目がおかしい。

 キッチンにうっすらと人影が見えるのだ。母はテレビを見ている。父は庭で日曜大工をしている。姉はキッチンに立つことすらない。

 ならばあのぼやっとした人影は何だろう。

「あー。さと……叔父さん。何、料理してるの?」

 姉はキッチンの人影に声をかけたように見えた。その人影は振り向いたようだけど、ぼやっとしていて顔があまり見えない。

 けれど、姉はあの人影を叔父と呼んだ。

 もしかしたら、僕も叔父が見えている?

 叔父の存在は姉にしか認識が出来なかった。

 叔父が食べたとされる料理はいつの間にか消えていて、姉が何かを言わなければ、最初から空だったように思えてしまうくらいに、幽霊の存在は不確かで薄いはずだった。

 でも、姉によって、僕らは叔父がいることを知っている。

 存在を意識するということは、その存在を捉えられるということなのだろうか。

 キッチンに立つ人影は、姉の頭を撫で、微かに笑ったようだった。


 もしかしたら、姉の通訳なしで、叔父と会話が出来るようになるのかもしれない。

 また、叔父と会えるのかもしれない。

 膨らむ期待に、僕は胸を踊らせるのだった。

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