真夏の夜の廃校で
ブゥーーーン、耳元で蚊が飛ぶ。タオルケットを被りふて寝を決め込むも、ジワリとにじむ汗によってべったりと張り付いたシャツが鬱陶しくてかなわない。一向に消え去らない鈍い羽音にいら立ち、殺虫剤をばら撒く。蛍光灯によって闇を払われた八畳に白い靄が立ち込めた。恵那は、着替えとスマホを手に軋んだ音を立てる木造の階段を緩慢な動作で降りると、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、煽るように飲み干す。どうやら、ずいぶんと喉が渇いていたようだ。空っぽになったボトルを近くのゴミ箱に投げいれるとぺこっとプラスチックがへこむ気配がした。
恵那のスマホがメッセージを受信したのはその時だった。フォンという短音がやけに大きく聞こえた気がした。送り主は恵那の良く知る人物、親友ともいえる人間―――遠藤友香からだった。
『ねぇ、今から会えない?』
たったそれだけの文章。だけど、こんな真夜中に送られてくるには似合わない文章。スーパーと薬局が一店舗しかないこの小さな町には、こんな夜更けまで開いているところなんて二十四時間営業のコンビニぐらいしかない。ましてや、出歩く人など祭りの夜でもなければそうそういないのだ。
『恵那ンとこ、今日誰もいないでしょ? だから、会おうよ』
『どうしても会いたいの』
確かに今日は、誰も家にいないことを話していた。だからといって、恵那はこんな夜中に出歩く気は全くなかった。むしろ、早く汗を流したい。今こうしている時間も、防犯のためにと家を締め切っているため蒸し暑いのだ。
『岩小で、待ってる。絶対来て』
ポップアップされるメッセージは、だんだん速度を増してくる。だんだん、いら立ちにも似たなにかがその無機質な文字からにじんでくる。
『来ないと後悔するよ、恵那』
脅迫じみた最後のメッセージをかわぎりに、ぴたりと受信することをやめたスマホ。夏の暑さのせいではない、質の悪い汗がどろりと胸元に流れる。
取り合えず、脱衣所で、寝巻を脱ぎ捨て、生ぬるい水を浴びる。まだ完全にお湯になりきっていないその温度が、今は心地よい。いったいあのメッセージは何なのだろうか。最近唐突に意味不明のメッセージが届くことはあったが、今さっきのは、より一層変なものだった。まるで、せっぱせまっているような。そんな感じ。
「はぁ~、なんのために蒸し暑いの、我慢してたんだろう」
熱いお湯は汗を、洗い流し清涼感を与える。すこし、すっきりした頭で友香は家の人に内緒で抜け出してきたのだろうかと疑問に思う。待ち合わせの場所である岩小は恵那の家から近い場所にある。手早く、新しい服に着替え蚊よけスプレーを体に吹きかける。スマホを操作し、遠藤晴哉の名を表示する。耳元でよみがえる低く穏やかな彼の言葉。まるで、告げ口の様で卑怯だと、感じる心を今更何を言っているのだと笑い飛ばし、迷わずタップする。数コールの後に、眠気をどこか感じさせる大好きな声が恵那の名を呼ぶ。
「もしもし、恵那ちゃん? どうしたの、こんな時間。何かあった?」
「あ、あの夜分遅くにごめんなさい。その、ゆうちゃん、家にいます?」
電話の向こう側から、ジーーーと電気の変圧器のように聞こえるクビキリギスの鳴き声がやけに大きく聞こえる。
「友香? え、寝てるんじゃないかな。友香に用事?」
「いえ、ゆうちゃんのほうが、あたしに用事があるみたいなんです。なんか、岩小に来てって。話したいことがあるからって。で、さすがに夜中なんで……なんか様子、変だったから、気になって。その、いつでも電話していいって言葉に甘えちゃいました」
「はぁ? あいつ、こんな夜中に恵那ちゃん呼び出すとか何考えてんだ。ったく、世話が焼ける妹だな。あ、電話、恵那ちゃんなら、いつでも構わないよ。今度は、友香がらみでなく、俺目当てで電話くれると嬉しいけどね」
そんなリップサービスとともに、告げられたのは友香が部屋にも、家にもどうやらいないということ。すでに、もう廃校になった学校に向かっているということだった。
「俺も、そっち向かうよ」
その一言を言ってもらうために電話をかけたところもあったので、安心した。履きなれた運動靴に足を通し、もう一度蚊よけスプレーを吹きかけ、スマホを片手に家を出る。鍵をきちんとかけたことを何度も確認して石柱の門を出た。
『今から岩小にむかう』
ぽつんぽつんとオレンジ色の灯は車一台がやっと通れる細い道々を力なく照らしていた。周囲の家々の明かりは当の昔に消え、時たまちりんと風にあおられた風鈴が鳴る。そんな道を恵那は走歩きで進む。さっきから、気にしてはいるもののスマホに変化はない。
自治会の掲示板に張られた祭りのポスターや元は緑色だった水色のフェンス、ひび割れたアスファルトから顔を出すどくだみの花、それらがときたま暗闇から街灯に照らされ顔を出す。次第に暗闇に目も慣れてきた。生垣、盆栽、大小さまざまな石が張り出されるような形の石垣、統一性のない家々のうち、いったい何件が空き家だろうか。旧岩小は、今では「岩ふれあい館」というあたらしい名前が付けられているが、その名で呼ばれることはほとんどない。やっぱり、「岩小」と口にしてしまう。それだけ、地域になじんでいた証だろう。いったい新しい名前になれるにはどれだけの時が必要になるのだろうか。恵那が、晴哉のことを「ゆうちゃんのお兄さん」から「彼氏の晴哉さん」へと意識を変えたのよりは時間がかかることは間違いないだろう。
五分も走歩きすれば、息が乱れ、汗がにじむ。だけど、視界の右端に基台を含めると6~7メートルほどの宝篋印塔が見えたから目的地は目と鼻の先だ。左手には、小松石を中心にこの町で発展した石材業を連想させる石貼りの参道がある。その奥には瀧門寺があって、岩小の校庭に隣り合うようにあるその存在を思い出し顔を蒼くする。寺にはつきもののお墓だ。思わず足がすくみ夏の暑さが遠ざかる。フォンという軽快な音とともに、震えたスマホを恐怖のあまり取り落としそうになった。
『うれしい』
『非常階段の一番上にいるよ、待ってる』
待ち望んでいたとも、そうでないともいえる返信はやはり変だった。顔や絵文字が一つもないそのシンプルな文はやはりいつもの友香のものとはどこか違っていた。友香が、こういう文体のときは、たいていそれ以外のことに意識のほとんどが裂かれている時だ。
目の前にはすでにもう古い石造りの門柱に錆が入った黒い門が待ち構えている。門柱に掲げられていたであろう表札は取り外され、そこだけぽかりと穴が開いていた。
じっとそこを凝視しているとまるで、吸い込まれてしまいそうで、思わず目をそらす。門は、ぎぃと軋んだ金属音を立ててようやく人が一人通れるほど空いた。この校庭に足を踏み入れたのは、一体何年振りだろう。毎日のように踏んでいたあの懐かしい日々が今は遠いことを肯定するかのように、苔が覆っていた。肯定の三分の一以上がコケに覆われた有様はまるで、じわじわと侵食されているようで、悲しいようなやるせないようなそんな気持ちに陥る。
ふと誰かの視線を感じた。観察するように、上から見下されるようなその視線は恵那の神経を逆なでした。スマホを操作し、LEDライトで周囲を照らす。左側にあるお墓の存在を頭の隅に追いやり、そっと順に照らしていく。鉄棒、ブランコ、雲梯、ジャングルジム、在りし日に世話になった遊具たちは、潮風にやられたのかひどく錆と蔦に覆われ、まるでここだけ逆さにした砂の流れが速いようだ。学校の七不思議の定番の走る二宮金次郎の像は、微動だにせず、廃校記念碑の横に静かにたたずんでいた。
『来てくれたんだ。はやく、上がってきて』
耳になじんだ着信音が、友香からの新たなメッセージを恵那に伝える。恵那はまだ、岩小に着いたなんて一言も送っていない。だとすると、どこからか恵那は見られている。
鬼火。
校舎の一番上の端に漂う青白く人の手ほどの大きさの明かりが左右に大きく揺れる。よく考えればスマホの照明だと想像がつくものの一瞬本気でそう思ってしまった。大きく息を吸い、吐き出す。ダイジョブ、あそこにいるのは親友の友香だ。ベビーピンクと水色のペンキで塗りたくられた非常階段を意を決して、駆け上った先に、親友はいた。
夜闇に埋没しそうなほど黒々とした髪を一つに束ねた灰色のパーカーを羽織った親友は幽霊が思わず逃げ出すほどのかわいさで、拗ねていた。
「恵那ぁ、遅いよぉ」
「えっと、なんか、ごめん? でも夜中に呼び出すそっちも悪くない?」
「むっきぃー、人のせいにする恵那なんかお兄ちゃんに振られちゃえばいいのに。ねぇ、お兄ちゃん」
友香ともう一人、それより大きな影があった。その影の主を恵那は知っていた。つい数分前に話したばかりの人で、いくら足が速い人であっても、さすがに家の位置的に息も乱さずこの場にいるとは思えない人物。
「ごめん、グルだったんだ。許して、恵那ちゃん。そのかわり、いいもの見せてあげるから」
「いいものですか?」
そういって、覗くように促されたのは天体望遠鏡。胸の中にはまだ疑問も不満もずっとおびえていたことに対してのいら立ちもある者の、好きな人に勧められたのだ。おとなしく丸い筒に顔を近づける。
「あ、今なんか光った」
「ペルセウス座流星群だよぉ。恵那、見てみたいって去年言ってたから、お兄ちゃんに保護者になってもらって、来ちゃいました!」
「ありがとう、ゆうちゃん。ごめん、あたし、変な想像してた。疑ったりして悪かったよぉ~ゆうちゃん、大好き。でも、もっと晴哉さん大好き」
星が、飛行機雲のように光の尾を引いて、流れていく。やがて、狐の嫁入りのように晴れた空に三人の未来を祝福するように、星が降り注いでいった。
この作品は、実際に存在する場所をモデルにしていますが、この作品はフィクションです。