剣の少年
〈スモールストーンの薬草園〉。
〈エルダー・テイル〉がゲームであった時代には、〈調剤師〉〈薬師〉のサブクラスのクエストに必要な素材アイテムが多く獲得できることで知られたエリアだ。
〈大災害〉が発生し、生産職の多くがフィールドに出ることを厭うようになってからは、訪れる者が激減していたこの地。その正門からしばし進んだ、かつては薬草の分類標本園であったという広場で、二人の少年が大の字になって横たわっていた。
呻き声をあげながら、中華風の鎧を身にまとっている少年、小竜はぼんやりと上を見る。
「現実の世界」と比べ、遥かに透き通った高く青い空。
だが、彼の気持ちはそんな晴れ晴れとした雰囲気とは無縁の、暗いものだった。
「負けたな」
「負けたなー」
隣から気の抜けた声を返すのは、軽装の防具と、裏腹に巨大な弩を手にした〈狐尾族〉の少年。小竜と同じギルド、〈三日月同盟〉の戦闘班員、飛燕。
小竜は〈盗剣士〉。飛燕は〈暗殺者〉。どちらも、キャラクターとしてのレベルは最大まで上げてある。
そして、この〈スモールストーンの薬草園〉の適正攻略レベルは、彼らのレベルの半分程度。〈エルダー・テイル〉がゲームだった頃は鼻歌交じりで攻略できる難易度だった。事実、〈三日月同盟〉の生産職メンバーに頼まれて、二人は何度もこのエリアをクリアしている。
だが。〈大災害〉を経た世界でこの場所に足を踏み入れた二人を待っていた結果は、見事なまでの惨敗だった。
◆
ここは、〈三日月同盟〉に出入りしている守護戦士の青年が、〈大災害〉後の戦闘に慣れるために使用していたというフィールドでもある。
小竜は一度、彼らの訓練を見たことがあった。
的確な指示を仲間に出す長身の〈付与術師〉。
敵の隙を縫って致命の一撃を叩き込む小柄な〈暗殺者〉。
そして、何より。
自らの身を挺して、味方を守る〈守護戦士〉の姿が、印象に残った。
あんな風に、味方を守る「盾」としての戦いがしたい。そんな思いで、危険だと止める女性陣の制止を振り切って、小竜は悪友と戦闘訓練に飛び出したのだ。
◆
念のためにと持ってきた〈獣避けの香〉の効果で、しばらくはこのエリアに敵は出現しない。全身を弛緩させながら、小竜は巡る思考に身を任せる。
(俺は……弱いな)
今の小竜は、ゲームのキャラクターと同等の身体性能を持っている。端的にいえば超人と形容してもいい。〈盗剣士〉としての特技も、意識すれば視界に重なって現れるアイコンから使用できる。いざ特技が発動すれば、その間は剣の達人もかくやという動きで立ち回りが可能だ。
だが、それでも、それを行う精神は、実際の戦闘、暴力、命のやりとりとは無縁だった高校生のそれなのだ。
本能的な恐怖。生理的な反応。ゲームの頃は画面の向こうだった敵が、互いの息の匂いまでわかるような距離まで近づいてくる感覚。その中で、小竜の身体は全くイメージ通りに動いてくれなかった。
自分の身を穿ったあの牙が、ギルドマスターの肌をえぐる様子を想像して、小竜は身震いをする。
守りたいものがあるのに。盾になりたいのに。
眼前の雲のように手を伸ばしても届かない理想。
「……なあ、章介」
ごく僅かずつ回復していくHPバーを眺めながら、沈黙を破ったのは飛燕だった。
彼が呼んだのは、小竜の本名……プレイヤーとしての、そして現実世界で二人が友人として呼び合うときの、名前だった。
二人は、この世界と元の世界を意識的に分かつために、そして、「帰るべき世界」がどちらであるかを忘れないために、普段はキャラクターとしての名で呼び合っている。その取り決めをあえて無視して、飛燕は言葉をかけた。
「……なんだよ?」
聞き返しながらも、投げかけられるであろう言葉は、小竜には容易に想像がついた。「現実としての戦闘」で思うように動けていないのは、小竜自身が一番よくわかっている。そのことを指摘されるのだろう。
原因は自分の中にある心の弱さ。己で気づいていない恐怖の類が、動きを鈍らせているのだ。
だから、もっと、強くならないと。
敵を前に。痛みに耐えて、味方を守り続けた、あの人のように。
そこまで思考を巡らせた小竜に対して、飛燕が口にした言葉は、彼の弱さを指摘するものではなかった。
「……おまえさー、らしくねぇよ」
小竜には、飛燕が何を言っているのか理解できなかった。思考が追いついていかない。
混乱した様子の友人を見て、飛燕はこれみよがしにため息をつく。
「ほーら、やっぱり気づいてねー」
「らしくないって、なんだよ?」
「中二のマラソン大会。同じになってるぞ」
訳が分からない。そんな昔の話を持ち出して、目の前の腐れ縁は何を言おうとしているのか。
「……まだわかんねーのかよー。先輩のフォームと、直継さんの戦い方。まるっきり今と同じだろうが」
そこまで言われて、小竜の脳裏で、断片だった記憶が組みあがる。
それは、彼にとっては苦い失敗の思い出。
そして、小竜と飛燕、二人が初めて直に言葉を交わした日の出来事だった。
▼2
冬場のマラソン大会は、義務教育機関にとってほぼ全国共通の行事である。
それに対する生徒たちの態度は様々だ。
7割方の生徒は嫌々ながら最低限の練習をこなし、1割の生徒はうまく大会をエスケープして、残る2割は自己ベスト更新のために全力を尽くす。
章介は、その中で最後の2割に属する部類の生徒だった。負けず嫌いであったということもある。だが、何より、尊敬する先輩が陸上の長距離選手だったことが、その原因だ。
早朝、陸上部でもないにも関わらず、走りこみを続ける日々。憧れの先輩のフォームは目に焼き付けてある。それに自分の身体を当てはめるようにして、何日も走りこんだ。
タイムは伸び悩んだ。体力が足りないから。気合が欠けているから。そう言い聞かせて、走り続けた。
そして、練習の成果が出ないまま、大会まで一週間を切った日。
走りこみを終えた章介に、一人の少年が声をかけた。走りこみのときに毎日のようにすれ違う、犬の散歩をしている少年だった。
少年は、面倒くさそうに頭をかくと、何の前置きもなく、章介に言った。
「……おまえさー。なんでワザと走りにくい方法で練習してんだよ?」
今思い返せば、因縁をつけられたとしか考えられない唐突な言葉。
だが、ぶっきらぼうなその少年に、章介はなぜか、素直に経緯を話してしまった。毎日のようにぼんやりとこちらを眺めていた、彼の視線に気づいていたからかもしれない。
マラソン大会に向けて毎日走りこみをしていること。尊敬する先輩のフォームを真似ていること。一向にタイムが伸びないこと。練習が足りないと焦っていること。
章介の言葉を一通り聴いて、少年は大きくため息をついた。
「その先輩って背、小さいだろ。短足ってセンもあるか」
「……おまえ、先輩のこと知ってるのか?」
「知らねーよ。見たこともない。ただ、その先輩ってのが、「ハンデを覆すために、自分の身体に合った走り方を一生懸命身に着けた」ってことくらいはわかるぜ。……で、だ。足長ぇおまえがそんな「先輩が自分の身体を生かすために研究した」走り方を真似しても、うまくいくはずねーだろうが」
初対面でここまで言われる義理も、理由もない。
だが、少年の言葉に、章介は全く反論が思いつかなかった。
「そんなにその先輩みたいになりたいなら、気持ちだけ真似しろよ。自分に合わない形だけ真似してタイム落として、そりゃアホ以外のなんでもねーだろ」
さすがに、章介の拳に力が入る。少年の言葉には、およそ容赦というものがない。内容は正しいかもしれないが、それにしたって言い方があるだろう。
言い返そうとした章介に、少年は面倒くさそうにポケットから取り出したものを放り投げた。
「方向はアレだけどさ。一生懸命やれる気合だけは、すげぇと思うぜ、おまえ」
章介が反射的にそれを受け取る間に、少年はきびすを返して、足を引きずりながら帰っていった。
その姿を、釈然としないまま見送りつつ、章介は渡された飴を口に放り込む。
「……しょっぱ」
脱水症対策の塩飴を味わいながら、改めて章介は走り出した。
「くそ。なんだったんだよ、あいつは……」
悪態をつきながら。
それでも、記憶の中の「先輩」を捨てて、自分自身の走り方を取り戻すように。
◆
塩飴の少年が〈エルダー・テイル〉でたまにパーティを組んでいたキャラクターのプレイヤーであることを章介が知るのはしばし後。
そして彼が、足の怪我が原因で引退した元陸上部のランナーであることを知るまでには、さらにもう少しばかりの時間を要することになる。
▼3
「おい、突然黙るなよ。気持ち悪ぃなー」
飛燕の言葉に、意識が引き戻される。
あのときと同じ。小竜は、その言葉を心の中で繰り返した。
「……進歩がないな、俺も」
盲目的な憧れ。形だけの模倣。それをあのとき、あの少年は諌めてくれたのに。
「素直ってーか、バカってーか。それがおまえのキャラだし、仕方ないよな」
また、同じ間違いをしかけていた。
深呼吸をして、小竜は自分のステータスを確認する。
メインクラスは、〈盗剣士〉。攻撃力の高い武器攻撃職の中でも、速度と範囲攻撃に特化した職業。
種族は〈狼牙族〉。特定条件で機動力と攻撃モーションが高速化する、スピード型の種族。
これが、今の自分の身体。自分の能力。
かくありたいと憧れた〈守護戦士〉のように、足を止め、敵の前で立ちはだかる盾となって味方を守るには向かない。そんな戦い方を必死に模倣しようとしても、いびつな戦いしかできはしない。
それがきっと、先ほどの戦いの敗因の一。
常に動き回って機動性で敵をかく乱し、手数で戦力を削っていく。それこそが、〈エルダー・テイル〉での小竜というキャラクターの戦闘パターンだったのだから。
視界が変わり。戦闘が現実となったことで、そんな単純なことが、すっかり頭から抜けていた。
自分のHPが4割程度まで回復していることを確認し、小竜は立ち上がる。
「……お、そろそろ回復したか?」
「ああ。やっと、戦えるくらいまで戻ってきた」
HPがではなく、気力が。
「そいじゃ、リターンマッチといこうかね」
まもなく、〈獣避けの香〉の効果が途切れる。
こちらの様子を伺うように、遠巻きに動く〈棘茨イタチ〉の群れ。
「ポーション飲まないのか? HPやばくね?」
「いい。〈獣化〉と〈毯子功〉のスピードを試したいんだ」
「OK。らしくなってきたじゃねーか」
「それじゃ、今度は俺の頭を撃ち抜かないでくれよ?」
「ばーか。『三重加速』のおまえにゃ、狙ったって当てられねーよ」
軽口を叩きあいながら、少年達は戦闘の用意を開始する。
味方は二人。敵は無数。それでも、小竜は今度こそ、負ける気がしなかった。
望むような盾にはなれない。そのために必要な能力は、小竜にはありはしない。
だが、貫きたいのは形ではない。「守りたい」という意志。ならば、己にできる方法で、それを達成する。
腰の双剣を抜き払う。
そうだ。そもそも小竜というキャラクターは、武装に盾ではなく、二振りの剣を握ることを選んだのだ。
役割として目指すのも盾でなく、仲間の敵を打ち倒す剣であるべきだろう。
気づかせてくれた悪友への感謝の言葉は心の中で。礼は、戦闘の中で返せばいい。
「さあ、仕切りなおしだ」
「あいよっ!」
そして、少年たちの反撃が始まる。