月に放つ拳 上
自分と同じ存在を食らった錬太郎は月の表面に到着していた。つい先ほどまで、月からかなりはなれた宇宙空間に錬太郎はいたはずであった。しかし、瞬きをする間に錬太郎は月の表面に現れていた。初めからそこにいたかのような振る舞いであった。完全なるネフィリム池淵頼子との戦いを終えた錬太郎は、戦いの中で自分の本質というのを完全につかんでいた。本質というのは自分という存在が、肉体によってあるのではなく光そのものの意思として現れているということである。今の錬太郎の状態、肉体を失い夕焼けのような光そのものであることこそ、錬太郎の本当の状態であったのだ。この状態になったとき錬太郎は自分というのが自在に動き回れるものであると理解した。現在の錬太郎には物質的な距離というのはまったく意味がなかった。
月に到着した錬太郎は月のざらついた地面に手を触れた。身をかがめて、やさしい手つきだった。錬太郎は、自分の探している標的がどこにいるのかというのを見つけようとしていた。不思議なことで錬太郎は手で触れるだけでも何がどこにあるのかというのがわかった。錬太郎に残されている時間というのはとても少ない。まだ錬太郎はダナム博士を討伐していないのだ。そのため錬太郎は隠れいているだろうダナム博士を探したのである。
月の表面に手を触れた錬太郎は目を瞑った。すでに物体としての肉体はない。現在の錬太郎にあるのは、光としての肉体のみである。しかし彼はまぶたを閉じた。それは集中をするためである。月の深いところに隠れているダナム博士を見つけるために、意識を集中する。そのために、集中しやすいイメージというのを浮かび上がらせたとき、彼のまぶたというのが自然に降りたのだ。
錬太郎は目を閉じてはいたが、何がどこにあるのかがはっきりと見えていた。誰がどこで戦っているのか、どういう問題にあるのかというのがわかる。自分と一緒に宇宙に上った人たちが、肉の塊のようなものに四苦八苦しているのが見える。また、怪物たちを打ち倒している兵隊たちの姿が見えた。そうして、研究者たちを救い出して今まさに脱出しようとしている部隊というのも見えた。そして自分をここまで導いてきたシージオが、怪物たちをたたき伏せて、どんどんと先に進んでいくのも見えていた。そして錬太郎は月の中心部分に近いところで隠れているダナム博士の姿を見つけるにいたった。錬太郎の超能力というのはこれ以上ないほどに磨き上げられていた。現在の錬太郎の力があれば、月の内部、そして外側で何が起きているということもたやすく行えた。すべては決着をつけるため。今回の事件に幕を引くためである。そのためにはまず見つけなくてはならなかった。
ダナム博士を見つけるやいなや、錬太郎は博士の元に飛んだ。月の表面に飛んできたのと同じような瞬間移動だった。炎が揺らめいたときには錬太郎の姿はどこにもなくなっていた。これから、ダナム博士の息の根を止めなくてはならない。
瞬間移動を果たした錬太郎はきれいな部屋の中に立っていた。まったく錬太郎の表情というのは自然であった。怒るということもなければ、急いでいるということもなかった。錬太郎の心というのはずいぶんと穏やかであった。これから自分が死ぬということがわかっているからなのか、それとも自分がこれから大きな仕事をやり遂げる達成感があるからなのかはわからない。おそらく二つがいい具合に交じり合っているために、妙な穏やかさをかもし出すことになってしまったのである。
ダナム博士の潜んでいる部屋に到着下錬太郎はダナム博士を見つけた。いすに座ってモニターをダナム博士はにらんでいた。ずいぶんと疲れているようであった。目の下にクマがあった。ダナム博士を見つけた錬太郎は、まったく感動するところがなかった。当たり前のことが起きているのだというような気持ちしか錬太郎にはない。何せ錬太郎はここにダナム博士がいるのだということがわかっていたからである。わかっていたのだから、いちいち驚くようなことはない。
ダナム博士のそばに近づいていった錬太郎は老人に挨拶をした。
「面白いですか、ダナム博士」
ダナム博士が覗き込んでいるモニターを覗き込みながら、声をかけていた。すぐにでも始末することはできたが、興味がわいたのである。この事件を引き起こした老人が、いったい何に興味を持って、必死になっているのだろうかと。それこそ殺人鬼が何に興味を持って生きていたのだろうかという気持ち。たいした理由はないのだ。何を思っていたのかというのを聞いたとしても感動することはないだろうし、教えてもらえなくともたいした問題はない。そんな気持ちだった。
錬太郎に話しかけられても、老人ダナム博士はモニターから眼を離さなかった。じっとモニターを見つめている。ずいぶんと必死な形相であった。目が真っ赤になっていて、口元がぎゅっと引き締まっていた。パリパリにのりが利いていたワイシャツも、汗をかいたせいでグシャグシャになっていた。ダナム博士の見ているモニターには進入してきたものたちが何をしているのかというのが表示されている。ダナム博士は心底あせっていたのだ。自分の最後の計画、人類に介錯をあたえるというのが、もしかすると、失敗してしまうかもしれない。もしかしたらというと、成功するようなニュアンスがあるけれども、そんなものはまったくないといってもいいだろう。今までは何とかなるだろうと思っていたのが、あっという間に形勢逆転して今ではもう完全につんでいるような状態になっていた。それがどうにもダナム博士は信じられなかったのだ。
錬太郎の質問から少し時間を空けてから、老人ダナム博士はこういった。
「面白いね。シージオ捜査官が一気に中枢部まで進入してきてね、まったく防ぎようがない。恐ろしい男だよ。あの男は。見たまえよ、私が月につれてきた研究者たちもすでに奪われてしまった。こうなるとおもっていたから封印をしたというのに」
ダナム博士の目から力が抜けてしまっていた。先ほどまでの聞き攻める様子というのはもうない。あきらめているような弱弱しい声であった。ダナム博士というのはもう完全にあきらめていた。ダナム博士の言葉のとおりにシージオと人類に残されていた残存戦力が、博士の計画をすべてだめにしてしまったのである。今まではどうにかなるだろうと思い必死になって動いていたのだが、運命はシージオたちに軍配を上げていた。それは博士の敗北という決定である。未来がはっきりとしてしまったために、ダナム博士の決意、迫力というのは萎えてしまった。完全につんでしまっているのだから、もうがんばる必要はないだろうと。
敗北宣言をした老人ダナム博士が錬太郎に銀色の拳銃を向けた。ずいぶんとすばやい動きであった。西部劇のガンマンのようだった。ダナム博士の構えている拳銃というのは錬太郎が超能力技術研究所の壁を抉り取ったときに使ったものである。そして錬太郎の上半身を吹っ飛ばしたものでもあった。ダナム博士というのは全体の戦略というのでは敗北を認めていたが、錬太郎にはまだ敗北を認めていなかった。つまりシージオと人類の力で、博士の計画していた人類の完全なる滅亡は破綻した。そして敗北を認めた。しかしこの敗北は、シージオたちに対する敗北くである。まだダナム博士は錬太郎には敗北していないのだ。少なくともダナム博士はそう思っている。自分が生み出したネフィリムというのにまだ負けていないと思っていた。だから自分の作った銀色の銃を突きつけて、勝負を挑んだのだ。この余裕ぶっている錬太郎ならば、打ち倒せると信じて。
銀色の拳銃を向けられ、ダナム博士の引き金を引くのにあわせて錬太郎は指先を動かした。指先をほんの少しだけはじくような調子であった。まったく錬太郎の表情に変化というのはなかった。指先をはじいたのは超能力を使うため、ダナム博士の攻撃に応じるためである。攻撃してきたのだから、それに対応するというだけの考えである。ダナム博士に対して怒りというのを持つということはなかった。
錬太郎が指を振ると同時に銀色の拳銃は形を保てなくなった。銀色の拳銃の全体が、一気に砂の粒の集合物に変わってしまった。そして、銀色の砂の粒になり、ダナム博士の手の中から滑り落ちていった。錬太郎の超能力が、銀色の拳銃の形を保つ力を奪ったのだ。
銀色の砂の粒になったのを確認すると老人ダナム博士はこういった。
「完璧に支配できるようになったのか。シージオ捜査官もそうだが、君の存在があったことも私の計画を躓かせる原因だったな」
力なくうなだれていた。ずいぶんと年老いたように見える。銀の無機質な右目がずいぶんと悲しそうに光っていた。ダナム博士は完全なる敗北を認めたのである。もともと完全なるネフィリムに勝利できる可能性というのが低いのはわかっての行動であった。しかしここまで完全に、手加減をされるような形で無力な老人に変えられてしまったのだから、敗北を認めざるを得なかった。
ダナム博士が完全な敗北を認めた数十秒後、警告音が響いた。心臓が飛び跳ねるような音だった。錬太郎とダナム博士のいる部屋が、警告色の光で満ちた。目に厳しい色だったこの警告音は月面基地の最も重要な部分に侵入者が現れたときになる警告音であった。月面基地のセンサーたちは重要な部分に許可を受けていない何者かが侵入したことを、伝えるために働いているのだ。
警告音と同時に、モニターにシージオの姿が映し出された。モニターの中には怪物たちを跳ね除けて、進むシージオが移っていた。シージオのほかに兵士たちはいなかった。シージオ一人で中枢部分まで侵入しているようだった。しかしたった一人であるというのにその武勇というのはすさまじく、何百という怪物を前にしてもひるみもしていなかった。シージオは自分の武力をたてにしてダナム博士の計画の最も重要になる部分を破壊するために向かっていたのである。彼に付き従っているものたちというのは、彼の動きについてこれなかったので、おいてきていた。しかしそれでもまったく問題なかった。シージオの拳は一発で怪物の動きを止め、どれほど強力な攻撃であってもシージオをひるませることはできなかった。ダナム博士が恐ろしいというのもわかる無双振りである。
中枢部分に入り込んでいくシージオの体にはたくさんの装備品がぶら下がっていた。この装備品というのは銃弾のようなものではなかった。また回復のために必要な道具というのでもなかった。この装備品というのはシージオの武力で破壊することができないものを破壊するために必要な装備品であった。たとえば、何百メートルもある大きな建物の基礎を一発で破壊するために使うような装備品である。
あと少しで中枢部というところで、シージオにたくさんの怪物が襲い掛かった。怪物たちのバリエーションというのはすさまじいものが合った。魚類のような姿をしたものから、人間の体を残しているもの。また、獣としか思えない形になってしまったものというのも集まっていた。この怪物たちが、シージオを見つけるとすぐに襲い掛かって言った。この怪物たちはダナム博士の命令をよく聞いているのだ。もしも中枢部分に入られて、中枢部分を壊されてしまったらとんでもないことになる。そのとんでもないことを防ぐために、博士が心を操って支配していたのである。
襲い掛かかられたシージオは拳ひとつであっという間に怪物たちを滅ぼしていった。襲い掛かってきたものたちは飛び掛った形のまま地面にたたき伏せられていく。しかし命をとられているものというのは少なかった。もちろん動けなくなっているものばかりで、死んでいるものもいたが、しかしすべてが命をとられたということはない。これはシージオがやさしさを見せたということではない。シージオの任務というのはダナム博士の計画を完全につぶしてしまうことである。そのため怪物になってしまったものたちを討伐してしまうというところに力をおくということはない。怪物になってしまったものたちをどうにかする前には、どんどん中枢部分に入り込むほうがずっと大切だった。
嵐のような暴力のあとを見て、ダナム博士がこういった。
「シージオ捜査官にお前たちみたいなものが勝てるものかよ。あれは私の支配を振り切った上でネフィリムの暴走さえ押さえ込んだ怪物だぞ」
怪物になってしまったものたちを馬鹿にするような言い方であった。そしてとても素晴らしいものだろうという気持ちが、こもっていた。シージオはダナム博士にとっては自分の計画を破滅に追いやった原因である。そのためよくもやってくれたなという気持ちはある。悔しいという気持ちはどうやっても消えない。しかし、悔しいという反面シージオという男の素晴らしさというのもよくダナム博士は知っていた。精神力の高いこと、肉体的素養の高いこと、また、自分の超能力での催眠を振り切ってなお正義を立てようとしていた人間であるということ。誇らしいところをよく知っていて、好ましい部分をよくわかっていた。そのため自分がぼろぼろにされてしまったというのに、より素晴らしいものをほめるような言い方をしてしまったのである。悔しいけれども素晴らしいものは素晴らしかった。
十秒ほどしてからであった、月面基地のいたるところから集まってきた怪物たちがシージオを取り囲んでいった。地獄絵図の様相である。古今東西の怪物たちがたった一人の命を奪うために、集っていた。それぞれに叫び声をあげてみたり、うごめいていたりするのがどうにも気色が悪い。心の弱いものがこの光景を見れば、神にすがりたくなるのではないだろうか。怪物たちはダナム博士の命令を忠実にこなしているのである。とんでもない力を持ったシージオをどうにかとめようと、動いていた。その結果が、中枢部分に怪物たちが集まる地獄絵図であった。
しかしシージオはまったく恐れていなかった。自分を取り囲む怪物たちを前にして、恐れるところがまったくない。仁王立ち、周囲を見渡してライオンヘッドで笑って見せていた。自分の優れた武力を持って、怪物たちを始末してやろうと思っているわけではない。シージオは自分がたどり着いたところが、自分の目的地であるということを確認したのである。つまりシージオが笑い、仁王立ちをしているのは勝利を確信したからである。
シージオの笑みを確認してダナム博士がこういった。
「あぁ、終わった。完全に私の負けだ。中枢まで入られた」
お手上げという動きをして見せた。そしてすさまじい勢いで侵略して見せたシージオをほめているような微妙な笑みを浮かべていた。ダナム博士はまさかここまで圧倒的な力を見せられるとは思っていなかった。何せ数え切れないほどの人間を怪物に変えて、ほとんど自分の好きなようにできる状況を作っていたのだ。しかもネフィリムたちを使って足止めをして、また完全なるネフィリムを使って足止めまできめてきた。しかし結果は完璧にやられた。ぐうの音も出ないくらいにひっくり返されたのだ。そしてそれをなしたのがシージオと残った戦力。そして今となりにいる錬太郎。圧倒的な有利だったのにまさかここまで完全に倒されてしまったら、後は笑うしかない。
取り囲んでいる怪物たちが動き出す前、シージオが笑った。誰かに笑いかけているような、優しい微笑だった。シージオは直感していたのである。自分がここまで連れてきてしまった錬太郎が、どこからか自分の姿を見ていると。シージオが笑って見せたのは、自分の仕事をやり遂げたぞということを伝えるためであった。そして、ついて来てくれたことに対する感謝の気持ちがシージオにはあった。その気持ちが交じり合って、微笑となって現れていた。
シージオの口元が動いたのに錬太郎は気がついた。本当に小さな動きだった。モニター越しでは音が聞こえてこないためじっくりと見ていなければ気がつかないほど微妙な動きだった。錬太郎が気がついたのは、いやな予感がしていたからである。なんとなくいやな予感が続いていた。だから錬太郎は注意深く見守っていた。もしかしたら、そういうつもりなのではないかと。
助けに行こうとしたが、錬太郎はいけなかった。精神を集中して、シージオの場所へ飛ぶという考えはすぐにうかんだ。しかしできなかった。モニターの向こう側にいるシージオの伝えたいことがわかったからだ。そして、錬太郎が今から跳んだところで間に合わないことを悟った。すでにシージオの指は装備品のスイッチに添えられていた。場所を探って飛ぶのでは時間がかかりすぎた。
装備品のスイッチを入れるシージオに錬太郎は答えた。
「さよなら、シージオさん」
悲しみに満ちた声だった。
シージオが装備品のスイッチを入れたとたんにモニターが使えなくなった。真っ白になったかと思えば、あっという間に真っ暗になった。シージオが持ち込んできた装備品の威力である。とんでもなく大きな建物であっても簡単に打ち崩せる威力のある爆弾が、炸裂したのである。少し頑丈なだけの監視カメラなどでは、耐え切れるものではなかった。
モニターが使えなくなるのに少し遅れて、部屋が大きく揺れた。ずいぶん大きく揺れていた。部屋の中にあったモニターがいくつか落ちた。揺れている間に警告音が鳴り響いて、遠くから何かが倒れてくる振動が伝わってきた。シージオの炸裂させた爆弾というのは、月全体を振るわせるだけの威力があったのである。月面基地自体は非常に強く作られてはいた。しかしそれは、外側からの攻撃に対して強いということであって、内側はそれほど強く作られてはいなかった。なぜなら内側で、強力な爆弾を何十発も炸裂させるようなことができるものがいるとは思っていなかったからである。しかしやってのけたものがいた。その結果、月面基地の外側も内側もとんでもなくゆれることになったのだ。
爆発とゆれが収まった後だった、錬太郎は頭を抑えた。すでに物体としての頭というのはない。しかし揺らいでいる光の、頭に当たるところを手で押さえたのである。深いところでつながっていたものが切れたような痛みを感じたのだ。ひどい痛みだった。体の中にある神経というのを無理やりに引き抜くような強烈な痛みだった。叫びださなかったのが不思議なくらいであった。耐えられているのは、目の前にまだ油断ならない相手がいるからである。このダナム博士に弱いところを見せるのがいやだった。
錬太郎が苦しんでいる間にダナム博士がいすに全身を預けた。ダナム博士の顔色というのはとても悪かった。血の気が完全に引いて、真っ白になっていた。ダナム博士も錬太郎と同じような痛みというのを感じていた。しかし錬太郎ほどの痛みというのではなかった。せいぜい頭蓋骨の裏側をハンマーで殴るくらいの痛みである。その痛みというのを感じて、全身の力が抜けてしまったのである。もしも椅子に座っていなければダナム博士は床に倒れ付して、そのままの姿で回復に勤めることになっていただろう。
真っ白になってしまったダナム博士がこういった。
「完全に私の負けだよ。統一塔が落とされた。君たちの勝利だ。喜べ、世界は救われた」
痛みの余韻に耐えているようだった。また少し投げやりな感じもあった。あまりにも強烈な痛みを感じたために、機嫌が悪くなっているのである。そしてぐうの音も出ないほどの敗北を与えられてしまったことで、すねてしまっていた。さっさと命をとるのならば、取ってくれよという気持ちさえ生まれている。
投げやりなことをいうダナム博士に錬太郎は聞いた。
「どうしてこんなまねをしたんです?」
ずいぶん呼吸が荒くなっていた。痛みに耐えているようなところがある。博士に話しかけたのは世間話がしたいわけでもなければ、仲良くなりたいわけでもない。ありえないほどの痛みの余韻がまだ、続いていたのである。すぐにでもダナム博士を始末したいところだが、超能力を使えるところまで回復していなかった。逃がすつもりはまったくない。そして攻撃されたところで敗北することはないとわかっていた。しかし攻撃を打てるほどの気力がなかった。
錬太郎の質問をうけてダナム博士がため息をついた。口を利きたくないという態度であった。ダナム博士もまだ痛みの余韻というのが引いていないのだ。できるならば、黙っておきたいという気持ちでいっぱいなのである。
かなり時間を空けてから、ダナム博士は質問に答えた。
「何でだろうね。私でもわからないよ。たぶん復讐だったんだと思う。
若いころに大切な人たちを殺された。私の師匠と、先輩と巻き込まれた人たち。いわゆるテロリストというやつらが私たちの研究が気に入らなかったらしくてね、それで狙われた。そして私たちの研究はいったん、見捨てられることになった。おかしなことでね、テロリストどもを褒めるものが多かったのさ。
理由は簡単で、私たちのやろうとしていることが奇跡を起こす技だったからだ。私たちのことを神のごときものと呼ぶものもいた。それが気に入らないものが多かったのさ。
くだらない理由で奪われたことに絶望したが、それでも私は彼らの志を守って生きてきた。私の師匠と先輩は復讐を願う人ではなかったからね。そのおかげで五十になったあたりで日の目を見られるようになった。私についてきてくれるものも多かった。
でも私の研究が認められ、師匠と先輩の研究が再評価されるようになったときだ。我慢の限界がきた。世間がね、私の師匠と先輩が死んだことを美談のように取り上げ始めたのさ。早い話が私たちの功績というのを見て手のひらを返したということなんだが、それがどうにも許せなかった。私は、師匠と先輩が殺されたときの冷たい扱いというのをよく覚えていたからね。
まぁ、後片付けをしようと思ったのは、つまり完全に滅ぼそうとしたのは一応計画になっていたからというだけのこと」
非常にゆっくりとしていた。声もかすれ始めていて、つらそうだった。錬太郎の質問に答えているのは、錬太郎たちが自分に勝利したからである。自分たちに勝利したものたちに、何かひとつ答えてやってもいいだろうというような気持ちになっていた。そして死んでいくという覚悟が出来上がっていたので、神妙な気持ちになっているのである。
ダナム博士の答えを聞いて錬太郎は静かにうなずいた。少しも馬鹿にするということがなかった。錬太郎は答えをただ受け止めていた。錬太郎はダナム博士の行動理由というのをおかしいと思わなくなっていた。錬太郎は自分が人からは笑われたり、馬鹿にされたりする理由で動いていることをよく承知していた。そしてそれこそが求めてきたものだというのもわかっている。そのため、ダナム博士の理由がどのようなものであったとしても、おかしいとは思わなかった。このダナム博士の答えこそが、正直なダナム博士の理由だったのだと、そう思えた。
静かにうなずく錬太郎を見て、ダナム博士が不思議そうに聞いてきた。
「ののしったりしないのかな。私はそれだけのことをやった」
ダナム博士の声に少しだけ力が戻っていた。ダナム博士は自分がおかしなことをやっているという自覚があった。自分でも考えてもおかしなことをやっているのだ。何せ人類に復讐するといって、関係のない人たちにまで危害を加えて、そして本気ですべてを滅ぼそうと動いていた。自分に賛同してくれるものもいたけれども、嫌われて当然のことをやっていた。錬太郎というのも、正義に燃えた存在だったのだろうというように考えているところがある。つまり道徳に従って動く人間の類だろうと。しかし実際は違っていた。自分の理不尽な理由を聞いても、まったくおかしいという顔をしない。それどころかそれが真実なのだろうといって受け入れている。これはおかしなことだった。だから不思議だった。
驚くダナム博士に錬太郎は答えた。
「俺も同じような理由で戦っています。それこそ意味のわからない理由で。だから、別におかしいとは思いません。何せ俺は、まったく無関係な人たちを助けることで、自己満足をしようとしているんですから」
自信満々に答えていた。おかしなことを言っているのだとわかっているけれどもその声には、まったく後悔するというところがない。これでよかったのだという満足感で満ちていた。錬太郎は正直になっていた。これまでの錬太郎であれば、このように答えることはできなかっただろう。人から認められるような理由を語り、納得してもらえる理由を答えていたはずだ。しかしもう嘘の理由で進む気持ちはない。自分がこうだと思った道を自分の理由で歩いていく勇気があった。そのために、おかしい目的と理由であっても胸を張って答えられた。
錬太郎の答えを聞いて、ダナム博士が笑った。噴出すように笑い始めて、何とか一度は耐えようとした。しかし数秒もすると、大きな笑いになっていた。薄暗い部屋にダナム博士の声が響いていた。しかし悪い感情はのっていなかった。いいものと出会えたという感情で満ちていた。ダナム博士は錬太郎のまっすぐなのが気に入ったのである。人それぞれに戦う理由があるということをダナム博士はよくわかっていた。しかしその戦いの理由だとか目的とはっきりと自己満足のためであるなどといって告白するものは少ない。そして、それをまったく恥じるところがないというのも珍しかった。しかしその隠すところのない真正面から来るところが、ダナム博士の趣味にあったのである。
笑い終わってからダナム博士はこういった。
「本当に、自分の選択を間違えたと思っていないのかな?馬鹿なことをやったと」
まだ少し笑っているようだった。楽しくてしょうがないという感じがあった。意地の悪い質問をしたのにたいした理由というのはない。実際悪意というのはないのだ。自分の友人あたりが冗談を言っているのを聞き返しているような、調子さえある。本当に馬鹿な理由のためにこんなところまできて、戦ったのかという面白さしかなかった。
ダナム博士の質問に錬太郎は答えた。
「まさか、後悔なんてないですよ。満足してます。守れたってわかって、本当によかったと思います」
徐々にだが、機嫌が悪くなっていた。目を細めて、むっとしている。何せダナム博士が笑い倒すのだから、むっとしてもしょうがない。錬太郎にしてみれば、自分の偽らない気持ちの告白であった。これを笑われたら、あまりいい気持ちはしない。しかしものすごく怒るということもできていない。なぜならば、ダナム博士というのが悪意というのを持たずに笑っているのがわかっているからである。酒を飲んで絡んでくるおじいさんというようなところがある。もちろんうっとうしいが、邪険にすることもできないという調子だった。
笑い終わったダナム博士が目を見開いた。今までの弱弱しい目ではなかった。天下のダナム博士というような威厳があった。ダナム博士はそろそろ自分の終わりが来るべきと決心したのである。不思議なことで命を奪われるというのが、ダナム博士には恐ろしくなかった。いつまでもこのまま話を続けているわけにも行かないということで、ダナム博士は話を切り出すつもりなのだ。
意を決してダナム博士はこういった。
「君になら、殺されてもいい。さぁ、やってくれ」
真剣だった。まったく茶化すようなところはない。そろそろ、終わりを迎えるときがきたと受け入れたのだ。ダナム博士は自分が人類に敵対するという決心をつけたときから、命を奪われることに覚悟をしていた。そして今、目の前に自分の気に入った錬太郎がいる。そしてこの錬太郎は人類を救うために戦っているというではないか。ならば、死ぬのは今、この錬太郎の手にかかってということになる。終わりを迎えるのに、今ほどいいときというのがなかった。ここで消えていけばダナム博士は満足だった。
ダナム博士の願いをうけたあと、部屋に光が満ちた。夕焼けに似た光が、部屋を満たしたのである。錬太郎がダナム博士の願いに答えるためである。錬太郎はダナム博士を完全に始末してしまうために、自分の超能力を使ったのだ。
部屋からダナム博士の姿が消えた。まったくどこにもなくなっていた。影も形もない。錬太郎の超能力がダナム博士の肉体を取り込んでしまったのである。銀色の砂の粒さえも残っていなかった。ダナム博士は肉体を失った。もう、人類を滅ぼすことはできない。
ダナム博士を取り込こむと錬太郎がふらついた。ぐらりと体が崩れて、倒れかけた。何とか机に手を突いて倒れないようにしていた。しかしどうにもがんばっているようにしか見えなかった。ダナム博士を取り込むために能力を使ったとき、目の前が真っ暗になったのである。貧血の症状によく似ていた。一瞬錬太郎は自分のコントロールを失った。そして何とか立て直して、机に手をつくことができたのである。
やっとたっている、錬太郎がつぶやいた。
「限界が近いのか」
力のない声だった。寂しい響きがあった。誰もこのつぶやきに答えてくれるものはない。錬太郎は自分の終わりというのをほとんど確信してしまったのである。肉体を保つこともできなくなり、エネルギーだけが失われつつあるのがわかるのだ。どうしようもなくなってしまったことを確信して、自分にそれを伝えた。そろそろ格を語決めなくてはならないときがきてしまったぞと。
錬太郎が終わりを意識したときだった。部屋がまた大きく揺れた。爆発が起きたときのゆれではなかった。建物自体がゆれているようだった。
何事だろうかと思っていた錬太郎は誰かの悲鳴を聞いた。ひとつの声ではない。たくさんの人たちの声だった。男の声もあれば、女の声もある。また年老いた声もあれば、若い人の声も混ざっていた。しかし近くにはない。はるか遠くから、聞こえないはずの声を聞いた。錬太郎の超能力の技である。錬太郎に宿っている超能力の力が、はるか遠くで助けを求めている人たちの声を逃さなかった。錬太郎が求めたことではないだろう。しかし錬太郎の根っこに潜んでいる気持ちに、超能力が応えてくれたのだ。




