魔女 エルヨ・ガリファイア 二
警察署に連絡を飛ばしてすぐ、輸送車が走り出した。イオニス少年とルアウダをさらったエルヨ・ガリファイアはここから高速を飛ばして一時間ほどのところにある国立演劇場にくるよう錬太郎とシージオに要求をしているのだ。いつまでも発電所にとどまっているわけには行かない。
少し困ったことがあった。バリー・マーロンが
「どうしたものか」
といった。バリーの目の前には発電所の門がしっかりと閉まっているのが見えていた。ネピル・トゥリフゥリが彼らを招き入れたときに門をしっかりと閉めてしまったのがそのままになっていた。錬太郎のように空を飛ぶということができればいいが、補強された輸送車で門を突破するというのは少し無理があった。仮に無理やり突破すると門が壊れ、周りから進入されるということもありうるのだ。コントロールがこちらに移り、これから警察署の職員たちが入ってくるだろうが、それまでに怪物からの攻撃がないとは言い切れなかったかといって、ずっとここにいるわけにもいかない。
輸送車のいすに全身を預けていた錬太郎が少し体を起こした。
「俺がやりますよ」
ずいぶん弱弱しい声だった。錬太郎本人は普通に声を出したつもりだった。しかし弱い声しか出なかったのだ。錬太郎は、バリー・マーロンの直面している問題というのをすぐに察した。そしてどうすればいいのかというのをすぐにはじき出し、すぐに解決しようと動いたのである。
シージオがとめるまもなく、錬太郎が、輸送車を浮き上がらせた。錬太郎の視界にはシージオの止めようとする姿というのが見えていた。しかしそれを無視していた。錬太郎は自分の調子が悪いことと、死に近づいているということも十分理解していた。そしてシージオが自分の命というのを大切に思っていてくれるということも。しかしいちいちとめられて、時間が無駄になるのは錬太郎には耐えられなかった。落ち着いているような風であったが、錬太郎の心中というのは荒れているのだ。
そして簡単に、門を超えたところに着地させた。風船が風に舞い上げられるような軽やかさで、何十トンもある輸送車が浮き上がり、発電所を守っている見えない膜を突き破り、砂を巻き上げながら、着地した。輸送車の中に振動というのがなかった。まったく段差をあがったりさがったりという気もしなかった。これは錬太郎が念力を使うのにどんどん慣れてきた結果なのだ。はじめこそ大雑把で大味な使い方しかできなかったが、力を使えば使うほど、精妙なコントロールが可能になっていた。
輸送車が着地するとマーロンがすごいね。といった。ジェットコースターに乗った後の高揚感に近いものがバリー・マーロンには合った。錬太郎の体の調子が悪いのにも気がついているし、現状が油断ならないものであるというのもわかっていたが、なかなかこういう体験をするというのはない。そのため、心が勝手にはしゃぐのだ。意識は真面目なままである。
シージオがなんともいえない顔をしているのを無視して、錬太郎は、いすに深く腰掛けていた。話しかけてくれてもいいが、まったく聞かないぞというようなふてぶてしい感じがあった。錬太郎が力を使えるようになって、不真面目になったのではない。力が使えないものに対して上から見ているわけではない。ただただ、肉体の余裕というのがなくなりつつあったのである。披露が余裕を削っていた。話をするどころかそろそろ気絶するのではないかという感覚さえあった。だから錬太郎は、話しかけてくれるなよと、態度で見せたのだ。そうするとどうにも不良学生のような感じになってしまう。
輸送車がもう一度走り始めたとき、自分の手を見つめていた。錬太郎の目というのはほとんど光を宿していなかった。ぼんやりと、自分の手のひらを見つめている。ただ、自分の手のひらがあるだけである。少しだけ違うのは、わずかに人のものとは言えないような銀色の砂の粒が、現れ始めているというだけのことがある。錬太郎はそれを見て、他人の問題のように自分の肉体と、能力の関係性というのを考えていた。その考えというのは使えば使うほど、自分の命は、銀の砂の山に変わっていくのだという関係である。錬太郎はまるでろうそくのようだと思った。錬太郎は自分がろうそくなら、行き着くところは当然、死だろうというところまで行き当たっていた。ただ、その考えに思い当たったのに、錬太郎は少しも恐ろしくなかった。
輸送車が走り出して、十分ほどしてからだった。シージオが錬太郎に声をかけた。
「大丈夫なのか?」
ずいぶんと心配しているようだった。錬太郎はシージオが話しかけるまでずっと、自分の手のひらを見て、ぼんやりと考え事をしていた。その姿というのはどうにも、不安にさせるものがある。錬太郎は生きているのだけれども、無気力に手のひらばかりを見ているのが、命というのを感じさせない人形のように見えるのだ。シージオはその姿を見ていると錬太郎の肉体というよりも心が生きているのだろうかという不安に襲われてしまった。その不安を解消したいという衝動に駆られ、話しかけたのである。
シージオの質問に間を空けてから錬太郎が答えた。
「たぶん、大丈夫だと思います。かなり超能力を使うのに慣れてきました」
錬太郎は任せてくれよという調子で答えを出した。シージオの質問というのが、自分の体調を心配するものであるとは思わなかったのである。シージオというのは生き残った人たちの命を守るため、戦うと決めた男である。錬太郎はその道具である。自分は利用されているということを承知した上で錬太郎は戦っていた。そのため、自分に声をかけてきたというのは、そういうことだと思ったのだ。戦えるのかと。十分にやり遂げられるのかと。そう考えた。だから、シージオの思っていたような答えというのは返さなかった。
錬太郎の答えを聞いてシージオが首を横に振った。力のない様子だった。シージオが頭を振るとたてがみが揺れて銀の砂の粒が舞い上がってきれいだった。そして両手を組んで、うなだれてしまった。正義感。すべては正義感である。生き延びている人たちのことを守らなくてはならないという正義感と、一個人としての正義感がどうにも折り合いがつかないのだ。いっそルアウダのようにどちらかひとつを選べたのならば、楽になれるだろう。残念なことにシージオにはその選択というのを許してくれるようなものがひとつもない。進めば進むほど積み重なる罪悪感が、シージオを祈らせる。
シージオがうなだれてしまったのを、錬太郎はまったく気がつかなかった。錬太郎はシージオのほうを向いていないからだ。錬太郎はまだ、自分の手のひらを見つめていた。
輸送車が、演劇場に到着した。移動中の輸送車というのはずっと静まり返っていた。錬太郎もシージオもまったく口を開かず、黙ったままだった。バリー・マーロンは運転に集中していたので、輸送車の中には意識が向いていなかった。錬太郎が口を開かなかったのは、体力の問題があったからである。今の錬太郎にあるのはイオニス少年とルアウダを助けられるのかどうかという問題。そして自分の肉体が、ダナム博士を止めるまで持つのかという問題だけなのだ。それ以外の問題というのは頭から抜け落ちていた。一方でシージオというのは口を開くような気持ちまでもちなおせていなかった。特に錬太郎の様子というのを見ているといいようのない圧迫感が胸に生まれてくる。
いつまでもこの気持ちはなくならないだろう。
輸送車が止まると、錬太郎とシージオが車から降りてきた。シージオがはじめに降りてきて、周囲の状況を確認し始めた。その確認作業が終わってから、錬太郎がゆっくりと降りてきた。少し歩きずらそうであったが、ネピルと戦った後よりはずっとましだった。シージオが先に出てきたのは、錬太郎の負担を減らすためである。錬太郎は戦いの結果ずいぶん体調が悪くなっている。シージオは自分にできることが怪物を倒すだけというのに気がついていた。そのため、できることをするために、先に出てきたのだ。錬太郎はシージオのやろうとしていることを察して、それに任せていた。自分が出て行く必要があるのはネフィリムだけ、温存しておかなければ、最も大切なときにガス欠になりかねないのだから。
国立演劇場にむかった二人の背中をバリー・マーロンが見送った。バリー・マーロンはずいぶん心配していた。しかし期待もしていた。錬太郎とシージオの力があれば、どれほど強力なネフィリムが現れたとしても、解決できるという安心感があるのだ。特にシージオだけでもあっという間に怪物たちを倒してしまうのだ。そこに錬太郎が加われば、どんな恐ろしい存在でも打ち倒せるに違いない。しかし錬太郎の消耗しているところを見ると、心配にもなる。そしていやな予感というのもしていた。錬太郎のあの燃え尽きようとする姿勢が、どうにも不安だった。
見送られた錬太郎とシージオが劇場に入った。国立というだけあってとんでもない広さであった。演劇場の敷地内に入ってから、建物につくまでに車で少し走らなくてはならないうえに、建物の入り口に入ってからもまた、歩くことになった。広すぎていやになるつくりである。しかし歩きたくないといってもいられない。シージオと錬太郎はこれからイオニス少年とルアウダをさらった犯人、エルヨ・ガリファイアを打ち倒さなくてはならないのだから。おそらく平和的な解決が望めないだろうから、覚悟も決めていかなくてはならない。
錬太郎とシージオが玄関ホールに入ってくるとしっかりと劇場が反応した。今まで薄暗かった照明がしっかりとつき、二人をエルヨ・ガリファイアが待ち構えている場所まで照らしてくれていた。また、しゃれた音楽までかかってくる始末だった。錬太郎とシージオは荒事のためにこの場所に来ていたが、機械にはわからない。この機械は演劇を見に来ていた人たちを楽しませる装置なのだ。この演出というのは、演目が換われば、その時々の一番あったものに変えられる。
演劇上の演出を受けながら、錬太郎は道を進んでいった。演出を受けている錬太郎は、まったく気にしていないようだった。気にする余裕がないのだ。むしろ自分がどこに隠れているのかというのを教えてくれているので、むしろ助かっていた。一方でシージオというのはこの演出というのがうっとうしいらしく、ライオンの牙を時々ちらつかせていた。
シージオと錬太郎は歩いてきて、舞台のある大きなホールにたどり着いた。錬太郎の歩く速度が少し遅かったので、シージオが時々歩く速度を調整しながら、二人はやってきた。特別な罠というのは仕掛けられていなかった。普通の道が続き、普通の演出上の案内があっただけだった。エルヨ・ガリファイアというのはまったく罠を仕掛けるつもりがないのだ。何せお客さんを招待しただけなのだから、そんな無粋なまねをしたら、失礼に当たる。できれば二人を入り口で出迎えて、丁寧に手を引いてつれてきてやりたいという気持ちさえある。
大きなホールに入ってきたとき、備え付けられているたくさんの座席を見て、錬太郎は驚いていた。体調が悪く、暗い顔をしていた錬太郎の顔がぱっと明るくなっていた。体調が悪く調子が低くなっている錬太郎であっても驚くほど、劇場というのがすさまじいものだったのだ。縦にも横にも広く。奥行きがあるすり鉢型に近いホールだった。錬太郎たちはすり鉢の一番底にあるところから、ほんの少し高いとところにある出入り口から入ってきた。おそらく一番よく役者さんたちの演技を楽しめる場所であろう。錬太郎がぐるりと見渡してみると、数え切れないほどの座席があるのだ。こんなところで演劇をやるという話になったら、よほどの名作でなければ建物の威圧にすべて負けてしまいそうだった。調子が悪い人間であっても気力がわくほどの建物だったということである。
錬太郎が感動しているところで、シージオが声を出した。
「イオニス君か?」
ほとんどすべてが空席の中で、たった一つだけ埋まっている場所があった。錬太郎とシージオの入ってきた入り口から少し進んだところにある席である。一番舞台を見やすい場所だった。シージオは座席の規則正しい並びの中で、ひとつだけ違和感のあるものを見つけられたのだ。シージオ自身は国立演劇場に何度かきたことがあった。そのため錬太郎のように珍しいものを見たという感じで、きょろきょろとすることがなかった。むしろ心がとがっているところであったから、わくわくするような油断というのはまったくなかった。そのため、鋭く観察ができていたのである。
シージオの呟きをきいてすぐ、錬太郎がはっとした。ぼんやりとしたところが一気に消えうせていた。錬太郎は自分が今何を奪われているのかというのを思い出したのだ。肉体の疲労がうせるほど大切な情報が、シージオの呟きには含まれていたのである。
そして急いでイオニス少年に駆け寄り、声をかけた。
「イオニス君! 無事か!」
ずいぶんとすばやい動きだった。今までのつらそうな様子などというのがまったく嘘のように消えていた。錬太郎の肉体というのは現在進行形で銀の砂の粒に変わっている。しかしそんなことがどうでもよくなるほどの、喜びがあったのだ。よかった、奪われたものはまだここにあるのだと。
しかしイオニス少年は答えなかった。答えないどころか、動きもしなかった。瞬きと、呼吸は合ったが、ぼんやりと舞台を見つめているだけだった。足元にはイオニス少年のリュックサックが置かれていた。何らかの術中にあるのは誰の目から見ても明らかであった。この状況を作り出したのはルアウダとイオニス少年をさらったエルヨ・ガリファイアである。
駆け寄った錬太郎の表情が変わった。やっと見つかったという喜びの表情から、まったく何もない無表情に変わっていた。錬太郎の心に激しい感情が生まれてきたのだ。それは、冷えた怒りである。不思議なことで錬太郎の脳裏には、月から打ち込まれた光で何もかもが失われた光景が浮かんでいた。そして、何も目の中に写していないイオニス少年の目を見ていると、どうにも許せなくなってくる。イオニス少年ではなく、イオニス少年をこの状況にしたもの、そしてこの状況で何もできない自分自身を。外と内側に向かう感情のため、表情が消えたのだ。表情を作るだけの余裕がなくなっている。
無表情になった錬太郎の横を通り、シージオがイオニス少年が無事であることを確認した。呼吸の確認をして、手の脈を取っていた。そしてイオニス少年をじっと見つめていた。シージオはまず、イオニス少年が無事なのかどうかというのを確認したかったのだ。錬太郎はこの状況事態を許せなかったために動きが止まっていたが、まずは、どういう状況に落とされているのか確認しなければならない。そうしなければ対応ができないからだ。まずは状況の把握をするというのが助けるための第一番の方法であった。
そしてこういった。
「大丈夫だ。生きている。意識はあるみたいだな。もしかしてこれが、エルヨ・ガリファイアの能力か?」
独り言のような響きを持った、錬太郎に向けての言葉であった。シージオは錬太郎がショックを受けて、固まっているのに気がついていた。そしてその原因というのが目の前で人形のように固められたイオニス少年であるということにも気がついていた。わかっていたから、まず錬太郎に教えたのだ。お前ならどうにかできる可能性があるぞと。
明かりが落とされた。そろそろ舞台が始まる時間である。明かりが落とされて、注目するべきところに光が落とされる。エルヨ・ガリファイアは、このときのために招待したのだから。
明かりが落とされてすぐ、舞台の幕が開いた。スポットライトが舞台袖を映し出していた。そこには美しい女性が立っていた。落ち着いたドレスを着て背の低いヒールを履いていた。背が高く、均整が取れた肉体である。髪の毛が肩甲骨辺りまで伸びていた。ルアウダとは少し違ったタイプで、冷静沈着な印象がある。クールビューティーという言葉があるけれども、その類であった。彼女がこの演劇の主催、エルヨ・ガリファイアである。エルヨがここに出てきたのは、一言伝えるためである。いきなり戦いになったりすると台無しになる可能性があるので、錬太郎たちに注意をしなければならなかった。
エルヨ・ガリファイアがお辞儀をして見せた。非常に美しい動作だった。礼儀作法のお手本のように正確である。エルヨ・ガリファイアにとってイオニス少年シージオ錬太郎というのは、とても大切なお客さまなのだ。お客さまには、礼儀をもって対応をしなければならない。敬愛する師匠が彼女に教えてくれたことだ。そう習っていたので、丁寧な対応をして見せた。
エルヨ・ガリファイアは名乗った。
「私はエルヨ・ガリファイア。今日お集まりいただいたのは、ルアウダ・ピクラリヤと私の演技を堪能していただくため。
どうぞお客様がた、お静かにお願いします」
芝居がかった口調だった。実際これから始まるのは演劇なのだから問題はない。エルヨ・ガリファイアもまたそのようなつもりであった。
エルヨ・ガリファイアの名乗りをきいて錬太郎の眉間にしわが寄った。深く谷間をつくる眉間のしわは錬太郎の怒り、そして殺意の形である。すでに穏やかとは言いがたい表情、目の前にいるのだから始末してもかまわないだろうというのが隠しきれていなかった。何せ誘拐犯が何を考えているのか、目の前で演劇を始めて、しかもそれを見てくれなどとふざけたことをいうのだ。錬太郎にとってそんな馬鹿な話に付き合ってやる必要など少しもない。むしろ奪われたという痛みだけで十分すぎるほどの殺意になるのだ、そこに人形のような状態にされたのを見せられて、限界ぎりぎりである。
しかし錬太郎は攻撃をしなかった。何とか踏みとどまっていた。錬太郎は怒りに震えていたけれども冷静さを失っていなかった。もしも、目の前の存在を始末したとして、イオニス少年の心は開放されるのか。また、確認が取れていないルアウダも同じような状態にされていたとしたら、どうやって対応すればいいのか。二人の心を人質にとられているのだ。だから動けない。もしも心を殺す方法を持っていたとしたら、錬太郎にはどうしようもできないのだから。思い当たったからこそ、錬太郎は攻撃を仕掛けなかった。ふざけた要求でも黙って聞いていた。
錬太郎は身動きが取れないイオニス少年を見た。まったく変わらない様子である。わずかに震えることすらない。ただ瞬きと呼吸を繰り返している。錬太郎がイオニス少年を見たのは自分の怒りを抑えるためだ。救いたいものを見つめることで、暴走を押さえ込もうとした。
そしてシージオを見た。鋭い視線だった。間違いではないよなと確認するところがあった。
錬太郎に見つめられて、シージオがうなずいた。そしてこういった。
「人質をとっているから付き合えということだろうな。まどろっこしい。だが、仕方がない。茶番に付き合ってやろう。それで無事に帰ってきてくれるなら、付き合えばいい」
シージオが席に座った。静かに、礼儀正しい座り方であった。怒りを胸に宿してはいたが、冷静さを完全に失われてはいなかった。錬太郎の激しい怒りを見て、自分が冷静でなければならないと信じたのだ。錬太郎が暴走に近い状態になったとして、そのときには自分が止められるように。シージオのできることの一つだった。
そして錬太郎もうなずいて、席に座った。まったく怒りがおさまっていないのが誰にでもわかった。全身の力が弱まっているというのにもかかわらず、心理的な高まりが肉体の不調を圧倒的に押しつぶしていた。今の錬太郎なら、あらゆるものをぶち抜いて破壊できるだろうという気が合った。
錬太郎は冷静に振舞っていた。冷静に、イオニス少年とルアウアだが戻ってくることを祈っていた。そうしてもしもそうならなかったときには、ということを考えて、かろうじて心を保っていた。
錬太郎が席に座って少したってから舞台全体に、照明がともった。きれいなものだった。どうやって再現しているのか、本物そのものの植物だとか動物の映像が、立体として映し出されていた。そして動き回る音が聞こえてきていた。エルヨ・ガリファイアの望む劇が、始まるのだ。これは、劇をするために必要な小道具。それも最新式の小道具である。
何が始まるのかと息を呑んでいると、舞台袖からルアウダが現れた。ルアウダは美しい衣装を身に着けていた。妖精のような衣装だった。白いティーシャツとジーパン、そしてスニーカーで歩き回っていた姿からは想像ができない美しさだった。ルアウダもまたエルヨ・ガリファイアにお願いされていた。お願いというのは
「もしも自分のいうことをきいてもらえなかったとしたら、イオニス少年がとてもかわいそうな目にあうかもしれませんよ」
というお願いである。彼女は心を操られていなかったが、操られているのも変わらない状況であった。
そしてルアウダの登場にあわせて、反対側の舞台袖からエルヨ・ガリファイアが現れた。これまた美しかった。ちょうどルアウダの衣装と対比の関係になる配色になっていた。太陽と、月の関係に一番近いように見える。エルヨ・ガリファイアはこのときのためだけに、イオニス少年とルアウダを警察署から連れ出して、こんなところまでつれてきたのである。
二人は何かのワンシーンを演じて見せた。物語の中盤から終盤にかけての一幕であった。誰にも愛される姉を、妹が疎んで殺そうとするシーンである。ルアウダが姉の役をやり、エルヨ・ガリファイアが妹の役をしていた。二人とも非常に役にはまっていた。そして入りきっているようで迫力があった。演技派であるといってルアウダが自分の話しをしていたが、本当だった。中途半端な状況から、話が始まっているのは、この部分だけをエルヨ・ガリファイアが演じたいと願っていたからである。この部分、この瞬間のためだけに無茶をやってきていた。それほど好きな場面だったのである。
演劇の間、錬太郎は黙ってその演技を見ていた。今までの怒りがすっと引いていた。その目にあるのは、困惑である。今まで自分の心を埋めていた残酷な怒りが、潮が引くように消えてしまっているのだ。そして憎らしいと感じていたものに対して、素晴らしいといってほめたい気持ちがわいている。そしてわずかに感じる嫉妬の感情。そして自覚しているからこそ錬太郎は自分の心がわからなくなっていた。助けねばならないというのにわずかに心が揺れたというのが、気に入らなかった。
戸惑っていたのはシージオも同じだった。目の前で始まった演劇しかも、中途半端なところから始まったというのにもかかわらず、とんでもない迫力と魅力があるのだ。今まで胸を占めていた感情のほとんどが、芸術に対する感動に変わっていくのは、恐ろしいとさえ思うほどである。冷たい心で戦うとを決めて歩き続けているのに、揺らぐのだから、これほど恐ろしいものはない。
自分の奇妙な感情に気がついた錬太郎の目が細くなった。錬太郎は自分の下唇をかんでいた。非常に悔しい気持ちがわいていたのである。目の前で行われている演劇、そしてそれを演じるものルアウダとエルヨ・ガリファイアに対する自分自身の評価を受け入れられないのだ。自分自身がまさか、誘拐犯の演劇なんぞを見て、まさか感動するとは思わなかったのである。それがどうにも気に入らない。何もかも壊してやろうかと思うほどの怒りがうせるのだ。たまったものではない。
精神的に追い詰められている錬太郎がつぶやいた。
「楽しそうだな、ルアウダさん」
少しあきらめているようであった。これは自分の心の怒りがうせていくのと、それを成し遂げられる技術を持ったルアウダとエルヨ・ガリファイアに対しての降参である。




