警察署とエルバーハ 三
シージオは認められたということで、さっさと車に戻ってきた。バリケードに向かうときとは違い、非常に軽やかな足取りであった。弾むように歩くのでたてがみから銀色の砂の粒が宙に舞っていた。とりあえずこれでシージオの役目というのは果たすことができたのである。つまりイオニス少年とルアウダを、保護してもらえるということになった。一応錬太郎もその中には入っていた。そのためひとつ仕事ができたということで心が軽くなっているのだ。
戻ってきたシージオは車の中を覗き込んだ。ライオンヘッドだけを頭の中に突っ込んで車の中を確認していた。ちょっとしたアトラクションのような感じになる。
シージオはこういった。
「みんな、車から降りてくれ。これで大丈夫なはずだ。私のことを疑っているものはまだいるだろうが、君たちの安全は保障されたと見ていい」
心なしか、声が弾んでいた。思っていたよりも簡単に、信用が勝ち取れたことがうれしいのだ。まだ完全に信用されたということではないが、これからやろうとしていることを考えると幸先がよかった。
ルアウダとイオニス少年が、車から降りていった。二人とも結構すばやかった。どちらもすぐに車の中から出て行きたかったようである。二人とも長い間車の中にいたものだから、窮屈な気持ちになっていたのである。シージオと錬太郎はまったく疲れを見せないけれども、何時間も車の中にいれば、つらくもなる。休みというのもないわけであるから余計に。
錬太郎は少しシージオの目を見ていた。意地悪でもしようかという光が宿っていた。
そしてシージオに錬太郎は聞いた。
「俺は、どっち扱いですかね」
真剣さというのはまったくなかった。本当に茶化すような言い方だった。錬太郎がこのように言ったのは、もう自分が怪物になっているということを知っていると伝えるためである。そして自分にはあのときの記憶があるということを伝えていた。ルアウダとイオニス少年が出て行った後にこういったのは、シージオにならば話しても精神的に参らないだろうと考えたからである。からかうようなところがあるのは、ちょっとした八つ当たりである。
シージオが目を見開いた。少し驚いているようだった。シージオは錬太郎にはあのときの、上半身が吹っ飛んだときの記憶がないのではないかという考えがあった。なぜなら上半身が吹っ飛んで、脳みそが消えうせていたから。しかし、錬太郎は覚えていた。そして知っているぞといって見せた。また、少しもよどむようなところがないということに驚いたのだ。あわてもせず、落ち着いている。怪物だとはっきりとわかっても、まだゆれないというのが、驚くべきことだったのだ。
シージオが答えた。
「今は、一般人扱いでいい」
苦々しいものをかんでいるような顔をしていた。シージオの良心というのが、今の一言で非常にゆれた。それがどうにも気に入らなかったのだ。警察官としての良心と、人としての良心がまったく一言で揺れるなどということがあるというのが、どうにもたまらなかった。
錬太郎は少し微笑んだ。いたずらが成功して喜んでいるように見えた。シージオに意地悪がしたかったということがあるのではないのだ。苦しむ姿が見えたから喜んでいるわけでもない。錬太郎はただ、シージオの人間味が見えたことがうれしかったのだ。そしてちょっとからかったときに見せる表情というのが面白かったというのもある。錬太郎はシージオよりも自分のことを考えていなかった。
ルアウダが用意してくれていた服を錬太郎が着込んでから、車から降りた。ズボンとシャツを着て。コートを羽織った。そして靴を履いた。全体的に派手だったが、問題はない。服を着ないままで警察署に乗り込むというのはなかなか反体制的である。しかし錬太郎にはそういう趣味はまったくなかったので、さっさと服を着た。そして、保護してもらうために警察署に向かったのである。
錬太郎が車から降りる少し前、警察署の入り口が騒がしくなった。先ほどまで冷静沈着であったはずの警察官たちが、どよめいている。完全にはしゃいでいた。男も女も浮ついていた。
錬太郎が、あたりを見渡した。実に鋭い目線であった。何か危険なものがあればすぐにでも見つけて、始末しなければならないという気持ちが現れていた。警察署の職員たちが騒ぎ始めたのを、何かしらの問題が起きたからであると錬太郎は考えたのである。たとえば、怪物が襲い掛かってきているとか、錬太郎は車の中にいたので、いまいち視界というのが確保されていなかった。当然だが、車の中から見える範囲しか、情報がなかったのだ。そのため空とか、はるか彼方からだとかから怪物が襲い掛かってきているということがあるかもしれない。そういう可能性があったので、錬太郎はすぐに確認作業に入ったのだ。
しかし何もなかった。まったく何もなかった。空は曇っているだけで特に何もなし、警察署に通じる道というのにもおかしなところというのはなかった。きっちりと舗装された道が広がっているだけだ。
錬太郎が近くにいたシージオにきいた。
「何かあったんですか?」
ものすごく不思議そうだった。さっぱり何がおきているのかというのがわからないようであった。実際わからなかったのだ。錬太郎は今まで冷静であった職員たちが、これほどまで騒がしくなる理由というのが、まったく思い当たらなかった。そのため、近くにいたシージオに聞いてみたのだ。自分はわからないけれども、シージオならばわかるかもしれないと考えたのである。
シージオが額を押さえていた。
「まずいな、忘れていた。ルアウダさんは、有名人だった」
ふさふさになった両手を自分の目に当てて、空を仰いでいた。目の前の光景というのを見たくないような感じがあった。シージオというのは自分が受け入れられるのかどうか、そして一般人を保護できるのかどうかというところと、錬太郎のことで頭がいっぱいだったのだ。そのため、ルアウダという女性が、一般人ではないというところをすっかり忘れていたのである。シージオと錬太郎がまったくルアウダの存在を知らなかっただけで、彼女は女優さんで、しかもかなり有名なのだ。一般人といってはいたが、一般人ではない人なのである。そこを考えずに話を進めてしまったものだから、無用の混乱が起きてしまっている。シージオの失敗である。
錬太郎が大きくうなずいた。合点が言ったという様子であった。錬太郎は自分と世間の感覚というのが微妙にずれていたことをやっと察したのである。
そしてこういった。
「そういえば、そうでしたね」
完全に他人事であった。かかわるつもりは一切ないという気持ちが漂っていた。錬太郎は、ルアウダに対してできることというのがさっぱりないことをすでに理解しているのだ。何せルアウダがこれまで積み上げてきた名声というのがとても強いということで、ここで自分が何を言ったところでどうなるわけがない。アイドルの追っかけというのがとんでもない情熱を持っていることを、知っている錬太郎であったから、自分ひとりで何かできるとはさっぱり思わなかったのである。
車から降りたルアウダがバリケードの向こうにいる警察官たちに手を振っていた。ティーシャツとジーパンとスニーカー姿であったが非常にさまになっていた。映画のワンシーンであるといわれたら信じられるような美しさがあった。ルアウダの行動というのはファンサービスというのもあるが、一種の職業病のようなものであった。目の前に自分のファンがいるものだから、女優として振舞わなくてはならないという意識が働いたのである。反射に近いスピードで切り替えているので、どうしようもなかった。
そして手を振り終えたあと、錬太郎とシージオに振り返った。先ほどまでへこんでいたのに、非常に元気に満ち溢れていた。今まで見たことがないくらいにやってやったぞという気持ちが表に表れていた。子供でもこんな顔をするやつはいないだろう。ルアウダというのはさばさばとした女性であるけれども、そこそこ自分の評価というのが気になる女性である。実際女優としてやってきたのだから、その仕事ぶりを評価されるというのはうれしいのだ。実力派であるといってほめられたりすると非常にうれしかったりもする。自分はルックスではなく技術で打っているのだという自負心さえあった。そんな自分を知らないというやつが二人もいたというのが、ほんの少しだけだが、ルアウダのプライドを傷つけていたのだ。かといって錬太郎とシージオが悪いといって責めることもできないので、ここで声援があがったことで、回復したのである。
そしてルアウダがいった。
「どうよ。これが世界的実力派女優の人気ってやつよ!」
おそらく今までルアウダが発してきた言葉の中で一番力が入っていた。両手を腰に当てて、胸を張って見せていた。完全なる自信回復を図ったのだ。自分というのがやってきたことというのは、こういう対応をされる仕事なのだぞと。そして見せ付けて、うろたえてもらおうじゃないかという気持ちがあった。
錬太郎とシージオは首をかしげていた。錬太郎もシージオもわからない問題を当てられて困っている学生のようだった。一生懸命に考えているようだったが、答えを出せそうになかった。二人が、首をかしげているのは、ルアウダが何をしてほしいのかというのがいまいちわからなかったのである。錬太郎とシージオにしてみると、確かに人気がある女優だというのはわかっただけだ。確かに人気なのだろうけれども、それがいったい私たちに対して、何の関係があるのだろうか。世間の評判と自分たちの評価は違うだろうという考えがあった。錬太郎もシージオも周りが騒いでいても、ルアウダの印象というのはなかなか変わらない。
ルアウダの眉間にしわが寄った。深い深いしわだった。眉間にしわが寄るくらいならいいが、目が鋭くなり、明らかに二人をにらんでいるようだった。まさか、これだけの声援を受けている自分を見ても、まったく変化のない二人にイラついたのだ。これだけ騒いでくれている人がいるのに、まったく評価が変わらないというのはおかしくないかという気持ちがわいてくるほどだった。
何かもめ始めている三人に向けて、イオニス少年がこういった。
「もういいから、早く行こうよ。襲われちゃったらどうするの? まだ、バリケードの外だよ? いつまでもこんなところにいたら、危ないよ」
冷静な口調だった。一番バリケードに近づいていたのが、一番小さなイオニス少年であった。イオニス少年は自分たちが置かれている状況というのをよくわかっていた。そのためいつまでもこんな危ないところでうろちょろしておくというのがまずいことだとわかっていたのである。錬太郎とシージオとは違い、武力を持たないからこそ冷静で、周りを見れたからこそできたことだった。
シージオがうなずいた。少し恥ずかしそうだった。自分の失態というのを理解したからだ。
錬太郎がそれに続いた。恥ずかしそうなところはなかった。ルアウダの歩調に合わせて歩いていた。ルアウダ一人きりにならないようにするためである。注意だけはしているのだ。
最後に、ルアウダが歩き出した。さっさと先に行ってしまったシージオと錬太郎の背中をにらむように見ながら、歩いていた。しかし怒っているわけではなく、少し楽しそうだった。
バリケードを超えて、警察署に入ったところで錬太郎は一人になった。ぽつんと一人きりになってしまったのである。というのがシージオがまずどこかに連れて行かれ、そして次に、ルアウダとイオニス少年が連れて行かれてしまった。連れて行ったのは女性の警察官で、錬太郎は反応することができなかった。しなかった。というのも、これからいろいろと話を聞かなくてはならないというのがわかっていたからである。シージオからはシージオの情報が必要になるだろうし、ルアウダとイオニス少年からも話を聞かなくてはならない。そして錬太郎からも。
少し一人でたっているところに若い警察官バリー・マーロンに話しかけられた。
「君に少し事情を聞きたい」
バリー・マーロンは少し鼻声になっていた。眼球が潤んでいる。バリー・マーロンが話しかけてきたのは、錬太郎から事情聴取をするためである。すでにシージオが錬太郎の大体の情報を、警察署員に伝えているので、バリー・マーロンでも十分細かい話しが聞けるだろうと判断されたのである。
錬太郎はうなずいた。やっときたかという感じがあった。
錬太郎がうなずくのを見るとバリーは錬太郎を取調室に連れて行った。ずいぶん丁寧な扱いだった。恐る恐るというよりも、いたわるようなやさしさがあった。バリー・マーロンは錬太郎の状況というのをシージオから聞かされて、かわいそうだと思ったのだ。不憫だとも。そういう気持ちがあったからこそ錬太郎の扱いが、おそらくほかの警察官たちよりもずっとましだった。
取調室の扉に手をかけたとき、バリーは錬太郎に謝った。
「申し訳ないね、ほかの部屋は忙しくて使えない状態になっているんだ。この状況だろ? いろいろと連絡を取り合ったり、人命救助に動かないといけないのさ。それで、どこもパンク寸前さ。そんなわけで今使えそうなのが、ここくらいしかなくてね。気を悪くしないでくれよ」
丁寧な振舞いすぎて、話しかけられている相手側が、恐縮しそうである。
取調べにつれてこられた錬太郎はバリーにうなずいてみせた。錬太郎はずいぶんと素直に従っていた。話もきっちりと聞いている。錬太郎はバリーに対して悪い気持ちというのを少しも持っていなかったのだ。そして、自分の状況というのを隠すつもりというのもなかった。隠したところでまったく意味がないことを知っていたし、目の前の優しい警察官が自分に嘘を吹き込まれたとしてそれがこの人に悪影響を出すとしたら、そちらのほうが気にやみそうだったのだ。
錬太郎は、警察署の中の騒がしさを感じ取っていた。ざわつくというよりも、これから大仕事があるぞというような準備をするための動きであった。錬太郎の感覚器官が人よりも優れているわけではないのだ。警察署の内部の動きが、取調室の中にいても聞こえるくらいに騒がしかっただけである。騒がしくなる理由というのはシージオの話が通ったからである。つまりダナム博士の目的というのがはっきりと伝わった。そしてこれから阻止しなくてはならない計画があると理解を得たということである。警察署は何とかしてダナム博士の人類の完全滅亡計画を妨げるつもりなのだ。その準備が始まっていた。
少し騒がしい中で錬太郎は取調室で質問に答えていった。バリー・マーロンが質問をするので、それにいちいち答える形である。一問一答形式で答えていった。名前を答えて。住所を答えてと、どんどん繰り返していく。受け答えはできるだけ紳士に行っていた。錬太郎はとても協力的だったのだ。バリーもまた、丁寧な仕事ぶりで、二人の情報交換は長引かずに済んだ。
錬太郎がすべての質問に答えると若い警察官バリー・マーロンが鼻をすすり始めた。ほとんど泣いている状態だった。瞬きをするとまぶたから涙があふれそうなところまできていた。バリー・マーロンは錬太郎の話を聞いて、質問の内容を受けて、自分の中でストーリーを作ってしまったのだ。それは錬太郎が、悪の科学者ダナム博士にさらわれてシージオ捜査官と同じような実験に使われたというものである。そして記憶を失った状態で、怪物と戦いイオニス少年とルアウダを救い、ここまでやってきた。それがどうにも、バリー・マーロンにはつらくて、耐えられなかった。
三十台に近い男性が本気で泣きそうになっているのを目の前にして錬太郎は困った。声をどうやってかけていけばいいのかというのがさっぱりわからないようで、あちこちに視線が飛んでいた。錬太郎はさっぱりわからないのだ。自分よりも年上の男性が、自分の話を聞いて、そうしたら、泣きそうになっている。はっきりいって泣いているような状態になる。そうなっている人に、どうやって声をかけたらいいのか。まったくわからなかった。そもそも何が原因なのかもわからなかった。
錬太郎が困っていると別の警察官が取調室に入ってきた。若い警察官バリー・マーロンよりも年上で、三十台半ばといったところである。ずいぶん困った顔をしていた。取調室に乱入してきたのは、この様子を見かねたからである。取調室というのは別の部屋から、中の様子を見ることができる仕掛けがある。そのため質問をするバリー・マーロンと錬太郎の様子というのは監視されていた。そうして監視をしていると、質問を終えたバリーが泣き始めて錬太郎が困るというようになっていた。どうにもなりそうにないという判断を下して、乱入したのである。
そして別の警察官が、錬太郎にこういった。
「質問に答えてくれてありがとう。ここはもういいから、少し休んでほしい。中庭に行ってみるといい、今の時間なら、人もいないだろうから」
恥ずかしいところを見せてしまったという感じがあった。実際恥ずかしいことでないとはいえない。
錬太郎は、鼻をすすっているバリーに頭を下げた。丁寧な礼ではなかった。さっさと出て行くための礼であった。錬太郎はバリー・マーロンの泣いている様子を見ていられなかったのだ。見ているといたたまれなくなってしまうから。
そして取調室から出て行った。ずいぶんすばやかった。
取調室を出ると声をかけられた。部屋から出てきてすぐのことだった。イオニス少年だった。錬太郎を待ち構えていたのだ。イニス少年は質問を受けたのだろうが、まだ元気はあまっているようだった。イオニス少年が声をかけてきたのは錬太郎に気づいてもらうためだ。現在警察署には人がごった返している。イオニス少年はまだ身長が低いので、大人たちの間にいるとどうしても見失ってしまう。だから声をかけたのだ。
錬太郎はイオニス少年にきいた。
「中庭ってどこかな」
錬太郎はイオニス少年を見つけてほっとしていた。錬太郎は取調室から出たはいいが、中庭がどこにあるのかがまったくわからなかった。警察署の中にも地図のようなものがあるけれども錬太郎にはさっぱり読み取れなかったのだ。自分にはわからないけれどもイオニス少年にはわかるだろうと重い、非常に助かる重いがあった。
イオニス少年は錬太郎の手を引いた。イオニス少年の引く手は頼りがいが会った。イオニス少年は中庭がどこにあるのかというのがわかったいるのだ。文字が読めさえすれば簡単なことだった。
そしてこういった。
「こっちだよ。掲示板に書いてある」
少しだけ楽しそうだった。自分の力を頼ってもらえるのがうれしいのだ。
三分後錬太郎は中庭にいた。中庭というけれどもひとつの植物園のような豪華なつくりだった。錬太郎はちょっとしたベンチがあるくらいにしか思っていなかったため、少しだけ驚いていた。中庭だというところまで来て、本当にこれが中庭なのかといって疑ったほどである。錬太郎はここで休むつもりなのだけれども、休めるところがあるのかはわからなかった。
中庭には人がいなかった。さっぱり人がいない状態で、静まり返っていた。中庭に入ってこれる人というのももちろんいる。警察署の職員たちである。しかし現在警察署の職員たちは新しい仕事のために、ダナム博士の目的をつぶすという仕事のために動き出していた。そのため中庭でゆっくり休むということはできなかった。警察署に逃げ込んできている人たちというのももちろんいる。そういう人たちというのは中庭ではなく別の場所に非難していた。場所がまったく違っているので、中庭には入ってこれないのだ。
錬太郎がつぶやいた。
「ここには、人がいないんだな」
少しほっとしていた。錬太郎は自分が休もうとしているところに、いろいろな人がいたら面倒くさいなという気持ちがあったのである。話をすること自体が面倒くさいとは思わないが、なんとなく体がだるかったのだ。
錬太郎のつぶやきにイオニス少年が答えた。
「ルアウダさんがいるから、そっちにいってるんだと思う。錬太郎とシージオさんはあれだったけど、本当にルアウダさんは有名なんだよ。世界一の女優さんって誰だって話しになれば間違いなく名前が出てくる女優さんなんだもん。最近だと後輩のエルヨさんとも比べられてる。テレビでやってた」
ルアウダの話をするイオニス少年はどこか誇らしさがあった。
錬太郎は気の抜けた返事をした。
「そっか」
本当にルアウダの仕事に興味がないのだなというのが、伝わる返事だった。
錬太郎とイオニス少年は、中庭のベンチに座った。イオニス少年が中庭のベンチを見つけて、そこに錬太郎を引っ張ってきたのだ。錬太郎が少し疲れているようなのをイオニス少年が察して先に先に動いてくれていた。錬太郎がベンチに座るとイオニス少年が隣に座った。
ベンチに座った錬太郎はぼんやりと空を見上げた。休もうと思っても、特にやることがないので、空を眺めてみようと思ったのだ。
ぼんやりとしているとイオニス少年がポケットをごそごそと探し始めた。とても一生懸命に探していた。イオニス少年は錬太郎に渡そうと思っていたものをポケットに入れたのである。できるなら錬太郎が目覚めたときに渡したいという気持ちがあったのだが、錬太郎が目を覚ましたときというのは忙しい状況であったができなかった。しかし今の暇な時間ならば、難しいことではない。
ごそごそとやっているイオニス少年に錬太郎が目を向けた。急に忙しくなり始めたイオニス少年を不思議そうに見つめていた。不思議なのだ。今までおとなしかった少年が、いきなり動き始めたのだから、これはおかしい。何かあるのだろうなと思ってしまう。
探し物を終えたイオニス少年が、錬太郎に何かを差し出した。とてもきらきらとした目を錬太郎に向けていた。そして何か大きな仕事をしたような達成感のようなものがあった。イオニス少年は錬太郎にこれを渡さなくてはならないという気持ちになっていたのである。それがやっと果たせると思い、少しだけ満足したのである。
イオニス少年の手の中には記念硬貨が納まっていた。探し物を見つけたイオニス少年は握り締めていた手をパッと開いたのだ。するとそこには池淵頼子が錬太郎とのコイントスで使った、コインがあった。キラキラと輝いている。イオニス少年が錬太郎に渡したかったのは、このコインなのだ。しかしこのコインは池淵頼子がダナム博士から受け取ったものであって、錬太郎のものではない。しかしイオニス少年はその受け渡し部分をはっきりと見ていない。そのためこのコインというのが、錬太郎のそばに落ちていたのを見て、錬太郎のものだと勘違いしてしまったのだ。
錬太郎がイオニス少年に聞いた。
「どうしてこれを?」
さっぱり、なぜこのコインがここにあるのかがわからなかったのだ。そしてどうして自分に渡そうとしているのかというのも。
イオニス少年は答えた。
「錬太郎のじゃないの?」
ものすごく残念そうだった。今まで自信に満ちた表情だったのにしぼんでしまっている。
イオニス少年の顔をみて錬太郎は少し困った顔をした。やってしまったという感じがあった。
すぐに錬太郎は笑って見せた。そしてこういった。
「あぁ、あのコインか。ありがとう。どこに行ってたのかさっぱりわからなかったんだ」
イオニス少年は錬太郎に記念硬貨をわたした。表情が明るくなっていた。やっぱり間違えていなかったのだという安心感が現れていた。
そしてこういった。
「どういたしまして。ずっと助けてもらってばかりだったから、お礼だよ」
錬太郎はイオニス少年から視線をはずした。空を見て、心を落ち着かせた。錬太郎は泣きそうになったのだ。たった一言だけども、錬太郎の心を揺らすには十分だった。礼を言われたとき一瞬、何もかも失われた町が脳裏をよぎり、そして後悔と怒りの記憶がすぎ去っていった。何もわからないまま、放り出されて、怪物に襲われているイオニス少年と出会い、戦ってきた。錬太郎はわかり始めたのだ。自分が求めているのは誰かを助けることで、自分を助けようとしているのだと。もう、自分の大切なものが戻らないとうすうす感ずいている。池淵頼子が豹変したところを見れば、その可能性が非常に高いだろう。だから誰かの大切を守ることで満たされようとしている。それがこの一言でわかった。わかったからこそ、思いがあふれ出したのだ。しかし、人に見せられるわけがない。これは何せ自己満足。
空を見上げていた錬太郎はコインを握り締めた。大切なものをつかむように絶対にはなさないという気持ちがこもっていた。
錬太郎はコインを受け取って、イオニス少年にお礼を言った。
「ありがとう」
少しだけ鼻声になっていた。この礼はコインを見つけてくれことではない。自分のやるべきことをわからせてくれたことに対しての礼である。
イオニス少年は不思議そうに錬太郎を見つめていた。まったくわからないようであった。当然である。錬太郎は伝えるつもりがないのだから。わかるわけがない。




