ルアウダ 二
日が少し傾いてきたとき錬太郎はつぶやいた。いやなものを見てしまったという気持ちが、にじみ出ていた。
「月が出ているな」
しかし、いやなものを見たということだけでつぶやいたのではない。あまりにも自分が知っている月とは様子が違ったからつぶやいたのだ。というのが、夕焼けの空に浮かんでいる月が、錬太郎の知る月よりもはるかに大きかったのだ。それは少し手を伸ばせば手が届くのではないかと思うほどである。それほどちかいところに月があった。忌々しげにつぶやいたのは、もしかしたら自分と同じようにおかしいとシージオとイオニス少年が騒いでくれるのではないかと思ったのだ。反応を見るために月についてつぶやいた。
シージオがこういった。まったく変わった様子などなかった。当たり前のものを見たという感じがある。
「あぁ、きれいな満月だな。こういう状態でなければ、もう少し違った風情がある」
シージオの呟きを聞いて錬太郎はうなだれた。月を見るのをやめて、祈りの形をとった両手を見つめるばかりになっていた。このような格好になったのはイオニス少年もシージオもまったくおかしなところなどないという様子だったからだ。二人がまったくおかしなところはないという反応をするということは、少なくともありえないほど近い場所にある月というのが、当たり前の場所にこの星があるのが常識ということになる。ということは錬太郎が知っている星ではない。なぜなら月というのは、だんだんとはなれていくということを錬太郎は知っていた。錬太郎の知っている月は近づいてくることはないのだ。しかし、月は非常に近いところにある。ならば、いま錬太郎が生きているのはまったく知らない星だということになる。うなだれたのは、自分にはどうしようもないことが多すぎることに気がついたから。祈るくらいしかできなかったのだ。
シージオの運転する車はどんどんビルの立ち並ぶ都市部を移動していた。天をつくビルの群れのど真ん中を突っ切るようにして、シージオの運転する車は進んでいく。この道を選んだのは、警察署に向かう道の中で一番簡単に警察署に向かうことができたからである。警察署に向かう道というのはいくつもある。そのためこの道でなければならないということはない。回り道がしたいというのなら回り道をしてもかまわない。しかし、時間をかけていちいち怪物に出会う危険を冒す必要があるかと考えたとき、まったくないのだ。できるだけすばやく危険地帯から抜けたいという気持ちが、シージオにはあった。
心折れかけていた錬太郎は車の窓ガラスの向こうに立ち並ぶビルを眺めていた。しかし楽しげではなく憂鬱な表情を浮かべていた。錬太郎は気分がずいぶんと落ち込んでしまっていた。誰かが教えてくれたわけではないけれどもほとんど間違いない可能性で、自分が別の星にいるということがわかってしまっている。別の星にいるということ自体すでにひどい状況であるが、それよりも自分以外の人たちはいったいどこに言ってしまったのかということが気になっていく。錬太郎はほかの人たちのことを考えたとき、いやな予感しか思い浮かばなかった。声に出そうと思う気持ちさえ失われて、窓の外を眺めるというのでいっぱいいっぱいになっていた。
ビルの窓ガラスが夕焼けを反射していた。錬太郎が生きてきた世界にはないほど高い高層ビルたちの側面というのは不思議な質感のガラスのようなものが建築物に使われていた。その建築物が夕焼けを反射して、真っ赤に燃えているように見えた。もう少しすれば、日が沈み夜が来る。太陽が沈めば夜が来るというルールは、錬太郎の知らない世界でも通用する。
都市部を進んでいるときにふと錬太郎は、
「おかしいな」
といった。投げやりな感じであった。気になることがあったのである。怪物たちも人間の姿もまったくないのである。怪物であっても人間であってもいるだろうはずなのに、少なくとも怪物を退治をしなければ怪物は生き続けるはずだ。しかしきれいに消えていた。誰に会話がしたかったわけではない。しかしなんとなく、口から言葉が出てくるときというのがある。意識が緩んでいたからこそ、出てきたのかもしれない。
シージオが何がおかしいのかときいた。ただのたわごとといって聞かないふりをすることというのもできるだろう。しかし錬太郎の空気というのが少しおかしかったのだ。理屈ではなく直感として発せられた言葉というのは、理論を越えた真実をつくことがある。そして真実をついた言葉というのは不思議な力がある。シージオは錬太郎の言葉に力が宿っているように感じたのだ。かといって理屈から導いたわけではない。これもまたなんとなくだ。
錬太郎は答えた。
「人がいませんよ。怪物になったとしてもいなくなることはないはずでしょ? 共食いをしているやつらもいましたけど、それでもゼロにはならない」
投げやりな言い方であった。しかしその目というのが非常に鋭かった。錬太郎が気になったのは、怪物たちの姿が見えなかったことである。怪物と出会わないのはいいのだ。戦うというのは緊張する行為であるし、消耗する。戦わないにこしたことはないが、いないというのもおかしい。シージオの話から、怪物たちが生まれてきているというのはわかっているのだ。それなのにいないというのは、どう考えてもおかしい。数え切れないほどの人間がいただろう場所が、怪物の住む町に変わったのだ。見えないわけがない。
シージオの目が鋭くなった。錬太郎の言うことが問題になるというのがわかったからだ。怪物になるということ自体がすでに重要な問題であるから、見落としていたが、その後のこともまた問題になるのだ。つまり怪物になった後どういう振る舞いをしているのか。そして怪物になっておよそ獣のような振る舞いしかできないようになったというのに、どうしてこれほどまで町が静かなのか。おかしなことだ。怪物と出会わないということ自体がおかしいのだ。虫よりも人間の数が多いといわれるほど人口が密集しているはずなのに。
そしてシージオはこういった。
「わからないな。ダナム博士が事件を起こしたのは間違いない。人の姿が見えないのは、そういうことだろうからな。ただ、錬太郎君の言うことも間違いではないだろ。ただ、怪物になった後のことは正直わからない」
後部座席に座っているイオニス少年が、シージオにきいた。ずいぶん真剣な声だった。
「お父さんとお母さんは無事でしょうか」
イオニス少年は自分たちがいる町がずいぶんと不気味な状況になっていることに恐れたのである。だからシージオにきいたのだ。無事なのかと。もちろんシージオにきいたところで何がわかるわけではない。なぜならシージオというのは何でも知っているわけではない。むしろ研究所でであったところを見ると、知らないことのほうが多いはずだ。しかしイオニス少年は大人だから、もしかしたら何か自分にはわからないことを知っているかもと思ったのだ。大人というだけで、安心するものがある。
シージオが答えた。
「わからない」
悔しさがにじみ出ていた。嘘を答えることはできたが、やらなかった。ここで嘘をつくようなまねをしてしまえば、もしものときイオニス少年の心というのは深く傷つくことになるからである。やさしく嘘のひとつでもついてやりたいところではある。しかしこの状況で、誰もが無事でいられるとはシージオにはいえなかった。むしろここで無事だなどというのはあまりにも無責任だった。
イオニス少年とシージオのやり取りの後から錬太郎は、遠くを見ていた。緩んでいた錬太郎の目に力が戻っていた。考え方を少しだけ変えたのだ。自分のおかれている絶望的な状況よりも、どうにかできる今のことを考えようと。それはつまり、錬太郎の不遇について考えるのではなくまだ希望が持てるものたちのために力を使おうという考え方である。錬太郎は、後ろの席で縮こまっている少年のために戦うと決めた。自分の不遇というのもつらいものがある、しかし人の不遇を見るというのも錬太郎にはつらかったのである。なぜ、イオニス少年が家族を失う恐怖で震えなくてはならないのか。錬太郎はそれがどうにも許せなかった。しかし理由はどうであれ、この決意が錬太郎の心を支えてくれていた。そして目に力が宿ったのだ。
さらに十分ほど進んでから、シージオの運転する車が止まった。ゆっくりと止まったので、少しも不愉快ではなかった。三人が使おうと思っていた道が、車の群れによって使えない状態になっていた。渋滞である。広い車道全体が車で埋まっていた。この町すべての車がここに集まっているのではないかと思うほどだった。こうなってしまえば、車が先に進むことはできない。車は車が通れる道がなければ前に進めないのだ。
シージオがハンドルを軽くたたいた。コツンコツンと、指先でたたく。シージオは考えているのだ。どうやってここから警察署に向かえばいいのか。そしていったい何が問題になって、道がふさがってしまっているのかと。何せシージオが使おうと思っていた道というのはかなり広い。そして車が渋滞するような場所というのがないのだ。信号機もあれば、事故を起こすような場所もある。あるけれどもここまで車が詰まるというのはおかしなことだった。当然、何か理由があるだろう。いろいろと理由というのが思い浮かぶが、一番面倒くさいのは怪物が何かの原因となっていることである。それらを考えると、シージオの頭も痛くなってくるし、無意識の行動も出てくる。
指先でハンドルをつつきながらシージオはこういった。
「厄介なことになっているな。ここが使えなくないとなると、相当回り道をしなくちゃならない」
はっきりとした口調だった。シージオが使えなくなったとはっきりと伝えたのは、これからさらに長い道のりが待ち構えているからである。長い道がまた始まるのだから、同じように車に乗っているイオニス少年と錬太郎には伝えておかなくてはならないだろう。道もわからないままというのはつらいものだ。シージオの配慮である。
錬太郎があごに手を当てた。いかにも考え事をしていますよという様子だった。実際錬太郎は考えていた。考えに集中していたために、勝手に体が動いてしまったのだ。
考えをまとめた錬太郎がシージオに提案した。
「俺がこの先どうなっているのかを見てきましょう。もしも通れそうなら、この車を捨ててちょっと別の車を借りればいい。シージオさんはここで何があってもいいように待っていてください。俺はやばいなと思ったらすぐに戻りますから。いいでしょ?」
錬太郎が危険なまねをするというのは安全を確保したいという気持ちがあったからだ。錬太郎は特につらいとは思っていないが、イオニス少年というのは体力がない。車の中で休むことができるだろうが、限度がある。そもそも怪物に追い掛け回されていたのだ、できるだけ安心できるところで休みたいだろう。そう考えて錬太郎は少し無理をすることに決めたのだ。
提案を受けたシージオは錬太郎の目をしっかり見た。見定めるような光があった。シージオは錬太郎がうなだれているのを見ていた。そして心が折れてしまっていたところをも見ていた。そのため錬太郎が無茶なことをして命を粗末にするのではないかという疑念を抱いていた。だからこのような提案をしたとき、死ににいくのではないかと考えたのだ。それはシージオにとってはうれしくもなんともない提案であるし、むしろ考え直させなければならない提案であった。だからそれをはっきりと見定めるため、錬太郎の目をしっかりと見つめたのだ。
見つめられた錬太郎は少しも目を揺らさなかった。むしろしっかりと見つめ返していた。錬太郎にはシージオの考えていることが少しだけ理解でいていた。心が読めているということではない。シージオというのが大人の感覚で自分を守ろうとしていることがわかったのだ。だからしっかりと見つめ返した。自分はまったくあきらめていない。むしろ希望を持って動いていると。言葉にしなくとも伝わるものがある。
そして錬太郎にシージオがうなずいて見せた。こういった。
「わかった。任せよう。しかし何も持たずに様子を見に行くのは危ないな。この銀の銃を持っていきなさい。威力が強すぎるが、命には代えられん。一応注意しておくが、戦うのではなく逃げるために使ってくれ。これを使って戦ったらビルが倒れるぞ」
銀の銃を受け取った錬太郎は
「まじっすか。気をつけます。じゃあ、いってきます」
といった。ふざけているようではあったが、真剣さも表情の中にあった。ふざけているような調子であったのは、心配をかけたくなかったからである。自分がこんなにも元気で緊張していないのだから、きっと大丈夫だというように見せたかった。そうすることでシージオと後部座席で自分を心配そうに見ているイオニス少年を安心させたかったのである。
そういうと、助手席から降りた。できるだけ音を立てないように丁寧に体を動かしていた。これから錬太郎は、怪物がどこに潜んでいるかもわからない高層ビルの立ち並ぶジャングルを行かねばならないのだ。できる限り危険を省かなければならないだろう。
助手席から降りるとき、イオニス少年が錬太郎に応援を送った。錬太郎の目をしっかりと見て、心配しているようだった。
「がんばって」
イオニス少年は心配なのだ。映画に出てくるような怪物たちがうろつきまわり、しかもたくさんいる。そのうろついている怪物たちは話が通じず、あっという間に襲い掛かってくるのだ。特に戦う力がないイオニス少年にとっては怪物たちなどというのは恐ろしいばかりなのだ。そんなところに一人きりで向かわなくてはならない錬太郎はとんでもないことをしようとしているようにしか見えない。声援のひとつでも贈らなくてはと思ってしまう。
声援を受けた錬太郎は手を上げて答えた。声は出さなかった。錬太郎は声援ひとつでも十分うれしかったのだ。そして少しだけ元気が出てきたイオニス少年を見て喜んでいた。
そして錬太郎は、車の群れの先をみにいった。できるだけ集中して、何が出てきても対応できるように心の準備をして。車の群れの先にあるだろう渋滞の原因、それを見定めて、乗り越えられるのかどうかというのを確認する。そうして、道を決めるため。
思いのほか錬太郎は先に進めていなかった。車と車の間を進むのを非常に苦労していた。錬太郎が前に進みにくいのは車が止まっているからというのもあるが、一番は錬太郎の体が大きかったのが原因である。車の群れというのは思いのほか隙間なく詰まっていた。縦も横もかなりぴったりくっついている状態だった。もちろん人が抜け出せるだけの幅は開いていたが、それでも狭い。そんなところを体を横にしながら、かにのように進んでいくのだ。時間がかかる。イオニス少年くらいの細身なら、まっすぐ進めるのかもしれないが錬太郎には無理だった。
しかし何を言ってもしょうがないので、一生懸命に前を目指した。あきらめるなどということはできなかった。道の先に何があるのかということだけで、ずいぶんと道が変わってくるのだ。とりあえず何がふさいでいるのかということくらいは見て起きたかった。
車の間をどんどんと進んで言った先、行き止まりで錬太郎は呆然としていた。錬太郎は車の群れをどんどんと進んでいったのだ。しかしそうして何が原因であるのかというのを突き止めたのである。道の行き止まりには錬太郎が研究所で見たような大きな肉の塊があった。しかし錬太郎が今回、見つけた肉の塊というのは壁としか言いようのない大きさである。道路を完全にふさぐように地面から盛り上がっているので、どうやっても越えられそうになかった。この肉の壁を越えるために必要なのはロッククライミングの道具であろう。車では無理であった。錬太郎はこれを見てわからないことでいっぱいになっていた。そもそも肉の塊がどうして地面から生えているのかというのもわからなければ恐ろしく広いはずのメインストリートが完全ふさぐほどの物量があるというのもわからなかった。また、超高層ビルの間に肉の塊があるというのもまた奇妙で、追いつかなくなっていたのである。
完全に道がふさがっているのがわかり錬太郎が道を引き返しているときであった。女性の悲鳴が聞こえてきた。夕焼けも深くなりつつあるところである。このような時間帯には悪いことが起きるという話があるがそんな時間に女性の悲鳴というのはよからぬ想像を引き出すには十分だった。誰かに襲われたのか、それともヘビだとか虫の類に出会ったか。
悲鳴が聞こえてすぐ、錬太郎は車のボンネットに飛び乗った。錬太郎が車のボンネットに飛び乗ると、錬太郎の体重でボンネットがへこんだ。錬太郎がボンネットに飛び乗ったのは、足場を確保するためである。そして悲鳴というのを怪物に襲われたものと仮定して、動き出したからであった。もちろん間違えているかもしれないが、間違いならばそれでいいという気持ちで動いていた。
そして声のしたほうを見た。悲鳴というのはまだ聞こえていた。悲鳴というのはどうやら渋滞の奥、角を曲がったところから発せられているようだった。
錬太郎は声のしたほうに向かった。飛び乗ったボンネットを足場にして、前の車の上に飛び乗る。そして天井を走り、また次の車に飛び移る。公園にあるアスレチックで遊んでいるようだった。悲鳴のほうへと向かったのは、もちろん悲鳴をあげている人を助けるためである。悲鳴をあげている人が、知り合いだとか、助けるべき人なのかなどということは考えていない。ただ、助けなくてはならないという気持ちが先に来て、彼は動き出していた。
錬太郎は車の屋根を走って、飛んで、悲鳴の女性のところまで行き着いた。ゴリラのような筋肉質な見た目であったがサルのように身軽だった。
悲鳴を上げていた女性はドレスを着ていた。二十代前半か、広範化というところの年齢である。年齢にそぐわない高級そうなドレスをきていた。逃げていたためだろう、大分着崩れていた。何かパーティーにでも参加していたのだろう。足元はヒールだった。かかとが高い。髪の毛が肩辺りまで切りそろえられていた。化粧は崩れている。しかし、元がいいのだろう。まだ美しかった。
錬太郎は女性の後ろから、たくさんの怪物が追いかけてくるのを見つけた。怪物たちは人の形をとどめていないものがほとんどだった。研究所で見た三つ首の怪物のようなものもいれば、肉の塊としか言いようのないものもいた。この怪物たちというのがとんでもない数であった。広い道路を選挙する怪物たちの群れというのは地獄絵図のようだった。この女性のことを狙ってきたのか、それともたまたま悲鳴につられてやってきたのかというのはわからない。しかし新しい獲物だろう女性の存在を見つけて、怪物たちは女性のほうへと走ってきていた。理由はおそらく食べるため。
錬太郎を見つけた女性が何か叫んだ。錬太郎にはさっぱり何を言っているのかわからなかったが、かろうじて聞き取れた叫びから推測すると、
「逃げなさい」
だろう。女性は錬太郎を見て怪物たちの餌食になる心配をしてくれたのだ。
忠告を受けた錬太郎はすぐさま女性に駆け寄った。錬太郎の脚力というのはどうにも非常にさえていて、女性との距離を縮めるのが少しも難しくなかった。女性のところに駆け寄るぞといって力を入れると、それこそ錬太郎が驚くくらいに簡単に距離を縮められたのだ。錬太郎が逃げなかったのはもちろん女性を助けるためである。近づかなくては女性を助けられない。
錬太郎が目の前に来ると女性が何かを伝えようとしていた。ずいぶんあわてているようだった。あと少しで怪物たちが追いついてくる。当然女性は錬太郎も自分も襲われて死んでしまうだろうと思っている。だから錬太郎に忠告をしなければならないとそう思ったのである。
しかし女性の目の前まで来た錬太郎は女性の話を聞かずに担ぎ上げた。米俵を担ぐような荒々しい担ぎ方だった。二十歳後半くらいの女性なのでハイヒールを脱いで走ってもらったほうが速いような気がしたのだが、錬太郎はそうしなかった。というのが怪物から逃げている女性の走り方を見ていると、どうにも運動がへたくそのような印象があったからだ。印象だけなのでもしかするとほかの競技が上手なのかもしれない。しかし一度見た印象を簡単にぬぐうことはできないわけで、逃げる一手を打とうとしているときに走るのがへたくそだろうと思われる人に任せるわけにはいかなかった。で、錬太郎が直接に、運ぶという行動に出たのだ。
担ぎ上げられた女性が悲鳴を上げた。恐ろしいものとであったからというのではない。どちらかというと恥ずかしいから悲鳴を上げているのだ。錬太郎の担ぎ方だと、いろいろと大変なことになる。ドレスのすそとか。髪の毛とか。
叫ぶ女性に錬太郎はこういった。まったく気にしている様子がなかった。
「おとなしくしていてくださいよ。俺が走ったほうが確実に速い」
怪物が襲い掛かってきているために悲鳴を上げているようにしか思っていないのだ。パーティー用の露出度の高いドレスを着ている女性を米俵を担ぐようにして担いでおいて、吐くせりふではない。
錬太郎は怪物に背中を見せた。逃げるためだ。
そしてあっという間にもと来た道を戻っていった。少しも戦うそぶりというのを見せなかった。いちいち戦うというのもありだった。銀色の拳銃を使えばできただろう。しかし、銀色の拳銃は威力が強すぎるのだ。建物が密集しているところで建物の基礎を崩すような攻撃を、バカスカ打ち込んでしまったら、建物が崩れてきて悲惨なことになるだろう。当然錬太郎は死ぬだろうし、女性も死ぬ。それは意味がないのだ。
当然のように車のボンネットを足場にして、屋根を踏み台にして移動した。逃げるのならば、いちいち隙間を進むよりはずっとよかった。車の持ち主の人たちには申し訳ないという気持ちはあるけれども自分と、助けようとしている女性の命のほうがずっと大切だった。
錬太郎が跳ね回るたびに女性が悲鳴を上げた。ジェットコースターに乗っている人の悲鳴とよく似ていた。少し違っているのは錬太郎というのはジェットコースターのように人が乗るように作られたものではない。そのため運ばれている人というのはずいぶんつらいことになる。頭が揺れたり、肩の筋肉で腹部が圧迫されたりする。しかも動きが非常に早いので、それもまた気持ち悪くさせる。乗り心地というのが非常に悪いのだ。錬太郎は。
途中女性が何度か錬太郎の背中をたたいた。格闘技でギブアップをするような必死な感じがあった。そろそろ女性の顔色というのが、真っ青になってある。
しかし錬太郎はまったく動じなかった。気持ち悪くなっている女性が何か訴えたがっているのだろうが、そんなことよりも命が大切だった。
あと少しでシージオとイオニス少年が待つ車というところで、女性はまったく動く気配がなくなっていた。錬太郎に担がれるというのは結構な気持ち悪さというのがあるのだ。錬太郎は女性のことなどまったく気に止めずに車のボンネット、天井を走って飛んでというのを繰り返した。上下運動の連続を延々と行ってそのたびに女性の体というのはゆれにゆれた。結果、車酔いのひどい状態になって、女性は文句を言う気持ちさえなくなってしまったのである。




