第2章(5) 白ウサギ
「あんたら……ムスキュラス一家の連中ね」
貴媚ママは腰に手を当てて、床にうずくまるやくざ共を見下ろした。
ママを『媽媽的店』以外の場所で見かけたことがほとんどなかったが、こうやって狭い部屋で屹立されると、とてつもない巨漢であることを改めて実感する。
ハクトのスクリプトのダメージが残っているせいか、ママの腕力に恐れをなしたせいか。やくざ共は全員おとなしく頭を垂れている。
「帰ってムスキュラスに伝えなさい。今度この人(ママのボローニャソーセージのように太い指が私に向かって突き出された)にちょっかいをかけたらただでは済まないとカルメーロ・プッチャレッリが言ってた、ってね」
もう行ってもいいわ、と支配者の貫録を漂わせた態度で貴媚ママが顎をしゃくると、やくざ共はのろのろと立ち上がり、部屋を出て行った。
急に、室内が静まりかえった。
ハクトは、貴媚ママに解放されたままの位置から動かず、床に四つん這いになってぜえぜえ喘いでいる。苦しそうだ。
アリスは元の椅子に座ったままだった。私の視線に気づいたのか、無機的な青い瞳がまっすぐこちらを見返してきた。
この騒ぎの間、アリスが悲鳴ひとつあげなかったことに、私はそのとき初めて気がついた。コルカタ中央署では警官の恐怖の顔面を見ただけでけたたましく泣き叫んでいたのに。
私は貴媚ママに向き直った。
「ところでカルメーロ・プッチャレッリって誰のことだ? まさか……」
「誰でもないわよ。私の知り合いの知り合い、ってとこかしら」
ママが不自然なほど急いで答えた。目が泳いでいる。
「……『知り合いの知り合い』ってのは結局『自分』って意味じゃねえのか?」
という私の指摘を、ママはきっぱりと黙殺した。床にへたり込んでいるハクトに大股で近づき、その頭をクリケットのキーパーグラブみたいな手でわし掴みにした。
「おかしな真似をしたら即座に首をねじ切るわよ、この魔術師め! まさかリドルさんに変な呪いをかけたりしてないでしょうね?」
「ま……魔術師? 何やそれ?」
喉をあやうく潰されかけたハクトは、まだまともな声が出せずにいる。
「とぼけるな!」
ママの迫力ある恫喝が狭い部屋を揺るがせた。
「私はちゃんと見たんだから。あんたが魔術を使うところを。今さらごまかせるなんて思わないことね。……私の生まれた村では、魔術師は悪魔の申し子だから、発見したらすぐに火あぶりにすることになってるの。このへんじゃ火あぶりの道具はないけど……私の店まで戻れば大型の石窯がある……」
「おい待てよ野蛮人! これまで、人間を焼いた石窯を使ってピッツァを焼いてやがったのか? 食品衛生はどこ行った!?」
「ちょお堪忍して。何なん、火あぶりって。この二十四世紀に。……生まれる時代を千年ぐらい間違えとらへん?」
ハクトと私のツッコミが重なった。
ママは私を振り返り、いかつい顔に凶悪な笑みを浮かべてみせた。
「心配しなくていいのよ、リドルさん。うちの石窯で人間を焼くのは今回が初めてだから♡」
「ビハール鶏を焼くのは今回が初めてなの、みたいな軽いノリで言ってんじゃねえよ、この血まみれトーテムポールが! そもそも当たり前みたいに人間を焼くとか言い出すんじゃねえ。てめえの頭はどうなってる!?」
illegal script detected ('direct_voice')
contact requested
id ('white_rabbit')
私の[認識野]の片隅で白ウサギのアイコンが点滅した。ハクトが[ダイレクトボイス]で話しかけてきているのだ。こちらからの応信を要請している。
[ダイレクトボイス]は、ネットワーク上のメール機能を経由せずに相手の[補助大脳皮質]と直接メッセージを交換するためのスクリプトだ。
ネットワークの提供するメール機能だと、連系ポイントを共有している(つまり、物理的に近い位置にいる)他人にも送受信を察知されるが、直接交信ならその危険はない。おまけに、[ダイレクトボイス]は速い。瞬時に交信できる。
私が交信をオーソライズすると、早速ハクトのメッセージが流れてきた。[補助大脳皮質]はそれを自動変換し、ハクトの肉声として認識させる。
【おまえからも何とか言うたってくれや、リドル! 俺は怪しい奴やないって。この人おまえの友達なんやろ?】
【友達というわけじゃねえ。本名がカルメーロ何とかだってことも今日知ったばかりだ。……この殺人コックをある程度納得させないと、おまえ間違いなく殺られるぞ。見ろよ、もうすでに、おまえを煮込みにするのがいいか串焼きにするのがいいか考えてる眼つきだ】
【うわー。どこまで信用できるんや、この人?】
【わからんが……あまりまともな素性じゃなさそうだから、[ダイモン]にタレこんだりはしねえだろ、たぶん。とりあえず「魔術なんてものは存在しない」って話をしてやれよ】
私たちの会話は一秒程度で終了した。
貴媚ママは、巨大な手でハクトの頭頂部をわしづかみにしたまま、猛禽の無邪気さで小首をかしげた。明らかに、このまま首をへし折ろうかと思案している表情だ。
ハクトは姿勢を正した。必死さの伝わるかしこまった態度で、
「お……俺は魔術師とちゃいます、姐さん。俺は布教のためにコルカタへ派遣されたブラフモ・ドクトリンの説法師です。所属はメッカのアル・レサイファ寺院です。えーと、信じられへんのやったら、《聖典》の『創世記』の章を暗唱します。『金色の夏の日差しの/緩やかな歩みのままに/ただ安閑と/漂う我等……』」
ママを「姐さん」と呼んだのはハクトのファインプレイだった。ママの殺気が顕著にやわらいだ。
「お坊さんだからって、魔術師じゃないということにはならないわ」
ぴしゃりとはねつけたが、その言葉尻は微妙に柔らかい。
「そのー……俺の手から石ころが飛び出したように見えたと思うんですが、それは実は、現実やないんです。俺はネットワークを経由して、人の[補助大脳皮質]に干渉できるんです。別に、ブラフモ・ドクトリンを信仰してるからそういうことができるわけやないんですが……」
――本来なら、決して部外者に口外してはならない秘密だ。
人間によるネットワークへの不正な干渉。そんなことが可能だと電脳に察知されたら、あらゆる手を尽くして排除される。この地球上において電脳は全知全能、まさに[神]と同値であり、電脳を敵に回したら一瞬も生存できない。
私たち[工作員]が生き延びていられるのは、機密保持に細心の注意を払っているからだ。
しかしこの場では、貴媚ママにある程度の真実を話してやらないと、ハクトを解放してはもらえないだろう。
ママの口の固さを信頼するしかない。
「どういうことなの」
ママは完全に話に引き込まれた。好奇心が殺意に取って代わり、その黒い双眸に強い興味の色が浮かんだ。といっても、ハクトの頭をつかんでいる手は離さないが。
ハクトは開き直ったらしく、ためらいなく滑らかに話し始めた。
「ここから先はしばらく、学校の保健の授業みたいな話になりますけど、我慢して聴いてください。……俺らが現実だと感じているこの世界は、すべて俺らの頭の中の[補助大脳皮質]がこしらえた世界です。人間が快適に生きてけるように、[補助大脳皮質]が知覚を調整してるんです。
例えば、姐さんの目の前には、今アイコンとか文字が見えてるでしょ? そのアイコンは現実に存在してるわけやない。ネットワークとの主インタフェースである[仮想野]を視覚と統合してるせいで、ネットワークからの情報を目で見た物みたいに感じるんです」
「……」
「暑い、寒いって感覚もそうです。昔、まだ[補助大脳皮質]がなかった頃、人間はもっと簡単に暑いとか寒いとか感じてたらしいです。その感覚は人によって違うし、そん時の気分によっても違う。とにかく、ほんのちょっとの温度変化でも不快感を感じて、エネルギーを大量に使って部屋全体の暖房や冷房をしてたらしいですわ。
今はそんなんとちゃいますからね。生命維持に危険を及ぼすほどの極端な温度変化でない限り、人間は暑さ寒さを感じないように調整されてます。[補助大脳皮質]が人間の知覚をコントロールしてるおかげです。
俺らは、安定した快適な繭にすっぽりくるまれて生きてるみたいなもんですわ。人間を環境に適応させるため、[補助大脳皮質]が人間の五感を完璧に調整してる。もしそういった調整作用がなければ……地球上のたいていの街は、暑くて、臭くて、機械の作動音がやかましすぎて、とても暮らせたもんやない環境やと言われてます。[補助大脳皮質]のおかげで、俺らは暑さも悪臭も騒音も感じずに済んでるんです。
俺らが生きてる『現実』は、[ダイモン]のプログラムに従って、[補助大脳皮質]が俺らのために作り出した現実です。調整済みの現実。それを[認識界]と呼んだりもするんですが」
おい、そろそろ本題に入れよ、ハクト。ママの目が少しうつろになってきたぞ。この呪われしブラックモアイは、どう見ても座学に向いてるタイプじゃない。
[ダイレクトボイス]でハクトに注意してやろうかと思ったが。
その必要はなかった。奴はまっすぐ話の核心へと進んだ。
「俺は他人の[補助大脳皮質]に干渉して、[認識界]を上書きできるんです。例えば俺が、姐さんの[補助大脳皮質]に、『石が飛んできて顔に当たった』と思い込ませたら……[補助大脳皮質]はそれを『現実』として処理するので、姐さんは実際に石を見て、実際に痛みを感じます。それは錯覚やない、本物の知覚です。姐さんの五感は[補助大脳皮質]の支配下にありますから。
[認識野]は人間にとってはまぎれもない現実。誰も自分の五感からは逃れられへんのです……たとえネットワークによって制御されたつくりもんの知覚であっても」
ママは考え込む風情で、口を尖らせた。
「……石が飛んでくるのが見えて、顔に当たった痛みを感じるけれど、怪我はしない。なぜならそれは本物の『現実』じゃないから。……そういうこと?」
「いや。怪我もします。たいてい」
ハクトは完全に説法師の口調丸出しで、すらすら答えた。
「人間の思い込みって、すごいんです。催眠術で人に『これは熱した鉄棒や』と思い込ませてから、普通の温度の鉄棒を腕に当てたら、火傷の症状が出るらしいです。偽薬が結構よく効くってことは昔から有名ですし。
つまり、人が『石が顔に当たった』と本気で知覚すれば、実際に顔に傷ができる、ってことです。[補助大脳皮質]による知覚の支配は、プラシーボどころのレベルやありませんからね。効果は強烈ですよ」
「……」
貴媚ママはついに、ハクトの頭から手を離した。太い腕を組んで、困ったように首をかしげた。
賭けてもいいが、たぶんハクトの説明は半分ぐらいしかママの頭には残っていない。それでも、魔術ではないらしい、ということだけは納得したようだった。
「あんた、そんなこと、どうしてできるようになったの。人の頭の中に干渉するなんて」
「えーと、生まれつきです。気がついたら、ひとりでにできるようになってたんです。……医者に言われたんですが、俺みたいな奴、そこそこ大勢おるらしいです。一万人に一人ぐらいの割合で、こういうことできる奴が生まれるって」
ハクトは嘘と真実をさりげなく混ぜた。
「生まれつき」というのは嘘だ――[認識野]を上書きするスクリプトの実行と制御は、訓練を積まなければ身につかない技能だ。
「一万人に一人」は、かなり真実に近い。
生後半年の赤ん坊の頭蓋にナノマシンを注入して[補助大脳皮質]を形成させるプロセスの中で、一万人に一人ぐらいの割合で、ナノマシンが誤作動を起こす。神経細胞と人工神経との置換が過剰に進行し、予定になかった器官を形成してしまう。その結果できあがるのが、いわゆる[冗長大脳皮質]だ。
[冗長大脳皮質]は、[ダイモン]の予想していない挙動を見せる。ファイアウォールを回避して他人の[補助大脳皮質]に侵入し、その知覚制御に干渉する。
ナノマシンの異常の大部分は、子供の成長途中で発見され、矯正される。
たいていは五歳児健診でみつかる。異常と診断された子供はそのまま病院へ送られ、[冗長大脳皮質]を摘出される。異常の性質も手術の内容も保護者には説明されない。極秘裏のうちに処理されるわけだ。
世界宗教者会議は、傘下にあるすべての宗教団体に、[冗長大脳皮質]を持った子供の早期発見を命じている。
聖職者や信者の子供、孫、親戚。教会や寺院の経営する孤児院で暮らす子供。
その中に、事象干渉能力の片鱗を示す者がいないかどうか、鵜の目鷹の目で探している。
もし[冗長大脳皮質]を持った子供を発見したら、五歳児健診を受けさせないまま、地下へ潜らせる。偽のIDを与え、ネットワーク[ダイモン]が追跡できないようにする。
そしてそれらの子供を《バラート》に集めて、[工作員]に育成するのだ。[ダイモン]に対抗する力とするために。
ふと我に返ると、貴媚ママの鋭い視線が私の頬に食い込んでいた。
「まさか……まさか、あなたもこいつの仲間だなんて言わないわよね、リドルさん? あなたにもできるの、その……魔術みたいなことが?」
「できるわけねえだろうがっ、そんなもん。俺はいたって普通の人間だ」
私はこれ以上ないぐらいきっぱりと断言し、胸を張った。
ママの安堵の表情。背筋を伸ばして椅子に座り、こちらを凝視しているアリス。そんな様子をなんとなく見回しながら、私は[ダイレクトボイス]で飛び込んでくるハクトの恨み言を聞いていた。
【ずるいわリドル! 自分だけ普通の人のふりしやがって! 俺を切り捨てるんか?】
【犠牲は少ない方がいいに決まってんだろ。それに、俺は行きつけの店をなくしたくねえ。安くて美味くて家から近い店は貴重だ】
【くっそー、この薄情もんが!】
――アリスの口元がかすかにゆるんだ。
微笑んでいるように見える。
まさか、と思って改めて見直すと、確かに目撃したと思った表情の変化は跡形もなく消えていた。アリスは人形のような無表情を保っていた。
きっと私の見間違いだろう。
アリスには、この状況で笑う理由がない。