第2章(4) 白ウサギ
何も――起こらない。
ハクトは中腰のような微妙な姿勢のまま、じっと舗道に立っている。
アリスを肩にかつぎ上げた灰色の男は、あいかわらず短距離走者のような俊足で車道を逃げていく。
二人とも、足元に口を開いた無重力にとまどっている様子はない。
「すまん、リドル! 俺のミスや!」
ハクトのすっとんきょうな声が無人の路上に響きわたった。
「座標設定がうまくいかなくて、スクリプトの効果範囲を地上八百センチより上にしてしもた。あと、属性指定にも失敗した」
「この役立たずの禿げ野郎! 全然ダメじゃねえかっそれじゃ!」
「いや~……なんつーか、訓練と全然違うわ。おまえのスクリプト、めちゃくちゃ"速い"もん。限定できる気がせぇへん」
てへっ、ドジっちゃった、みたいにへらへらしてるんじゃねえよ。「覚悟」はどこ行ったんだよ。
そうしてる間にもアリスはどんどん遠くまで運ばれてくじゃねえか。
五十メートル以上離れてしまうと、スクリプトで脳内に介入できなくなる。
私はハクトの背中をぶっ叩いて急かし、アリスの後を追って再び走り出した。ビル街に私たちの足音がこだまする。生身のバトルにも追跡にも慣れていない私たちは、少女を肩にかついだ男にどんどん距離を開けられる。
前を行く男の背中で、だらんと垂れ下がった長い金髪が力なく揺れている。
「やれ! ハクト! なんでもいいから、とにかくぶつけてやれ!」
私の叫びに応じて、ハクトは[スイーツパラダイス]を連続実行。前に向けて突き出されたその掌から大量の砂利が噴き出し、まったく速度を落とさないまま直線状に宙を切って、前方を走る敵の脚にヒットする。
敵にぶつかった砂利は四方へ派手に飛び散り、ざざざぁぁっと道路に落下する。着地すると同時に、水飴へと変化。たちまち男の足元で水飴が池を作る。
男の走る速度が、目立って落ちた。
靴底がべたべた路面にくっついて走りにくいんだろう。
私たちはようやく男に追いついた。
「その子を離せ、変態野郎!」
私は叫びながら、男の灰色の背中にタックルした。走って来た勢いと体重とを乗せて、男を前のめりに押しつぶした。
私たちは激しく地面に倒れ込んだ。
頬骨にいきなり肘打ちを喰らい、『目から火が出る』という慣用句を実体験する。私はしゃにむに相手にしがみつき、動きを封じようと試みた。路上で転がってもみ合ううち、男が軟体動物のような奇怪な動きでするりと私の手から抜けて反転し、私と正対した。その拍子にアリスの体が男から離れ、仰向けに舗道に横たわった。
それに気をとられた瞬間。みぞおちに重い打撃を喰らい、私は呼吸ができなくなった。
男の膝蹴りが入ったのだ。
苦痛で思わず身を二つに折った。このままだと完全に無防備な状態で第二撃を喰らう、と頭でわかっていても、体勢を整えることができない。
くそっ、いったい何してやがる、ハクト。助太刀しろよ!
illegal script detected ('rabbit_hole')
id ('white_rabbit')
ハクトのスクリプト[兎の巣穴]がぎりぎりのタイミングで発動。
立ち上がって私の頭に蹴りを入れようとしていた男の足元の地面が、きれいな円形に消滅した。深さ二メートルの落とし穴だ。
悲鳴をあげて、男は穴に転落していった。
久しぶりに夢を見た。
閉ざされた部屋にこもって、絶望に心を食い荒らされながら、部屋の隅で体を丸めている子供の夢だ。
私は部屋の外で、鍵のかかった扉をひたすら叩いている。室外にいるはずなのに、なぜか私には室内で丸まっている子供の姿が見えている。まあ、夢だからな。
子供の名前を呼びながら、握り拳で何度も扉を叩くが。
わかっているのだ。その扉は決して開かれない、と。
――早い話が、悪夢だ。いまいましい。
翌朝、アパートのいつものリビングで目を覚ました私は、夢見が悪かったぶん機嫌も悪かったが、アリスもハクトも窓の外の青空みたいにすがすがしい顔で起き出してきやがった。
アリスはさらわれる時に気絶させられたので、あまり恐怖を感じずに済んだらしい。昨夜のことなど忘れたかのような、けろっとした表情をしている。
ハクトは、固い床で眠った男とは思えないほど、朝からハイテンションで上機嫌だった。「泊めてもらった礼に、俺が朝飯を作ったるわ」と言い出した。
私は不信感をたっぷりこめて奴を見返した。
「おまえ、料理なんかできる奴だったか? 寮にいた頃、一度も見た記憶ないぞ。そもそもおまえ『ドジっ子』なのが売りだろ? ミスって家を燃やされたんじゃたまったもんじゃねえ」
「誰が『ドジっ子』やねん。料理ぐらいできるわ。俺が二十一歳から三年間、バグダードの本山で修行して来たのは何のためやと思ってるんや」
「何のためなんだよ。バグダードへ行ったのは、僧侶になる修行のためじゃなかったのか。本山で覚えて来たのが料理だけと聞いたら、おまえの親父さん、草葉の陰で泣くぞ」
「親父まだ死んどらへんわ! 勝手に殺すな」
ハクトはフライパンをふるい、意外と手際よくパンケーキを焼き上げた。厳格をもって鳴るブラフモ・ドクトリンの本山で三年間修業した成果がこれだけだとしたら情けない話だが、アリスはパンケーキを気に入ったようだ。顔の輪郭が変わるぐらい頬ばりながら、目を輝かせた。
私の住んでいる単身者向けのアパートの部屋は、かろうじてストリートバスケぐらいならできそうな面積を形ばかりのリビングと寝室に区切ってある、きわめて狭い空間だ。模造生体合板でできた作りつけの椅子もテーブルもガタがきてるが、それでも、三人でテーブルについていると、妙にくつろいだ雰囲気が流れた。
「……何者やと思う、昨日の奴ら? 狙われる心当たりはあるんか?」
ハクトが赤フレームのアイシールドの向こうから、こちらをうかがうような眼つきをした。私は投げやりに肩をすくめてやった。
「さあな。変態か、金目当ての誘拐犯か……。最近は物騒なんだよ、このへんも。こんな目立つガキを連れて夜道をうろついたのは俺のミスだった。気をつけなきゃな、これからは」
「あー……まあ、アリスちゃん可愛いからなー。いかれた奴らに狙われても不思議はないわなー」
ハクトにしては珍しく、歯切れの悪い口調だ。
何か言いたいことがあるのかと私が相手の表情を探ろうとしていると、奴は新たな質問を投げてきた。
「警察に届けんでええのか? 誘拐されかけたこと」
オオカミ顔の警官とその上官を思い出し、私はきっぱり首を横に振った。
「いや。警察とはこれ以上関わりたくねえ」
「ああ。そうやろな」
ハクトは小刻みにうなずいた。パンケーキの最後のかけらを口に押し込みながら、それまでと口調を変えず、話題だけをころっと変えた。
「――《ローズ・ペインターズ同盟》って聞いたことないか」
私はそのとき[仮想野]に朝の国内ニュースを表示させかけていたのだが、ハクトの質問に虚を突かれたので、表示を止めた。視界にオールバック男の白い面だけを映す。
「最近はやりの新興宗教だろ? 昔の《鋯石線》あたりからインドへ流れて来た奴らが中心で……主張してる内容は信仰というより、反電脳、人間至上主義、という感じだ。目新しくもねえ」
「その通りや。『機械の生み出した偽りの白薔薇を、熱き血潮で紅く塗り替える』とかいうスローガンを掲げとる。わけわからんわ。――俺が上から潜入調査を命じられたのは、その《ローズ・ペインターズ同盟》やねん。《同盟》の本部が、ここコルカタにあるんや。入信したふりをして入り込み、中の様子を探れと言われてる」
パンケーキのレシピを打ち明けるみたいなのんきな調子で、機密事項をしゃべりやがった。《バラート》の指令はすべて極秘とされているのに。
ガキとはいえ、いちおう部外者であるアリスも同席しているのに、このウサギ野郎には警戒心ってものがねえのか。
私はハクトを睨みつけた。
「なんで今そんな話をする? 俺はてめえの任務になんざ興味ねえって言っただろう?」
「それは……」
ハクトは返事を最後まで言い切ることができなかった。
とつぜん大音声と共に、薄っぺらい模造生体合板製の玄関ドアが、爆発したような勢いで弾き飛ばされたからだ。
ドアを蹴破って室内になだれ込んできたのは、やくざ共だった。
濁った瞳、凶悪な面相、崩れた服装。九十八番街あたりのスラムへ行けばガンジス川の水中雑菌も顔負けの高密度で生息しているボウフラ共だ。暴力を生業とする人間の饐えた臭いを漂わせている。
部屋が狭いので、そんな奴らが六人も押し入って来ると大変な圧迫感だ。
朝っぱらから武装強盗かよ。最近のコルカタは物騒だが、こんなにもかよ。
どうせ押し入るなら、もうちょっと金を持ってそうな家にしたらどうなんだ。
強盗に逆らうのは賢明ではない、とホールドアップしかけていた私は、あるものに気づいて硬直した。
やくざ共のいちばん後ろから悠然と入って来た、ライトグレーのスーツ姿の中年男。明らかにボスらしいそいつのスーツの襟で、クローバー型のバッジが銀色の輝きを放っている。
昨夜の軍人らしいおっさんが身につけていたのと同じバッジだ。
――このやくざ共は昨日の誘拐犯たちの仲間だ。
こいつらの狙いは、アリスだ。
戦えるのはハクトしかいない。私は一瞬でその結論に達した。
レギュレータとしてのハクトがまったく当てにならないことは昨夜明らかになった。そんな状況で、殺傷力のありすぎる私のスクリプトを実行することはできない。
私のなすべきことは、時間を稼ぐことだ。せめて二、三秒。
それだけあればハクトが自分のスクリプトを実行できる。
「動くな! テーブルの下から六十口径無反動銃がてめえらを狙ってんぞ! それ以上一歩でも動いたら、てめえらの頭は跡形もなく爆散する。首無しオブジェになりたくなければ、じっとしてろ!」
私は椅子に座ったまま、できるだけふてぶてしい態度を装って言い放った。
やくざ共はぴたりと動くのを止めた。
七対の濁った瞳が、燃えるような憎悪と殺意の視線を私の顔に突き立ててくる。
「でたらめだ。ハッタリぬかしてるだけだろう」
威厳のある渋い声で、スーツ姿の男がつぶやいた。私は鼻で笑ってみせた。
「そう思うなら、試しに動いてみろ。……よくも人んちのドアをぶっ壊しやがったな。お返しに、てめえの胴体に特大の勝手口を開通させてやる」
もちろん銃を持っているというのは嘘だ。生まれてこのかた、そんなものの世話になったことは一度もない。
奴らのうちの誰かがほんの少し身をかがめれば、テーブルの下に潜った私の手が握っているのはフォークだけであることがわかるはずだ。
しかし、実際に身をかがめようとする奴は一人もいなかった。
撃たれるリスクを冒してまで真実を確認するだけの覚悟はないんだろう。今のところ。
――《バラート》に引き取られる前、まだ孤児院にいた頃、嘘をつくのは罪だと言ってよくシスターに叱られたものだ。
けれどもこの年齢になって振り返ってみると。
孤児院で教わったどんな祈りよりも、ハッタリの技術の方が私の人生の役に立っている。
[仮想野]をきらきらと横切るセキュリティアラート。
ハクトがスクリプト[一方通行]、[ラビットホール]、[スイーツパラダイス]をたて続けに実行したようだ。時間を稼いでやれば、奴はそれを有効活用できる。
突如として床に開いた兎の巣穴に呑み込まれ、やくざのうち四人が姿を消した。
かろうじて踏みとどまって穴に落ちるのを免れた残りの三人に、ハクトの放った砂利の嵐が襲いかかる。
大量の砂利は秒速二十メートルでやくざ達の顔にぶつかった。
顔に衝突した瞬間、砂利はソフトキャラメルシートに変化。三人の顔をべったりと覆い尽くした。突然呼吸を奪われたやくざ達は、貼りついたシートを慌てて剥がしにかかる。
(スクリプトの構造上、砂利をキャラメルシートではなく、例えば沸騰したホットチョコレートなどに変化させることも可能だ。そうすれば殺傷力は格段に上がる。だがハクトは僧侶なので、人に重い傷を負わせることができないのだ)
そのとき。開いたままの玄関ドアから、黒い疾風が吹き込んできたような気がした。
やくざ達が、目に見えない列車に跳ね飛ばされたかのように後方へ弾け飛び、壁に激突した。
――何が起こったのか理解できなかった。
ハクトの白い首をつかんで吊り上げ、壁に押しつけている、『媽媽的店』の貴媚ママの姿を見るまでは。
やくざ達の顔に貼りついていたキャラメルシートが消えた。床に開いた落とし穴も消え、打撲の苦痛に呻く四人の男たちが穴のあった場所に転がっていた。
スクリプトの効果が停止した、ということは、たぶん呼吸困難でハクトの意識が飛びかかっているのだ。
貴媚ママはハクトを吊り上げたまま、顔だけを動かして私を見、不気味な情感たっぷりの声で叫んだ。
「よかったわ、無事だったのね、リドルさん。……私、暇なときはいつも、窓からあなたのアパートを見ているの。だからすぐに気がついたのよ、やくざみたいな連中がアパートへ入って行くのに。心配で心配で、大急ぎで駆けつけたんだけど……よかったわ♡ まずいことになる前で♡」
もうすでに十分まずいことになってんだろ。ハクトの顔が紫色に変わりかけてる。それに……何かとてつもなくおぞましい発言を聞いたような気がするんだが?
とりあえず私は、「そいつは悪者じゃない」と説明して、貴媚ママにハクトを解放してもらった。