第2章(3) 白ウサギ
それはハクト・イナバとの遭遇から二日後の夜のことだった。
《媽媽的店》が月に一度の定休日だったので、私はアリスを連れて、アパートから三ブロックほど離れたところにあるエスキモー料理店へ夕食にでかけた。
「生肉、大丈夫だったか? 腹はなんともないか?」
帰路。人通りのまばらな四十二番街をのんびり歩きながら、私は傍らのアリスに声をかけた。
アリスは、ほとんど見て取れないぐらいかすかに、首を横に振った。
こちらを見上げる碧い瞳が輝いている。どうやら食事に満足した様子だ。
アリスはあいかわらず口を利こうとしないし、表情も乏しい。
しかし、しばらく一緒に暮らすうちに、私は少女のごくわずかな反応を読み取れるようになっていた。人間同士の非言語コミュニケーションというのはすぐれものだ。視線、顔の傾け方、口の形。そんな細々したものでも、気持ちを察するのに十分な手がかりとなる。
相手の反応を理解できるようになったので、私はいつの間にか、頻繁にアリスに話しかけるようになっていた。
小さな手で指先をぎゅっと握られながら並んで歩くのも、最初は気恥ずかしかったが、今はそれほど抵抗がない。
私たちの眼前には灰色の街並みが広がっている。
四十二番街は三流のオフィス街で、正体不明の数々の事業所がもっともらしい看板で覇を競っている。建物が古い割に看板がどれも新しいのは、長続きする事業所が少なく、ビルのテナントが頻繁に変わるせいだ。
夜のオフィス街は、ばったりと人の往来が途絶える。看板、無人の窓、閉ざされたシャッター。それらすべてが、つくりものめいた均一な灰色に塗り込められて見える。
大昔、まだ人間が[補助大脳皮質]を持たない頃。夜の街は無数の照明素子で真昼のように明るく照らし出されていたそうだ。人間が安全に歩けるように。
人間の安楽のためだけに、途方もなく大量のエネルギーが消費されていたわけだ。
今では[補助大脳皮質]が人間の感覚器からの信号を増幅するので、人間は闇の中でも平気で歩ける。もはや夜の街にイルミネーションは不要だ。私たちは漆黒の世界を、ほの明るい灰色の景色として認識する。
環境を人間に合わせるのではなく、人間を環境に合わせる。それが、電脳ネットワーク[ダイモン]に支配された世界の、合理的なあり方だ。
交差点の似非煉瓦造りの建物の壁にもたれかかるようにして、白ずくめの長身の男が立っていた。その足元には小型のスーツケースが置かれている。
「今晩泊めてくれへんか、リドル」
近づいて来た私たちに向かって、ハクトがへらっと笑いかけた。
こいつに私の住みかを教えた覚えはないが、私の偽造IDをあっさり見つけ出したこいつなら、住所を調べ出すことなど造作もないだろう。
「ホテルの壁がめちゃめちゃ薄てなー。隣の客のいびきがうるさすぎて寝られへんのや。ホンマもう、かなわんわ」
「……一泊十万CPな。あと、寝るのは床だ」
「十万!? 高ぁ!! しかも、十万も取るのに床って!! おまえんち、せめてソファとかないんか?」
「ソファは俺が使ってる」
私はぶっきら棒に答えた。一泊十万CPは冗談だが、床の話はまるっきり本気だった。ベッドは今のところアリスの寝場所となっていたからだ。
なんとなく事情を察したらしい。ハクトはアリスに視線を移し、身をかがめて目の高さを合わせた。
「こんばんは、お嬢ちゃん。俺はリドルの友達で、ハクトっていうねん。よろしくな。お嬢ちゃんは何ていう名前?」
文句のつけどころのない、誠実で優しげな物腰。
これがこいつの商売用の顔だ。ハクトは西方系の新宗教ブラフモ・ドクトリンの僧正の息子で、こいつ自身も下級僧侶の資格を持っている。その気になれば、おそろしく人当たり良く振る舞えるのだ。
カソリックの教会が経営する孤児院で幼少期を過ごしたのに無信仰になり果てた私とは、わけが違う。
アリスが不意に、握っていた私の指先を離した。
たたた、と軽い足音をたててハクトから逃げ、ちょうど私の体をハクトに対する盾にするような位置で、私のジャケットの裾にしがみついた。
すごい避けっぷりだな。ここまであからさまだと、いっそすがすがしい。
見ると、ハクトが善人顔のまま固まっていた。
「……おい、大丈夫か。おまえちょっと涙目になってんぞ」
「泣いとらへん。この赤い目は生まれつきや。……ええんや。俺は、第一印象が悪くても、後からじわじわ良さがわかってもらえるタイプやから。噛めば噛むほど味が出る、ってやつや。チューインガムみたいに」
「ガムは噛んでるうちに味が無くなるだろーが」
ハクトと私は肩を並べてアパートへ向かって歩き始めた。静まりかえった無人の街路に、私たちの足音だけが響いた。
片時も黙っていられない性分のハクトは陽気にしゃべり続ける。
「なあ。俺の今回の調査対象が何なのか、気にならへんか? どの組織への内定調査を命じられたと思う?」
「知ったことか。これっぽっちも気にならねえよ、そんなこと」
「ホンマに? おまえの暮らしてる街で、それだけヤバい集団が活動してるってことやで? 話だけでも聞いてみたい、とか思わん?」
「思わねえな。勝手にさっさと仕事を片づけて、さっさと本部へ帰れ」
くだらない言葉のぶつけ合いをしているうちに。
私はふと、背後で細い悲鳴のような声を聞いたように思った。
私とハクトは同時に振り返った。
すぐ後ろをついて来ているはずのアリスがいない。
視線を転じると、灰色の上下という完璧に背景に溶け込む服装の二人の男が、不自然なほど足音を立てずに、私たちから駆け去っていくところだった。
男の一人が、アリスの体を肩にかつぎ上げている。
脚を抱えられているので、アリスは頭を男の背中側に垂らす格好だ。ぐったりと動かない。意識を失っているらしい。
少女一人を運んでいるにもかかわらず、男は結構な速度で走り去っていく。
私たちは灰色の二人組の後を追って駆け出した。
アリスをかついでいない方の男が足を止め、こちらへ向き直った。
私たちの前に、両腕を軽く広げて立ちふさがる。右手には鈍い輝きを放つ金属棒が握られている。
姿勢をやや低くしたその立ち姿は殺気に満ち、隙がない。
典型的な軍人づらをしたおっさんだった。背丈はたぶん二メートル近く。セーターにジーンズという薄着なのに、着ぶくれしたカバみたいに暑苦しく膨れ上がって見えるのは、異様なほど発達した筋肉に全身覆われているせいだ。
セーターの襟元で銀色に輝いている小さなクローバー型のバッジが、ひどく異彩を放っている。中央にピンクの石を埋め込んだ少女趣味なバッジだ。
おっさんのくせに女物のアクセサリかよ。顔はいかついが心はファンシー、ってやつか。うす気味悪いにもほどがあるだろ。
男と私たちが無言で睨み合う間にも、アリスを抱えた奴はどんどん遠ざかっていく。
――私は《バラート》で様々な訓練を受けてきたが、その中に戦闘技能は含まれていない。《バラート》は曲がりなりにも宗教組織なので、人を傷つけることをよしとしないのだ。
しかし今はそんなことを言っていられない。
このままではアリスが連れ去られてしまう。追いかけるためには、目の前のおっさんを排除するしかないのだ。
気合いだ。気合いあるのみだ。
私がこいつとしばらくマッチアップできれば、その隙に、ハクトがアリスを捕らえている男を追えるかもしれない。
私は一歩踏み出し、眼前の巨漢に殴りかかった。
これ見よがしに大振りな右フック。――これは囮で、本命はその次に繰り出す予定の左アッパーだ。私は左利きなのだ。
相手は避けようともせず棒立ちのままだ。
それを不審に思った瞬間。視界から突然、おっさんの姿が消えた。私がネットワークの周辺情報を頼りに敵の所在を探る暇もなく、背後から何か硬い物が私の左肩に触れた。
次の瞬間、とてつもない熱と苦痛が私の全身を貫いた。
どうやら一瞬意識が飛んでいたようだ。はっと気づくと私は冷たい石畳の路面にうつ伏せに倒れていた。肩でずきずきと激痛が脈打っている。
――おっさんが持っている金属製の棒は、どうやら特殊武装警官らが使用する電撃警棒らしい。相手は一瞬で私の背後をとり、警棒を押し当ててきたのだ。
瞬殺かよ。ざまあねえな、私。
戦闘力において勝っているうえ武器まで持っている敵に、このまま素手で挑んだのでは勝負は見えている。
こいつを倒すための方法は一つしかない。[スクリプト]を使うのだ。
倒れている私の耳に、すぐ近くで舗道を踏みしめるおっさんの靴音が届く。私にとどめを刺すつもりだろう。
迷っている暇はない。
不意に私の[仮想野]の下端に、極彩色の文字がひらめいた。
illegal script detected ('semiblockage')
id ('white_rabbit')
私の[冗長大脳皮質]にインストールされているセキュリティフィルタからの警告だ。
ハクトがスクリプト[一方通行]を実行したことを、フィルタが通知してきたのだ――フィルタはアラートを出すだけで、不正スクリプトをブロックできるわけではないが。
人間の[補助大脳皮質]は、ネットワークから脳内に流入する大量の情報を整理すると同時に、人間の知覚した情報を継続的にネットワークへ送信する役割を果たしている。
[一方通行]は、ネットワークを経由して半径五十メートル以内の人間の[補助大脳皮質]に干渉し、知覚情報のネットワークへの送信を阻止するスクリプトだ。
工作はネットワークの安定性と完全性を脅かすものであり、発見されれば[ダイモン]に徹底的に弾圧される。スクリプトを他人に対して使うと、その人間の知覚情報によって、スクリプトの存在が[ダイモン]に知られてしまう。
だから、大掛かりなスクリプトを使う前には、まず[セミブロッケージ]でネットワークへの情報送信を遮断する。[工作員]の戦いの第一手だ。
illegal script detected ('sweets_paradise')
id ('white_rabbit')
極彩色のアラートが、ハクトが第二弾のスクリプトを実行したことを告げる。
ハクトの使える唯一の攻撃らしい攻撃。[茶菓山積]。
私はうつ伏せの姿勢から、右腕だけを支えに上半身を起こした。
少し離れた舗道に立っているハクトが、白手袋に覆われた掌をこちらへ向かって突き出す。その手の平から魔法のように七色の奔流が生まれ、すさまじい勢いで、私を倒したおっさんの首から上を呑み込むのが見えた。
その七色の奔流の正体は、数えきれないほどのジェリービーンズだった。
たかが菓子とはいっても、これだけの数がこれだけの高速で顔面にぶつかればダメージは相当だ。
おっさんが呪いの声をあげながら両手で目を覆った。激しく噴き出した鼻血がぼたぼたと路面に垂れた。電撃警棒はとっくに忘れ去られ、男の手から離れて舗道に転がっている。
私は――地面に倒れたままの姿勢で――腕を伸ばして警棒をつかみ、出力を上げてから、鼻血を垂らしている敵のふくらはぎに思いきり押し当ててやった。
ふぎゃっと情けない悲鳴をあげて身を震わせ、おっさんは舗道にくず折れた。
敵を倒すという役目を終えたので、地面に散乱していた大量のジェリービーンズは跡形もなく消失した。
「……いつも思うんだが。おまえのスクリプトって根本的にふざけてるよな」
私は立ち上がりながらつぶやいた。
半径二センチ未満の固体を五千個生成し、五十メートル以内の距離にいる標的に秒速二十メートルでぶつける。
生成した五千個の固体を、任意の菓子に変化させる。
その二つの事象を任意の順序で発生させるのが、ハクトの[スイーツパラダイス]だ。
「文句あるんやったら、おまえがやれや! 早よせな、あの子が五十メートル以上離れてまうで!」
ハクトの声が焦りでうわずっている。
確かに、アリスを抱えた男と私たちとの距離はかなり開いてしまっている。
「言われなくても!」
私は電撃のダメージでまだがくがくする足を踏みしめた。
幸い、私たちを除き道路に人影はない。異様な事態を目撃され、騒がれる気遣いがないのはありがたい。
「おまえレギュレータになったって言ってたな、ハクト。それがどういう意味だかわかってんのか。……もしミスったら、おまえもくたばるんだぞ? 真っ先に」
私の言葉に、ハクトは間髪入れず答えを返してきた。
「わかっとるわ、そんなもん。覚悟はできとる。幻冥大師にも何遍も念を押されたからな。『ギャグがすべるのとは、わけが違うんやぞ』って」
その程度の覚悟かよ!と私は叫びそうになったが、今はツッコんでいる時間さえ惜しい。
「じゃあ、これから俺のスクリプトを限定しろ。属性は重力。効果範囲はあの男の膝から下だ」
「……え? 座標計算、俺がやらなあかんの? 今ネットワークの位置情報を利用できへんのに。そんなん無理や」
「だいたいの目分量でいいから。とっととやれ」
「無理や! あの男、どんどん移動しよるのに!」
「くそったれ! じゃあ、効果範囲は地表面から地上八十センチまでの全域だ。その代わり、それだとてめえにも影響出るぞ、覚悟しやがれ。……俺が実行するのにかぶせて、すぐに限定するんだ。いいな?」
ハクトの返事を待たずに私は神経を集中し、頭の中にスクリプトを組み上げた。
それは私の[冗長大脳皮質]の作用だ――世界の電子的な[神]である電脳ネットワーク[ダイモン]が決して存在を許容しない、異形の器官たる[冗長大脳皮質]の。
connect target=('white_rabbit')
run ('all_negate')
ハクトと連携し、私のスクリプトへの干渉をハクトに許可してから。
私は[全因果否定]を実行した。
認識界においてすべての因果律を否定する、私のろくでもないスクリプト。
誰かに属性と効果範囲を限定してもらわなければ、半径五十メートル以内のすべての人間を良くて精神崩壊、悪くて脳血管破裂に追い込む代物だ。
もしハクトの限定が成功していれば。
[オールネゲート]は、私の周囲にいる者全員(ハクトも含む)に、地表面から地上八十センチの高さまでの空間の重力が消失したという知覚を与えるはずだ。
足元に唐突に無重力が発生するので、普通の人間は転倒する。立っていられなくなる。