第2章(1) 白ウサギ
ウサギが「手始めには、手押し車に一杯あればたりるだろう」と言っているのが聞こえました。
「何を手押し車に一杯なのかしら?」とアリスは思いました。でも、頭を悩ます必要はほとんどありませんでした。なぜなら、つぎの瞬間には、小石の雨が窓からガラガラとふってきて、いくつかが顔にあたったからです。【中略】ふと見ると、驚いたことに、床に落ちた小石は全部、小さなお菓子にかわっていました。
『不思議の国のアリス』(ルイス・キャロル作、脇明子訳)
私の表向きのステータスは「売れない画家」だ。
天気の良い日はたいていリポン公園へでかけ、風景を描いたり、作品を道端で並べて誰かが買ってくれるのを待ったりして過ごしている。
目にも鮮やかな芝生が見渡す限り広がるリポン公園は、モイダン公園に次いで市内第二位の広さを誇る。
コルカタ市の面積の約三分の一を占めている公園の大半がそうだが、ここは二十二世紀初頭まで、百階超えの超高層マンションが林立する過密住宅地だった。最盛期の人口密度は30,000/㎞2を上回っていたという。
もちろん、そんなものは、遠い昔の話だ。
二十二世紀初頭の大転換期に世界人口は二百億人から二十億人にまで激減。数多の災害、経済破綻、社会的混乱、武力衝突などが信じられないハイペースでいっせいに発生し、わずか十数年で人類の文明を壊滅寸前にまで追い込んだ。それらの災厄がすべて、いつの間にか人間をはるかに凌駕する知性と自律的な意志を持つに至った電脳ネットワークによって引き起こされたのだと人類が悟った頃には、人類はすでに地球の支配者の座から転落してしまっていた。
電脳は、増えすぎた人間を駆逐したのだ。地球環境を守るために。
ネットワーク[ダイモン]は、人口の激減により不要となった住宅群を喜々として叩き壊し、緑豊かな公園に作り替えた。
電脳によって開発された電脳がさらに進化した電脳を開発する、マイクロセカンド単位で進行する技術革新はとっくに人間の把握できる範囲を超えている。人知を超え[神]の領域に突入した無限のインテリジェンス・ネットワークの彼方に存在すると噂される、意志を持った中核的クラウド[サンゲタル]。その実在の真偽はともかく、電脳ネットワークの行動原理はきわめて明確だ。
あくなき知の探究。持続可能性。生物多様性。
それらがすべてに優先される。くだらねぇ人類の便益やプライドなんかよりも。
だから昼間のリポン公園は、さまざまな動物でいっぱいだ。
広い芝生の上を駆け回り、あるいはのそのそと這っていく四足獣たちの個体数は、広場内を散策しているヒトの数よりも明らかに多い。広場の外周に沿って常緑樹が完璧な等間隔で植えられているが、どの枝にもびっしりと鳥たちが留まっている。
こういった空間を「公園」とみなしているのは、あくまで人間の勝手な都合であり――[ダイモン]はここを動物の居住区と位置づけている。互いに捕食関係にない動物ばかりを選別して集めた、いんちき臭いビオトープだ。
背中にぬくぬくと日を受けながらほとんど動かずじっとしている大型の哺乳類や爬虫類は、絵のモデルにぴったりだ。
だが動物どもは私の絵を買ってはくれない。私の個人的な好みとしては、公園には人間がもっといてくれた方がよい。
私が、池の真ん中の大岩で甲羅干しをしている復元ピンタゾウガメをスケッチしていると。
ふと、池の向こう岸を歩く長身の男が目に入った。
距離があるので顔はよくわからない。私の[仮想野]にも、まだそいつの属性情報が表示されない。
けれども私にはその男が何者か、すぐに見当がついた。
真っ白な髪をオールバックにして、真っ白なスリーピースのスーツを着込んだ、ナウマンゾウの鼻みたいに手足の長い男。
そんな奴は、いくら世界が広くても、そうそう大勢いるわけじゃないのだ。
男は池の淵に沿って、こちらへ向かって歩いて来る。
距離が近くなると、男の顔がはっきりわかるようになってきた。
案の定、そいつは二年前までハクト・イナバと名乗っていた男だった。
たぶん本名ではないだろう。ハクトという語は奴の生まれた国では「白ウサギ」という意味なのだと、奴自身が説明していたから。――白ウサギなんて、悪い冗談もいいところだ。ハクトはちょっと珍しいほど完全なアルビノだ。その肌はモンゴロイドとは思えないぐらい白い。眼底の血液の色が透けて見える桃色の瞳は日光にひどく弱いので、奴はいつも、保護のために赤いフレームのアイシールドを着用している。白手袋をはめているのも、日光にさらされる皮膚の面積をできるだけ少なくするためだ。
ハクトは、二年前と少しも変わらない特大のにやにや笑いを浮かべながら私に歩み寄ってきた。
「奇遇やな! こんな所で偶然ばったり会うなんて!」
「白々しいこと言うんじゃねえ。『偶然』『ばったり』を強調するあたりが、よけいに嘘臭いんだよ。おまえの住んでるメッカはここから五千キロ以上離れてんのに、偶然なわけねえだろうがっ。何の用だ、この禿げ隠しオールバック野郎」
私は反射的にツッコミを入れながら、視線でアリスの姿を探した。
アリスは少し離れたベンチに腰かけ、バクやらアルマジロやらに囲まれていた。興味津々な目つきで周囲の動物たちに見入っており、私たちのやり取りに注意を払っている様子はない。
ハクトは小首をかしげ、自分の髪にちょっと触れた。
「俺は禿げとらへん。この髪型は、おしゃれや」
「おまえの『おしゃれ』の感覚は世間と五十年ほどずれてるぞ」
「おまえみたいに身なりに構わんしょぼくれた奴に言われとぉないわ、ジャ……いや。今は『リドル』って呼ばなあかんねやったな。ややこしわー」
「……!」
このトンチンカン野郎にまで『しょぼくれ』呼ばわりされたことへの怒りより、こいつが私の偽IDをすでに調べ上げているという事実の衝撃の方が大きかった。
ハクトはジャケットの内ポケットから白い扇子を取り出して開き、それを日よけのように額の前にかざした。フルスロットルのまばゆい晩冬の日光は、アイシールドで遮断していても、奴の目にはきつ過ぎるらしい。
「実を言うと俺、ある組織を内偵調査するためにこの街へ派遣されたんや。結構ヤバそうな組織やねん。せやから慎重を期した方がええやろと思って、下調べのためにコルカタ市のデータベースに入って[概況像]をチェックしてた。そしたらたまたま、二年前の不審なデータ操作の跡をみつけて……ちょっと解析してみたら、おまえやったというわけや。すっごい偶然。まさに神のお導きやな♡」
私は舌打ちせずにはいられなかった。
しかし、ハクトが相手なら、ID偽造のためのデータ書き換えを見破られても仕方ないだろう。おちゃらけた外見に似ず、こいつの情報収集・解析能力は一流なのだ。
ハクトは扇子をひらひらさせながら、
「おまえを見つけたことを上に報告したら。ちょうどいいから、今回の内偵の任務、おまえにも手伝ってもらえ、って」
と、途方もないことを言い出した。
「ちょ・お・っ・と・待てえっ! 冗談じゃねえぞ、誰が手伝うか。勝手に決めんな」
「えー。そんなつれないこと言いなや。俺そもそも内偵とか苦手やねん。後方支援が専門やもん。おまえかて知ってるやろ?」
三十近い男の甘えたような口調は、薄気味悪いを通り越して腹立たしい。
私は腕組みし、再度舌打ちした。
「俺はもう足を洗ったんだ。メッカの命令なんか聞く筋合いはねえ」
「『足を洗った』っておまえ。まるで悪の結社みたいな言い方すんなや。俺らは神の道具として、人類の調和ある生存と繁栄のために闇でうごめく崇高な団体やで? ――神の道具に『引退』なんてものはあらへん。たとえ世界の果てまで逃げたとしても、おまえは神の手の中や。一度この道に足を踏み入れたら、二度と引き返せへんのやぞ」
「それ完全に悪の結社のセリフだろーがっ!!!」
実のところ、ハクトが所属している――そして私自身も二年前まで所属していた――《バラート》(Barrato)と呼ばれる組織は、本当の意味での悪の結社ではない。メッカに本部を置く世界宗教者会議の非公式の下部組織であり、「人類の調和ある生存と繁栄」を目的として活動しているのも事実だ。構成員はほぼ全員が宗教関係者で、僧侶や神官の資格を持っている者も少なくない。
二十一世紀末までにほぼ死に体と化していた世界の各宗教は、人類が深い絶望に打ちのめされた大転換期に息を吹き返した。すべての秩序が崩壊する中、人は信仰に心の救いを求めたのだ。世界宗教者会議は今や、人類全体のスポークスマンと呼んでもいいほど有力な団体だ。人類を代表して、電脳ネットワーク[ダイモン]に対して人間の権利を主張する役割を果たしている。
《バラート》は、世界宗教者会議の手足となって、人間の生存権を電脳から守るために必要な汚れ仕事をこなす組織だ。
ときには[ダイモン]の監視の目をかいくぐらなければならないので、《バラート》の存在も活動も徹底的に秘密にされている。誰か部外者に知られると、その人間の[補助大脳皮質]を通じて瞬時に情報を[ダイモン]に吸い上げられるからだ。
――悪の結社ではないが、れっきとした地下組織ではある。
ぶるるるっと鼻息を響かせて、栗毛の馬がハクトと私の間をゆっくりと横切っていった。
健康的な艶を帯びた茶色の胴体が、まったく急ぐ様子もなく悠然と進んでいく。歩調に合わせて振られる馬の尻尾が私の顔をかすめた。
馬が去ってしまうと、私たちの中間の地面に、つぶれた泥の塊みたいな大きな糞が残されていた。――公園が人間の散歩ルートとして不人気な理由のひとつである。
心なしか、さっきよりハクトが遠く見えた。
「まだ気にしてんのか、レイシーのこと?」
遠くに立っているのに、その声は近く聞こえる。
私が答えないでいると、ハクトは言葉を継いだ。
「前にも何遍も言うたと思うけど。おまえが責任感じる必要はないんやで。いくら相棒だったからって。レイシーが死ぬのを止められたはずや……なんて考えるべきやない」
「……」
そのセリフを口にしたのがハクト以外の人間だったなら、手加減ゼロでぶっ飛ばしてやったところだ。
しかし私はその場に立ったまま動かず、色素の無い相手の顔をじっと見返していた。
なぜなら、二年前に自ら命を絶ったレイシー・キアーベもハクトも私も、《バラート》の手によって、子供の頃から[工作員]となるべく育てられた仲間同士であり。
レイシーの死が、私にとってと同じぐらい、ハクトにとっても打撃であったことを私は承知していたからだ。
――そうは言っても。考えずにはいられないのだ。
なぜあのとき、あいつの限界に気づいて、手を差し伸べてやらなかったのかと。
「俺が組織を抜けたのは、そういう感情的な理由じゃねえ」
私はぶっきら棒に嘘をついた。
「レイシーがいなくなったら、俺の[工作]を限定できる奴がいない。限定無しで走らせたら……俺の力は、人を殺すしかできない力だ。むやみに使うわけにはいかねえ。
だから辞めたんだよ。[スクリプト]を使えない俺なんて、組織に残ってても仕方ねーからな」
するとハクトの奴がいきなり、顔の前にかざしていた白い扇子を、ぱちんと派手な音を立てて閉じた。得意満面としか表現しようのない輝くような笑みが、その白い顔に広がった。
「へっへーん。聞いて驚け。……俺、おまえの[スクリプト]を限定できるようになったんやで。上層部の命令でこの二年間、レイシーと同じレギュレータになるための特訓をしてきたんや。おまえが俺と連携してくれれば、俺はおまえの[スクリプト]の発動範囲を限定できる。これでおまえも心置きなく力を使えるやろ」
「おまえがレギュレータだと? ……不安しか感じねーんだが」
「大丈夫やて! あの幻冥大師が直々に指導してくださったんやぞ」
「幻冥大師? あんなくされミイラの言うこと真に受けんなよな。……知らねえのか。あの人の[冗長大脳皮質]が大きいのは、自前の大脳皮質が極小で、頭蓋内のスペースに余裕があったかららしいぞ」
「おまえムチャクチャ言い過ぎや。上層部は本気なんやで。何としてでも、おまえに戻ってほしがってる。おまえの[オールネゲート]は最強のスクリプトやからな。……せやから俺は、ずっとおまえに会える日を待ってたんや。また一緒に仕事しようぜ、リドル。昔みたいに」
私は地面の馬の糞を見下ろし、ハクトの顔に視線を戻し、さらに頭上の青空に目を転じた。[仮想野]にはあいかわらず、私の立ち位置の座標、気温、湿度、風速、施設情報、周辺情報など、ネットワークから常時大量に送りつけられるごみ情報が散乱していたが、私の意識の流れに呼応してそれらは一瞬で消えた。何もない、自然のままの、目にしみるような青空が視界を覆い尽くした。
――心を動かされなかったとは言わない。ハクトは兄弟同然に育った仲間だ。
それに、口ではボロクソに言ったが、私はハクトの能力を信頼していないわけではない。奴は複数のスクリプトを使いこなし、《バラート》内でも優秀だと評価されている男だ。訓練すればレギュレータにだってなれなくはないだろう。
しかし私はどうしても、戦いの日々に再び身を投じる気にはなれなかった。
かつて持っていたかもしれない使命感も義務感も、消えてなくなってしまっていた。
レイシーの患っていた絶望と言う名の病のいくばくかが私にも感染したのかもしれない。
「俺は辞めたんだ、ハクト。もう二度と[工作]は使わない。二度と」