第1章(2) リドル
コルカタ中央署は、ダルハウジー広場に面して建つ、いかにもお役所らしい建物だ。
署内はどこもかしこも真新しいぴかぴかの有機合成素材でできており、人間の目にはちょいとまぶし過ぎる純白で統一されている。人の出入りの多い、見晴らしの良いフロアはとてつもなく天井が高く、一面の壁がすべて透明になっているので緑豊かな広場の様子がよく見て取れる。過度な開放感。[ダイモン]の設計する公的な建物は、みんなこんな感じだ。
生活安全課のカウンターの奥からこちらを睥睨しているのは、絵本に出てくる悪役オオカミをそのまま具現化したような男だった。
凶悪きわまりない三白眼。めくれあがった唇からのぞく、牙みたいに尖った歯。獣じみた体毛。
中央署には何百人も職員がいるだろうに、なんでよりにもよってこんな人相の悪い奴を、市民の窓口である生活安全課に配属したんだよ。
こんなパンチの利いた顔した男が近寄ってきたら、迷子、泣くだろ。いや迷子じゃなくたって泣くだろ。
カウンターの頭上に掲示されている「私たちは市民に愛される警察を目指します」というプレートが、ギャグにしか思えない。
こんな効果抜群の魔除けをいちばん目立つ所に掲げておいて何が「愛」だ。市民が寄りつくわけねえだろう。相談に来る市民をこいつの恐怖の顔面で追い払い、少しでも仕事を減らそうって腹じゃないのか。
私はなんとなくアリスを背後にかばいながらオオカミ男と正対した。
迷子を保護した、と言ってやると、オオカミ男は保護のときの状況を根掘り葉掘り聞きたがった。私は包み隠さず話した。といっても、たいして話せる内容があるわけではない。
夜、雨の中に立っているのを見かけて傘を貸してやった。次の日、私の家の前に、アリスが傘を返しに現れた。それだけだ。
オオカミ男は私の出身地や職業、ふだんの生活習慣まで尋ねてきた。
その質問に深い意味がないことはわかっている――これは「警官の習性」というやつだ。警官というのはあらゆる機会をとらえて情報を集めずにはいられないのだ。
けれども私は居心地が悪かった。いま使っているリドルという名前もIDも二年前にでっちあげたものだ。簡単にバレるような偽造の仕方はしていないが、それでも警官につつかれるのは良い気持ちではない。
こうなるのがいやだったから、これまで警察にはなるべく近寄らないようにしてきたのだ。
「アリス……ちゃん? 下の名前は何ていうの?」
オオカミ男がカウンターから身を乗り出し、私の背後のアリスに向かって声をかけた。
優しい口調のつもりかもしれないが、子供をたぶらかそうとする悪党の猫なで声にしか聞こえない。
「……」
背後からは何の返答も聞こえなかった。
私のジャケットの背中を小さな手がぎゅっと握りしめるのを感じた。
「アリスちゃん? うちはどのへん? きみの家の近くに何があるか、お兄さんに教えてくれないかな?(「てめえが『お兄さん』なら俺はプリンスチャーミングだ」と反射的にツッコミが飛び出しそうになるが、ここは我慢だ) パパかママのお名前は?」
「……」
アリスは答えようとしない。私のジャケットをつかむ力が強くなっただけだ。
オオカミ男は、面倒なことになった、という内心を露骨に顔に表して、ため息をついた。
「その子、属性情報が一つも表示されませんね。IDチップの故障か……あるいは"チップ無し"でしょう。犯罪に巻き込まれていた可能性もありますね。
本人が名前も教えてくれないのじゃ身元の確認のしようがない。[補助大脳皮質]スキャンでもかけてみますか」
すべての人類は原則として、生後一か月で個体識別番号を刻んだIDチップを体内に埋め込まれ、生後半年以降、ナノマシンにより神経細胞の一部を人工神経と置換して、頭蓋内に[補助大脳皮質]と呼ばれる器官を生成される。
地球全体をあまねく覆い尽くす電脳ネットワーク[ダイモン]と常時接続している我々人間は、ネットワークから送り込まれる大量の情報を処理し、また知覚した情報をネットワークに送信するためのインタフェースとして、[補助大脳皮質]を必要とする。流通する情報の量が圧倒的で、自前の大脳皮質ではとても処理しきれないからだ。
[補助大脳皮質]には、人間から[ダイモン]への通信内容の履歴がすべて保存されている。
つまり、[補助大脳皮質]の中身を調べれば、その人間のすべてがわかるといっても過言ではない。
オオカミ男は、扉のようになっているカウンターの一部を押し開けてこちらへ出て来た。アリスに歩み寄ってくる。
私の後ろでアリスのけたたましい悲鳴があがった。
「いやああああああああああっ!」
私のジャケットの背中が激しく引っぱられた。少女がしがみついているのに違いなかった。
「怖がらなくてもいいよ。ちっとも痛くないから。さ、こっちへおいで」
アリスのすぐ横に立ってオオカミ男が猫なで声を出したが、アリスは「いやっ、いやっ、いやあああっ!」と絶叫しながら私のジャケットにしがみつくだけだった。
その声量はすさまじかったので、広大なフロアにいたほぼ全員が好奇の目でこちらを振り返った。
「どうしてそんなにいやがるんだ。スキャンなんか、ほんの十分かそこらで済むのに」
心底不思議そうに首をかしげるオオカミ男。
お・ま・え・の・顔が怖いからに決まってんだろうが。見当もつかない、みたいにきょとんとしてんじゃねーよ。自覚ねーのかよ。もはや戦略兵器レベルだろうがよ、その顔面は。
騒ぎを聞きつけたのか、三十代ぐらいの赤毛の長身の女がやって来た。オオカミ男が「係長」と呼んでいたから、上官なんだろう。
女は優しく見えなくもない笑みを浮かべて、スキャンを受けるようアリスを促したが、恐怖で心を閉ざしてしまったアリスは私の背中から離れようとしなかった。
「困ったわ」
それほど困っているようには聞こえない口調で係長はつぶやき、腕組みをした。
「本人の承諾が得られない場合は、裁判所の許可を得て[補助大脳皮質]スキャンを行うんですけど、許可を得るための手続には最低でも一か月はかかる。その間……この子には市の監護施設へ入ってもらうしかありませんね」
「監護施設」という単語を聞いたとたん、アリスの泣き声が大きくなった。どうやら完全に泣きスイッチが入ってしまったらしい。
投げやり感全開の態度で、係長が私に視線を向けた。
「いっそ、あなたがこの子の面倒を見ては?」
「な、何を言い出すんですか。冗談はおたくの部下の顔だけにしてください。なんで僕が見ず知らずの子供の面倒なんか見なきゃならないんですか」
「だって、この子があなたになついているから。いわゆる刷り込みってやつかしら?」
厄介払いしようとしている!
相手が本気でほざいているらしいと悟り、私は声を張り上げた。
「刷り込みってあんた。鳥の雛じゃないんだから。昼休み前になんとか仕事を終わらせようとして適当なこと言い出すのやめてもらえますか、税金泥棒さん。……僕は独身で、子育ての経験もありません。子供の世話なんか無理ですよ、たとえその気があったとしても」
「一人暮らしならなおさら、誰か連れがあった方が寂しくなくていいでしょ」
「どんだけぐいぐい押してくるんですか。警察が、保護した迷子を民間人に押しつけていいと思ってるんですか。怠慢もいいところだ。もし僕が幼女趣味の変態野郎だったらどうするつもりなんですか」
「大丈夫でしょ。見たところ、あなたの経歴はきれいだし。駐車違反の記録さえない。こんなにクリーンな人は珍しいわ」
係長は目を細めながら私を眺めていた。警察の権限で私の背景情報を[仮想野]に表示させてるんだろう。
そのとき、オオカミ野郎の胴間声が私たちの間に割り込んできた。
「係長! リドルさんを臨時に市の嘱託監護官にしてもらう申請手続が完了しました!」
いつの間にかオオカミ男はカウンターの向こう側へ戻り、市内の全行政機関を有線で結ぶ高セキュリティの操作端末に取りついている。
私は仰天した。
「おい、ちょっと待て人外。そんなもん引き受けるなんて誰も言ってねえだろうがっ。勝手に話を進めるんじゃねえ。これは警察の横暴だ……!」
抗議もむなしく、私の[仮想野]に、私がコルカタ市の臨時嘱託監護官に任命されたことを告げる通知が華々しくフリップした。続いて「嘱託監護官の手引き・第四十八版」「過去事例」「法第七十六条に基づく『基礎経費』還付請求書式・第三版」等々、市から送りつけられてきた大量のお役所文書のファイルが次々と眼前に展開した。まるで悪夢だ。
係長は、カナリアの盗み食いに成功した猫みたいにスイートなご機嫌顔を私に向けた。
「それでは今日からこのアリスちゃんはあなたの監護下に入ります。裁判所がアリスちゃんの[補助大脳皮質]スキャンを許可するまでの間、きちんと面倒を見てあげてくださいね。監護責任を怠った場合、罰則の対象となりますので注意してください。あと、アリスちゃんの監護にかかった実費は市から全額還付されますから、所定の書式で請求するのを忘れないようにしてくださいね」
思いもかけない事態の急展開と[仮想野]いっぱいに散乱した大量のお役所文書に圧倒され、私が気の利いた悪口雑言も思いつけずに立ちすくんでいると、小さな手で右手の指先を握られた。
見下ろすと、アリスだった。じっとこちらを見上げている。
目は泣き腫らして真っ赤だが、やけに落ち着いた表情だ。どうやら私の監護下に入ることを嫌がってはいないらしい。
さっさと失せろ、と言わんばかりに係長とオオカミ男が満面の笑顔で私たちにバイバイと手を振った。オオカミ男の笑顔は真顔よりはるかに恐ろしかったので、またしてもアリスがべそをかき始めた。