第1章(1) リドル
アリスは半分うとうとしながら、
「ネコは食べるかしら、コウモリを? コウモリを、ネコは食べるかしら?」
と、ひとりごとを言いつづけました。くりかえしているうちに、ときどき「コウモリはネコを食べるかしら?」と言ってしまったりもしましたが、どっちみち答えは出せないのですから、どっちがどっちになっても、たいしたちがいはありませんでした。
『不思議の国のアリス』(ルイス・キャロル作、脇明子訳)
「いらっしゃーい、リドルさん。お待ちしてたのよ♡ 相変わらず、墓からよみがえりたてほやほやのゾンビみたいなしょぼくれぶりね~。とても三十前とは思えないしょぼくれぶりだわ」
――客に向かっていきなりなんつー失礼かましやがるんだ、このクッキング・マウンテンゴリラが。資源再生工場から黄泉がえってきやがった糞尿処理ロボットみたいな風体のてめえにゾンビ呼ばわりされる筋合いはねえんだよ。あと『しょぼくれ』って二回も言うな。
私は百二十五語をひと呼吸で言い切った。考えなくても口から飛び出す悪態返しはもはや脊髄反射の域に達していると言ってもいい。
築九十七年のハイパーおんぼろ雑居ビルの二階にあるこの飲食店は、そうでなくてもツッコミどころが満載だ。店名は『媽媽的店』、内装は中国明代の庭園建築を模した朱色基調。けれどもここは中華料理店ではなく、昔ながらのイタリアの家庭料理を出す店だ。そもそも媽媽なんかどこにもいやしない。呉貴媚なんて名乗ってるがオーナーシェフは野郎(♂)、それも雲突くような巨体を誇る筋肉達磨だ。
しかもDNAベースの人種情報によれば、貴媚ママはネグロイド(87.5%)とオーストラロイド(12.5%)のハイブリッドだ。大昔からの原始的な分類法だと”黒人”に入る。
女でもモンゴロイドでもないのに、なんで呉貴媚なんだよ。
イタリアンレストランなのに、なんで『媽媽的店』なんだよ。
それに、壁にかかった掛け軸の絵。それたぶん中国じゃねえだろ。日本のフジヤマだろ。
私のようなツッコミ体質の人間でなくても次から次へと言ってやりたいことが見つかるこの店だが。
客がおとなしくしているのは――そして、いつ来てもそこそこ繁盛しているのは、値段の割にはとびきり美味い料理を出すせいだ(イタリアンだけどな!!)。
特殊部隊の兵士と言っても通るような貴媚ママの巨体が、しゃなりしゃなりと不気味なしなを作りながら近づいてきた。
「あなたに欠けているのは、人とのふれ合いよ、リドルさん。誰かを必要とし、誰かに必要とされる……そんな日常的な交流が人間に元気を与えてくれるの。一人で生きていたのじゃ、しょぼくれていく一方よ」
「まだ言うつもりか、この鴉のはらわた詰めのジャック・オー・ランタンが」
「誰かに手を差し伸べてみたらどうなの。あなたなら、その気になれば、すぐに相手はみつかるでしょ? しょぼくれてるけど見かけは悪くないんだから」
何のつもりだ、結婚斡旋所の副業でも始めたのかよ、あと「しょぼくれ」言い過ぎだ、と私は貴媚ママのたわごとを遮り、『媽媽のおすすめ♡♡』(ラザーニャ・アッラ・ボロネーゼ)をオーダーした。
図体の割には軽やかな足取りで厨房へ戻っていくママから目をそらし、私は窓の方へ視線を投げかけた。
鮮やかな朱色の窓枠に囲まれた透明の窓プレートに映るのは、――ママの指摘通り――手入れしてないぼさぼさの焦げ茶色の短髪のせいでしょぼくれ感が大幅UPしている、目つきの悪い痩せた男。
そして窓の向こうでは、日没直前の四十二番街がおあずけを食った犬みたいにしけた面をさらしている。
立ち並ぶのは古さの目立つ薄汚れた建物群。どのビルも明らかに築九十年を超えていて、あと二、三年もしないうちに区画刷新の対象になること間違いなしの界隈だ。
不意に、灰色の世界に、無数の縦線が走った。
雨が降り出したのだ。
あっという間に、雨は激しくなった。街路にいくつもの傘の花が開いた。
私は、道路の向かい側の歩道に立つ少女に気がついた。
遠いのではっきりしないが、おそらく十歳前後の少女だ。長い金髪。膝下丈の青いワンピースに白いエプロンをつけているように見えるデザインの服は、エプロンドレスというやつか。スカートから伸びた両脚は、白いタイツに包まれている。
その少女に何か、注意を引く点があったわけではない。
ただ、降りしきる雨の中、傘もささず、物陰で雨を避けようともせずに濡れているその有様が、奇異に感じられただけだ。
そのとき。誰かが私の背中を乱暴にこづいた。
「ちょっと、あんたからも何とか言ってやってくれ、リドルさん。この女どもはクリケットのことをなんにもわかってねえ。ハヌマーン・テイルズが最強だなんて言うんだからよ」
『媽媽的店』の常連客の一人である丸顔の中年男が、興奮した声を張り上げていた。
私は、毎年コルカタで開催されるクリケット大会『コートボール』についての客同士の議論に巻き込まれ、金髪の少女のことを忘れた。
――この街へ流れ着いて二年。できるだけ他人とは関わらないようにしてきたつもりだが。
気がつけば、いつの間にか、それなりに顔見知りが増えている。
私がイタリアン・レストラン『媽媽的店』を出ると、雨はまだ激しく降り続いていた。
外は完全に夜だった。月という光源のない屋外は、本来なら歩くのにも支障をきたすぐらいの暗さだ。けれども[補助大脳皮質]が自動的に網膜からの信号を増幅するせいで、周囲はそこそこ明るく見える(大多数の人間は、補助大脳皮質のこの補正作用を認識できない。私のように専門の訓練を受けていない限り)。
私は四十二番街を小走りに横断した。
私の住むアパートは、『媽媽的店』のちょうど向かい側にある。
例の金髪の少女が、さっきと同じ位置に立ちほうけていた。
全身、濡れねずみだ。服と同じ色の青いリボンがへたれて髪に貼りついている。
――誰かに手を差し伸べてみたらどうなの。
さっきの貴媚ママの言葉を思い出したわけではないが。
私は衝動的に、少女の冷たい手を取って、傘の柄を握らせていた。
「そんなとこに突っ立ってたら風邪ひくぞ。ガキはさっさと家へ帰れ」
傘を与えてしまうと、私の体はたちまち雨水に包まれた。
少女は無言でこちらを見上げている。宝石のように美しく無機的な青い瞳。
寒さで紫色に変わりかけた唇がかすかに動き、ひとつの単語をつむぎ出した。
「……アリス」
アリス? 自己紹介か?
私は深く詮索しなかった。濡れた衣服が体にへばりつき、不快だったのだ。
少女と傘をその場に残して、私はアパートまでの短い距離を駆けた。
雨は深夜近くまで降り続いたようだが、夜が明けると、前夜の大雨が嘘のような快晴だった。窓の外に鮮烈な青空が広がっていた。
私がアパートの部屋を出ようとすると。
部屋のすぐ前の廊下に、昨夜の金髪の少女、アリス、が座り込んでいた。
アリスの傍らで、私の貸してやった大きめの傘が、廊下にちょっとした水たまりをこしらえている。
私は少しあっけにとられてしまった。
「わざわざ返しに来てくれたのか、傘を?」
アリスは無言でこちらを見上げる。明るいところでじっくり眺めてみると、上品に整った顔立ちをしている。もしかすると良い家の子女なのかもしれない。
だが、それにしては様子が変だ。
髪も服も明らかに湿っている。頭のリボンはまだへたれたままだ。大雨に打たれていた昨夜から着替えをしていないらしい。まさか一晩中、雨の中で立っていたのか?
私はアリスの顔を見つめ、目を凝らす。
普通なら私の[仮想野]に少女の公開属性情報が表示されるはずだが。いくら表示レベルを上げてみても、何の情報も表れない。
相手の不自然なほど赤い頬、速い呼吸が私の注意をとらえた。
私の意識の動きに呼応して、[仮想野]がアリスのバイタルデータを表示する。体温38.1度。脈拍110回/分。呼吸数29回/分。
――風邪をひいているらしい。
「おい、おまえ。家へ帰れよ。このままじゃ熱が上がってぶっ倒れるぞ。なんなら送って行ってやる。家はどこだ?」
そう言ってやったが返事はない。アリスは黙って私を見上げている。
その視線は意外としっかりしていて、高熱でぼんやりしている、というわけでもなさそうだ。
意図的にだんまりを続けているのだとすれば、それはそれで厄介だ。
私は部屋から分厚いジャケットを取って来て、アリスに着せかけた。
そしてアパートから徒歩十分ほどの所にあるコルカタ中央署へ向かった。
迷子の世話をするのは警察の仕事だ。そうだろう?