第5話 涙とヒロインと分岐点(1/3)
私の目の前に、必死に逃げ惑う町の人々の映像が、次々にうつる。私はそれを、フラッシュバックを見るようにただ呆然と眺めていた。
カメラは町中を、逃げる人とは逆の方向へ進んでいく。すると、車道に陣取った背の高い『何か』が、映像の遠くのほうに見えた。
「――怪物」
私は、自然とつぶやいていた。
まだ点ほどにしか見えないけど、はっきりとそいつは動いていた。
形は人間と似ていて、両手両足があり、二足歩行をしている。でも、全身が青くて、のっぺりした肌。人間より全身がずっと曲線的で、どこに筋肉がついているのかーーそもそも筋肉があるのかも、わからない。そしてなにより人間と違うのは、首が無いことーーつまり、頭と胴体の境目が見えないことだった。
そいつは近くにある車を持ち上げ、近くへ手当たり次第に投げつける。警察が周りに何人かいるが、全く手をつけられず、どうすればいいのか判断に迷っている様子だった。リポーターの男性は恐怖に顔を引きつらせながらも、その光景をカメラに見せる。
『ご覧下さい! あれが、数時間前から現れた怪物です。突如として街中に出現したあの怪物は、近くの人々を次々と襲いだし、いまも暴れ続けています。――ああ、なんということでしょう! 忠犬ポチ公の像が、怪物に根こそぎ抜かれてしまいました! そして、ああ、危ないっ! 警官に投げつけています!!』
私は、なにかの映画のロケじゃないかと思った。もうすぐ公開のパニック映画の予告編とかじゃ――。
私はリモコンをつかみ、他のチャンネルも見てみた。6チャン。崩れた市街の映像。8チャン。映らない。他のチャンネルも――ザー、と灰色の嵐が見えただけだった。
もしかしたら、放送局が怪物に――。
普段テレビを見ない私は、家のテレビがどれだけの数のチャンネルを見られるのか知らないけど、二つだけなんてことはないはずだ。
私はまた元のチャンネルに戻し、しばらく垂れ流される音と画を見つめた。だけど一切頭に入らなくなっているのに気づいて、静かにテレビの電源を消した。
怪物が――
あのイヌの云っていた怪物が、もう出現している。
出現して、街を――人を、襲い始めている。
信じられない。でも、現実だった。テレビは、怪物が人々を襲う映像を、冷酷に伝えていた。
そして私は、どうしても考えてしまった。
自分で決めたことの、結末を見て。もし、そうせずに、違う道を選んでいたら、ということを想像して。
私が――
私が、あのリストバンドをつけて、魔法戦士になっていれば――
街を、救えていたかもしれない。
「――なんだ。今日はカギをかけていないのか」
夜中の一時ごろ、イヌがいつものように窓を開けて入ってきた。私はベッドの中にいてふとんをかぶっていたけど、起きていたから、あいつが来たのがすぐに分かった。
「無用心だぞ、四条穂積。ドアをテープでぐるぐる巻きにしろとはいわんが、せめてカギくらいかけろ」
イヌは律儀に窓を閉めながら云う。手にはいつものリストバンドを持っているに違いなかった。
「――起きているのだろう、四条穂積」
イヌの声に、私は寝返りをうって、横になったままイヌの姿をのぞいた。
「……なんで私が起きてるってわかったんだ」
「いつもかけぶとんをはねのけて、枕を投げ飛ばすような寝相の悪い貴様が、いつになく行儀よくしていたからだ」
「……なんだよそれ。っていうか、もう私に近づくなって約束しただろ。なんで来るんだよ……」
私は薄い目をしながら、枕の上からそう答えた。
しばらく、お互い何も話さない。それから、イヌがふと口を開いた。
「テレビは、見たか」
その質問に、私はうなづきも、首を振りもしなかった。ただうっすら開いた目で、イヌに肯定を伝えた。
「それで、どう思った」
私は、深く考え込むように視線を落とした。
「どう、っていわれてもな。正直、混乱しててさ……。まさか、あんなことになってるなんて……」
私の言葉を受けて、イヌは淡々と云った。
「俺は別に、貴様を責めるつもりはない。あの街がひどいことになったのも、貴様のせいではない。責任があるとすれば、それは今日までに何も対処できなかった、我々の方だ。貴様は何も気に病む必要はない」
「だれが気に病んでるんだよ。私は別に……。ただちょっと、頭の整理がつかないだけだ」
「そうか」それだけ云って、イヌはそれ以上の追求はしてこなかった。
暗闇の中で、窓から差し込む白い光だけが、イヌの姿を照らしている。彼はいままでにみせたことのないほど真剣で、真面目で、どこか虚ろな目つきをしていた、ように私にはなんとなく見えた。
人形なのに――人形のくせに、人間のような表情が、そこにはあった。
イヌは、そんな私の方へ向けて、つぶやくようにそっと云った。
「――リストバンドをつける気には、ならないか」
いままでで一番静かで、優しい口調。
私は、思わず出かけた言葉を飲み込んでから、少し落ち着いて、言い直した。
「……少し、考えさせてくれないか。一日だけ。明日までには、決めるから」
「そうか。分かった」
文句を云うかと思ったけど、イヌはそれだけ云って、あっさり引き下がった。
いつものイヌじゃない。いつもなら、ここで「いや、今すぐつけろ!」とか云って無理やり私にリストバンドをはめようと襲いにくるはずだ。なのに――。
イヌはまた窓を開け、私の方を振り向きもせず、去っていく。そっけない感じだけど、私には逆にそれが、イヌの真剣さの表れだと思った。
――って、なに考えてんだ、私は。あのイヌは、私にリストバンドをはめたいのを必死にこらえているだけなんだ。そうに違いないんだ。
でも――
私はまた寝返りをうって、今度は壁の方を向いた。さっきからずっと寝付けずにいて、これでもう何度目の寝返りだろう。
ずっと同じことばかりが、私の中でいつまでもめぐっている。
世界を救うことより空手の方が大事だと、私は確かに云った。わけのわからない魔法戦士なんかになるより、高校で空手の日本一を目指す方が、私にとって重要なんだ、と。空手は、私がいままでだれよりも頑張ってきた、努力したと自信をもっていえる目標だから。
でも、自分の中で固いはずだった自信に、自分でもしんじられないくらいあっさりとひびが入った。
今日のテレビのニュースを見て、街で怪物が暴れているのを見て、それに人が襲われているのを見て。
もし私が早く魔法戦士になっていれば、街のいたるところが破壊されずにすんだかもしれない。
もし私が早く魔法戦士になっていれば、いまごろ病院に運ばれている人たちは、ケガをせずにすんだかもしれない。
この先、もし怪物のせいで、死人が出たりすれば――
首を振る私に、もう一人の私が呼びかける。
私が魔法戦士になっていれば、その人は死なずにすんだのに。
イヌの云う通り、いますぐ魔法戦士になれば――。
でも――
私がこれまで必死に打ち込んできたことは、一体なんだったんだろう。
学校が終われば、まっすぐに部活に向かい、空手に汗を流した。部活の無い日や空いた時間は空手の道場で練習にはげんだ。小学校でも、中学校でも、高校でも。毎日、毎日。
友達はみんな休みの日になれば、遊びに出かけたり、買い物をしたり、彼氏とデートをしたりしていた。でも私は、ずっとずっと空手だけの日々。友達に誘われても、私は全部断って、空手だけをひたすら続けた。あきれた顔をされるときもあった。白い目で見られることもあった。でもそれでよかった。空手は大好きだったし、目指す目標もあった。空手を毎日続けることくらい当たり前だ、そうしないと日本一になれない、なる資格はないとさえ思っていた。
いままで培ってきた全ての時間を背負いながら、私は他の選択肢を無視してひたすら一本の道を走ってきた。そんな私の心が、はじめて揺れた。
一本しかないと思っていた道に、大きく太いもう一本の道が見えた。私はその直前まで来ていて、どちらに行くべきか迷っている。でも、時間は止まってくれない。
理不尽だ。
なんで私なんだ。
私だけが、なんでこんな目に合わないといけないんだ。
魔法戦士なんて、なりたいやつがなればいいのに。世界を救いたいやつが、他人の命を救いたいやつが、救えばいいのに。
空手しかない私から空手を奪おうとするなんて、ひどいよ。
固いと思っていた私の意志に、それ以上に固くて重い怪物の影が、のしかかっていた。
私にとって――
空手って、なんなんだろう。
結局、私はその日の朝、学校を休んだ。
空手の朝練も「風邪で体調が悪い」と適当に云って、休ませてもらった。いつもならお母さんが連絡するけど、今日は家にだれもいないから、私が直接顧問の先生に電話をした。先生は昨日から私の様子がおかしかったことを心配してくれていて、ちょっと悪かったなと思った。
先生が直接、私のクラスの担任の先生に連絡すると云ってくれたから、私はそれ以上学校に電話をかけないですんだ。何度もウソをつくのは苦手だったから、ありがたかった。
学校を休んだのには、一応理由があった。こんな心の状態じゃ、空手なんてとてもできそうにないから、学校に行ったら行ったでよけいに心配される。それなら、風邪って云って体調のせいにしておいたほうがまだマシだ。そう思った。いつもなら理由にもならない理由だけど、お父さんもお母さんもいないからなんとでもなった、いうのも正直あった。
私はだれもいない家の中で、なにをするでもなく、ただソファに座ってぼんやり外を眺めていた。
頭の中では、まだ昨日のことがぐるぐる渦まいている。でも一向に結論が出ないまま、思考はどんどん深みに落ち込んでいった。食欲がわかなかったから、朝食も昼食も食べなかった。
目の前にテレビがあるけど、とても電源をつける気にはなれなかった。つけたとたん、また罪悪感にさいなまれそうな気がしたから。
昼を過ぎてもまだ、私はあいまいなまま、音のしない空間に身を預けていた。死人みたいに、無気力なまま、力なくソファの上で、どこを見るでもない視線を投げている――
――なにやってんだ、私。
らしくないだろ。なにもせずに時間を食いつぶしていくなんて。いつもの四条穂積を見失ってるぞ。そんなふうに思う自分が可笑しくて、むなしかった。
空手と世界。どっちが大事。
天秤にかけられる話じゃない、と私は思っていた。でも現実として、どちらかを選ばないといけない場所に、私は立たされている。
私の、幼いころからの夢。それは、世界を救うヒロインなんかじゃない。もっと具体的で、もっと現実的なこと。空手で、日本一の選手になること。それが、私の夢だった。
夢をかなえたい。いまそれができるような気もしている。イヌは、空手なんて世界が平和になってからでもできる、と云っていた。でも私が怪物と戦う途中で万が一死んだら、当然もう空手はできないし、もし戦いが終わって空手ができるようになったとしても、私がそれから日本一になれるかどうかはわからない。いまなら――あと一年と少し頑張って、高校三年生の夏の大会に、日本一になれる。私にはそんな気がしていたし、手応えもあった。
でもそれは、私だけの都合だ。もし空手を続ける選択をしたら、ほかの人が怪物に襲われているのを毎日横目で見ながら、私は空手を続けないといけない。そんな気持ちに耐えられるか、正直自信が無い。
どっちを選んでも、いままでと同じように空手を続けることはできそうにない。ならいっそ、イヌの云うとおりヒロインになってしまったほうが、後悔せずにすむんじゃないかーー。
私がもやもやしたままなんとなく過ごしていると、そのとき。
ピンポーン、と家のチャイムが鳴った。
その音で、私ははっと気がついた。時計をみると、午後四時。
(あれ、もうそんな時間か……)
ひどい一日だな。結局、まだなにも決められないままだ。一度、気分転換したほうがいいのかもしれない。
そう考えながら、私はリビングにある受話器をとりにいった。電話は玄関のイヤホンにつながっている。
はい、と私が出ると、「郵便です」という女性の声が返ってきた。ハンコのしまってある場所を知らなかったので、私はとりあえずそのまま玄関に向かっていった。
玄関に下りて、私は家の扉を開ける。そこには郵便局員の人がいて――
「せんぱーーーーーーーーーーーーーーーーい!!!」
私に一も二もなく飛びかかってきた。
「な、なんだっ!?」
「先輩、心配しました~~!! 風邪で学校を休んだって聞いて、小町、いてもたってもいられずに家まで来ちゃいました!!」
小町だった。