第11話 逢いたくて・・・
時計の針はもう3時を少し過ぎた。どこかで犬の鳴く声が聞こえる。学校帰りの子供たちが、近所の番犬にほえられているのだろう。もうそろそろ我が子も帰ってくる。
CDプレーヤーのスィッチを入れると、ユーミンのアルバム「ACACIA」の軽快なリズムが流れてきた。理沙子のお気に入りのアルバムだ。いつだったか克彦にもプレゼントしたことがある。このアルバムを聞くと、いつも体の中にエネルギーが流れてくる。
少ししたらお礼のメールをしよう、などと考えながら、理沙子はコーヒーを沸かす準備を始めた。モカが少しあったのでそれをフィルターにセットし、コーヒーメーカーのスィッチを入れた。これで完全に理沙子は家に帰ってきたのだと実感した。スーッと心の中に安堵感が広がる。もう我が家にいるのだ。現実の中にいるのだ。きっと克彦も今頃仕事のことで頭の中がぐるぐると回っているに違いない。お互いのそれぞれの現実を、それぞれが懸命に生きているのだ。
コーヒーが入るまでの時間で、克彦に携帯メールを送った。『・・今日はありがとう。遠くまで連れてきてしまってごめんね。疲れたでしょう?・・・お仕事がんばってね!』すぐに返事が来ないのはわかっていたので、携帯は充電器にセットした。
出来たてのコーヒーは、ちょっぴり苦かった。いつもミルクを入れるのだが、今日は何だか面倒だったので、そのままブラックで飲むことにした。一人で自由に、好きな音楽を聴きながらコーヒーをすする。こんな時間が理沙子は好きだった。特に今日みたいな楽しいデートの後は、その余韻に浸ることができる。
引っ越してくる前はこんな時間がたくさんあった。理沙子が前に住んでいた駅前マンションの隣にコーヒーショップがあった。それだから理沙子はしょっちゅう単行本を片手にそのお店に行ったものだった。駅前ということもあり、人の出入りが激しいお店だった。店内は決して広くはなかったが、しばし落ち着きの場所として、理沙子の隠れ家にするには適当な場所だった。克彦ともよくそこで待ち合わせをしたものだった。とても懐かしい気がする。
あのころにはもう戻れない。ちょっと寂しい気がした。克彦と逢うことも、これでもうないかもしれない。あったとしても、以前のように簡単に逢うことはできないのだ。でも、これでいいのかもしれない。これでもういいのかもしれない・・・。
「お母さん、ただいまっ!」
元気のいい声が玄関から聞こえてきた。
「おかえりー!」そういって理沙子は小学校2年生の我が子を抱きしめた。いつも3時半に家に帰ってくる。
「お母さん、あのね、今日学校でね・・・」
次から次へとお話が出てくる。今日はとてもいいことがあったようだ。
「手を洗ってらっしゃい。」
「はーい」
おやつの用意をしながら、理沙子はこんな日常の幸せをかみしめる。息子の笑顔と元気な声に、どんどん背中を押される。こうなると、ユーミンの歌声なんか何の役にも立たなくなってしまう。これが現実。理沙子には、小学校2年生と高校1年生の、年の離れた二人の男の子がいる。それだけに、何だかめまぐるしい日常生活。
子供が一通りおやつを食べ終わると、ちょっと落ち着いたので、充電器から携帯電話をはずしてセンター問い合わせをしてみた。すると、今日は珍しくいつもよりも早く克彦からのメールが届いていた。
『・・元気そうで安心したよ。帰りはそれほど混んでなかったから早く会社に戻れてよかったよ・・・またデートしようね。・・・』理沙子はふっと笑った。(仕事人間ね、やっぱり)彼はきっともうバリバリ仕事をしているのだろう。
すぐに返信メールをした。でも、そのメールには、夜まで待ってもとうとう返事は来なかった。彼も日常を懸命に生きているのだろう。理沙子の入り込む隙などないくらいに。
夜になり夫が帰ってきた。理沙子はちょっと緊張をした。しかし、夫は昼間の電話のことについては何も触れなかった。彼女はほっと胸をなでおろした。
そんなことよりも理沙子夫婦は、話すことが山ほどあった。仕事の事、子供の事、実家の父の事、同居している母の事・・・などなど。これもどこにも逃げられない現実。ビールをコップに一杯付き合いながら、夫婦の夜は過ぎていく。こんな日常の幸せも、理沙子にとって悪くはなかった。
あれから何日過ぎただろうか。カレンダーを数えてみる。約3週間ほどたった。辺りはすっかり秋色に変わり、とうとうファンヒーターを出さなければいけないほど寒くなってきた。克彦の新しい仕事は順調にいっているだろうか。忙しくしているのだろうか。ちょっぴり気になりながら、理沙子は理沙子の毎日を、自分らしく過ごしている。相変わらずバンドに明け暮れる長男に頭を悩ませながら、次男の小学校の行事である秋祭りなども入ってきて、いろいろ母としても忙しい。
その日常の忙しさの中で、忘れることができる。「逢いたくて・・・」そんな気持ちを。二人で過ごした時間は、もう完全に夢のように感じる。でも、ふとした時に心に溢れる。「逢いたくて・・・。」逢いたくてたまらなくなる。胸の奥で何かが締め付けられる。苦しい思い。でも、そんな思いもすぐに日常の中で流される。
克彦からのメールは、あれからただの一度も届いてはいない。
それでもきっと二人の心の中の「逢いたくて・・・」という気持ちは決して変わらないのだろう。心の奥底で、静かに燃えさかる炎のように。そしていつか、またこの話の始まりがやってくるのだろうか。『第1話 突然のメール』として・・・(完)
『逢いたくて・・・』とうとう完結しました。不完全に完結しました。でもその不完全な恋愛こそが、克彦と理沙子の恋愛なのです。どこまでいっても完結しない、恋愛。逢っているその瞬間のみが現実。でもそれ以外は『逢いたくて・・・』それも現実。夢のような現実と、本当の現実。どちらも大切なもの。でもせつなくないといえば、うそになる・・。決して完結しないせつない恋物語。最後まで読んでくださいましてありがとうございました。