第10話 二つの心
「電話・・出たら?大事な用事かもしれないよ。」
そういうと克彦はカーステレオのボリュームを下げた。
「大丈夫よ・・」
動揺を隠して理沙子は答えた。
(何の用事だったのだろう。いったいどこからかけているのだろう。)
こんな事は今までなかった。夫から電話があるなんて事は。急用だろうか。でも、こういう状況なのに、平気な顔で夫と話せる自信なんて少しもなかった。他の人からの電話ならまだしも、夫となると話は別だ。結局理沙子は電話に出なかった。出られない事だってある。運転中だったり、手が離せなかったり、気づかなかったり。自分に言い聞かせる。電話に出ない言い訳を、繰り返し自分に言い聞かせる。
呼び出し音が終わると、理沙子はほっとした。しかしすぐにメールが届いた。『今どこ?』夫からだった。電話に出られなくてもメールなら大丈夫だと思ったのだろう。
今どこって訊かれても答えられるわけがない。夫は自営の仕事をしているため、時々こんな風に時間があくことがある。でも今日の彼のスケジュールを理沙子はちゃんと確認したはずだった。少なくとも、理沙子と克彦のデートの時間には、彼はもう仕事についているはずだった。(それなのになぜ?)頭の中は完全にパニックだった。
メールにも気づかないなんて、やっぱり後で『今日はどうしたの?』と訊かれそうな気がした。せめてメールで返信しようか。でも、なんて答えていいのか、いい文面が浮かばない。もしも適当に答えて、もしももしも『近くにいるから、一緒に食事でもしよう』なんていわれても、どうしようもないではないか。もうすぐ家に着くなんていい加減なことを言って、『そこで待ってて、今から迎えに行くから』とか『じゃあ、家で待ってるよ』なんて言われても、困ってしまう。それに『家まで、一体君はどうやって帰ってきたの?』と、すぐに行動を怪しまれてしまうだろう。理沙子の家は電車の駅からかなり遠い。ちょっと歩ける距離ではないのだ。頭の中を、理沙子が想像したいろんなケースがぐるぐると回っていく。
夫は克彦とは違い、とても勘が鋭い。そして、理沙子に対してとても過干渉だ。いつもそばにいたがる。そんな夫の愛情を、時々理沙子は重荷に感じてしまうのだった。
(返信するのはやめよう。)理沙子は、携帯電話をバッグにしまった。どう考えてもそれが一番よかった。罪の意識だけが残った。夫からの電話など受けると、急に現実に引き戻されてしまう。静かで穏やかだった理沙子の心の中は、一瞬にして、それはまるで漣のように波打ち、もう止めることはできなくなってしまった。
そんな理沙子の心を知ってか知らずか、克彦はエンジンをかけると、再び車を走らせた。狭い道を入っていく。ナビゲーションを見ながら、まるでオリエンテーリングをしているかように、初めて通る細い道を、楽しそうに運転していく。
「こんなところにお寺があるんだね」
「ほんとね」
そんなたわいもない会話にも、いけないと思いながら、理沙子は生返事をしてしまう。それでも、克彦にだけは感づかれたくないので、懸命に平静をよそおっていた。
克彦は鈍感だったのか、そんな彼女の変化には少しも気づいてはいなかった。
「こんな細い道、好きだよ。」
「いいでしょ、まるで旅行気分ね。」
少しずつ理沙子は落ち着きを取り戻してきた。なぜなら、克彦の車はどんどん理沙子の家のほうに向かっていたからだった。カーナビの示す目的地周辺地図は、完全に彼女の家のほうを案内していた。理沙子は安心した。とにかく早く帰らなければいけない。でも同時に、やっと逢えた克彦と、もう少しで別れなければいけない。二つの別の感情が彼女の心の中で、苦しいくらいにぶつかり合う。
何をどうすることもできないまま、車はどんどん家に近づいていく。この細い道を抜けると、もう終点だ。その細い細い獣道のようなところを運転する克彦に
「帰り道、迷わない?」
と理沙子はちょっぴり心配そうに訊ねると、大きな左手で彼女の右足の太ももとんとんとたたきながら
「誰かさんとは違うよ。」
と笑うのだった。
理沙子は、その笑い声に救われた。
「そうよね、私とは違うわよね。」
そう言いながら彼女も笑うと、もうほとんど車は理沙子の家のそばまで来てしまった。
克彦は、空き地の横に車を止めると
「この辺なんだね・・」
と一言言った。ちょっぴろ寂しそうな響きだった。
助手席から降りながら、ふと飲みかけのコーヒーが目に留まった。
「ごめん、コーヒー・・・」
「あ、いいよ」
(飲むの忘れてたんだ、私)
「私の家は、その路地を一本入ったところよ。今日はありがとう。じゃ、また。」
理沙子は、精一杯明るく言ったつもりが、やっぱり寂しい響きの声だった。
「じゃ、また。」
左手をさっと上げると、克彦はUターンして、さっき来た獣道の方向へ走り去って行った。いつものように、爽やかな別れ方だった。次のデートはあるのかないのか、次の約束などまるでわからない別れ方。あっさりして、すっきりして、クールな二人の関係が、こんな瞬間にも垣間見ることができた。
彼が、てっきり家の前を通っていくのかと思った理沙子は、またもや拍子抜けした。彼と彼の愛車ゴルフは、さっさとUターンして走り去った。そこにはやっぱり、理沙子に無関心な克彦がいた。(せめて、私のゴルフだけでも見ていけばいいのに)そんな思いがすっと沸いてはすぐに消えた。
家に向かって歩き出す理沙子は、今まで克彦と一緒だったとは思えないくらい、現実の自分に完全に戻っていた。それはまるでスウィッチでも入れたかのように、現実に引き戻された彼女であった。
ガレージに夫の車はなかった。もう仕事に戻ったのだろう。時計の針はちょうど3時をさしていた。キーを取り出すと、ゆっくりと誰もいない我が家の玄関の鍵を静かに開け、ゆっくりと靴を脱いだ。そして、誰もいないリビングに向かって
「ただいま」
とつぶやくと、理沙子はダイニングのいすに倒れこむように座り込んだ。そして、大きなため息をつくと、静かに目を閉じた。