思い出を愛す
ロクな会話もしたことがない。
おはようも、さよならも、意識すればするほど喉を詰まらせるだけで、交わした会話は「掃除して」だの、「先生呼んでた」などの事務的なものばかり。
相手の返事は「ああ」だの「うん」だの、間延びした単語にもならない音ばかり。
でも、目が合うだけで嬉しくて、嬉しくて。
好きだなんて言えなかった。
彼との甘い思いでなんて一つもない。
私の中にのこったのは、彼を追いかける私のひたむきな視線の動きだけ。
一心に、授業中も、部活の時も。
ただ、じっと、見つめ続けた。
周りに、あなたに悟られぬように。
必死に黒眼を動かした、あの直向さ。
今でも、時々考える。
もし、この電車に彼がのっていたら、
ゼロパーセントではないが、かつ実にゼロに近いその可能性に、私は電車に揺られているほんのわずかな時間だけ、願ってみたりする。
ありえない、なんて笑いながら。
でも、電車の硝子に映る自分の瞳にあの頃の自分のひたむきさを見出して、
泣きたくなる。
私は、胸をしめつける甘い締め付けと、脳裏をよぎるおぼろげな彼の姿に、
世界がゆがむのを止めることができなかった。
ああ、これじゃああなたを見つけることができない。
そうしているうちに、電車は目的の駅につく。
今日もまた見つけられなかった。
わたしは残念とも違う、穏やかな気持ちで一つ息をつくと。
一歩足を踏み出した。
今、私の足を覆うのはあの頃のローファーではなく、黒のパンプスだった。
何度も何度も古びれたオルゴールに耳をあてる。
擦り切れて、音が途切れて変わっても。
不格好でみじめなその音が私は好きなのだ。