第8話 ー 聖王 ー
8話
翌朝の王都は、戦場の匂いなど微塵も感じさせないほど賑やかだった。
石畳の街路には朝の光が淡く反射し、露店の商人たちが威勢よく声を張り上げる。焼き立てのパンの香り、香辛料の匂い、金物の打ち鳴らす音――すべてが生きていた。
ラジエルはトゥーラの歩幅に合わせて歩いていた。
「トゥーラちゃん、歩くの疲れてはない?」
「……だいじょうぶ!です」
その声は、ほんの少しだけ明るかった。
城壁の外とは別世界のような賑わいに、トゥーラの瞳は自然と輝きを取り戻している。果物を並べた店先に足を止め、丸い赤い実をじっと見つめた。
「美味しそう……」
ラジエルは胸が熱くなった。
無邪気にはしゃぐトゥーラ。
彼女の年相応な反応にラジエルは微笑んだ。
――こんな顔を、ずっと見ていたかった。
「おじさん!これ一つください」
「毎度!!」
ラジエルは果実を買い、トゥーラに手渡す。
小さくかぶりついたトゥーラの頬を、甘い果汁が伝った。
思わず零れた笑顔に、ラジエルは視界がにじんだ。
市場をさらに歩くと、小さな装飾品の店があった。木彫りの髪留めが並び、その中の一つにトゥーラの視線が止まる。
薄緑の石がはめ込まれた、シンプルで可愛らしい髪留め。
「これ、かわいい……」
トゥーラが小さく呟く。
ラジエルは迷わず店主に告げた。
「それ!包んでください」
「ラジエルさん、いいの……?」
「いいのいいの!トゥーラちゃんへのお守りよ」
ラジエルはその髪留めをそっとトゥーラの髪に差した。淡い緑が銀の髪に映える。
その一瞬だけ、戦争も星戦も、王国も、何もかもが遠くなった。
――だが。
市場の空気が、ふと変わった。
「ああ、今日は“白金の勇者”の演説があるらしいぞ」
「王城の大窓から民に言葉を下さるってよ」
「聖王さまのお言葉を聞けるなんて光栄だな」
人々がざわめき、自然と城の方角へ流れていく。
ラジエルはトゥーラの肩に手を置いた。
「……行ってみようか。情報を集めるのも、私たちの役目よ」
トゥーラは小さく頷く。
⸻
王城前の大広場は、すでに人で埋め尽くされていた。
高い城壁の上層階――大きな出窓が開かれ、そこに王国の重鎮たちが姿を現す。
中央に立つのは、白金の甲冑を纏った若き聖王。
整った金髪、隙のない佇まい。太陽の光を受けて輝く装甲は、まるで彫像のように完璧だった。
民衆が一斉に声を上げる。
「聖王さま――!」
「白金の勇者――!」
トゥーラは思わずラジエルの服を握った。
「ラジエルさん……なんか、こわい」
ラジエルはトゥーラを抱き寄せる。
「大丈夫。離れないでね」
聖王の隣に立つ男――大臣カイエンが一歩前に出た。
丸みを帯びた体躯、厚い頬、絹のような黒衣。だが、その目だけが氷のように冷たい。
「民よ。アストレアは傷ついた。だが、我らは立ち上がる」
その言葉に、群衆がどよめいた。
カイエンは続ける。
「聖王の御心に従うことこそが、真なる秩序である」
その瞬間――
ラジエルの背筋に、冷たいものが走った。
空気が、ほんの僅かに歪んだ気がした。
声が重なり、波打つように広がる。
トゥーラは小さく震え、呟く。
「……ちがう……」
「何が?」
「言ってることと……空気が……ちがう……」
民衆は恍惚とした表情で拍手を送る。だがその目には、微かな虚ろさがあった。
カイエンの視線が、一瞬だけ――ラジエルたちの方へ滑った。
ラジエルは即座にトゥーラを背に隠す。
(――見られた?いや……まだ気づかれてはいない)
聖王が口を開く。
「我は民を守る。アストレアは揺るがぬ」
歓声が嵐のように巻き起こる。
だがラジエルの胸には、拭えない違和感が残った。
――これは祝福ではない。
――これは、何かの支配だ。
⸻
その夜、宿の部屋。
トゥーラはベッドに座り、髪留めをそっと撫でていた。
「ラジエルさん……あの人、ほんとうに“聖王”なのかな」
ラジエルは静かに首を振る。
「わからない。でも……あの大臣には少し引っかかるわ」
窓の外では、王城の灯りが冷たく輝いている。
ラジエルは小さく息を吐いた。
「トゥーラちゃん。明日、教会に行こう」
「教会……?」
「この国は女神信仰が強い。聖王の本質を知る手がかりがあるかもしれない」
トゥーラは小さく頷く。
⸻
翌朝、二人は教会に向かい歩き出していた。
王都の大教会は、白い石で築かれた荘厳な建造物だった。
高い天井には色硝子がはめ込まれ、朝の光を受けて静かに輝いている。外の喧騒とは別世界のように静謐だった。
ラジエルはトゥーラの手を引きながら、そっと中へ足を踏み入れる。
石床に靴音がかすかに響き、ろうそくの匂いが鼻をくすぐった。
祭壇の前には、すでに一人の青年が立っていた。
白を基調とした外套。
整えられた金髪。
無駄のない立ち姿。
だが――昨日、城の大窓に立っていた“白金の聖王”とは、どこか違う。
甲冑はない。
華美な装飾もない。
ただ、静かに女神像を見上げていた。
ラジエルは足を止めた。
その背中だけで分かった。
ただの貴族でも、ただの兵でもない。
空気そのものが――異質だった。
トゥーラが小さくラジエルの袖を握る。
鼓動が早まっているのが伝わった。
青年は、ゆっくりと振り返った。
深い青の瞳。
どこか疲れたような、しかし揺るぎない光。
その視線が、ラジエルに向き――次にトゥーラへと移る。
一瞬だけ、微かに息を呑んだ気配があった。
ラジエルは直感する。
――この人は、昨日の男とは違う。
青年は口を開きかけ、そして――やめた。
何も言わない。
何も問わない。
ただ、静かに目を伏せ、二人に軽く頭を下げただけだった。
まるで――
「話しかける資格がない」とでも言うように。
トゥーラは小さく首をかしげる。
ラジエルは胸の奥が締め付けられた。
青年はそのまま、二人の横を静かに通り過ぎていく。
足音はほとんど響かない。
すれ違う瞬間、ラジエルは彼の横顔を見た。
そこには、
悔恨でも、怒りでも、憎しみでもない――
深い“責任”の影があった。
扉が閉まる音が、静かに教会に響く。
トゥーラがぽつりと呟いた。
「……さびしそうな人だったね」
ラジエルは答えられなかった。
ただ、確信だけが胸に残る。
――まさかあの人が真の…。
そして同時に。
――彼は今、孤独に“何か”とぶつかっている。
教会のステンドグラスから差し込む光が、静かに二人を照らしていた。




