第1話 ー ヨルと少女 ー
この物語は、哀れな星を夜空に還す。
一人の少年の、その旅路の記録。
「はぁ…はぁはぁ…ん…!…はぁ…はぁ…」
草木を掻き分け、少女は無我夢中で走っていた。
息は荒れ、足取りはもつれ、肺は焼けるように痛い。背後から迫る重い足音が地面ごと彼女の心臓を叩き、枝葉を薙ぐ刃がすぐ近くで風を裂く。
「やだ…いやだ!来ないで!」
振り返った瞬間、恐怖が全身を凍らせた。足は地面に縫い留められたかのように動かず、少女はその場に崩れ落ちる。
涙で歪んだ視界に映ったのは――オーガ。
体長は優に五メートルを超え、岩のような筋肉を持つ巨体。粗雑な大剣を片手で掲げ、ただ“食物”を見る目で少女を見下ろしている。
並の人間なら傷一つ与えるなんて希望も叶わず、ただ蹂躙されるだけの存在。
オーガは刃を天高く掲げ、振り下ろした。
「いやっ!いやぁぁぁぁぁあ!!」
――次の瞬間。
鈍い音が森に響き、オーガの剣が地面に落ちた。
否――落ちたのは剣だけではない。腕ごと地面に転がった。
血飛沫が舞い、オーガは苦悶の咆哮を上げてよろめく。
その前に、一人の青年が静かに立っていた。
黒髪を額の真ん中で分けた、旅人のような軽装。黒のローブに身を包み、手には小ぶりのナイフ。
整った顔立ちに穏やかな微笑――だが、その瞳だけは冷静に光っている。
「危ないところだったけど、なんとか無事でよかった」
少女は言葉を失う。
「あ、あなたは…だれ…?」
「その話は後。まずはこのデカブツをなんとかしないとね」
青年――ヨルはナイフを逆手に構え、オーガに向き直る。
そのすぐ後ろ、一歩分だけ距離を取って静かに佇む男がいた。
長身で細身。
長い白髪が顔に垂れ、目元はほとんど見えない。武士の軽装を思わせる装束。左腰には長物の刀。
気配は薄く、存在感はあるのに視線が引き寄せられない――そんな奇妙な男。
彼は深く頭を垂れ、静かに言った。
「ヨル様。この下等な生物の処理は、私めにお任せを」
低く、深く、絶対的な敬意を宿した声。
ヨルは肩越しに微笑む。
「アザゼル、ここは僕に任せてよ。自分の技量も試したい」
一瞬の沈黙。
アザゼルは顔を上げず、静かに頷いた。
「――御意」
彼は動かない。
ただヨルの背後に控え続ける。
ヨルは前を向く。
「さぁ…オーガ。悪いけど、ここで終わりだ」
片腕を失ったオーガは激昂し、地面を踏み鳴らした。血が噴き出し、森が震える。
理性はない。
だが本能は生きている。
残った腕で剣を握り直し、力任せに薙ぎ払う。大木が折れ、風圧だけで少女の髪が舞った。
ヨルは一歩下がり、ナイフを構え直す。
(力で受けたら、終わりだ)
間合いは広い。
一撃が致命。
「……来る」
低く呟き、ヨルは息を整えた。
「――南十字座」
その一語に呼応するように――
オーガの踏み込みが“僅かに遅れた”。
剣が地面を叩き、その後に足が踏み込む。
本来同時であるはずの動きが、ずれた。
ヨルは地面を転がるように回避し、間合いを外す。
「――でかいだけだ」
倒木、ぬかるんだ地面、オーガの血で滑る足元――すべてを一瞥する。
(考えろ。力じゃない)
オーガが再び突進。直線的。
ヨルはわざと一歩遅れる。
「……琴座」
耳鳴りのような感覚。
音はない――だが“思考が澄み渡り、世界が鮮明になる”。
――踏み込めば奴の間合い。
――奴の足元は血で滑る。
――あの図体では急な方向転換は無理だろう。
ーー近くに身を潜められる場所は…。
ヨルは体勢を大きく変え、少し離れた倒木の影へ滑り込む。
オーガは勢いのまま追う。
次の瞬間、身体の軸がずれた拍子にオーガは足を血の池に取られ――その巨体が前のめりに崩れた。
「今だ」
ヨルは一気に踏み込み、膝裏へナイフを深く突き立てる。
腱が断たれ、オーガは地面に倒れ伏した。
まだ息はある。
ヨルは見下ろし、静かに言う。
「……悪く思わないでくれ。」
短く、確実に――急所へ刃を落とす。
オーガの動きが止まった。
静寂。
ヨルはナイフを拭い、振り返る。
少女はまだ座り込んだまま、震えていた。
「……大丈夫?」
「……ぁ……」
ヨルは手を差し出す。
少女はその手を掴んだ。
「さっきの質問。僕の名前はヨル。ヨル=モーセ」
「わ、わたしは……トゥーラ…」
小さく、震えた声。
ヨルは柔らかく微笑んだ。
「トゥーラ……素敵な名前だ」
アザゼルは一歩だけ前に出て、深く頭を垂れた。
「お見事です、ヨル様」
「大げさだよ。力比べなら勝てなかった」
「それでも、この少女を救えた。これ以上のない結果です。」
ヨルは頷き、歩き出す。
風が頬を掠める。
ーーヨルとトゥーラの運命の歯車は回り出した
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
本作は「力で勝つ物語」ではなく、
「願いと代償」「裁きと救済」「戦いの後始末」を軸にした物語です。
主人公ヨル=モーセは、決して無敵ではありません。
彼は迷い、怒り、悔い、そしてそれでも前へ進みます。
彼の旅路に寄り添い、見届けていただければ幸いです。
感想やご意見をいただけますと、とても励みになります。
今後とも『送り星のヨル。』をよろしくお願いいたします。




