第四章 風と炎の記憶
夜が明けても、風は落ち着かなかった。
木々の葉が一方向にだけ流れ、川面の光が揺れている。
まるで町そのものが、見えない呼吸に合わせて動いているようだった。
アパートの窓を開けると、春の匂いの中に、かすかに焦げた風が混じっていた。
胸元の木札を指でなぞると、まだ微かに熱を持っている。
昨日、あの影が現れたときの温度だ。
焼け焦げた空気の中で、確かに聞いた。──「寄越せ」と。
◇◇◇
昼過ぎ、学園の食堂。
例の四人が待ち合わせて集合するのは、あの夏以来だった。
美希、孝、琴音、そしてハマヤン。
テーブルの上には、ハマヤンが拾った銅の札と、美希の木札が並んでいる。
どちらにも、同じ組み木の文様が刻まれていた。
ただ、銅の札の中央だけが歪み、何かを押し返したように膨らんでいる。
「……影が出た?」
琴音が眉を寄せた。
その声には、学者の孫らしい確信がある。
祖父の遺したノートを抱え、ページを素早く繰っていく。
「これ……“黄泉返し”の記録ね。
“風の道が歪むとき、影は炎を嫌う”って書いてある。
風と炎を合わせれば、向こうに戻せるって。
でも、正しい手順を踏まないと、現世ごと燃える。」
「炎……。」美希が呟く。
心の奥で、塔の夢が呼吸する。
炎の中で、槍の男が焼けた柱を支えていた。
あのときの、光と熱と、誓いの言葉。
「姫君──火を恐れないでください。」
脳裏に、その声がよみがえった。
思わず木札を握ると、体温が跳ねたように上がる。
ハマヤンが横目でそれを見て、低く呟いた。
「……俺も、昨日の夜から変なんだよ。
夢の中で、炎の塔を見た。
誰かが、俺の手を掴んで“来て”って言うんだ。
でも、顔が見えない。
……それが、ミキ姉に似てる気がした」
琴音と孝が息を呑んだ。
沈黙の中で、豊郷の声が割り込む。
「それは記憶です。前世の。」
四人が同時に振り向く。
食堂の入口に、豊郷が立っていた。
肩には古い外套、手には分厚い資料の束。
穏やかな笑みの奥に、どこか焦燥を帯びた光が宿っている。
「皆さんが見た“影”は、風の乱れそのものです。
あの歪みが広がれば、黄泉口が再び開く。
封印は七百七十年前に行われ、前回は──あなた方の手で一度修復された。
けれど、今回は“風”だけでは足りない。
“炎”を重ねねば、道は戻らない。」
「炎って……まさか、燃やすってことですか?」
孝が顔をしかめる。
豊郷はゆっくりと首を振った。
「炎とは、命の躍動。生の強さです。
黄泉の者は、静止を好む。風を止め、時間を留めようとする。
だからこそ“炎”が必要なのです。燃え上がる心の力が、道を押し戻す。」
「それが……“黄泉返し”なんですね。」琴音が言う。
「ええ。ただし、儀式は危険です。
影は必ず妨害に来る。あれはかつて巫女を狙った怨念たち。
あなたがたの輪廻の因果を知っている。」
豊郷はゆっくりと、美希とハマヤンを見た。
その目には、悲しみと希望が混ざっていた。
「……あなた方は、かつて共に塔を出ようとした二人。
だが果たせなかった。今世では、どうか完遂してほしい。」
沈黙。
美希は唇を噛みしめ、木札を握りしめる。
手の中で、光が脈打つように明滅した。
「先生。影の……あいつらの目的は何なんですか?
“輪廻”の輪を閉じることと、“黄泉口”を開ける事に、どんな関係があるんですか?」
その沈黙を破るように、孝が豊郷に問う。
琴音も豊郷の方を見た。
「なるほど、少し難しいですね。説明しましょう。」
豊郷は一つ咳払いをして続ける。
「かつても今も、彼らは“永遠の刻”を望んでいます。
しかしそれは“刻”を止めるのと同じこと。
“輪廻”とは、消滅と誕生の巡りです。もし“黄泉口”が完全に開けば──」
そこまで言って豊郷は琴音の方を見た。
琴音は答えあわせをするように言葉を繋ぐ。
「亡者が亡者のまま……現世に溢れかえることになる。」
豊郷は静かに頷いた。
「……もし、また影が出たらどうすればいい?」
ハマヤンが問う。
豊郷は机に古びた地図を広げた。
そこには“風の丘”と呼ばれる高地が赤く印されていた。
「丘の上で“風”と“炎”を合わせる。
その瞬間、黄泉口の歪みが正しく開き、影を押し戻せる。
この町の“風の道”はそこを通っている。──黄泉返しの儀を行うのです。」
「儀……式?」
「はい。風の巫女の血を継ぐ者が祈りを捧げ、守護が炎を起こす。
その二つの力が重なったとき、封印が再び働く。」
ハマヤンが一瞬、美希を見た。
何も言わなかったが、その瞳に宿る光が──確かに“知っている”色をしていた。
◇◇◇
夕暮れ。
学園の屋上に立つと、風が街を吹き抜けた。
西の空が橙に染まり、遠くの山に雲の影が落ちる。
美希は木札を握りしめた。
掌の熱が、まるで心臓の鼓動と同調する。
その瞬間、頭の奥で何かが弾けた。
──燃える塔。
焼け焦げた柱を支える槍の男。
振り返る弓の青年。
そして、自分の名を呼ぶ声。
『生きて──生き抜いてください。私はまた、会いに行きます。』
その声が、風の中で確かに聞こえた。
涙が頬を伝う。
風が炎を孕み、オレンジの残光が世界を染めた。
ハマヤンが隣に立っていた。
手の甲の紋様が、静かに光を放っている。
夕陽の色を映したその光は、まるで炎のように揺れていた。
「……なあ、ミキ姉。
この光、どうしてか懐かしいんだ。
燃えてるみたいなのに、怖くねえ。むしろ──守らなきゃって思う。」
美希はうなずき、風の中で小さく呟いた。
「……たぶん、それが“約束”なんだよ。」
風が吹き抜けた。
遠くで鈴の音が鳴る。
黄昏の空に、淡い炎のような光がひとすじ走った。
◇◇◇




