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ビーフシチューを食べたかった男の話

秋の歴史2023企画参加作品です。

本当に思いつきなんです。

あらすじにも書きましたが東郷平八郎ファンは見てはいけません。お願い石ぶつけないでー。

「ああなんて美味いんだ…」


彼は留学先のイギリスはポーツマスの学生食堂で夕食を堪能していた。


デミグラスソースに煮込まれた牛肉、じゃがいも、にんじん、玉ねぎ。赤ワインやバターも使われたその料理は留学先での彼の大好物だった。時間をかけてとろとろに煮込まれた牛肉は口に入れただけでほろほろと舌の上で崩れ蕩けていくまさに至高の料理。


その料理の名はビーフシチュー。


彼はスプーンのひと匙を丁寧にゆっくりと味わう。何という甘美なる味わい。ああこの味なのだ、私を狂わせて止まぬこの味。たまらなく美味い。いつまでだって食べていられる。


すぐに皿を空にした彼は給仕にお代わりを頼もうとした。


だが給仕がいない。


それどころか周りは突如真っ暗となり手元の皿もテーブルすらも消えてしまう。


なんだ、おかしいぞ?!


「ああっ?!」


視界が暗転した。


慌てて周囲を見渡せばそこは食堂ではなく柔らかなベッドの上だった。


「夢であったか…」


寝ながらにしてスプーンを持つ手つきで口をもごもご動かしていたことに気づいた彼はこれはまずいと頭を抱えた。


彼の名は東郷平八郎。

第一太平洋艦隊司令にして提督でもある。


今は大規模作戦に向けての航海の途中。

先般敵機雷によって戦艦を二隻も失い主戦力が著しく低下する事態に直面したがそれでも彼は動揺も狼狽もする事なく粛々と打開策を編み出し士気の低下を食い止めた。


冷静にして豪胆な彼であったが自分の腹は如何様にも出来ず事態は悪化の一途をたどっていた。


腹の戦況は芳しくなく最前線から常にビーフシチューの応援を求められて困っている。


思えばビーフシチューの事が頭を離れず執務中にぼんやりする事が増えていた。


この微妙な時期に己の食欲で作戦遂行に支障をきたしては余りにもよろしくない。早急に対策を取らねば。できるだけ静かに穏やかに。可能な限り誰にも知られる事なく。


彼は机から専用の電話機を引っ張り出した。


「遅くにすまん、よいか?」



★★★



「提督、わざわざこんなとこに来なくってもいいでしょーに」


「何のために私専用の秘密通路があると思う。それよりも飯の相談があってな」


「世界広しといえど戦艦の中に厨房直通の秘密通路を作る提督は貴方くらいのもんですよ」


ここは東郷の座乗する旗艦『三笠』の厨房。東郷は側近たちの目を盗み秘密通路でここまでやってきたのだ。


東郷は食にこだわりがあり頻繁に厨房に来ては料理長に飯の相談を持ちかけていた。


「それで今日はどんな無茶振りを?」


恐れ多くも上官であり艦隊司令にして提督でもある東郷につっけんどんな物言いの料理長。東郷は彼に胃袋を掴まれているので何を言われても強くは出られなかった。


「その、な、またイギリスの料理を作って欲しいんだ」


「はい? またですかい。先日ふぃっしゅあんどちっぷすとやらを作ったばかりでしょう」


「ああ、あれは再現度が抜群で美味かった…。あ、いやっ、あれから一週間は経っただろう。そろそろ新作を頼んでもよいのではないか」


「はあ…ひとまず材料次第って言っときましょうかね、無いもんは作れねーんですから」


料理長のつれない返事にもじもじと俯く東郷。料理長にかかれば提督の威厳はカケラもない。腹を減らしたただのおっさん同然だった。


おずおずと東郷が口を開く。


「ビーフシチューを作ってもらいたいんだ…」


「はあっ?」


お前はアホか。


料理長の顔は雄弁にそう語っていた。


東郷の顔はすーっと青ざめる。

これはかなり旗色が悪い。撤退すべきか?!


何しろこの料理長の機嫌を損ねると恐ろしい事が起こる。出される食事に微妙に東郷の苦手食材を混ぜてくるのだ。勿論毒では無いし体にいい物ばかりなので側近たちは気づかない。自分にだけピンポイントで効果のある飯テロをやらかすその手腕を東郷は心から恐れていた。


「はあ…ひとつ聞いていいですかい?」


料理長はため息をつき呆れ顔ではあったがその言葉にまだ猶予はあると東郷は感じた。嫌な予感も充分に感じるが今は素直に彼の質問に答えよう。


「ああ、何でも聞いてくれ」


料理長は立ち上がると後ろの棚から一枚の紙切れを取り出した。黙って東郷に突きつける。


「なんだこれは。なになに『司令書』…厨房にか?」


【司令書 本日朔日よりひと月の間に兵士の脚気対策となる料理を艦上食に導入するよう命ずる。なお料理の導入は必達目標であり対策不十分な料理を提供した場合厨房調理員は全員を降格処分とするものである】


東郷が読み終わったのを見て取ると、あろう事か料理長は司令書をくしゃくしゃポイして東郷に詰め寄った。


「なんすかこれは。先日参謀があっしらのとこにきて声高にこいつを読み上げたんですぜ」


「わ、私が出した司令書ではないぞ!」


「そーですかい。しかしこの脚気対策とやら提督が何も知らんてこたないんじゃあないですかねえ」


「うっ!」


まさにその通りである。

実はこの頃船乗りによくある脚気が艦隊で蔓延しつつあった。一時的に柑橘類を配布するなど対策を取ってきたが継続可能な対策ではなく根本的解決には繋がらない。栄養については然程詳しくはない東郷は参謀たちに知恵を貸してくれと命じたばかりだった。


「くう…やつめらまさか厨房に押し付けるとは…」


「下のモンに丸投げするって考えなかったんですかい? それにね、あっしらがもし運良く料理を作れてもアレコレ難癖つけられるのは目に見えてまっさ。口に合わんだの、効果がわからんだのってねえ」


「私はそんな事はせん」


「あんたがしなくても参謀たちはそうは考えてねえと思いますぜ。なにしろやつらは責任を取る人間を探してるだけなんでねえ」


何を思ったか料理長は食料棚から野菜を取り出し始めた。じゃがいも、にんじん、玉ねぎ。そして冷凍庫から凍らせた牛肉の塊を持ってきた。


「これを見てなんか思いつきやせんか?」


「わかるとも、ビーフシチューの材料だな。調味料が足りていないが…」


すると料理長は調味料を材料の横に置いていく。


砂糖、醤油、酒。


「はいよ、ビーフシチューの調味料です」


「ばっ、馬鹿を言うな! これがビーフシチューの調味料な訳がないだろうっ」


「いんやこれで合ってますぜ」


やれやれと料理長は頭を振った。


確かに材料は合ってはいるがいくら何でもビーフシチューの調味料に砂糖と醤油はないだろうと東郷は憮然とする。あの玄妙な味わいはデミグラスソースにバター、赤ワインが加わって初めて完成する。何が悲しゅうて純和風の味付けにしなくてはならないのか。


「これではまるで野菜の煮物のようではないか」


「これでいいんでさ。ねえ提督、あっしはちゃんと脚気対策の料理を考えてたんだ。しかしこのまま出したところで参謀たちにケチをつけられる可能性は高いときてる。どうしたもんかと悩んでたところへあんたのビーフシチューがきたわけだ。食材が似てるからピンときた。提督、あんたにケツ持ってもらおうってね」


「わ、私に何をさせようというんだ」


すると今度は小鍋を提督の前に待ってきた。蓋を開けてこいつを見ろと指差す。


「これをビーフシチューと宣言していただきやす。それも提督直々に考案した料理だってね」


「なにいっ?!」


見せられた料理はビーフシチューとは似ても似つかぬ代物だった。


見た目はじゃがいもの煮付けにそっくり。醤油の色なのか薄い茶色の汁。じゃがいもがまず目に付きにんじんや玉ねぎが少々顔を見せる。肝心の牛肉は薄切りで玉ねぎよりも少なく見えた。どう見てもビーフシチューではない。


「こ、こんなものをビーフシチューと言えというのか」


「こんなもの呼ばわりはないでしょう。海兵たちがこれから口にするモンですぜ。ま、いいや。提督がきちんと言えれば『本物』のビーフシチューを作って差し上げやす」


「っ!!!! つ、作れるのか! アレを!」


ニヤリと笑う料理長。


「作れやすぜ、あんたが食べるくらいの量はね。なにせ調味料は手に入りにくいモンばかりだからねえ…さあ、提督。そろそろ決断の時じゃあないですかい?」



★★★



数日後、東郷は参謀たちを集めて脚気対策料理の試食会を開いた。参謀たちは厨房に全てを任せていたつもりだったのでかなり驚いたようだ。


自ら考案したと言う料理を東郷は皆に食べさせた。


「これは美味い!」


「醤油と砂糖の素朴な味付けが祖国を思い起こさせる」


「何より野菜がふんだんに使われているのが良い。しかも手に入りやすいものばかり。脚気の対策にこれ以上のものがあるだろうか」


参謀たちは両手を挙げて絶賛した。


料理を美味そうに頬張りながら参謀の一人が東郷に質問した。


「提督、これは何と言う料理なのでしょうか」


ビクッと東郷は震えた。


何か機嫌を損ねたかと参謀たちは心配そうに彼を見つめる。


しばしの沈黙の後、東郷はこう答えた。



「これはな、ビーフシチューというのだよ」



その時東郷の顔は何故か悟りを開いたかのようなアルカイックスマイルだったという。


瞬く間に偽ビーフシチューは艦上食として広まり海軍全体で食されるようになった。


ちなみに偽ビーフシチューはその後レシピや作り方が海軍厨業管理教科書に記載された。その時の料理名は何故か『肉じゃが』に変更されていた。


変更の理由についてある参謀は、あの時は英国式の特別食を食わせた事にして皆の士気を高める為だったと言い、東郷は密やかに本来の料理名への変更を命じたと語っている。


あれから東郷が料理長との約束通り『本物』のビーフシチューを食べられたかどうか定かでは無い。


だが以後の彼は異様なまでに意気軒昂で作戦を遂行し、ロシアのバルチック艦隊を完膚なきまでに壊滅させ、その名を世界に轟かせている事実を最後に記し、この話を終わろうと思う。


ここまで読んでいただきありがとうございました。

なんだか書いた本人はすっきりです。

史実いじりってなんだかドキドキしました。

怒られませんように…。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 面白かったです。 小説を読みたい時って、別に勉強したいわけではないので、こういうのの方が好きです。 今時、正確な知識はすぐ調べられるから、エンタメには必須ではないと思います。「時代考証…
[一言] 次回、五十六さんの水まんじゅう希望。 アレの同じような理由な気が・・・・。 絶対葛桜食いたかったと思うんだよね。
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